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恋煩い

作者: 海 玲空

 十四年と五ヶ月間。

 日本で最も短い『時代』でありながら、

 二度の大戦を経て、震災すらも奇貨と捉え、

 世界屈指の強国に成長した『時代』。

 

 好景気により、政治・社会・文化における民主主義の発展を求める運動や思想が発展した。

 和装から洋装へ、カフェやデパートが登場し、

 女性の社会進出の場所は工場勤務からウエイトレスやデパートガールにまで広がった。


 より良い政治や生活を。

 それらを求め、様々な運動が巻き起こる。

 そんな激動の時代を、人々は強く、しなやかに生きた。


 

 これは、そんな『時代』を生きた、一人の少女と青年の小さな恋の物語。





 ミルクホールの楽しげなざわめきは、観劇後に興奮しているお客さんに似てる。不思議な高揚感に、わたしは気分良く語り終えた。

「──めでたしめでたし」

 ずっと聞き入ってくれていた幸子ちゃんが、ほうと息を吐き出す。たっぷりと余韻を味わってから、にっこりと笑ってくれた。

「やっぱり、さとちゃんの作るお話はすてきね」

「本当? 嬉しい」

「お姫様が助けを待っているのではなくて、自分で冒険に出てしまうところなんて、勇気をもらえるわ」

「そう言ってもらえると、わたしも嬉しい」

 女学校を卒業したらデパートで働くことを目標にしている幸子ちゃんは、こういうお話が大好き。長い髪をばっさり切ってしまうつもりだとも言っていて、少しだけもったいないなと思っていることは、ないしょ。

「……それに。名前も知らない男の方を好きになってしまうところなんて、まるでさとちゃんみたい」

「うっ」

「ふふ、可愛い」

「うう〜〜……」

 頬が熱くて、自分でも真っ赤になっているのがわかる。わたしは恥ずかしくて手で顔を隠すけれど、幸子ちゃんはお店の時計を確認して、あっと声を上げた。

「あら大変、今日は〝あの日〟ではなくて?」

「もうこんな時間!? ごめんなさい幸子ちゃん、話はまた明日」

「もちろんよ。気を付けて行ってきてね」

 ばたばたとはしたなく支度をするわたしを、幸子ちゃんは笑顔で見送ってくれる。お父様やお母様に見られたら確実に怒られるような歩幅で、わたしは進んだ。


 わたしがお慕いしているのは、名前も知らない男の方。

 女学校の帰り道に通る公園で、静かに本を読んでいらっしゃったの。その横顔があんまりすてきで、何度かお見掛けするうちに、気付いたら恋に落ちていた。

 書生さんらしく、普段は大学やお手伝いがあるみたい。毎週火曜日と金曜日、晴れた日は必ず公園で読書をしていて、わたしはその姿を遠目から見るだけ。

(椿の根付けを扇子につけているのに気付いたときは、もう恋人や婚約者がいるのではと絶望したのよね)

 幸子ちゃんに泣きついて、次のときには一緒に公園に行ってもらって。彼が取り出した筆入れにも椿の模様が描いてあったから、単純に椿が好きなだけじゃないかしら、と落ち着かせてもらった。

 

 公園までの道のりを、わたしは歩く。

 今日はあの方はいらっしゃるかしら、今日こそお近付きになれないかしら。そんな不安や期待を胸に、自然に足は速くなる。

「いのち短し戀せよをとめ、朱き唇、褪せぬ間に……」

 私の大好きな『ゴンドラの唄』。気付けば口ずさんでしまうぐらいだけれど、まさかわたしがこんなふうに恋をするなんて。キネマで観るような、手と手を取って逃避行するような燃え上がる恋でも、命懸けの恋でもないけれど。ささやかで、精一杯な、わたしの恋。

 公園まで、あと少し。

 

 ⿴⿻⿸ ⿴⿻⿸ ⿴⿻⿸


 集中し過ぎて、気付いた頃には日が傾いていた。

 外での読書には適さない時刻になった。僕は慌てて荷物をまとめ、下宿先に戻る。

「ただいま戻りました」

「お帰りなさい、清さん」

 家の方に挨拶をし、自分の部屋へ向かう。そして扉を開ければ先客が。……まあ、いつものことである。

「今日も公園で読書か。精が出るな」

「精が出るのは君も同じだろう。今日も上級生と激論を戦わせたらしいじゃないか」

「激論と言うほどのものではないさ。得るものも大きかったな」

 この家に下宿している書生仲間の正一は法律を学んでおり、よく大学の学友たちと議論している。それは聞いているこちらがはらはらするぐらい激しいものだが、結局相手と仲良くなってしまうのだから、彼の闊達さも大したものだ。

「そうそう。今日の晩飯は牛肉煮込みだそうだぞ」

「それで先程から良い匂いがしていたのだな」

 最近では家庭でも洋食が増えてきたとは言え、やはり舌に馴染むのは醤油や味噌の料理。出してもらったものは何でも有難く頂くが、そうした個人の好みもわかってもらえるのは、何とも嬉しいものだ。

「それと、飯を食ったら君の意見が聞きたい。俺だけではどうにも視点が限られてしまうから」

「君は十分視野の広い男だと思うが?」

「いや、実はな。故郷の妹に帝都の流行り物を送ってくれとねだられたんだ」

「……なるほど」

 正一が、眉を八の字にしている。彼は、今はキネマでどのような演目が上映されているか、パーラーの期間限定メニューは何かと言ったものはよく知っているが、贈り物となるとずいぶん悩むのだと、以前も零していた。

「僕の意見が参考になるかはわからないが、せめて共に悩もう」

「恩に着るよ、清」

 

 法律について。文化について。貿易について。

 学問やそれに関することならば、僕達はそれなりの議論ができると自負している。

「……結局、正一の妹さんへの贈り物は決まらなかったな」

 今回の議題に於いて、僕達には残念ながら建設的な議論はできなかった。

 ふと、正一の妹さんは、〝彼女〟と同じ年の頃だったなと、美しい歌声と共に思い出す。

『いのち短し戀せよをとめ、朱き唇、褪せぬ間に……』

 桜が舞い散る麗らかな日和に出逢った、名も知らぬ彼女。瞬きの間に、僕は恋に落ちた。

 時折、女学校の帰りだろうか、友人とお喋りを楽しみながら歩いているのを見掛ける。

 だけど僕は、話し掛ける勇気など持ち合わせていないのだ。


 扉を叩く音で、我に返る。この叩き方は、正一だ。

「夜分遅くにすまん。やっぱり、買い物に付き合ってはくれないか」

「先程でわかったと思うが、僕では役に立てないよ」

「俺なぞもっとわからん! 頼む、君の読書の時間は邪魔しないから!」

 拝み倒され、僕は渋々承知する。

 ほんの少し、街中で彼女と出逢えやしないかと期待しながら。


 ⿴⿻⿸ ⿴⿻⿸ ⿴⿻⿸


「はぁ…………」

 一体、何度目の溜息かしら。

 知らないうちに零れ落ちる息を止める方法は、わたしにはわからない。

 部屋で仰向けに転がって、もうどれほど経ったのかもわからない。

 周りには、わたしの髪飾りや扇子、装飾品。あの方はどのようなものが好きかしらと考え始めたら、止まらなくなってしまった。

 こうして広げてみて、気付いてしまったの。大好きな桜があしらわれた髪留めの中に、椿のものが増えてきた、と。

「はぁ………………」

 書き溜めた大切な物語を、鍵がかかった箱から取り出して眺める。最初は女の子が冒険をしたり、困難に立ち向かう内容のものが多かったのに。〝あの日〟から、わたしの物語には〝恋〟が加わった。

 あの方は、なんてお名前かしら。

 あの方は、どんなお声なのかしら。

 あの方は、どんなふうに笑うのかしら。

 あの方は、どんな髪型がお好みかしら。幸子ちゃんのような長い髪? それとも、モガのように肩につかないぐらい、短い髪かしら。

 そして、なにより。

 あの方は、……わたしを、見てくださるかしら。

 そんなことばかりが頭を占めて、気付けば溜息をついている。今日は公園でお見掛けできる日ではないのに。

「あんまりぼんやりし過ぎて、お父様に心配されてしまったわ」

 例えばこの恋をお父様やお母様に告白したとして。応援してくれる? それとも、反対されてしまうかしら。わたしではお父様の会社を継ぐことができないから、婿養子を、という話になってしまうかしら。

「はぁ……………………」

 恋は、シベリアを食べたときみたいに甘くて幸せになれるものだと思っていたのに。物語のお姫様はみんな、こんな気持ちを抱えていたのかしら。物語を求めてなら、市電やバスに飛び乗って遠くまで行けてしまうのに、今のわたしはここから動けない。

 こつんと、左手に何かがぶつかった。

「………………」

 あの方を想って縫った、白椿の刺繍を施した青いお守り袋。渡せるかどうかもわからないのに、気持ちを込めてひと針ひと針入れたもの。

 渡したいな。

 渡せるかしら。

 でも、でも。

 心の中で色んな気持ちがぐるぐる渦巻いて、お守りを抱きしめたまま、わたしはそっと目を閉じた。


 ⿴⿻⿸ ⿴⿻⿸ ⿴⿻⿸

 

 ごろりと身体を横向ければ、とっくに陽は落ちていた。随分と時間が経っていたようだ。

「は……」

 浅く息を吐き出し、弾みを付けて上半身を起こす。文台と小さな箪笥、畳まれた薄い布団、本が何冊も、何段も積まれている、殺風景な僕の部屋。

 見慣れた光景……だと言うのに、僕だけが異質なものになってしまったかのような気分だった。

 以前から探していた本を古書店で見つけ、素晴らしく充実した一日になるはずであったのに。何となしに手に取った一冊の本が、僕の価値観を揺るがした。

 与謝野晶子の処女作、『みだれ髪』。女性の恋愛感情を素直に詠んだ斬新な作風が、当時相当な賛否両論を巻き起こしたと、知識としては持っていた。

 実際に読んでみて、強い衝撃を受けた。青天の霹靂と言ってもいい。恥ずかしながら、僕には最後まで読むことができなかった。

 彼女も、こんな感情を持つのだろうか。

 彼女も、誰かを想って乱れた髪を梳かすのだろうか。

 彼女も、誰かのために胸を熱くするのだろうか。

 彼女も、距離や障害をものともせず想い人の元に行こうとするのだろうか。例えば身分、例えばこの家の扉。会いたいと、思うのだろうか。

 そして、何より。

 僕のことなど、……気に留めてくれるだろうか。

 勉学に集中している間は、いい。何も考えずに済むから。けれどふと顔を上げたとき、文字から目を離したときなどに、不意打ちでこの感情が襲ってくる。

「……母さん。貴女はここまで予想していたんでしょうか。僕がこんな風になってしまうことまで」

 唯一の身近な女性であり、僕の帝都行きを最も応援してくれた母は、見送りの際に笑っていた。僕は勉学にしか興味がない堅物だから、帝都で好きな人でも作りなさい、と。

「……はぁ」

 その時は、まさかと思ったものだ。色事に現を抜かしに帝都に行くのではないと。当時の僕が今の腑抜けた僕を見たら、驚くだろうか、笑うだろうか、怒るだろうか。……いや、腑抜けという表現は良くない。〝恋〟そのものは、悪いものではないはずだ。

 もう一度、背中を畳に預ける。

「………………」

 隠すように本と本との間に挟んだ『みだれ髪』を抜き出し、表紙を眺めた。この本を読み切れば、女性の気持ちもわかるようになるのだろうか。

 読んでみようか。

 読み進められるだろうか。

 しかし、しかし。

 火照った頬を冷ます術を持たぬまま、僕は『みだれ髪』をまた本と本の間に挟んだ。


 ⿴⿻⿸ ⿴⿻⿸ ⿴⿻⿸


 文子ちゃんも、キミちゃんも、光子ちゃんも、美代子ちゃんも、それからお話したことのない子も。お家が決めた方と婚約をして、女学校を辞めてしまった。

 最初は教室がお友だちでいっぱいだったのに、この頃では空席が目立つようになってしまったわ。

 みなさん、覚悟をされていたのかしら。幼い頃から決まっていたのかしら。最後に見た顔は、全員が笑顔だったから。

 そして今日もまた、一つ下の学級の子が退学してしまったと、風の噂で聞きました。

 心のざわざわは消えないまま、わたしは幸子ちゃんを誘ってバスに乗り込んだの。


 別段どこに行くとも決めずに飛び込んだ市バス内では、赤襟嬢の凛とした『出発進行』の声が響いていて。いつもなら窓の外を流れてゆく景色を楽しむのだけれど、今日ばかりは幸子ちゃんと二人で赤襟嬢に見とれてしまった。

「……やっぱりすてきね、赤襟嬢は」

「ええ。紺に赤い襟の制服だなんて、本当にハイカラ!」

「幸子ちゃんもあの制服似合いそうよ。それで、『切符を拝見します』って言うの」

「さとちゃんのほうが似合うと思うわよ? 私、お休みの日には必ずさとちゃんがいるバスに乗るわ」

「ふふ、本当? 嬉しいわ」

 まだ心はざらざらしたままだけれど、こうして幸子ちゃんとお喋りするのはとても楽しい。降りたバスを見送って、わたしたちは近くを散策することにした。

「そうそう、銀座に新しいお店ができたのだけど、今度一緒に行ってみない?」

「どんなお店?」

「ミルクホールとパーラーを合わせたみたいなお店だそうよ。しかも、お店の方手作りの髪飾りも売っているみたい」

「すてき! あ、でもできたばかりなら混んでいるかしら。学校帰りに偵察ね?」

「ええ! ふふ、偵察だなんてわくわくするわね」

「ん、んー。コチラサト、以上ナシ。応答願イマス」

「えっ? えっと。コチラ幸子、オ客ガ一組入店シタモヨウ、ドウゾ」

「デハコレヨリ、オ店ヘノ突撃作戦ヲ開始スル!」

「了解シタ! ……ふ、ふふふっ」

「あはははっ」

「もう! さとちゃんったら、いきなり偵察ごっこ始めるのだもの。焦っちゃったわ」

「幸子ちゃんの演技、素晴らしかったわよ」

 こんな、他の人が聞いたら驚いてしまうようなお喋りも、幸子ちゃんとならできてしまうの。心が落ち着かないときだって、幸子ちゃんとお話したり、あの方を思い浮かべれば、わたしはなんだってできる気がするの。


 大切なお友だちの幸子ちゃんと学校帰りにたくさんお喋りして、公園であの方を眺める。

 そんな平和で愛おしい日々が、この先もずっと続く。

 このときのわたしは、何も疑っていなかったの。


 ⿴⿻⿸ ⿴⿻⿸ ⿴⿻⿸


「──わかったから。もう切るよ、兄さん」

 ガチャン、と。

 下宿先に戻った僕の耳に飛び込んできたのは、正一の少し苛立ったような声と、電話交換機が置かれる音だった。

「ああ、お帰り、清」

「ただいま。もう話は終わったのか?」

「終わったよ。と言うか終わらせた。……帰って来て早々悪いが、少し付き合ってくれ」

「え」

 強引に腕を引かれて、家の人への挨拶もそこそこに外に連れ出される。どうにも良い話ではなかったようで、鷹揚な正一にしては珍しく、表情が険しかった。

「今の、上の兄からの電話だったんだが」

「上の……と言うと、帝国軍人の」

「そう。その兄から、上官の娘との婚約話を持ち掛けられたんだ。家柄も容姿も申し分ないだとか言って」

 軍人のお兄さんと正一は、意見が真逆でよく衝突するのだと前に苦笑していた。それでも仲は悪くないようだが。

「受けるのか?」

「まさか。俺は学生の身だし、婚約などまだ早い。……が、学生の身だからこそ、兄や家の援助なく生きていくことは難しい」

「そうだな。それは僕も、身に染みている」

「うん。だから、せめて見合いにしてくれと頼んだ。それならば、向こうの顔も立てられるだろう」

 見合い、と。

 呟いたつもりが、それは音にならずに口の中に消えた。自分のことでもないのに、喉がからからだった。

 大学在学中であっても、良家の息女と婚約したという話はあちこちで聞く。確かに家同士の繋がりを早いうちから持っておくことは、〝家〟としては良いことに違いはないのだろうが。

「君にもそのうちこんな話が舞い込んでくるかもしれないぞ」

「まさか。僕はそんな家柄ではないよ」

「家のことだけじゃない。将来性を見込んで、ということだって有り得る。何せ君は、大学の試験でいつも優秀だからな」

「奨学金のためだよ」

 そう笑って答えた。まるで、自分のことは何も考えていないかのように。

 笑えて、いたろうか。

 見知らぬ家の、見知らぬ息女との見合いや婚約の話が持ち上がったと、仮定を想像してみる。

 ああ、無理だ。

 背筋が空寒い。

 今の状態で、〝彼女〟以外の女性と、など。

「…………っ」

「清……」

 つい、息を飲んでしまった。これでは、正一の決断を否定しているようなものじゃないか。

「清。……君は、後悔のないようにな」

「え……」

 この時の正一の真剣な表情は、僕はきっと、一生忘れられないだろう。


 ⿴⿻⿸ ⿴⿻⿸ ⿴⿻⿸


 うそだと、言って。

 

 担任の先生のお話が信じられなくて、でも見慣れたおさげ髪がどれだけ教室内を見回しても見つからなくて。わたしは、誰かの呼び止める声も無視して、女学校を飛び出しました。

「幸子ちゃん!!」

 何度も遊びに行ったことのある、幸子ちゃんのりっぱなお屋敷。いつもは静かなその場所が、荷物を運び出す人たちでごった返していた。

「さとちゃん、来てくれたのね」

「当たり前よ! だって、幸子ちゃん……っ」

「あらあら泣かないで、さとちゃん。ちょっとこっちにいらっしゃいな」

 驚いた顔の幸子ちゃんが振り返る。その手には、いつも持っていた可愛い巾着袋。

 幸子ちゃんは門から少し離れたところにわたしを連れていって、白いレースのハンカチでわたしの涙をぬぐってくれる。それでもあとからあとからあふれてくる涙が、ぜんぜん止まらないの。

「なんで、ゆき、こちゃ……っ、た、退学って!」

「ごめんなさい、急に決まったことだったから、さとちゃんに連絡できなかったの」

「け、けっこん、するの……っ?」

 ぐちゃぐちゃの顔のままのわたしを幸子ちゃんはそっと抱きしめて、ゆっくり説明をしてくれた。

 先方は、少し前の社交界で幸子ちゃんを見初めたと、この婚約の話を持ってきたのだそう。幸子ちゃんのご両親はとても驚いたけれど、先方のお家柄が上でこんないいお話はないと、幸子ちゃんを説得したみたい。

「だけどね、さとちゃん」

「……?」

「わたし、実は諦めていないの。女学校は退学することになってしまったけれど、この先どれだけかかっても、わたしはわたしの夢を叶えるための努力をするわ」

「幸子ちゃんの、夢……」

「さとちゃんとも、会おうと思えばいつでも会えるもの。悲観的になるよりも、今できることを精一杯するつもりよ」

 幸子ちゃんが、笑った。

 その笑顔は、美しい〝女性〟のそれで。文子ちゃんたちが女学校を去るときと、同じ笑顔だった。

 幸子ちゃんは一度ぎゅっとわたしの手を握って、巾着袋から何かを取り出した。

「ねえ、覚えている?」

「もちろんよ。だって、わたしたちの友情の証だもの」

「ええ。ずーっと友だちよって、約束したものね」

 幸子ちゃんの手の中には、桜柄のとんぼ玉がついた髪紐。初めてふたりでお出かけしたときに、おそろいで買ったもの。

「この髪紐に誓って、わたしはずっとさとちゃんとお友だちでいるわ。そして、ずっと味方でいる」

「わ、わたしだってそうよ! 幸子ちゃんは、ずっとずっと、大切なお友だち」

「ええ。……だからお願いよ、さとちゃん」

 幸子ちゃんは髪紐を持ったまま、またわたしの両手をぎゅっと握った。さっきより、強い力で。

「わたしは恋を知らないまま、知らない方の元へ嫁ぐわ。だけどあなたには、同じようになってほしくない」

「幸子ちゃん……」

「あなたはあなたの恋を大切にして。いのち短し戀せよをとめ、だわ」

 何度もふたりで口ずさんだ、大好きな歌。

 怖いわ。だって、あの方は、わたしのことなど知らないかもしれないのだから。急に想いを告げられたって、嫌がられるかもしれないのだもの。

 ずっとそうやって、恋を触れられないもののままにしてきたけれど。幸子ちゃんが結婚すると聞いて、見えなかったもの、見ないふりをしてきたものが、やっと見えるようになったのかもしれない。

「……失恋したら、なぐさめてね?」

「ふふ、告白する前から弱気になっていてはだめよ」

「で、でも」

「あなたの告白を断るような男性は、わたしが引っぱたいてあげる」

「もう、幸子ちゃんったら」

 わたしたちは、にっこりと微笑み合う。

 そうしてわたしは、幸子ちゃんに背を向けて数歩進む。振り返れば、幸子ちゃんが手を振ってくれていた。

「行ってきます」

 それだけ言って、わたしは駆け出した。

 もう、涙は流さなかった。


 ⿴⿻⿸ ⿴⿻⿸ ⿴⿻⿸


 今思えば、予感のようなものがあったのだと思う。


 僕は何となしに公園を訪れた。本を読むでもなく、誰かと話すのでもなく、ただ何故か落ち着かない心地で、ベンチに座っていた。

「……正一は今頃、見合いの最中かな」

 今朝、非常に乗り気ではない表情で出掛けて行った友を思い出し、ずきずきと頭が痛んだ。もしかしたらあれは、いつか来る自分の姿かもしれないから。

 後悔のないようになどと言われても、どうしていいかわからない。僕は意気地がなく、誇れるものなど、この胸に抱いた夢ぐらいのものだ。

 僕の前を、睦まじい様子の男女が通り過ぎて行く。きっと二人はお互いを好き合っており、他の者など見てはいないのだろう。

 僕は、どうすればいい?

 ……否。どうしたい?

 正一と、先程の男女と。どちらになりたい?

「そんなの、決まっている」

 当然だ。この胸に抱いているのは夢だけではない。名前も知らぬ彼女への、消すことのできない恋心。

 僕は勢い良く立ち上がった。どこへ行けばいいかなど皆目見当もつかないが、ここで立ち止まっていてはいけないことだけは、わかっていた。

「とにかく、行動あるのみ」

 この時間ならば、女学校はまだ授業中だろうか。ならば、校門の近くで待っていれば、彼女に会えるかもしれない。

 走り出そうとして、僕は目を疑った。実際、僕は手荒に自分の目をごしごしと擦った。

 だって、まさか、そんな。

 彼女が、僕に向かって真っ直ぐに走って来るなんて。

「あ、あの……っ」

 もしや、僕の後ろに探し人がいるのだろうか。そう思って振り返ってみても、誰もいない。

「良かった、いてくださって……!」

 ずっと走って来たのだろう、彼女の息は弾んでいた。うっすらこめかみに浮かんだ汗がきらきらと輝いて、僕の呼吸は瞬間止まった。

「え、と。差し支えなければ答えてほしいのだけど、僕のことでしょうか」

 間抜けにも程がある。だけれど僕の口から出た言葉は、お世辞にも褒められたものではなかった。

「は、はい、あなたで合っています!」

 律儀にも、彼女はそう返してくれる。優しい。可愛らしい。およそ場違いな言葉が浮かんできて、僕は慌てて頭を振った。

「実は、僕も貴女に用があるのです。良ければ、先に聞いてはもらえないだろうか」

「えっ、あ、はいっ」

 彼女が僕にどのような話があるかはわからないが、もしもあまり良くない内容であった場合、その後に想いを告げる勇気は、僕にはない。卑怯者と罵られようが、先に本懐を遂げさせていただく。

「貴女にとっては、寝耳に水だろうけれど。……僕は、貴女に恋をしています。桜の舞う日、ゴンドラの唄を歌う貴女の姿を見た、その時から」

「え……」

 彼女の目が、大きく見開かれた。驚いているのは確かだしそれは当然だが、それはどちらの意味だろうか。

「知らぬ男に告白をされても困るだろうが、これは僕の嘘偽りない気持ちだ。可能であれば、これから貴女のことをもっと知りたいと思う」

「あ、えっと……」

 居た堪れない気持ちと裏腹に、僕の口は止まらない。僕はこんなに饒舌だったのかと、自分でも驚いている。

「だが、誤解しないでほしい。貴女の気持ちを無視してどうこうというつもりは全くない。せめて、友人として……」

「ま、待ってください!」

「え」

 今度は、僕が目を丸くする番だった。

 彼女の顔は真っ赤で、恐らく僕も同じだ。けれど彼女はまっすぐ僕の目を見て、そっと小さな袋を差し出した。

「あなたのことを考えながら、このお守り袋を縫いました。椿がお好きなようでしたから、その模様を」

「僕の、ために……?」

「ずっと、あなたをお慕いしていました。この公園で、真剣な表情で本を読むお姿をお見かけしてから、ずっと」

 お守り袋を持つ彼女の手は、微かに震えていて。相当の勇気を振り絞って、気持ちを告げてくれたのだと悟る。だから僕は、何だか泣きたいような気持ちになった。

「ええと。つまり? 僕たちは、互いに想い合っていたと、そういうことだろうか」

「そ、そう、なります、ね……?」

 意味がわからない。

 こんな、二百五十万とも言われる人間が住んでいる帝都で、名前も知らない者同士が、好き合っていただなんて。僕は夢でも見ているのだろうか。

「あの、このお守り、受け取っていただけますか?」

「はっはい、もちろん!」

「良かったぁ……」

 彼女がふわりと微笑んで、僕の心臓がどんどん速くなる。『みだれ髪』を読んだ時よりもずっと、身体中の血が巡っていく。指先まで熱くなって、今この瞬間が現実なのだと思い知る。

「あの、名前を訊いても良いでしょうか」

「あ、はい」

「いや、問う前に、自分から名乗るべきだな。……そして、挨拶からやり直そう」

「ふふ、そうですね」

 馬鹿みたいだけれど、有耶無耶にはしたくない。僕達の時間は、これから動き始めるのだから。

 向かい合って、深呼吸を一つ。抱き続けた恋心を余すことなく伝えられるように、僕は彼女の目を見つめた。


「初めまして、そして貴女が好きです。……僕の、名前は──」

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