『資治通鑑』晋紀十二 元帝 太興元(318)年 6月+荀崧と荀灌
「六月,甲申,以刁協為尚書令,荀崧為左僕射。協性剛悍,與物多忤,與侍中劉隗倶為帝所寵任;欲矯時弊,每崇上抑下,排沮豪強,故為王氏所疾,諸刻碎之政,皆云隗、協所建。協又使酒放肆,侵毀公卿,見者皆側目憚之」
現代語訳以下。
「(東晋 元帝 太興元(318)年)6月9日、刁協を用いて尚書令とし、荀崧を左僕射とした。
ところで刁協の性質は荒々しく,物事に賛成を求めると多くは反対し、侍中の劉隗と供に元帝の寵愛・信任するところとなり、現在の弊害を偽ることを望み、常に皇帝(元帝)を尊び臣下を抑え,豪族を排斥し、ゆえに(琅邪の)王氏の憎むところとなり、そして諸々の過酷でややこしい政事は、皆劉隗、刁協の作り出したものであると言った。
刁協はまた酒浸りになってやりたい放題し、公卿の利益を侵害し、彼を見る者は皆横目で見てこれを恐れた」
現代語訳以上。
訳者注
※荀崧は三国志に登場する曹操の功臣・荀彧の子孫で、娘の荀灌と共に、田中芳樹氏の短編『宛城の少女』に出て来ます。
※元帝(司馬睿)は、これまた三国志に出て来る司馬懿(晋王朝の事実上の創設者)のひ孫で、晋王朝の天下の統一が崩れて、それが南に遷った東晋の初代皇帝です。
※それ以前に劉氏の蜀漢を滅ぼして(名義的には曹氏の魏だが、実質的には司馬氏の晋)、その後曹氏の魏に取って代わり、孫氏の呉を滅ぼして一時的に天下を統一した(三国時代を終わらせた)、司馬氏の王朝を西晋と言います。