第三話 叱責
ある朝ジョンは、母親に小言をくらった。
朝寝坊をしたがためだ。
漁師の朝は早い。ここのところジョンは寝過ごすことが多くなっていた。
漁師は夜も忙しい。網の修繕やら何やらで、時間はあっという間に吹き飛んでいく。最近のジョンはそれもおろそかになりがちだった。
寝込んだ父の代わりにジョンはハードワークする必要があるが、夜は家にもいないし、いったい最近どうしたのだと、母は言うのだ。
わかった、わかってる、ちゃんとやるさ、任せてよ、ジョンはそう言って家を出た。問題ないふりをしたが、ジョンは少し恥じてもいた。
ジョンは沖へ舟を出した。沖にはすでに他の村人たちの舟が、仕事を開始していた。
相変わらず魚の数は少ない。すれ違った舟の仲間も、ジョンにそうこぼした。いつものことだ。
仲間は、崖下のあたりはどうだろうなと言った。村の近くで当たってない場所はそこしかないと。
––––そこはもう行ってみた。何もいなかったよ。
ジョンはそう答えた。
仲間は、あそこへは近づくなと村長が言ってたのにか? と、驚いた顔で言う。
––––勇者が勝利するもんさ。
ジョンがそう言うと、仲間は肩をすくめて、帆を操作し魚を探しに行った。魚は見つからなかったと言ったのだから、ジョンは勝利していないと思ったのだろう。
勝利の条件など人による。
ジョンは今や、魚よりも素晴らしいものに出会ったと考えていた。
そしてそう考えると同時にジョンはだんだんバカらしくなってきた。
ジョンは崖下の漁場を仲間たちに教えてやるつもりはない。
だから最近は、日中に崖下へは近づいていない。変に近づいて、仲間たちに崖下のことを知られたくなかった。
正確に言えば崖上。いや崖の中腹の、洞窟のことを。
金盞花は洞窟に自分がいることを人に知られたくないと言っていた。
彼女に迷惑がかかる。
というより、ジョンは気はいいがアホな村の男たちに、美しい彼女を見せたくなかった。少しでも遠ざけたかった。
それはいい。
しかし問題は、崖下以外で十分な魚を見つけることができないことだ。
探せど探せど魚は見つからない。ジョンは裕福ではないし、父の病を治さなければならない。金がいる。だから魚がいるのだが、その魚がいない。
自分は何をやっているんだろう?
金盞花は時々彼女の故郷のことについて喋っていた。
金盞花が語る異国の話を聞いていると、この世にはいろんな場所があるのだろうとジョンには想像された。
時折村へやってくる伝道師も、都の話などをしてくれることもある。豊かで愉快な都の話だ。
それと比べてこの村ときたらどうだ。魚は取れず、その原因はわからないときている。父は病に倒れ、母の顔にも隠しきれない疲労の色が浮かんでいた。己は父の治療費のために、毎日いもしない魚を追って海で右往左往している。
毎日何かが少しづつ、おかしくなっていっているような気がした。
この場所からでも陸は見えている。しかしジョンは自分が海の上で遭難しているような錯覚を覚えた。足を下ろして踏みしめるべき未来が、どこを振り返ってもないように思えるのだ。
ジョンは小舟の上から、陸地の崖を見やった。
金盞花のいる洞窟の崖だ。彼女の洞窟は、岩場の陰になっていて、村からも沖からも、そこに洞窟があるようには見えない。
しかしジョンはそこに洞窟があるのを知っている。そこには、間違いなくあの人がいるのだ。今彼女は何をやっているんだろうか? 無性に会いたくなってきた。
ジョンは小舟を陸に戻した。
まだ日暮れには早いし、魚も少ししか取れていないがかまうものか。
ジョンは考えた。金盞花にあげる魚は少ないものになるだろう。魚はあの六頭の狼が食べるのだ。金盞花本人は、木の実や果物しか食べないのだ。まったくどこまで可愛ければ気がすむのだろうか。そして冬はどうするつもりなのだろうか。
ジョンは浜辺を歩いた。
ゆっくりと歩いて、貝殻を探した。
時々、薄いピンクの小さな貝殻が見つかるのだ。それを金盞花にあげて、喜んでもらおう。
ジョンは女性に贈り物をするのは初めてだ。今まで村の女にそんなことをしようと思ったことはない。そんな発想もわいたことはない。
しかしなぜか今、その発想がわいた。誰かが喜んでくれるところを想像して、なぜか自分も嬉しくなる感覚が。
探すと結構あった。食べられない物がたくさん見つかったことを喜んでいる自分に、ジョンは苦笑する。袋に入れた。
夕暮れが迫り仲間たちの舟も戻ってきた。
ジョンは仲間たちと共に、今日の収穫を倉庫へ運び、塩につけた。
家に帰って、外に出て、近くの空き地でわざわざ火打ち石を使って焚き火をして、袋の貝殻を地面に並べた。その一つ一つに錐で穴を開け、紐を通す。ちょっと自分は何やってんだろうと思って、ジョンはニヤついてしまった。
母がやってきて、網を修繕するように言ってきたが、ジョンは後でやるよと言って洞窟へ向かった。
洞窟へ着いて奥へ進むと、金盞花が横になっていた。ぼんやりとした顔で狼の一頭を撫でていたが、ジョンに気づくと微笑んだ。
––––知ってる?
金盞花が尋ねた。ジョンは知らないと答えた。
––––昔この崖の上に、お城がたっていたの。
––––その頃からここに住んでたのかい?
––––いいえ。
––––じゃあどうして知ってるんだ。
––––私の考えではそうなの。
金盞花はゆっくりと狼を撫でながら言った。
ジョンは背負っていた魚の袋を下ろすと、金盞花のそばに座り込む。
––––君はお城が似合いそうだね。
––––ジョニーはお城を見たことがあるの?
––––ないよ。
––––じゃあどうして似合うだなんてわかるの?
––––君は昔お城のお姫様だったから。
ジョンが言うと、金盞花は鼻で笑った。
––––あのお城は私には似合わなかったわ。
今夜の金盞花は元気がない。ジョンにはそう思えた。
––––じゃあ似合うところへ行こうぜ。
ジョンはそう言った。
ジョン的には、金盞花にはこんな淋しい洞窟も似合っていない。金盞花はもっと、美しい、豪華な……とにかく漁師のジョンにもよくわからない煌びやかな空間が似合うと思ったのだ。
––––どこへ?
––––えっと……都的な、どこか。
金盞花は吹き出した。そして少し真顔になって、それから淋しげに笑った。
––––私はここから離れられないの。この洞窟から。
––––どうして?
––––私はこの洞窟のマナが必要なの。ここから出れば、死んでしまう。
ジョンは首をひねった。
金盞花は夜に森へ狩りにでかけると言っていたからだ。
ジョンがそれを指摘すると金盞花は、
––––少しの時間ならね。
と、ジョンを見ずに言った。
ジョンは魚の袋を握りしめた。漁にさらなるハードワークが求められていると理解した。
金盞花の狼たちが魚の匂いを嗅ぎ取り、蠢きだした。狼の足は金盞花の足なので、彼女が立ち上がろうとしなければ動けない。しかし首だけは、金盞花の意思とは別に動くようだ。
ジョンは魚を取り出し、狼たちに分け与えていく。少ない数しかないことをジョンは申し訳なく思った。
––––ジョニー。いつもごめんね。
金盞花は目を伏せていた。
––––どうして謝る? 好きでやってるんだ。
––––お父さんが大変なんでしょう? そんな時に、私なんかのために大切な魚を……。
––––君より大切なものなんてない。
金盞花が、はっと顔をあげた。
ジョンは、魚とは別の袋に入れていた貝殻を取り出す。紐でつないだそれは、ちゃらりと音をたてた。
––––これ、君にあげるよ。
金盞花の前に差し出した。
金盞花は、その貝殻の……たぶん首飾りのつもりで作られたそれを見て、しばらく瞳を大きく見開いて見つめていた。
金盞花は見つめたまま静止していた。彼女が受け取るどころか何か言うこともないので、ジョンは不思議に思った。首飾りを差し出したまま、止まっていなければならなかった。
––––もう帰って。
金盞花はそう言うと、やにわに立ち上がった。
––––金盞花、どうしたんだ。
––––もう帰って!
金盞花はジョンを睨みつけ叫んだ。狼たちも唸っていた。
––––いらないわ、そんなもの! 帰って、帰ってよ! あなたなんか嫌い、もうここへは来ないで!
突然の剣幕にジョンはうろたえた。なだめようとしたが、金盞花は帰れの一点張りだった。挙げ句の果てに狼が頭突きしてきた。
––––私は、私は人間じゃないの! お腹が減っているの、わかるでしょ⁉︎ それなのに、あなたはお父さんが大変な時に、そんなもの作って遊びにきたりなんかして! 食べられるためにそれを持ってきたのね! バカみたい!
狼たちはいよいよ牙を剥いて唸っていた。
––––あなたを、食べてやる!
ジョンはわけがわからなくなって、這々の態で洞窟を逃げ出した。