第十一話 ナックラヴィーの襲撃
ジョンは浜辺を歩いて貝殻を探した。
やがて夕方になり、漁に出ていた漁師たちが戻ってきた。
浜辺をぶらつくジョンを見て、漁師たちは仕事もせすに何をやっているのだとなじった。
と言ってもその声は本気ではなく、冗談を言うような調子だったので、ジョンは、
––––海の神に捧げる品を探してるのさ。
と返した。
どんなことでもタダではない。漁師たちは手伝おうかと言ってくれたが、ジョンは、
–––大丈夫だ。俺の献身が試されてるんだ。
と返した。
太陽が半分、水平線に隠れた。辺りは薄暗くなっていく。砂浜に落ちている貝殻一つ一つにも、小さな影が作られていた。その影も薄まりつつある。
めぼしい貝殻は集め切った。ジョンは岬の下へ戻ることにした。
陸は暗いが、海中はもっとそうだろう。ケイシーも上がってくるはずだ。
岬下までくると、まだケイシーの姿はなかった。
また岩団子に擬態して遊んでいるのだろうかと、辺りの岩を見てみる。
すると、海面の方が騒がしくなった。
ジョンがそちらに目をやると、水際から離れた遠くの海面からアザラシが飛び出した。そしてまた海中に飛び込んでいく。
ケイシーだ。岩団子に飽きて今度はアクロバットで遊んでいるのかとジョンが見ていると、何か様子がおかしいことに気づいた。
ケイシーは海面を出たり潜ったりを繰り返しているが、ジョンにはそれが慌てているように見えたのだ。
––––ケイシー、どうした!
ジョンは叫んだ。
それが聞こえたのかそれとも偶然か、ケイシーはもの凄い勢いで水を跳ね上げながら岩場へ泳いでくる。
何かあったのか、鮫か、ジョンが水際まで行って、ケイシーの背後に目を凝らしているとだ。確かに何かが、ケイシーの背後から、波紋を描いて追ってきている。
ケイシーが水面で、アザラシヘッドを脱いで叫んだ。
––––ジョン、逃げて! ナックラヴィーだ!
叫ぶケイシーの裸顔は恐怖に青ざめている。ジョンはナックラヴィーとは何なのかさっぱりわからなかったが、とにかく只事ではない。
岩場まで泳ぎ着き息を切らせているケイシーを、ジョンは急いで引き上げてやる。
––––何があった⁉︎
––––ナックラヴィーだよ、化け物だ! ジョン逃げて!
水面の、矢のような波紋が、間違いなくジョンたちへ向けて迫ってきていた。
––––鮫か何かか? もう大丈夫だ、さあ岸から離れよう。
––––違うよ、行って! 奴は走れるんだ!
––––海の生き物が陸をか? またまた。ほら、ここなら安全……。
ジョンはケイシーを引き上げきり、お姫様抱っこして水際を離れる。そして海面を振り返った。
瞬間、そこから水飛沫を跳ね上げ、何かが躍り出た。
そして岩場へ立った。
ジョンはその姿を見て固まった。
ケイシーを追ってきたそいつは、馬だった。
四本足の馬が、海中から飛び出してきたのだ。
ジョンにとって問題だったのは、ただの馬ではなかったことだ。
いや、海から出てきた時点でもう只者ではないのだが、異様なのはそのおぞましい姿だ。
馬の面には、鯨のように大きな、大雑把な口が付いている。鼻は豚のような上向きの、人間の鼻をナイフで削ぎ落としたような形。目玉は赤くギラついた物が一つだけ。前足にはヒレが付いていた。何を興奮しているのか、湯気のような息を吐いている。
ジョンはその馬の背に、誰かが乗っていることに気づく。
だがそいつは、乗っているのではない。馬の背に下半身が食い込んでいた。背から人間の上半身が生えているのだ。
その上半身は馬に輪をかけて不気味だった。
頭になぜか長い藁を束ねて垂れ下げていて、藁はダマになっている。そのダマが重いのか、馬が足を踏み鳴らすたびに、頭が気絶している人間のようにぐらぐらと揺れる。
両腕は奇怪なまでに長く、馬の上にいるのに指先は地に届きそうだった。
そして肌だ。
肌がない。顔も全身も灰色の筋肉が剥き出しになっている。
その下の黄色い血管に黒い血が流れ脈打つのを見て、ジョンは吐き気を催した。
––––あれ、友達か?
––––違う……。
ケイシーが答えた瞬間、ジョンはナックラヴィーに背を向け走り出した。
背後からナックラヴィーが、瓶の口に息を吹き込んだ時に鳴るのをさらに大きく、不快にしたような声で吠えた。
ジョンはその声を聞いて怖気が走った。おまけに、ナックラヴィーはジョンたちを追ってきた。
人対馬だ。簡単に追いつかれるのはわかりきっていた。しかもジョンはケイシーを抱えている。
ジョンは岩場の、細かく高低差のある地形を選んで走った。
馬の蹄では走りにくいからだ。きっと走りにくいだろう。そうだったらいいなと思いながらジョンは走った。
––––ジョン、あたいを置いて行って!
––––喋るな、舌を噛むぞ!
––––あたいが囮になる。ジョンだけ逃げて!
––––だめだ! あんたも一緒に逃げるんだ!
––––ジョン、聞いて。あたいこの足ヒレじゃ走れない。あたいジョンの足手まといになりたくないの!
––––じゃ脱げばいいだろ。
––––あ、そっか。
ジョンはケイシーを、岩場のくぼみの中にある砂溜まりに放り捨てた。
そしてナックラヴィーに素早く向き直りつつ、ポケットの中に手を突っ込む。
––––これをやるから他を当たれよ!
ポケットの中の物を投げた。幾つかの貝殻だ。
貝殻の一つが、ナックラヴィーの馬部分、頭部の大きな赤い瞳に直撃した。
ひるんだところへ、早くも全裸となったケイシーがさらに砂を一掴み投げつけた。上半身の顔めがけてだ。
ナックラヴィーの突進は停止した。
泣き叫ぶ化け馬を尻目に、ジョンはケイシーの手を引き走った。
日はすっかり沈み夜が訪れていた。
幸運にも満月が足場を照らしている。
岩場抜けて浜辺へと出た。
ジョンは来た方を振り向く。
いない。
馬の姿は消えていた。
––––諦めたか。
そう呟いて、足を止めた時。
突然ジョンたちの右手、海側から瓶の吠え声が轟いた。
波を貫き、ナックラヴィーが躍り出た。
化け馬は目の砂を取るため海に飛び込み、そのまま泳いで岩場を回ってきたのだ。
ジョンたちは村を目指して走った。
村を目前にした砂浜に、漁師の舟が置いてある。
ジョンはそこまできて、
––––ケイシー、村へ走れ! ここは俺が食い止める! 人を呼んでくるんだ!
そう叫んで小舟から櫂を取り出した。
振り回して牽制する。
ナックラヴィーがそれを腕で薙ぐ。
––––……おっとぉ……。
櫂は真っ二つに折れた。
さらに左のフックが飛んできて、ジョンは薙ぎ倒される。
ジョンは立ち上がろうとして、すぐに転倒した。
地面の位置がわからない。
しかも吐き気がした。
ジョンはナックラヴィーの拳を腕で凌ぎはした。しかしその腕が、ちょうど自分のこめかみのくぼみにはまって、自分で自分を殴った形になったのだ。しかも防御に使った前腕は、ジョンの意思に反してぶらりと垂れ下がっていた。
折れていた。
ジョンは必死に立ち上がろうとした。
しかし足に力が入らない。
もつれて、小舟にもたれかかる。
––––ジョン!
––––ケイシー、くるな……。
舟を背にしたジョンに、ナックラヴィーが迫った。
馬の赤い瞳は爛々と輝き、煙かというような蒸気の息を吐いている。背の筋肉人間の瞳は、魂のない灰色に濁って、あらぬ方を睨んでいた。
ケイシーが櫂を持って殴りかかったが、それもあっさりと跳ね飛ばされた。そしてナックラヴィーはケイシーの長い金髪を掴んで捕まえる。
ジョンは気づいた。
ナックラヴィーは勃起していた。
凄まじいデカさだった。
初めからそういうつもりだったのか、それとも途中でケイシーが女だと気づいたのか。
何とかしなければならない。ジョンはそう思ったが、その何とかが何であるのかがまったく思いつかない。
ナックラヴィーがもう片方の長い腕を伸ばし、ジョンの頭を掴んだ。
ジョンの両足はいともたやすく地を離れた。めりめりと、ジョンの頭が軋んだ。
その時だ。
頭蓋の軋む音とは別に、ジョンには何かが聞こえたような気がした。
それが何であるのかはわからない。聞こえているとはっきり言い切れる感じではなかった。
何か、ぷつぷつと、小さく弾けるような音。
それはナックラヴィーにも聞こえたのか、ジョンの頭を掴む握力が少し弱まった。そして、馬の頭が辺りを見回す。
夜の砂浜に狼の遠吠えが響きわたった。
ナックラヴィーは思わずといった態で、ジョンを取り落とした。
地面に落ちたジョンの視界にまず飛び込んだのは、極光だった。奇妙なことに、小さな極光が、夜空よりはるかに低い、海面近くに揺れている。
緑に、青に。
そしてジョンは狼の遠吠えが聞こえた方を見る。
岬の崖だ。
崖の中腹に、月光を弾く銀の髪が。
––––ジョン。離れて。
妙によく通る声だった。離れているはずなのによく聞こえた。
瞬間ケイシーが血相を変えてジョンに飛びつき、砂浜から離れるように引きずり、ナックラヴィーから離れる。
どこかから鐘の音のような音が聞こえた。
それが合図なのか、海上の極光が一気に不吉な赤へと変じた。
赤い極光の帯が浜辺へと、まるで津波のように急速に押し寄せてくる。
ナックラヴィーはその光の津波をぽかんと眺めていた。
そのまま赤い光に包まれ……爆散した。




