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第一話 狼足の女



 昔々ある所に、ジョンという若者がいた。


 ジョンは王都から遠く離れた辺境の小さな漁村で、父親と共に漁師をやっていた。

 だから自分の住む国と、インフェルノと呼ばれる魔界との間で今も行なわれている戦争とは関係のない、平和な暮らしをしていた。


 ただそんなジョンも、けしてトラブルと無縁の人生を送っていたわけではない。ジョンは今、田舎の若者の身の丈に合った深刻な問題に直面していた。





 ジョンの両親や年配の漁師達は常々彼に、岬の(がけ)にある洞窟には近付くなと言っていた。

 崖の近くでは渦潮が発生し、舟を沈められて死ぬ事になるから、だそうだ。


 ジョンはそんな恐ろしい所へは死んでも近付くものかと昔から思っていたが、それはそれとしてある時、父が病気に(かか)ったためしばらく一人で漁に出る事になった。


 父の病を治す為には高額な薬が必要だった。

 ここ数年は不漁が続いていたが、ジョンは何とか薬代を捻出せねばと、懸命に働いた。


 懸命に働いたと言うよりは、ジョンは無理をした。


 不漁に業を煮やしたジョンは、あれほど行ってはならぬと釘を刺され、自身もこの世に存在しないものとして扱っていた崖の下を狙う事にした。


 今まで漁に出ていた時に渦潮の発生を、ジョンは遠目に見た事がある。

 渦潮は村の近くの、岬のそばにある。ある程度岬の崖から離れた所にあるものだから、崖と渦潮の隙間ならば安全なんじゃないかと判断したのだ。


 十代の若者にありがちな、願望と根拠を同列に扱う行為だった。


 ジョンの推測は、半分は合っていた。

 崖下の水域にはまだ魚がいた。


 大漁だった。少なくともここ何十日かでいえばそうだった。

 これで父は助かる。母の泣く顔も見ずに済む。勢い込んで網を巻いていた時、ジョンに残り半分の間違いが襲いかかった。


 ジョンの舟は知らず識らずの内に、警戒を怠り崖から離れていた。


 もっと魚を。こっちにもいる。そんな気持ちがジョンを深みに嵌めた。

 ジョンは舟が急速に流されている事に気付いた。

 巻いた網が、渦潮のあまりに強い流れに捕らえられたのだ。


 彼の眼前にいつの間にか渦潮があった。

 晴れ上がった空の下の、静かな漁村。

 その穏やかな空間の中、巨大な死のすり鉢は無音の内に回っている。

 若さにまとわりつく愚かさが生んだ軽挙か。愛が深めた視界の(もや)が連れて来た妄動か。ジョンの小さな舟は、静かに螺旋に吸い込まれていった。





 ジョンは気が付くとどこかほら穴のような所にいた。


 渦潮に飲まれたはずだが、どうやら運良く死ななかったらしい。

 ジョンは村のたいていの者がそうするように、リケウィフ神に感謝の祈りを捧げた。それから辺りを見回す。


 ほら穴の、入り口あたり。ぽっかり空いた大穴の向こうに水平線が見えている。地表からは高い位置にある洞窟のようだった。地面には、獲った魚が散らばって落ちている。


 ジョンはほら穴の奥に女が立っている事に気付いた。


 女は、岩場の陰から上半身だけをのぞかせてジョンを見ている。

 ジョンが今まで見た事のないような、それはそれは美しい女だった。


 銀に薄紅色の影のある長い髪に、白い肌。琥珀のような金色の瞳。

 美しい女がジョナサンに言った。


 ––––立ち去りなさい。そしてこの場所の事は忘れなさい。


 ジョンはこの人が自分を助けてくれたのだと理解し、礼を述べた。

 女が言った。


 ––––立ち去りなさい。そしてこの場所の事は忘れなさい。


 ジョンは、さらに礼を述べるべく岩を回り、女のそばへ行こうとした。


 ––––来てはなりません。


 ジョンは承知出来なかった。

 生まれて初めてこのような美しい女性を見たのだ。

 若いジョンは、もっとそばで彼女を見つめたかった。ところで女は裸だった。長い髪で胸を隠していた。


 来てはなりません、

 そんな事言わず、

 ダメですってば、

 せめて握手だけでも、

 いやあの来ないで、

 良いじゃないですか、

 ちょっとほんとやめてください。


 若く田舎者のジョンはしつこかった。

 ついに岩場を回り込んだ無粋なジョンは、女が複数の大きな狼に囲まれている事に気付いた。

 彼女の下半身は群がった狼共に覆い隠されている。


 ジョンは慌てた。

 何故もっと早く言ってくれなかったのか、彼女は狼に襲われていたのだ。

 ジョンが素早く辺りを見回すと、手頃な木の棒が落ちている。

 拾って狼に殴りかかった。


 ––––来ないでと言っているでしょう‼︎


 女が叫ぶと、狼の一頭が頭突きしてきて、ジョンはすっ転んだ。

 そして女は、狼共と一緒にほら穴の奥へと消えて行った。


 しつこいジョンはほら穴の奥へと女を追った。

 ほら穴は壁に埋め込まれた魔蛍石という発光する石で薄明るく、何か動物の骨が沢山落ちている。


 女はほら穴の突き当たりで泣いていた。


 ジョンが、今助ける、と言うと、貴方には無理ですと女が言う。

 ジョンが、狼なんか怖くない、と言うと、これは狼ではない、私の足ですと女が言う。


 ジョンが狼の頭を数えると、六頭。

 女がさめざめと泣きながら言った。


 ––––私は以前、とある国の姫でした。しかし悪い事をしたので王に呪いをかけられ、腹から下を狼に変えられて、国を追い出されたのです。もう帰って。私の事は誰にも話さないで。


 ジョンがよくよく見ると、たしかに蹲った六頭の狼の上に、女の体が載っている。


 全ての狼は下半身がなく、それぞれの腹が繋がって、まるで花弁のようだった。そしてその中心にある女の胴が雄しべ。女なのに雄しべだ。

 ジョンはその悍ましい姿を見て、元来た道を一目散に駆け戻った。


 自分が倒れていた所まで戻ると、魚が沢山落ちている。ジョンが獲った魚だ。


 ––––何故盗まなかったんだろう? 五、六匹盗んでも分かりゃしなかったのに、変わった人だな。


 ジョンはそう呟くと、魚を両腕にひと抱えして、またほら穴の奥へと走った。

 女の狼が、みな痩せこけていたからだ。





 その日からジョンは、漁で獲った魚の一部を毎日ほら穴の美女の下へ運んだ。


 女は、金盞花(きんせんか)と名乗った。


 六頭の下半身はそれぞれに空腹になるものだから、金盞花はいつも飢えに苦しんでいた。

 しかしこの姿では恥ずかしくて外へ出られず、夜になると狩りへ出掛け、細々と生きて来たそうだ。

 それでも辛く、苦しく、悲しかったので、もうここで飢えて死のうと考えていた。

 最後に青い空でも一目見ようと洞窟の入り口まで来ると、渦の中でくるくる回る小さな舟に、気絶したジョンが倒れているのが見えたのだと言う。


 これ、結構伸びるのですよと、洞窟で金盞花が狼の胴を伸ばして見せてくれた。狼というより大蛇のように伸びた。そうやってジョンの舟を咥えて引っ張り助けたのだと。

 しかしそこで金盞花は、顔を赤らめて狼を引っ込めた。


  ––––気味が悪いですよね。


 そう、消え入りそうな声で言って顔を背ける。


  ––––セクシーだよ。


 とジョンは言った。

 そのセクシーな犬のおかげでジョンの命は今日(こんにち)あるのだ。


 だからジョンは、漁で獲った魚の一部を毎日ほら穴の美女の下へ運んだ。


 彼女が飢えないように。


 しかしそれだけではなかった。

 ジョンはこの美しい金盞花に毎日逢いたかった。


 恋。

 ジョンは確かに、不気味な体を持つ美しい金盞花に恋をしていたのだ。





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― 新着の感想 ―
[一言] >若く田舎者のジョンはしつこかった。 ワシもしつこいと思われているのだろうか。気をつけよう。
[良い点] そつのない文章作法 高い文章力 硬派な文体 台詞に頼らない地の文を続けられる執筆体力 それらが下地となった分かり易いストーリー。 硬派な文体から飛び出す緩急が伴ったギャグテイスト。 [気に…
[良い点] 今回はおとぎ話なのか、そう思いながら読み進めていたらヒロインが出てきた。六つある狼の頭が下半身の美女という奇天烈ヒロインに小さく唸る――と同時に顔が火照った。六つのキャンタマの上にそそり立…
2020/02/27 09:40 退会済み
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