虹色の花とドングリ池の願い事
この森に立派な逆さまの虹がかかったのは昔々のこと。それからいつしかこの森は「逆さ虹の森」と呼ばれるようになりました。空に太陽がのぼるように、月がのぼるように、森の住人にとって虹は当たり前にそこにあるものでした。
これはそんな森で起こったかなしく、やさしく、うつくしいお話です。
クマは森で一番大きな動物でした。
両親も兄弟もいない一人ぼっちのクマはさびしくて、何とか森の動物たちと仲良くなろうとしました。でも、自分より小さなものへの接し方が分かりませんでした。
普通に話し掛けたいだけなのに、その声は低く大きく相手の耳に届きます。
普通に笑い掛けたいだけなのに、大きくとがった牙は恐ろしく相手の目に映ります。
普通に触れあいたいだけなのに、強すぎる力は痛めつけられるものとして相手の体に響きます。
クマは森の動物たちに怖がられるようになりました。そして、何よりもクマ自身が自分のことを怖がるようになりました。
傷付けることしか出来ない自分の声が笑顔が手が怖くて仕方ありませんでした。
クマは自分から一人ぼっちになっていきました。他の動物を見掛けても逃げ出すようになってしまったのです。
そんなクマがその花に出会ったのはある春の朝のことでした。
冬眠から目覚めて食べ物を探しに行こうと巣穴から出たクマはそこにひとつの花が咲いていることに気付きました。
巣穴の入り口にちょこんと咲く小さな花。7枚の花びらがあり、朝焼けの中、儚く虹色に揺れていました。
「きれいだなあ」
思わずつぶやいてクマはあわてて自分の口をふさぎました。
怖がらせてしまっただろうか。
そう思ってちらりと花を見ましたが、それは逃げずにそこにありました。
「ぼくのこと、怖くないの?」
たずねてみましたが、やはり逃げずにそこにあります。
クマはうれしくて仕方がありませんでした。
それからクマは虹色の花と日々を過ごしました。
自分の声が笑顔が手が花の前では怖くありませんでした。
眠れない夜にはお月見をしながら並んでおしゃべりしました。
素敵なものを見つけた時は笑いながら分け合いました。
嵐が来た日はつぶしてしまわないように気を付けながら花を両手で包み込んで必死に守りました。
クマが何をしても花は何も話しません。それでもただそこにいてくれるだけでクマは幸せでした。
「おはよう」「いってきます」「ただいま」「おやすみ」
あいさつを繰り返しながらクマと虹色の花は季節を過ごしていきました。
しかし、秋のことでした。
いつものように「おはよう」とあいさつをしたクマは花がしょんぼりと下を向いていることに気付きました。
「どうしたの、もしかしてまだ眠っているの。もう朝だよ、さあ、起きて」
やさしく話し掛けてみましたが、花はやはりしょんぼり下を向いています。
クマはおそるおそる花びらに触れてみました。昨日までみずみずしかった花びらがぐったりとクマの指先に寄り掛かりました。
クマはおどろきあわてました。
大変なことが起きている。どうしたらいいんだろう。
一生懸命考えて、そうだ、もしかして水が足りていないのかもしれないと思いました。
クマは走りました。
たどり着いたのはドングリ池でした。底が見渡せるほど澄み切った水で満たされている池。
両手で水をすくいあげました。でも、それはすぐにぽたぽたと手の中から落ちてしまいます。
すくってもすくってもこぼれてしまう水にクマはかなしくなりました。
こんなに大きな手があるのに、あの花に水を届けることも出来ない。
どうしようもない自分にかなしくなって、わんわん泣きました。
そこに水をくもうと一匹のキツネがやって来ました。
最初、クマがいるのを見てキツネはびっくりして逃げ出そうとしました。でも、あまりにかなしそうに泣いているので足を止めました。
お人好しのキツネはどんなに怖いものだろうと泣いているものをほおっておけなかったのです。
キツネはびくびくしながら話し掛けました。
「クマさん、どうして泣いているんですか?」
話し掛けられたクマもおどろきました。思わず逃げ出そうとして、花の姿が浮かびました。
話したら、もしかしたら、助けられるかもしれない。
クマは出来るだけやさしい声で話しました。
「大切な花が大変なんだ。だから、この水を持って行ってあげたいのに出来ないんだ。ぼくはこんなに大きな手を持っているのになんてどうしようもないんだろうってかなしくて」
「この水を? それなら、この器を貸してあげましょうか」
キツネはそう言って自分が持っている木の器を差し出しました。
周りを真っ赤に色付いた紅葉で飾り付けた木のお椀。季節が巡るたびにその時の一番きれいなもので飾り付けるきつねの宝物。それは自分が水をくむために持って来たものでした。
「いいの? こんなにすてきなものをぼくなんかに貸してくれるの?」
すてきなもの。そう言ってくれたことがうれしくて、キツネはクマに近付き、もう一度差し出しました。
「大切な花が待っているんでしょう。どうぞ、使ってください」
クマは周りの飾りをとってしまわないように、器をこわしてしまわないように、そっと受け取りました。池の水をくみました。さっきまでこぼれるばかりだった水がうそのようにきちんと器の中におさまりました。
「ありがとう。ありがとう」
クマはうれしくてまたわんわん泣きました。
キツネはその姿にほっとしたように笑いました。
泣き虫なクマ。自分が思っていたより怖いものではないようです。
そうして、もっとこのクマを助けてあげたくなりました。
「それよりも、はやく大切な花に水を届けてあげないと。ぼくも行きます。どうしたらいいかいっしょに考えましょう」
水をこぼさないように気を付けながら2匹は並んで花のもとへと向かいます。
一人ぼっちだったクマはこんな風に誰かと並んで歩くこともはじめてでした。
きんちょうして、そしてなんだか心がほかほかして。相手の速さにあわせて歩くこともうれしかったのです。
でも、どうしてこんなにキツネが親切にしてくれるのかふしぎでした。
ぼくのこと、怖くないのかな?
「ねえ、キツネさん、君はどうして――うわ〜!」
その時、クマが歩いていた地面がなくなりました。足を置いたとたんに穴があいて落ちてしまったのです。
「クマさん!?」
おどろいたキツネの上からケラケラと笑い声が聞こえてきました。見ると木の上でいたずら好きのリスがドングリを持って笑っていました。
「あー、面白い。こんなに見事に落ちてくれるとはね」
「リスさん、またこんなことやってるんですか!」
「あら、キツネ、あんたが落ちたんじゃないの。じゃあ、一体誰が……げ、クマ」
穴の中で尻もちをつきながらクマは器を見てふるふる震えていました。
「クマさん、大丈夫ですか?」
ケガをしてしまったのだろうか。大切な花への水がこぼれてしまったのだろうか。
心配しながら言葉を掛けるキツネにクマは目に涙をいっぱいためて言いました。
「こわしちゃった……」
「え?」
聞き返すキツネにクマは右手の中を見せました。そこにはこなごなになった紅葉の姿がありました。
「キツネさんの大切なものをこわしちゃった。ごめんなさい」
キツネはおどろきました。
こんな状況でクマがまず思ったのは、自分のことよりも、花への水のことよりも、キツネの宝物がこわれたことでした。
理解すると自然と笑顔があふれてきました。
「いいんですよ、クマさん。ありがとう。ぼくの宝物を大事に思ってくれて。ぼくはまたきれいなものを探すから大丈夫ですよ」
クマはその言葉にほっとして、でもやはり申し訳なく思ってしょんぼりしました。
そんなクマにキツネは言います。
「それよりはやく大切な花に水を届けないと。水はまだ残っていますか。ぼくとリスさんとクマさんでいっしょにどうしたらいいか考えましょう」
「は? 何で私が」
突然加えられた自分の存在にリスが不満そうにしているとキツネがじろりとにらみます。
「あなた、落とし穴でぼくの宝物、こわしましたよね。クマさんにはぜんぜん怒ってないですけど、あなたには怒ってますからね、ぼく」
「……あんた、お人好しのくせにそう言うところ、しっかりしてるわよね」
幸いにも器の中にはまだ水が残っていました。落とし穴から抜け出して、3匹は花のもとへと向かいます。
花のもとへと帰ってきたクマはドキドキしながら水を花に与えました。少しづつていねいにキツネの宝物から水を与えました。でも、花はやはりしょんぼりと下を向いたままでした。
クマはこまった顔で後ろで見守っていたリスとキツネにたずねます。
「どうしたらいいかな、どうしたらこの花は元気になるかな」
リスとキツネは顔を見合わせました。
どうしたらいいか考えようと2匹はいっしょにやってきました。でも、2匹には花がどうしてそうなっているのか分かってしまいました。
花の命はつきようとしていました。それは花の寿命だったのです。
どうしたらいいんだろう。
キツネはハッと何かを思いついたように顔をあげました。
「もしかしたら、ドングリ池にお願いしたら……」
「ドングリ池に?」
ふしぎそうにたずねるクマにキツネはうなずきます。
「あの池にドングリを投げ込んで願い事をすれば叶う。そんな噂があるんですよ。」
「願い事が? じゃあ、この花のことをお願いすれば」
明るくなるクマとキツネの表情。キツネはリスを見ます。
「リスさん、その手に持っているドングリを1つ分けてもらえませんか」
リスは手に持つドングリを見ました。しかし、そのまま後ろに隠してしまいます。
「……あげない」
「またそんないじわるして。1つぐらいいいじゃないですか」
しかるキツネにリスは横に首を振ります。
「べつにいじわるで言ってるんじゃないわよ。ただ、思うだけよ。あんたは一体どこまでその花の命をのばしたいの?」
ドキリとはねるクマとキツネの心臓。
「一人ぼっちじゃなくなるまで? 死ぬまで? それとも永遠に生きていてほしいの?」
クマは考えます。自分は一体いつまで花にここにいてほしいのだろう。
一人ぼっちじゃなくなるまで?
一人ぼっちじゃなくなったら花は必要ないのでしょうか。
死ぬまで?
死んでしまったら花は必要ないのでしょうか。
永遠に?
永遠の命は花に必要なのでしょうか。
いなくなるのはいやだけれど、とても決めることはできないや。
悩むクマにリスは言います。
「私はね、一番はこの花の自分の命の長さで終わらせてあげることだと思うのよ。願い事は続けるためじゃなくて、終わりのために使うべきじゃないの」
クマは花を見ました。
自分の命の長さで終わらせる。
リスの言葉を心の中で繰り返して、ぎゅっと目をつぶります。
キツネはそっとクマの体に手を置きました。その体は震えていました。
クマは手を伸ばすと花をつみました。
両手で包み込むようにそれを持つと言いました。
「リスさん、ドングリをひとつ、分けてもらえませんか」
3匹は花を手にドングリ池へとやってきました。
クマはリスにもらったドングリを池に投げ込むと願いました。
ぼくにはまだ死がどんなものなのかわからない。でも、この大好きな花が迎えるそれがただ安らかなものでありますようにと。
池に両手で花を浮かべます。
花は静かに沈んでいきます。
沈みながらひとつふたつと虹色の花びらは散っていきました。
それはかなしく、やさしく、うつくしいものでした。
クマは沈んでいく姿を見つめながら、たくさんの心をこめて「さようなら」を言いました。
クマにとって幸せだったのはこの森が逆さ虹の森であることでした。
虹が当たり前にそこにあるこの森では空を見上げればいつだって花を思い出すことが出来ました。お別れをしてから花に会いたくなるとクマは空を見上げました。
それでも、冬が来て冬眠をする日がやって来るとクマは眠りたくありませんでした。
目が覚めれば、また花と出会った季節がやって来ます。でも、クマの巣穴の入り口にはもう花は咲いていないのです。
目覚めた時の景色を思いながらクマはかなしく眠りにつきました。
冬眠から目覚めた春の朝。
クマは小さくため息を吐きながら巣穴を出ました。あの花があった場所を見ました。おどろきました。
キツネとリスが並んでそこに座っていました。
「おはようございます。目が覚めましたか、クマさん」
キツネが笑っていました。
「おはよう。おそいのよ、あんた。いつまで寝てる気?」
リスが笑っていました。
2匹はずっとクマが目覚めるのを待っていたのです。毎日毎日、花がいたこの場所で。クマがさびしくないように。
クマは泣きそうな顔で笑って言いました。
「おはよう」
挨拶を繰り返しながらクマはまた季節を過ごしていくのです。