話せばわかる
私は今まで生きてきた中で、一番の危機を迎えた。
ある日、私は仕事を終えた後、会社の近くで同僚たちと食事をした。
同僚との久々の飲み食い。
進行中のプロジェクトでの不満を皆でぶち上げながら、大いに食べて、大いに飲んだ。
その後、酔いの回ってしまった身体で、駅まで行くのに出来るだけ楽をしようとしたのがいけなかった。
普段は通らない、街灯もあるにはあるが人通りのほとんどない道を選んでしまったのだ。
静かな通り。私は身体を酔いに任せてふらつかせながら歩く。
前方の街灯の下に黒っぽいコートを着た男が一人立っていたが、酔っていた私は気にせずそのまま通り過ぎようとする。
しかし何気なく横目で見た男の手には血塗られたナイフが見えたのだ。
この瞬間に、私の目は一気に覚めた。
だが、あまりに急な出来事に、私の身体は酔いから醒めることが出来ない。
この足で逃げるという選択肢は選べそうになかった。
目の前の男は目出し帽を被り、表情はわからず、ある種の不気味さを漂わせている。そして、手にはナイフ。
ナイフは特徴のある独特の形状をしていた。刃は血まみれで形状がわかりにくくはなっていたが、その辺で売っているナイフでないことだけは確かだ。
じりじりと男が近づいてくる。
私もそれに合わせて、隙を見せないように後ずさる。
おそらく、目を離した瞬間に襲いかかってくるだろう。
「ちょっと待ってくれ。どうしてもわからない。助けてくれ」
私はとにかく時間を稼ぐしかない。酔いの醒めない頭では、どれだけ考えても答えを見つけることが出来そうになかったからだ。
男が何かを話す素振りを見せるだけでも良いのだ。それが十分なヒントになる。
しかし、男は答えない。そして、手を伸ばせば触れるのではないかという距離まで詰め寄ってきた。
「だから、ちょっとで良いから待ってくれ。どうしてもわからないんだ。助けてくれ」
私は同じ言葉を繰り返した。
私の懇願は男には通じなかった。
私は身を躱す事も出来ず、腹を刺され、その場に倒れた。
気がつくと病院のベッドにいた。
私は何とか助かったらしい。
同じ道を通って帰ろうとした同僚が、私が倒れているのに気付いて救急車を呼んでくれたのだ。
私はどうしてもわからなかった。
何であの時、男は話をして猶予をくれなかったのか。
――話してくれれば、わかったのに。
今ならわかる。あれはグルカナイフだ。
良くある話(短編的に)