第一章④
「ううっ、お腹がはち切れそうで動けん……!」
大盛りカツ丼に返り討ちにされ、酒も相まってゲロを吐き、足元が覚束ないため綴町に支えられながら帰宅するという醜態を晒しながらも、オウマは何とか生きていた。
「何だよあの量……ギャグ漫画じゃん。部員全員苦しむけどグループに一人はいる大食いキャラが全員分ペロリする的な、そういう量じゃん……! カツが辛いんじゃない、ご飯が辛いんだ…………っ!」
「はいはい。言っとくけど、私の横で吐かないでね。マジで捨てて帰るから」
「大丈夫です、さっきから飲み込んでいますから」
「ほぼアウトじゃん!」
結構な量をリバースしたというのに、未だに腹が重い。見事な太鼓腹を形成している。明日は動けそうにないな、と半ば朦朧とした頭で考えていた。
夜九時半という時間帯なので人通りは疎らだった。温かくなってきたとはいえ、この時間はそれなりに冷え込むが、隣に綴町がいるからなのか、カイロみたいで温かい。
「頼むんじゃなかった……。あれで五千円近く飛んで行った」
「でも、何だかんだお持ち帰りさせてくれたよね。大損ってわけじゃないから別に気にすることでも」
「まだ半分以上残ってるんですよ……? 少なくとも明日は三食カツですね、ええ」
「あるある。私も一時は三日間くらいずっとカレー食べてたことあるもん」
「量作りやすいし、栄養価もばっちりですもんねえ。あれほど完璧な料理を僕は知らない」
「何か青春系漫画のタイトルみたい」
ゆっくりと歩いていると、彼の住むマンションに辿り着いた。ここで別れようと思ったが、今の彼に三階分の階段を上るのはキツイと判断した彼女が背中を押してくれながら付き添ってくれた。
「そう言えば先輩、実はこの前構内で意識高い系集団を見たんですよ」
「コンセンサスとかアカウンタビリティとか、だっけ? 私使ったことないケド」
「そいつらはASAPとか言ってましたよ。『ASAPでお願いね☆』みたいな」
「何それ? 宇多田ヒカルの曲?」
「調べてみたらas soon as possibleって意味でしたよ。ちょっ早でみたいな感じですね」
「それちょっ早で良くない?」
「それ、同意」
「こらこら染まるな染まるな」
文字数を抑えられていたら意味もあるのだろうが、『コンセンサス=同意』であるようにそもそも長くなっていれば本末転倒だろう。カッコいいのは理解できるが。賢そうに見えるし。
一歩一歩踏みしめるように階段を上っていたオウマは、ようやく三階まで到着した。あと僅かで家に帰れると思うと気が緩む――となるはずが、彼はむしろ背筋をピンと伸ばした。その要因は昨夜と同じく自宅前に、かつ同一人物が立っていたからであった。
「京子……」
その言葉に反応した彼女は、ホッとした表情をして歩み寄ってきた。やや疲れの色が見えた。
「お兄ちゃん、お帰り。……後ろの人は?」
少し顔を横へ動かして、オウマの体の陰に隠れている綴町に目を向ける。すると彼女は一歩歩み出て彼の横へと移動し、冗談めかした口調で言った。
「あ、どうもー。デリヘル嬢でぇす。源氏名は『アキ』よお。もしかして彼女さんですかぁ?」
「いえ、違います……ってデリヘル!? デリバリーヘルスさんのことですか!? サ、サインもらってもいいですかっ!」
「ちょいちょいちょい! 話をややこしくしないでくださいよ先輩!」
顔を真っ赤にして立ち去ろうとした京子の手首を掴み、誤解を解こうと停止を求める。てへ、と舌を出して笑う綴町だったが、不意にん? と目を見開いた。
そこで綴町と京子、二人の視線がぶつかって「あ!」と声を上げる。
「ミク、先生……?」
「護国寺さん!?」
自己紹介すらしていないはずなのに、二人はぴたりと互いの名前を言い当てた。なんか嫌な予感がする、という想像がオウマに直感として去来する。
三者とも事情が呑み込めていない。揃ってフリーズしてしまっている。その中でいち早く機能を回復させたのは京子であった。
「え、先生がデリヘル嬢で、つまりお兄ちゃんは先生を買った……?」
否、まったく回復していなかった。変に思考を取り戻しているせいで、余計変な方向へこんがらがっている気がする。
この話を続けても面倒臭いことにしか繋がらないだろうと判断したオウマは、ひとまず別の話題へと移行する。
「ところで京子、どうしたんだ? またこんな夜更けに」
「あっ。……そのことなんだけど、」
京子はもじもじとお腹の辺りで指を絡ませて、いかにも言いづらそうな雰囲気を醸し出していた。それだけでデリケートな話なのだと察することができる。
それをこんな夜空の下で話させるのも忍びない。とりあえず彼は京子を昨日と同様に部屋へと案内した。何故かついでに綴町まで付いて来ている。何で? と聞くと、さすがに誤解を解いておかないと不味い、と彼女は言った。オウマの想像通りなら、確かにそうしなければ厄介な問題が待っているだろう。
客間に通した二人を余所に、オウマはひとまずお茶を淹れることにした。いつもより入念に時間をかけて。自分が席を外しているうちに、面倒くさそうな話を解決しておいてほしかったのだ。
じっくり三分間待ったオウマは、しかし落胆した。重苦しい雰囲気が場を包み込んでいたからである。友達の友達を前にしたような、そんな探り合いを続ける痛々しい空気。正直いたたまれないです。
けれど今日のオウマの容体は非常によろしくないので、できうる限り手早く帰ってほしいのが本心である。なので、彼は助け船を出すことにした。
(しかし、もうぶっちゃけこの二人の関係性見えてんだよなあ。白々しく、お二人の関係についてだなんて聞いたって、このやっちまった感の強い雰囲気が払拭されるとも思えんし……。話を進めることができ、なおかつ場の空気を和らげる神対応――――それはっ!)
くわっ! と目を見開き、オウマは清水寺から飛び降りる覚悟を伴って言った。
「チョッ、お二人のカンケイってマジ何なんスか? 今流行のキマシタワー的な? うわこれチョーヤバいっしょマジで」
リア充お得意(偏見)の、もはや日本語の原型をなくしたチャラ語こそ、この場に最も相応しい回答に違いない!
ふん、と自らの神対応に得意げな顔をするオウマ。しかし、女性二人の反応は塩対応そのものだった。
「え……、今の、何? TPОって知ってる?」
「お兄ちゃん…………」
呆れ顔の二人。途端に恥ずかしくなってきた彼は、ごほんごほん! と大きく咳払いをして誤魔化した。
「テイク②で。――――そもそも二人って、どんな関係なんです?」
無理矢理すぎる気もするが、こうでもしなければ進むものも進まない。
綴町はえーっとぉ、と言葉を濁す。基本的に物事をはっきり言う彼女にとって、今の反応は中々にレアだ。
「なんて言うか……、師匠と弟子? 有り体に言えば教師と生徒みたいな」
「有り体にとか、むしろそれしかないでしょ。何でちょっとカッコ良さげに言おうとしたんですか」
てへ、と舌を出す綴町。ちょっとかわいいな、と思ってしまった。
予想通り、綴町と京子は学校の教師生徒の間柄だったようだ。まあ、『先生』と言う人なんて、まともな生活していたら教師と医者くらいしかいないだろう。
京子もコクコクと頷いて、
「私もびっくりしましたよ。お兄ちゃんを訪ねてきたら、いきなりデ……デリヘル嬢を名乗る人が隣にいるし。それがミク先生だもん」
「そりゃ驚くわな……」
通っている学校の教師が実は風俗嬢とか、エロ漫画くらいしかないはずだ。現実であったら、PTAの父母が卒倒すること間違いなしであろう。
「ごめんごめん。ちょっとからかってみたくなって……。普通の挨拶だとインパクトに欠けるかなあ、って思ってね」
「自己紹介でそんな奇抜なのいらないです。自分外した記憶しかないんで」
「あー、何か高校の時話題になってたよねえ。確か自己紹介タイムで、いきなり海苔を足元に置いて『今、“ノリ”に乗ってる逢魔斗真ですっ! よろしくお願いします!』とか言ったんだっけ?」
「何も掘り返さなくていいんじゃないですかねえっ!?」
それも妹の前で。京子も反応に困った様子で、「私は面白いと思うよ」なんてフォローを入れてきた。やめてくれ、そんな不器用な優しさを自分に注がないくれ……!
綴町とは学年が違うとはいえ、高校が一緒だったので知られたくないことも大抵知られている。文化祭のステージで滑ったこととか、その他諸々。思い返すとだいたい滑り芸を披露してきた気がする。同窓会は呼ばれもしないだろう。
再度喉を鳴らし、話をリセットする。いい加減喉が痛くなってきた。
「まあ二人が偶然にも同じ学校にいるってことは分かった。……で、京子はいったい何しにここへ来たんだ?」
「うっ、それは…………」
京子は昨夜家出をしてきたが、両親との話し合いのために実家へ帰宅したはずだ。娘に甘い父親なら、きっと土下座するくらいに謝って手打ちにすると思っていたのだが。
しかしその期待も、今の京子の様子を見る限り打ち砕かれたようだった。そもそもの話、家出の原因を知らされていないオウマには、いまいちピンと来ない話ではある。
言いづらそうにする京子に対し、綴町が柔らかな口調で言った。
「護国寺さん、言わなきゃいけないことは言わないと。それが相手に世話をかけるのなら、なおさらね」
オウマはちょっと驚いた。綴町の教師然とした態度を初めて目の当たりにしたからである。いつも彼と話す時は「男って金玉握るとリラックスするってホント?」とか平気で聞いてくるのに。
茶化してやりたくなったが、それより早く京子が話し始める。
「実は、その……今日家に帰ったんだけど、そこでお父さんと喧嘩しちゃって」
「まあ、その様子だとそうだろうなあ」
「ぶん殴ってきちゃった」
「お前マジで何やってんの!?」
思わずむせ返ってしまう。見た目大人し気な彼女の口から、よもやそんなバイオレンスな単語を聞くことになる日が来るとは想像もしていなかった。見た目だけでなく、オウマの知る妹は、そんなことをする性根ではなかったはずだ。
人って月日を経て変わるんだな、と改めて再確認していると、京子は激しく訂正を求めてきた。
「いやいや、殴ったと言っても平手打ちだよ? ぱちーん、てこう、スナップを利かせた」
「充分痛そうだな……」
あれだけ娘を溺愛していた父親のことだから、心にも相当傷を負ったんじゃないだろうか。明確な反抗期とも取れるので、今頃気が気でない状態かもしれない。
(けど、それだとこのまま家に送り返すのも心苦しいか……。さすがに京子も帰りたくないだろうし)
ほとぼりが冷めるまで家には帰らない方が賢明だろう。京子も声に出していないが、捨てられた子犬のように懇願の眼差しを向けてきている。
はあ、とオウマは深くため息を吐いて、
「ちょっと待ってろ」
「お兄様……!」
さすおに! と京子は満面の笑みを浮かべる。
オウマは一時台所の方へと引っ込み、あるものを取りに行く。そしてそれを妹の前に無造作に放り投げた。あるもの――――大きな段ボールである。
「えっと……?」
と、彼女が困惑する。兄はにっこりと笑い親指を立てて、
「すぐ近くに公園があるから、そこで段ボールを敷いて寝なさい。一日くらいなら大丈夫だろ」
「うえええぇええええええっ!? ダンボール!? ダンボールナンデ!?」
ごちーん! と雷にでも撃たれたかのような表情をする京子。そのやり取りを見て、傍らで綴町は腹を抱えて転げ回っていた。
「あっははははは!! 妹に向かって外で寝ろとか、こんな返し初めて聞いた!」
「先生も笑ってないで何とか言ってくださいよ! あの学校では毅然としていて頼りになるミク先生はどこ行ったんですかーッ!」
毅然と聞いて、オウマはギョッとなって綴町を見やる。
「あんた……学校ではどんなキャラ付けでいってるんですか。詐欺でしょ、もはや」
普段の彼女を見ている彼からすると、京子から語られる教師像とまるで異なっている。よく似た別人だと言われた方がまだ納得できる。
綴町はフ、と顎に手を添えて、
「人間、誰しも何かしら被っているものさ。男が皮被りなように、女も猫を被っているのだから……」
「何ちょっといい感じ風に言ってるんすか。あと京子、『実はお兄ちゃんも包茎なの?』とか、興味津々で見つめてこない」
「はあ!? 興味なんてねえべさ!」
言って、京子は顔を赤く染めてそっぽを向いてしまった。意外とムッツリさんだな、とオウマは妹の評価を改めることにした。
てゆーか、と綴町が声を上げる。
「いいじゃんか、素直に家に泊めてやれば。一応別に布団あるし、昨日泊めたんでしょ?」
確かにこの家にはオウマが寝る用のベッドとは別に、予備の敷布団がある。元はと言えば陽目が持ち込んだものだが、それとは別に来客用で使っているのだ。一度駅前で神待ち家出少女を探し、片っ端から声をかけた経験のある彼だが、危うく警察沙汰になりかけたのでやめた。
もちろん、「外で段ボールを敷いて寝ろ」だなんて冗談に過ぎない。いくら実家と確執のあるオウマと言えども、義妹に対して鬼になることはない。
「ジョークですよ。女性一人で野宿させたら、エロ同人みたいになりますからね」
「寿命が縮むようなジョークはやめてよ……」
するとげっそりした風な京子から、不意にクゥと小さく情けない音が鳴った。彼女は慌ててお腹を押さえて、チラリと兄の顔を窺う。
聞き逃してほしかったのだろうが、生憎オウマは耳聡く捉えていた。気遣うように、声量を控えめにして言った。
「……オナラか?」
「腹の虫が鳴いたの! オナラの方が恥ずかしいじゃん!」
「はは、冗談冗談。オウマ・ジョーク」
「お兄ちゃん、ジョークのセンスが絶望的にないよ……」
辛口な妹である。もう少し褒めてほしいのだが。
とりあえず腹を空かしたままにもしておけないので、「何か買い置きあったかなー」と思案していると、ガサッと右手にビニール袋が触れた。
キラーン、とオウマの眼が光る。怪我の功名とはまさにこのことだ。彼はその袋を京子の前に掲げてみせる。
「こんなこともあろうかと、ここに大量のカツとご飯がある。好きなだけ食べるといい!」
「ホントに!? やた、私カツ系大好き!」
「でもそれゲロ吐いたやつだよね」
「ちょっとミクパイは黙ってて!」