第二章 「良い子」からの脱却
大名寺恋歌はこれまで、人並み程度の幸せを満喫してきた。
比較的裕福な家庭で育った彼女は、何不自由なく過ごしてきた。ネグレクトを受けるどころか、両親揃って親バカの気があったくらいだ。
加えて、彼女自身も器量に富んでいた。小学生の頃、一度だけ子役としてドラマに出たこともある。もっとも現場の空気に触れ、怖く感じてそれきりになったが。
容姿に優れている、というのは人生において何よりのアドバンテージだ。周囲の反応が柔らかくなる。周囲の人に支えられ、大名寺は順調な人生を歩んできた。小学校、中学校と上がるにつれて、彼女は次第に戸惑いを覚えるようになっていく。
今までは大人の言うことを聞くことを教え込まれてきたというのに、急に個性や主体性やらを求められるようになっていったのだ。
中学までとは違い、高校受験は自分の意見が尊重された。あれほど過保護だった両親も、次第に子離れしていくようになった。それはあくまで自立を促すもので、遅すぎたといってもいい。
そしていざ、それらに取りかかろうとした時、もはや自分の中には何もないことに気付いた。気付いてしまった。
両親は彼女に対し「良い子」であることを求めたが、それ以外に関しては好きにさせてくれた。二人にとって「良い子」になってしまった大名寺は、その時既に完成していた。教師に相談しても「大名寺さんはしっかりしている」などと言い、次の目標を提示してくれなかった。
勉強は嫌いではない。かと言って好きでもない。東大を目指せる域には達せられるとは思えない。
運度能力は悪くない。けれどその道の一流と張り合えるほどではない。全国大会など夢のまた夢であろう。
友達も多かったが、それは「良い子」であることを演じた自分を好いているだけで、彼女自身としてはあまり好ましくないと思っている。
いつだって大名寺の中には、「こうあるべき」という教科書が開かれたままだ。
だから大学では、彼女の高校からは進学者の少ない大学を受験した。「良い子」の自分を知っている環境では、絶対に自分を変えられないと考えたのだ。
自分を変えるために、それまで疎かったファッションにも目を向けるようになった。これまでの落ち着いた服装から、今風の派手めのを重視した。
「良い子」であることから脱却しようと、なるべく「良い子」の自分とは違う言動を心掛けた。周囲と合わせるために、わざわざ慣れない言葉遣いまで習得した。
大学に入って、そんな変わった自分に友達ができたことは、努力が認められたようでとても嬉しかったのを未だに覚えている。
――――そんな時、大名寺はオウマと出会った。
新入生同士の交流会を目的としたオリエンテーションで、確か絵しりとりゲームで同じチームになったのだ。今となっては下ネタばかりのオウマも、新入生の頃は平凡な、ありふれた男だった。
次に彼と顔を合わせたのは、それから十日ほど先のことであった。
キッカケは大名寺の失態によるもの。体育を終えて、汗を掻いてしまった彼女は構内にあるシャワールームを利用した。そこでうっかり鍵を閉め忘れ、オウマが覗いてラッキースケベが成立――なんていうお約束な展開ではなく、もっとくだらない理由だった。
次の講義が詰まっていた大名寺は、慌てて少し離れた講義室へ向かう途中、いつもと違う感覚に気付き、シャワー室へと引き返した。それはもう血相を変えて。
学生証を通すことで解錠し、先んじてその中にいたのが逢魔斗真だった。
彼は出歩く用の普段着とは違い、構内の清掃を担当しているバイトの制服に身を包んでいた。そういえば、シャワー室の入り口に『清掃中』の掛札があった気がする。
しかし、当時の大名寺はその人物が誰であるか、もはや二の次であった。最も重要なものは既に彼によって拾い上げられ、興味深そうに観察していたことに驚愕していた。
重要なもの――――そう、女性の三大見栄張りアイテムの一つ、パッドだ。
何を隠そう、大名寺恋歌は大学入学とともに、胸にパッドを詰め始めたのである!
大名寺は自他ともに認める美少女だ。下手な謙遜は人を傷付ける。外見に非の打ちどころはなく、性格も社交的だ。かといって知能が低いわけでもない。男目線で超優良物件と言えるだろう。
けれど、そんな彼女にも大きな弱点があった。それこそが、おっぱい。いわゆる貧乳だったのだ。『おっぱいに貴賎なし』と人は言うが、それは男性の紳士性か、もしくは巨乳女子の余裕の表れ。貧乳女子が口にすれば、たちまち負け惜しみとなる。
中学生になっても一向に成長の兆しを見せないおっぱいは、そのまま十八になるまでほとんど変わらなかった。周りと比べ、コンプレックスとなるのにそう時間はかからなかった。
昨今の若い女性にとって、パッド着用はそれほど珍しくなく、ブラの方に元々備わっている商品もあるくらいだ。しかし、大名寺みたいにブラ+パッドとなれば一気に希少価値が出てくる。よほどおっぱいにコンプレックスがなければ詰めようと思わない。
それを指先でつまんでいたオウマは、いきなり入って来た彼女に気付いたのか、ギョッとした目付きを寄越してきた。大名寺はパクパクと口を開閉している。
終わった、と。大名寺はそう直感した。人の口に戸は立てられない。すぐに噂が広がり、華の大学生活の全てでBカップ以上の女子にマウントを取られるんだ――――
肩を落として全てを諦めた大名寺に向かって、オウマは少し気まずそうにしながら言った。
『うん、その、なんだ……おっぱいが小さいからって、人生に絶望することなんてないさ!』
『いや、別にそこまで絶望してないから!』
的外れな心配をされ、返ってとても惨めな気持ちになった。
それからオウマが視界に入ることが多くなった。多分、他の人とは違う認識を抱いたからだろう。自分の秘密を握る、唯一の大学生という。
最悪の場合、『バラされたくなかったら……ぐへへ』的な展開があるやも、と身構えていたけれど、オウマがそういった脅しをかけてくることはなかった。むしろ積極的に牛乳を差し入れてくる始末。大きなお世話だ。
結局そのまま彼と過ごす時間が長くなり、知らず知らず惹かれていったのだ。
悪漢から救ってもらったような、劇的なイベントなどない。他の人とでは味わえない特別な時間に浸るうちに、恋心が育まれていったのか。デリカシーに欠けながらも、奥底で光る思いやりに魅せられたのか。
そして現在、決定的な関係の変化もないまま、卒業まで残り十か月を切っていた。