第四章⑧
「本当はさ、護国寺さんの鞄から財布が見つかった時点で、私は彼女を犯人扱いしようと思ってたんだ。そうすれば、どれだけ言い逃れしようと、強引に犯人に仕立て上げることができたからね」
「…………っ!?」
平生の彼女らしからぬ、邪悪な言葉。悪意を持つ者にしか吐けない――――最も彼女に似つかわしくないセリフだった。
綴町の言う通り、あのまま京子が犯人になっていてもおかしくなかった。状況証拠は固まっていて、担任の教師が犯人扱いすれば駄目押しだろう。綴町が他から信頼されていたとすれば、なおさら。
悲しみに代わり、今度は怒りが沸き立ってくる。
どうしてこんなことをしたのか、などと、ミステリードラマにありがちなセリフを吐きたくなるほど。
だがそれよりも早く、綴町が言葉を繋げる。がっくりと項垂れて、ため息交じりに。
「……でもさ、できなかったよ。過呼吸を起こしてそれどころじゃなかった、ってのもあるけど……、それ以上に、護国寺さんは私の生徒なんだなと思うと、どうしてもできなかった」
「だったら、どうしてこんな真似をしたんだ……! お前なら、やる前にきっと後悔するって分かっただろ!?」
溜まらず口をついた言葉を受けて、不意に彼女は立ち上がった。直後に何やら呟いたようだが、あまりに声量が小さくて聞き取ることができない。
何だって? と問い返す暇なく、綴町がオウマの眼前まで歩み寄ってくる。決して視線は合わせず、目を伏せたまま言った。
「斗真は……悔しくないの?」
「え……?」
脈絡もなくそんなことを突き付けられる。
いや、きっと彼女の中ではちゃんとした繋がりがあるのだ。オウマは黙って次の言葉を待つ。
「私は――――私は、悔しい」
不思議な声であった。声量は小さめなのに、脳に直接囁かれたような感覚が残る。
ようやく彼女が顔を上げる。見つめ合った双眸は、言い知れぬ炎で燃え盛っていた。
「だって、そうでしょう――――」
ドクン、とオウマの心臓が大きく脈打った。
「――――本来あそこにいるべきは、斗真の方だったのにっ!!」
具体的に指定されたわけでもないのに、彼には何となく分かってしまった。
『あそこ』とはどこなのか。何故こんなことをしたのか。今回の事件の引き金となったこと全て、オウマには察することができた。
「凄く……悔しいじゃない。だって、あそこは――――家族に愛されるべきは、斗真であるべきだったんだから!」
彼がとうに手放していたはずの居場所――――家族との空間。ただ家族というだけで築かれるべき、温かい空間。しかしそこにオウマの存在はなく、愛情全ては京子へと注がれた。
転機となったのは、おそらくファミレスで京子とその両親を見つけた時だろう。ごくごくありふれた世界だったが、綴町にはそれが許せなかったのだ。
彼女がオウマを見上げる。目尻に涙を堪え、若干鼻声になりながらも続ける。
「そうすれば……。護国寺さんさえいなければ、斗真が迫害されることもなかったかもしれない。そうすれば、私たちが別れることだって、きっとなかったはずだ…………!」
愛されるというのは幸せなことだ。――――それが、誰かにとっての悪意にならない限りは。
綴町の論理は、ほとんど崩壊している。京子が家族になる以前から、オウマは父と折り合いが悪くなっていたし、多分それは別の誰かと再婚することになっても変わらなかっただろう。
確かにオウマは綴町と出会うまで愛を知らずに育った。正確には実母が亡くなるまでは愛されていたが、かなり昔の話になるのでそれはほぼ消えかかっていた。
愛されることを知っていれば、オウマは彼女に実母の姿を重ねることはなかったかもしれない。罪悪感を覚えずに済んだのかもしれない。
(――――つまり、悪いのは俺なんじゃないか……っ!)
彼女が狂った分岐点をどこかと言えば、多分、全てだ。
オウマがもっと早くに父と和解するよう動いていれば。
オウマがもっと早くに京子を恨んでなどいないと告げていれば。
――――オウマが改めて、綴町に好きだと告げていれば、こんなことにはならなかった。
とてつもない無力感と、自らに対する強い怒りの念が滲み出てくる。
綴町は柵越しに対面したまま続けた。
「こんなこと、間違っているなんて分かってる。護国寺さんを恨むのがお門違いだなんて、嫌というほど分かってる。……でも。それでも、キミは間違いなく踏みにじられた。あの家族が成立するための犠牲となった。何も悪いことなんてしていないのに」
思い返せば、自分はいつもこうだったと思う。問題を先送りにして、向き合うことを避け続けてきた。自分には実害はないから、それでいいじゃないかと納得させてきた。
だがそうではなかった。彼が逃げるたびに、その負債は綴町へと募っていっていたのだ。
彼女は掌で前髪を掻き上げて、辛そうに歪んだ顔を露わにした。
「あの時、ファミレスであの一家を見つけた時。思い出したんだ、護国寺さんも一皮剥けば、薄情者なんだって」
「それは……」
「楽しそうに笑うのはいい。だけどその足下に、斗真の犠牲があったことを考えもしていない表情に腹が立った。何より……私がキミの父親を糾弾した時、その場に護国寺さんの姿もあったことを思い出した」
綴町が指しているのは、おそらくオウマが高校生の時――――父に対して育児放棄だと非難した時のことだ。当時彼も傍らで聞いていたから、よく覚えている。
あの席にいたのはオウマ、綴町、父と義母の四人だけのはずだ。京子はまだ家に帰ってきていなかった。
「違う。隠れて覗き込んでいた少女と、私は目が合ったんだ。訴えかけたよ、『キミも家族ならば、私たちの味方をしてくれ』って。……だけど、彼女はその場から逃げた。家族としての責務を放棄した。思ったんだよ――――ああ、護国寺さんもやっぱり、斗真の味方なんかじゃないって」
彼女の掻き上げた右手が、小刻みに震えているのが分かった。
当時京子はまだ小学生だった。怒鳴り合いの口論の最中、割って入る度胸を要求する方が酷な話である。けれど綴町はそう思うことができなかったのだろう。
「そして、昨日……一限目の途中。偶然教室に戻る彼女を見かけた。何故かな……プツ、と何かが切れたんだよ。充実した足取りが気に障ったのか、私の中の悪意が暴走したのか分からないけど」
「……じゃあ、京子はずっと俯いて、辛気臭い表情を浮かべていなければならないとでも言うんですか? それが分相応だと、そう言うんですか!?」
「でも、キミにそういう態度を求めたのは、他ならぬ家族たちだよ。だったら、相応の償いを求めるのが当たり前――――いや、違う。違うんだよ、ほんとに。……あれ? 何だっけ? 私はいったい、彼女に何を求めていたんだ……?」
急に支離滅裂なことを呟き始める綴町。刹那、オウマの罪悪感がピークに達する。自分のせいで、ここまで彼女を狂わせてしまったのかと思うと、胸が張り裂けそうになる。
両手で顔を覆い隠し、彼女は膝を抱えて縮こまってしまった。
「もう、分かんないよ……。何で家族揃って斗真を迫害するのか、何で斗真はそれを受け入れているのか。何で、私がこんなことをしたのかさえ――――」
「――――受け入れるとか、そんな大人な理由じゃない。ただ……俺が黙ってさえいれば、周りの誰も苦しまないと思ったから…………」
けれどそれは大きな間違いだった。少なくとも、最も守りたかった綴町を傷付けることになっていたのだから。
オウマもあの父親に災難が降りかかれば、ガッツポーズをして歓喜するかもしれない。しかしそれが積年の恨みを晴らすような重大なものになれば、とても笑って済ませることはできない。自分の苦しみと同じ分だけ、誰かに傷付いてほしくない。
「結局のところ、俺が悪いんだ。何もかも。ミクの異変に真っ先に気付くべきは、俺の方だったのに……! 俺の怠惰が、ミクを苦しめた」
オウマもまた、愚かで怠惰な人間だったのだ。
すまなかった、と彼が頭を下げたのを見て、綴町は立ち上がった。
「ううん、私の方こそごめんね……。妹さんを傷付けて。そして、キミの期待を裏切ってしまって」
「そんなことは……」
「私は人間としても、何より、教師としてあるまじきことをしてしまった。そんな私が、のうのうと教師を続けていいはずがない。……バレようがバレまいが、これだけは覚悟してたから」
離れていく。零れていく。オウマの掌から、またもや最愛の人が。
それだけは頑として受け入れるわけにはいかない、と彼は手を伸ばす。しかし、するりと風のように綴町が身を翻し、掴むことはできなかった。
彼女は身軽な動きで柵を飛び越えて、オウマを置き去りにする。即座に追走しようとする彼に対し、突き放すようにして声を上げた。
「ついて来ないでっ!」
「……っ!」
闇を斬り裂くような、鋭利な声音。反射的にオウマの脚が止まる。元より、オウマより綴町の方が速い。逃げられたら最後、追いつくことはできないだろう。
二人の間に三メートルほどの距離が開く。暗がりのせいで、彼女の表情を読み取ることはできない。しかし、綴町は震えた声音で言った。
「……っ、護国寺さんには、代わりに謝っておいて。私にはもう、彼女に合わせる顔がないから。真実に脚色を加えて、悪辣非道な人物に仕立てあげてもいいよ。その方が彼女も気が楽になるだろうからさ……!」
「ミク――――っ!」
直後、綴町は再び駆け出した。瞬く間に離れていってしまう。
さようなら、と彼女の呟きが聞こえたような気がした。
オウマも急いで後を追うが、やがて引き離され見失ってしまった。走り去る足音も聞こえず、完全に置き去りにされたことを理解した。
彼は脚を止めて、夜空を見上げた。こんな時に限って、満月で、満点の星空が彩っていた。
「違うんだ……」
ぎゅう、と爪が食い込むほど、強く拳を握る。
「俺が教師になったのは、子どもたちに何かを教えたかったからじゃない……。俺はただ、お前と一緒にいたかっただけなんだ! 俺は、お前のことを――――」
行き場のない思いを抱えた拳を、もう一方の掌で包み込んだ。
「愛しているんだ……ッ!」
そう伝えることができていたなら、世界はどこまで変わっていただろうか。
ただ理解できたことは――――愛を語るには遅すぎた、ということだけであった。