第四章⑦
放課後。
夕方七時を過ぎても、オウマはまだ職員室に残っていた。この時間帯になるとほとんどの教員は帰宅し、現に職員室にいるのはオウマだけだった。逢魔が時ということもあり、しんと静まり返った室内が、不気味さを演出している。
彼は何かしているわけでもなく、ただ茫然と手を組み顔を伏せていた。指導案を練るなど、やるべきことはいくつかあったが、そのどれも手に付かなかった。
どうか気のせいであってくれ、と願うばかりで、時間などあっという間に過ぎていた。
がらり、と職員室の扉が開いた。躊躇いのないそれは、教員であることを教えてくれる。
「――――あれ? オウマ先生、まだ残っていたんですか?」
敬語でそう言った女性――――綴町未来子が立っていた。最後までサッカー部の指導をしていたのだろう、ほのかな汗の香りがした。
他に誰もいないことを確認した彼女は、途端に普段通りの砕けた口調へと戻る。
「いやあ、若い力って恐ろしいねー。あれだけキツイ練習をこなしてもまだ元気いっぱいでさー。今ならエリザベートの気持ちがよく分かる」
何だか物騒なことを口にする綴町。これはいつものようにツッコミ待ちのセリフで、彼女に当たり前のことである。後はオウマが『だから女子サッカー部の顧問になったんですね。処女の生き血が多そうだから』とか何とか、セクハラ交じりのセリフを返すはずだった。
けれど、彼はずっと押し黙ったままで、思い詰めた表情をしていた。
あれ? と綴町が首を傾げる。
「どしたの? ひょっとして、指導案の内容で詰まっちった? 実際に授業進めると、思ったより時間足りなくなるから、そこんとこ配慮した方がいいよー」
彼女の助言も、今はまともに耳に入ってこなかった。正確には脳がインプットする機能を停止しているため、記憶することができないのだ。
「……いや、違います。それよりも早く帰りましょう」
オウマは催促するように席から立ち上がった。綴町は特に雑務等も残っていない様子でそれに応じた。
正門を出て、幾度となく通った道を歩く。その歩みは穏やかで、何とか時間を引き延ばそうとする意図を感じさせた。陽は沈み、街灯と建物から漏れる光を頼りにして帰路を辿る。
その間、会話はほとんどと言っていいほどなかった。いつものように陽気に振る舞う綴町だが、オウマはずっと苦悶の色を滲ませ黙りこくっていた。彼女も次第に困った風にして口を閉ざした。
道中、小さな公園の傍を通る。鬼ごっこをするには狭すぎて、遊具もブランコと滑り台しかない。一応ベンチも設置されているが、ペンキ塗り立ての紙が貼られていた。
オウマが立ち止まる。それに合わせて綴町も歩を止めた。
「……どしたー?」
「…………。ちょっと話があるので、立ち寄っていきませんか?」
重苦しい調子でそう述べたオウマ。彼女の眉が訝しげに動いた。どう考えても愉快な話をする雰囲気でないことは一目瞭然だった。
それでも綴町はOK、と了承し、公園内へと先んじて入っていく。そのまま彼女はブランコをゆっくりと漕ぎ始めた。
ギイ、と漕ぐたびに錆びた金具部分が嫌な音を連続させる。
「それで、話って何? 青姦しようとか、シャレにもなんないからやめてよね」
「……実は、昨日の盗難事件のことで」
綴町がブランコを漕ぐ速度を徐々に速めていく。
「あー、聞いたよ。何でも山無さんの勘違いなんだって? ……ともあれ、犯人がいないようで一安心だ」
「……そう、ですね」
オウマはブランコの囲いの外から、躊躇いがちに首肯した。
(違う。そうじゃないだろ、逢魔斗真……!)
流されてしまいそうになる心を、辛うじて繋ぎ止める。ここで引き下がる選択肢など、そもそも提示されてはいけない。
彼が内心で奮闘しているのを余所に、綴町はなおも続ける。
「職員室でも不審がられて……、というか、何人かには『生徒の財布が盗まれたってホントですか?』って確認されたよ。誤魔化し切れるか心配だったけど、杞憂で終わって何より――――」
「――――どうして、京子に罪を擦り付けるような真似をしたんですか?」
ピシャッと遮るように、オウマは言い放った。
振り子運動をしていたブランコが、その勢いを急激に弱める。暗がりのせいで、綴町が今どんな表情をしているのか、見分けることはできなかった。
返答がなかったので、オウマは捲くし立てる風に言葉を繋げる。
「ミクなんじゃないのか? 山無の財布を盗み、京子の鞄に入れて、窃盗犯に仕立て上げたのは?」
普段の敬語を忘れ、かつての言葉遣いに戻るほど、彼は焦燥に駆られていた。
断言していない通り、綴町が真犯人であるという証拠はない。たった一つの矛盾で、オウマは彼女に疑いの矛先を向けている。
むしろ杞憂であるならその方が良かった。これが元で激高されても仕方のないことだと思った。そう――――
「そっか……。キミには何となく、隠し通せないんじゃないかと思ってたよ」
――――自らの犯した罪を、認められるよりは。
胸が詰まる。あたかも栓で蓋をされたかのように、血液が循環を止め、全身が冷え切った風な感覚に陥ってしまう。
よっ、と綴町はブランコから飛び降りた。着地する姿は、重りが外れたかのように軽やかだった。
「一応聞いておくけど、何で分かったの? やっぱり、演技が下手すぎて気付いたとか、直感だとか、そういう類?」
彼女の予測は外れていた。綴町は自分で思っているよりも演技派である。長年一緒にいて、見抜けないことの方が多かった。少なくともすぐに表情に出てしまうオウマよりは、ポーカーフェイスを貫くのが上手だった。
オウマは鈍い反応ながら、首を横へと振った。
「勘とか、そういうのじゃない。気付けたのはほとんど偶然によるものだ」
「へえ……。よければご教授願えない? 私がいったい、どこでどんなミスを犯したのか」
答え合わせが始まる。それはもはや、綴町が犯人であることを前提とした流れだった
オウマは逃げたくなる心の衝動を懸命に抑え込んで、
「……昨日、盗難騒ぎがあってざわついていた、あの状況下で。思い返せばミクはおかしな言動をしていたんだ」
「そうだったかな。私は怪しまれないよう、何も知らないフリをして尋ねたはずだけど?」
「確かに。ミクはあの時『いったい何があったの?』と言っていた。騒ぎの原因すら分かっていない様子だった」
彼が順序立てて説明しているため、綴町は自身の内で一連の言動を反芻しているようだった。
綴町が何食わぬ顔でオウマに「何があった?」と尋ね、彼はこう答えた。「誰かが財布を盗んだみたいだ」と。
あ、と綴町が腑に落ちた表情をする。どうやら気付いたようだ。オウマはそれを察し、肯定する。
「――――そう。俺はあの時、『財布が盗まれた』とは言ったが、『誰の』財布が盗まれたとまでは言っていなかった。なのにミクは、一直線に山無の元へと向かった」
「なるほど……、誰が被害に遭ったか分かってなきゃ、できない行動ってわけだね」
被害者の心理面を気にかけて行動する、そんな教師然とした振る舞いが、皮肉にも疑いの目を向けられる結果となってしまった。
でも、と綴町は指を立てて、
「あの時、山無さんは自分の財布を探していた。そんな姿を見れば、誰が盗まれたかなんて一目瞭然じゃない?」
それは抵抗ではなく、自らの疑いを強めるための誘導のように感じられた。
もはや綴町は、反論しようという気持ちすらないようだった。
そして彼女がそれを望んでいる以上、オウマは追及しなければならない。難しいことはない、あの時の光景を思い出せば容易に答えは出る。
「それは有り得ない。だってあの時、クラス全員が財布の捜索に当たっていて、一見して山無が被害者だとは分からない状況だったからだ」
「うん、そうだね」
あっさりと認めて、綴町が満足した風に頷いた。
「もっと言えば、ミクは真犯人の条件に当てはまっている。一つが教室の鍵を入手できること。俺はてっきり女子生徒の誰かが教室に戻ったんじゃないかと思ってたけど……、そんなリスクを冒すよりも、もっと単純な手段がある」
「職員室にはスペアキーが用意されている。教師である私なら、それを持ち出せても不思議じゃない、か」
「それと、山無の財布が入れ替わっていたことだ。黒から赤へと財布が変わったことを確定で知っているのは、土日に練習をしていたサッカー部員だけ。……当然、女子サッカー部の顧問であるミクにだって、知る機会があったはずだ」
「そう。練習前だったかな、嬉しそうに他の部員に話してたよ。それを仮にも盗んだのは、本当に申し訳なく思ってるよ」
彼女の外にもまだ容疑者はいる。けれど、本人が自白している以上、真実は覆るはずがない。
綴町はブランコへと腰かけて、憂鬱そうな表情を浮かべる。