第一章②
よくよく考えると、私は法学部でした。教育学部のことまったく知らない状態なんですが、大丈夫だろうか。
大学構内で最も人が密集するのは、何を隠そう食堂である。特に十一時から十三時までの混雑具合は凄まじいの一言だ。座る席を確保するのも至難の業である。
逢魔の通うKO大学の食堂は古くからあるらしく、何度か改修が為されているとはいえ手狭であることに変わりはない。座り心地の悪いプラスチック製の椅子が置かれた長テーブルの列。白いエプロンとヘアネットを身につけた食堂スタッフは、エンドレスな忙しさにどこか不機嫌な雰囲気を窺わせている。
「へえ、逢魔には妹がいたのか。しかも義妹。なんと心躍るワードなことか」
運良く席を確保できたオウマは、大学入学以来の友人である陽目葵と共に昼食を取っていた。昨夜の一連の出来事を大まかに説明した上で、陽目の第一感想がそれである。
オウマは分かっちゃいない、とでも言いたげに首を振った。
「義妹なんてポイント高いと言われてるのは二次元の世界だけであって、現実だとむしろマイナス査定だぞ? 実の家族を最も近い赤の他人と呼ぶ奴もいるのに、それが義理となればもっと遠い存在になるだろ」
「マジで? ラッキースケベとか起こらないの?」
「起こらん。むしろ寝る時に女の歯軋り聞くと妙にがっかりするぞ」
今朝起きてから、京子は一度家に帰ると言い残して先に家を出た。昨夜の彼の思惑通り、美和子と話し合いに向かったのだろう。そうなればもう彼女がオウマの自宅を訪れることもなくなるはずだ。
一度は落胆しかけた陽目だったが、すぐに気を取り直してさらに議論を重ねる。
「いやでも、家出少女って良い響きじゃないか? エロいこと起きそう!」
「残念、それでも相手が義妹という時点でアウトだ。好感度が足りない!」
「どんだけ家族のこと憎んでんだよ……」
オウマが家族と仲が悪い、ということは知っている陽目も、ここまで筋金入りだとは思いも寄らなかったようだ。聞いていて楽しい話でないため、彼は決して他人に打ち明けようとはしないのである。それがたとえ親友であろうとも。
「何より義妹は高校生だ。不純な気持ちを抱いちゃあ教育実習もやっていられんだろ」
そうだよなあ、と陽目はセルフサービスの熱いお茶を啜る。時期的に冷たいお茶を選ぶべきなのだろうが、彼はお腹がすぐ緩くなるそうなので冷えるものはできるだけ控えているのだ。
五月になって教職を志す彼らは、当然教育実習を行わなければならない。期間としては半月以上で、先達からの助言では「死ぬほど忙しい」そうだ。人間忙しさで吐き気を催すことを知ったらしい。聞いているだけで超怖い。
高校教師を目指すオウマと陽目は、既に出身高校への受け入れが決定している。それに伴い事前準備に最近は大忙しであった。スーツのサイズが合わなくなっていたり、そこの生徒たちが使っている教科書に目を通したりなど、今から目が回ってしまいそうだ。
他の大学生たちが目まぐるしくテーブルの回転率を上げていることを尻目に、陽目は思い出した風に言った。
「そう言えばさ、今日だっけ。お前がミク先輩と会うの」
「ああ。夜の八時に待ち合わせしてるよ。何なら一緒に来るか? 葵も最近会ってなかったろ?」
「……止めておくよ。馬に蹴られそうだし」
? と首を傾げるオウマ。ぼそぼそとか細く言われたもので、特に後半何を言っているのかさっぱり聞き取れなかった。
聞き返そうと思った矢先、陽目は唐突に席を立ち上がって、
「やっべ! ゼミんとこに顔出すの忘れてた! 急ぐからまた今度な!」
「おお、じゃあな。実習後にまた会おうぜ」
ピューッ! と風の如く陽目は去って行った。実習先で廊下を走って注意されるようなことがなければいいが、と少し不安に思うオウマであった。
さて、とこれからどうするか思考を巡らせる。さすがに教育実習まで残り数日というところで慌てるほど間抜けでない。とうに準備を終えて、当日を待つばかりである。卒業論文をやろうにも、目の前に大きなイベントがあるのだから到底身が入らない。
そこへプルル、と入電が来る。何のメロディも設定していないので侘しいコール音だ。ちょうどスマホを弄っていたので直後に通話主の名前が分かった。
『通話』にスライドさせ、耳に当てる。
「もしもし? ――久しぶりですね、綴町さん」
『――――悪いが、そのムスメは預かった。返してほしくば、身代金十億円用意しろ』
刹那、物騒な台詞が飛び込んできた。だがその声はボイスチェンジャーのような低い機械音ではなく、鼻を押さえただけの間抜けな声音だった。
オウマはドキリとすることもなく、半ば突き放すように返した。
「あーはいはい。今小銭しかないんで、百円でいいっすか? ないなら風呂屋にでも沈めてかまわないんで」
『えっマジ? 私の扱いぞんざい過ぎ……!? ごほん、いいのか? 本当にやっちゃうぞ? 後悔しても遅いぞ?』
「仕方ないことですから……。あ、言伝お願いしますね。風呂屋に就職したら通うんで、精々頑張ってくださいと」
とことん冷たくあしらってやると、自称誘拐犯は痺れを切らしたように唸って声を生来のものへと戻した。どこか蠱惑的な響きを持つ、それでいてお気楽そうな声質であった。
『あーもう! も少し先輩に対する愛情を持ってくれてもいーんじゃない? それかリアクションを大きくするとかさあ』
「いやだって俺、芸人じゃないからそういうの振られても困りますし」
生真面目に返すオウマに、彼女――綴町未来子は苦笑した。彼女はオウマの二つ上の先輩であり、彼の研修先である高校の現教師でもあるのだ。
『てかぶっちゃけさあ……、私が誘拐されたらどんくらい出せる? 細かいツッコミはなしで』
たっぷり三秒ほど悩んで、
「うーん…………、三十万くらいですかねえ」
『おおう。思ったより現実的な数字が返ってきてショックだよ……』
「いやあ、お金ありませんもの。犯人もこんな貧乏人相手から大金せしめようなんて、砂場で石油を掘り当てるくらい無茶な話です」
『そーゆーのを細かいツッコミというのだよ』
彼としては最大限の金額を提示したつもりだが、彼女はいまいちお気に召さなかったようだ。『君の命、プライスレス』的な言葉は二十歳を過ぎると途端に言えなくなるものである。恥ずかしいしね。
綴町は「まあいいや」と即座に話を切り替えて、
『ところで、今日の店押さえてる? 任せっきりだったけれど』
「いつもの居酒屋ですよ。そこまで気を使わなくてもいっかなって」
『ひでえ。百年の恋も一気に氷点下にまで落ち込みそうだよ』
「えっ。今の褒め言葉でしょ?」
オウマにとって変に気を回さなくていい、というのは嫌味ではなく最上に近い賛辞だった。だからこそ彼は今もこうして親しくできているのだ。
きょとんとした態度でのたまった後輩に、綴町はどう反応していいか困った風な吐息を漏らした。まったくこの男は、と小さい呟きが聞こえたような気がした。
『まーいいや。私、今日は七時くらいには終わりそう――てか終わらせるから、いつものとこなら八時前には着くよ。いいかな?』
「そちらに合わせますよ。先輩を優先するのは当然のことです」
『気持ち悪っ。大丈夫? 転生した英国紳士にでも乗っ取られた?』
「どうしてそこまで気味悪がられなきゃなんないんですか……」
目上を敬うだけの度量の片りんを見せただけでこれである。居酒屋も彼女の学校に近い場所を指定したというのに、あんまりな反応だ。
不意に綴町が電話越しに誰かと応対する気配が窺えた。恐らく学校関係者に話しかけられたのであろう、送話器の部分を軽く手で覆っているようでザ、ザとくぐもって聞こえる。ややあって、彼女は早口で捲し立てた。
『ごめん! ちょっと火急の用が入ったからもう切るね!? あんのクソ禿――――ッ!!』
大丈夫かな? と心配する暇もなく電話は切れてしまった。綴町はそう約束を破ることはないから、時間までには来てくれるだろうが。
ともあれ、今のオウマには他に解決すべき問題がある。
「約束まで残り七時間……。どうやって過ごそうか」
筆記試験や面接対策をすればいいじゃない。とは言うのは容易くとも実際に実行に移すのは困難だ。先ほどの通り、教育実習が目の前に控えていると他のことになかなか身が入らない。
他の食堂利用者から「お前食ったなら早くどけよ」という敵意剥き出しの視線を感じたオウマは、ひとまず逃げ出すようにして食堂から出て行ったのであった。