第四章③
夕方になって、オウマは未だ職員室に残っていた。
京子の無実を証明するためだったとはいえ、本来の業務が疎かになってしまったのである。そのため予定していた部活動見学をキャンセルし、その日学んだことを記載する実習日誌を書いたりしていたのだ。
午後は立て続けに見学予定が入っていたので、どうしてもそっちにかかりきりになってしまった。故に捜査はあれ以降進展していない。一応脳内会議を開いていたが無意味に終わっている。
「終わった?」
と頃合いを見計らって確認してきたのは指導教員でもある綴町だ。実習日誌は最後に指導教員に提出しなければならないため、オウマの遅れが彼女の遅れへと繋がってしまうのである。
「一応……。すいませんね、先輩まで巻き込んだみたいで」
「いいって。元はと言えば私が力になるように促したんだし」
綴町が冊子に大まかに目を通し、自分の机の上に放り投げた。一言一句確認していたら、それこそ日が暮れてしまう。こういう時彼女が指導教員で良かったと思う。
彼女からオッケーサインを得て、帰宅するべく鞄に手を伸ばす。今日は綴町と一緒に帰れそうだった。いくつか相談したいこともあったから、都合がいいと思った。
オウマが彼女の方を向いて言う。
「さて、帰りましょうか」
「うん……。ねえ、ちょっとだけ寄り道していかない?」
彼の顔色を窺うようにして、綴町が問いかけてきた。
「いいですけど……これから飲みに行くんですか?」
「違うよ。ただほんのちょっと、校内を見ていかないかなと思ってさ」
随分変わったお誘いである。かつて不働高校に在籍した二人にとって、校内のあらゆるところを知り尽くしている。少なくとも観光気分で回る場所ではない。
少し悩んでから、オウマは頷いて答えた。
「……分かりました。見回りがてら、歩きますか」
しかし彼は承諾した。その真意を確かめたかったのも理由の一つだが、久しぶりに見て回るのも悪くないと思ったからだ。
職員室を出て、目的地も決めずに校内を徘徊する。それらに思い出が染みついており、何だか楽しい気持ちになる。肩を並べて歩く綴町もまた、同じことを思っているようだった。
「一年B組かぁ。ここで私はキミと出会ったんだよね」
「出会ったというか、先輩が押しかけてきたんですけどね。自己紹介で外した俺を笑いに、わざわざ足を運んで。デリカシーないな、と思いましたよ」
「ところが、デリカシーに欠けていたのは誰よりもキミ自身だったわけだ」
その教室で一旦足を止める。もう施錠されて入ることはできないが、思い出に踏み入ることはできる。もしも自分が真面目に自己紹介をしていれば、綴町と出会うことはなかったかもしれない――――そう思うと、人生とは偶然に満ちている。
本棟を抜けて、体育館に隣接している食堂まで辿り着いた。ここではあまり綴町と会話を交わしたことはなかったはずだ。何故なら、お互いに他の友達がいたので、専らその友達と昼食を共にしていたからである。
ここは彼女との思い出が薄い、と即座に別の場所を回ろうと足を向けるが、綴町は懐かしむように目を細めて、食堂を眺めていた。
「先輩?」
「……いや、ここも私はよく覚えているよ」
「へえ。俺もここで売られていた、期間限定の惣菜パン好きでしたよ。争奪戦になるのが玉に瑕ですが」
「そういうんじゃなくて、キミ、ここでよくワイワイ友達とご飯食べてたでしょ? いっつもお弁当を食べてたよね」
その弁当はオウマが自ら早起きをして作ったものだ。義母が一時は京子の分と合わせて作ろうとしてくれていたが、彼はその受け取りを拒否していた。今思えば、扱いに困る子どもだったに違いない。
オウマは虚を突かれた思いになる。
「……よく知ってますね。俺、ここで先輩と食べた記憶があんまりないんですけど」
「そうだったね。でも目立っていたから、自然と目に入ってきたよ」
「そんなに目立ってましたか?」
「うん。……いや、目立っていたんじゃなくて――――私が勝手に、探していたから」
その気持ちは何となく分かる気がした。オウマも校内にいると度々、綴町の姿を無意識に探していた。用事があるわけでもなく、話したいことがあるわけでもない。ただ何となく、彼女を目で追っていたのだ。
少し照れくさくて、彼は顔を背ける。
「せっかくだから、もう少し一緒に食べればよかったですね」
「……そうだね。斗真のおかずは美味しかったから、もっと交換したかったなあ」
それからも色々なところを見て回った。ちょっとした探検気分で、子どもの頃に戻ったみたいだった。下校時刻が迫っているということもあり、校内にほとんど生徒の姿は残っていない。ともすれば不気味とさえ取れる静寂が、学校に満ちていた。
けれど不思議と、今はそう感じることはなかった。一人なら物音一つで絶叫していたかもしれないが、多分、綴町が隣にいるからだろう。
感じ取れるのは輝かしい思い出ばかりで、そこにいつもチラつく父の姿はない。
久しぶりに、心安らぐ時間だった。
粗方校内を探索し終えた二人は、どちらが言い出すこともなく校門から外へと出た。沈みつつある夕陽が半分山に隠れているのが真っ先に目に入った。
思わず嘆息を漏らす。
「すっげえ夕陽……。昔からこんなんだったか?」
言いつつ、漠然とながら察してしまう。
何故、綴町が校内を見て回ろうと誘ってきたのか。
――――ただ彼女は、戻りたかっただけなのだ。
今となっては戻ることのできない、あの輝かしい日常へ。
毎日のように共に歩いた、この登下校の道は、その最たるものだった。何者にも邪魔されない、二人だけの時間。過ぎ去っていくのを惜しみながらも、次の機会を心待ちにしていた時間に、戻りたかっただけなのである。
夕陽に目が眩んだのか、オウマはそっと手で瞼を覆う。
「眩しいなぁ。……本当に、眩しい」
「うん……」
彼女もまた、俯いて夕陽から目を逸らした。
嘆いていても、時計の針は巻き戻らない。悔やんでいても、今を生きることしかできない。
――――だからこそ、今だけは。
「…………」
二人は自然と、手を繋いでいた。
教員や生徒に見られるかもしれない、なんて余計な危惧を挟むことはしない。
だからこそ今だけは、あの頃に戻りたかったのである――――