第四章 愛を語るには遅すぎた
就活しんどいです
家族の在り方に疑問を抱き始めて、京子はいかに自分が愛されているのかを知った。無論それは、兄と自分とを比べて弾き出した結論だった。
兄が大学入学に際して家を出て行き、まるでつっかえが取れたように父が明るくなったのを覚えている。実の息子が家を去って、何が嬉しいのか皆目見当が付かなかったし、理解したいとも思わなかった。
父のことは嫌いではない。大好きだし、尊敬もしている。毎朝見送る父の後ろ姿を、常に頼もしく感じていた。彼女にとって父は、何ら不足のない完璧な父だったと言える。
――――だからこそ、何故兄をそこまで冷遇するのか、本当に分からなかった。
それを問いただしたのは、兄の下宿先に押し寄せたまさに当日であった。キッカケは夏休みに旅行に行こう、と父が提案したことだった。京子は「兄も一緒に連れていこう」と言った。離れていても家族なのだから、当然の話だ。
それを聞くと父は、急に顰め面になって「あいつの話をするな」と突き放した。カチン、と来たのはそれが原因だ。ただ正論をぶつけ、それはおかしいと糾弾した。親に対して怒鳴り声を上げたのは、これが初めてだったと思う。
母は仲裁することもなく、黙って京子の言い分に耳を傾けていた。母にも思うところがあったのかもしれない。
父もまた、反論することはなかった。母とは違い、自らの言い分を言語化できていないように見受けられた。そんな曖昧な理由で辛辣に扱っていたのかと思うと、なおさら腹が立った。
しばらく糾弾し続け、いくらか冷静さを取り戻した京子は自室へと引き返そうとした。その途中――隣の部屋の前で立ち止まった。そこは兄が使っていた部屋だった。
興味本位で中を覗いてみた。内装は兄がいた頃と変わらず、整理整頓されていた。三年ほど経ったにしては埃っぽくなかったので、多分母が度々掃除しているのだろう。
京子は好奇心に押されて、兄の部屋を物色することにした。とはいえ、出て行く際に私物は持ち出したようで、大したものは残っていなかった。兄が集めていた漫画も、ファッションに無頓着な兄らしい簡素な私服も、全て消え失せていた。
何の気なしに勉強机の引き出しを開ける。するとなんと、古いノートが一冊残されていた。引越しの際に忘れていったのだろうか。表紙には『料理ノート』と書かれていた。兄は料理上手だったので、試した料理レシピを書き記しているのだと思い、ペラッと頁を捲る。
読んで、後悔した。――――その内容とは、兄の産みの親である実母が書き記したものだったのだ。これは本来自分が読んでいいものではない、と直感で察した。
実母の得意料理が、丁寧な解説とともに載っている。それは子どもでも分かるような文章だったので、彼女が息子へと書き残したものだとすぐに分かった。
相当読み込んだのだろう、ページの端がボロボロになっていた。時折濡れたようにシワが寄った部分も窺えた。兄にとってこのノートは、単なる参考書ではない。今は亡き母との思い出を記したノートだったのだ。
京子は再度、ノートを引き出しの中へと封印する。彼女の中で、先ほどまでとは部屋の印象ががらりと変わっていた。整えられた部屋が一転して、空虚さを覚えるほど空っぽに見えた。
その時京子は、ようやく自らの罪深さを理解したのである。
自分には父に対し激高する権利など持ち合わせていないことに。自分だけが満たされている間、兄はずっとこの空っぽな部屋に閉じ籠っていたのだ。
京子も、両親も、等しく愚かで怠惰だった。
家出を決意したのはこの時だ。家を出るのが目的ではなく、兄の家を訪れるのが目的なのだが。ともかく京子は兄を一人にしておけないと感じたのである。
夜中だったことも関係ない。兄に連絡もなしに向かったことも気にならなかった。京子はただ、兄と『家族』になりたいと思った。
過ぎ去った時間は戻らないけれど、せめて未来では兄と笑い合っていたい。
押しつけがましいかもしれないが、それでも居ても立ってもいられなかった。
しかし、蓋を開けてみればどうだ。
自分は昔と何ら変わらずに、今なお無力なままだった。