⑥
京子を保健室へと送り届けたオウマは、ひとまず外へ出て待つことにした。養護教諭の邪魔になっては悪い、と配慮したのである。
過呼吸なのでそこまで大事に至らないとは思うが、心配になる気持ちは抑えられない。彼は忙しなく保健室前をウロウロしていると、
「オウマ先生」
いつの間にか接近してきていた綴町に話しかけられた。
確か彼女は今の二限帯は二年B組で授業をしているはずだが、担当クラスの京子の様子を見に来たのだろうか。
「それで、どう? 護国寺さんの容体は?」
「一応大丈夫的なことを言っていましたし、そこまで大事にはならないと思います」
「そっか……。なら良かったけど」
綴町はホッとした風に胸を撫で下ろした。
「ところで……クラスの様子はどうです?」
「うん……皆混乱してるみたい。ひとまず自習にしておいたけど。まさかまさか、って事件だしね。それを起こしたのが護国寺さんかもってのも、それを助長してるんだろうね」
事件が広まるのは時間の問題だろう。そうなればもはや京子は学校にいられなくなる恐れがある。窃盗の犯人として処分が下るのはもちろん、雰囲気的にも。
そもそも、本当に京子が犯人ではないのか、という話になる。まだ詳しい調査をしていないからはっきりしていないが、今のところ最も疑わしいのは京子に違いない。
ねえ、と綴町が躊躇いがちに声をかけてくる。
「キミは今回の件、どう思っているの?」
どう思っているのか、とは即ち、『護国寺京子を犯人と見ているのか』どうかということだ。
改めてそう問われ、オウマは内なる自分に耳を澄ます。客観的に見て京子が犯人と思しき状況なのは確かである。では、主観的に見てはどうか。
彼の知る京子像とは、真面目で誰かに対し優しくできる人間だ。再会して数日ではあるが、それは痛いほど理解できた。そんな彼女が、誰かの迷惑となることを為せるとは到底思えなかった。
また付け加えるなら、京子は金銭的に困っているようには見えない。父がそれなりに稼いでいることもあり、お小遣いに不自由しているはずがないのだ。ましてや娘を溺愛する父が、彼女に不足を感じさせるとは思えない。
考えて、オウマは自らの答えを弾き出した。
「――――俺は、京子が犯人だとは到底思えません。偶然が重なったのか、それとも第三者に嵌められたのか……定かじゃありませんが」
「…………、」
そう告げられて、綴町は眉間を押さえて考え込む仕草を作った。
間もなくして彼女は決めた、と小さく頷く。
「だったら、キミなりにこの件を追ってみるといい。予定してた私の授業見学は欠席していいから、満足いくまで調査するといいよ」
「デカチョウ……」
「デカチョウじゃないし。私も自分のクラスには緘口令敷いておくから、短くても数日は時間稼ぎができるでしょう」
今回の一件が物盗りである以上、学校側は何らかの処罰を下さなければならない。現状は『事実関係を明らかにするため』などと言えば結論を遅らせることができるものの、そう長くは持たないだろう。
(できれば明日までには解決しておきたいところだ。少なくとも、京子への疑いだけは晴らしておかないと……!)
そう意気込んでいると、ダダダッ! と廊下を駆ける音が響いてきた。
廊下の奥から走り寄ってくるのは、京子の親友である飯島遥だった。
「先生っ! ……私が、私が犯人なんですっ!」
「「ええええええええええええええええええええええええっ!?」」
捲し立てるようにそう言った飯島は、呼吸を乱しているのもお構いなしで続ける。
「だから、京子は犯人なんかじゃないんです! 私がやったんですから、そうに違いありません!」
この時点で薄々勘付いてしまう。飯島はただ、京子を庇いたい一心なのだと。
美しい友情だが、まさかそれを鵜呑みにするわけにもいかない。
(ひょっとしたらそれが狙いで……? いやいや、いくら何でも疑心暗鬼になり過ぎだ。犯人探しとなると、途端に全員が怪しく見えてくる)
オウマはブンブンと頭を振って、その邪念を払い除ける。
「飯島さん。それが嘘だって、すぐに分かるよ。自己犠牲の精神は美しいけれど、無闇にやっちゃいけないことだ」
「何で信じてくれないんですか!? 私が犯人だって言ってるんだから、それでいいじゃないですか! それとも昨日私が邪険にしたから、目の敵にしてるんですか!?」
「そうじゃない。それに俺だって、護国寺さんが犯人だなんて思っていない。だいたい飯島さんが庇ったとなれば、助けられた護国寺さんが悲しむ」
う、と言葉を詰まらせる飯島。京子の名前を出せば怯むはずだと思っていた。
親友が疑われて冷静でない彼女を、ひとまず綴町が教室へと連れ戻した。一人残されたオウマは、今後の捜査方針について決めることにする。
(京子への疑いを晴らすには、大きく分けて二つの方法がある。一つは真犯人を見つけること。もう一つは京子が白だと証明すること。後者の場合、真犯人を見つけることに焦点を当てないことがメリットだな)
状況にもよるが、犯人を見つけ出すよりも京子の潔癖を証明する方が容易そうだ。とりあえずその方向性で調査を進めることにした。
そこへ保健室から出てきた養護教諭が、京子の容体が落ち着いたことを知らせてくれた。オウマは頼み込んで、彼女と話をすることの許しを得た。
ベッドを取り囲む白いカーテンを開けると、京子は寝起きのように瞬きをしていた。安定したとはいえ、過呼吸に陥っていたのだ、思考がクリアになっていないのだろう。
けれど気遣ってばかりもいられない。どのみち疑いを晴らさなければ、京子の人生に大きな汚点を残すこととなる。オウマは用意された丸椅子に座り、彼女と目を合わせる。
「お兄ちゃん……?」
「よお。今の自分がどういう状況にあるか、理解できているか?」
「……うん。私、疑われているんだよね。亜子ちゃんの財布を盗んだ犯人として」
思ったより冷静な様子だった。最悪またもや過呼吸になるんじゃないかとヒヤヒヤしていたが。
自覚しているのなら話が早い。オウマは早速聞き取りをすることにした。
「そもそも、自分の鞄の中に山無の財布が入っていたワケとか、分かるか?」
「分かるわけないよ……。皆が一斉に持ち物チェックし始めたから、私も鞄を開けてみたら、見たことない財布が入ってたんだから」
「そこでフリーズしてしまった、と」
元から入っていたということは、財布を掲げた女子生徒が、手の中に隠し持っていた財布をさも鞄から取り出した風に装った、という説は消えた。マジシャンのような器用さがなければ難しいと思うが、消去法で犯人を絞っていくほかない。
誰かが山無の鞄から財布を奪って、それをわざわざ京子の鞄へと移動させた――――京子本人に悪意がなければできない芸当だ。少なくともお金目当てではない。
「誰かに恨まれてるとか、思い当たる節はないか?」
「ない! と思いたいけど……うーん。正直分からない。私は皆と仲良く接してきたつもりだけど…………」
人の腹の底が読み取れないのは仕方のないことだ。それを表面化させる人種と、ずっと抱えたまま過ごす人種がいるだけで、この世に悪意を持たれていない人間などいるのかどうか。
彼女自身が直接誰かを苛めていた、という風でもなさそうだ。そもそもそんなことができる人間には見えない。
次にオウマは、教室内で聞いたことについて尋ねることにした。
「そう言えば、京子は体育の授業中に一度教室に戻ったんだよな?」
「あ、うん。いつも髪を縛って運動してるんだけど、ついヘアゴムを忘れてて。それで先生に言って教室に戻ったんだ」
「教室に入るための鍵は?」
「鍵はハルちゃんが管理してるから、ヘアゴム忘れたーって言って借りたんだよ」
ハルちゃん、というのは飯島遥のことだろう。彼女はクラス委員のはずだから、鍵を預かっていても不思議ではない。
「教室で何か不審なものを見つけなかったか? 人影を見た、とか」
授業中だったのなら、出歩いている生徒などほとんどいないはずだ。必然、二年B組付近をウロウロしているなら、一気に容疑者に名乗りを上げることになる。
そんな一縷の望みに賭けて問いかけたのだが、京子は首を捻りながら、
「どうかなあ……。急いで戻らなきゃ、って思ってたから、あんまり周りを良く見てなくて……。でも、教室内には誰もいなかったよ」
「というか、そのヘアゴムはどこに置いてあったんだ?」
「机の上。着替える時にいつもは結うから、体操服と一緒に机の上に置いておくの」
その時忘れずにいれば、疑われることもなかっただろうに。
そうなると、京子は単純に運が悪かったのではないか、と思う。どっちにせよ、山無の財布が鞄に忍び込まれていることに変わりはなかっただろうが、ここまで疑われることもなかっただろう。
(京子が鍵を借りて教室に入り、その間に山無の財布を奪って自らの鞄に入れた……。正直なところ、無理のない結論だよなあ。どこにも矛盾なんて存在しない)
強引に矛盾点を挙げるのなら、『盗んだ財布を鞄に入れておくだなんて、犯人にしてはあまりに杜撰すぎる』と言うこともできるけれど、完全とは言い難い。『後で安全な場所に避難させるつもりだったが、予定より早くに発覚してしまった』と返されただけで詰む。
先ほど京子の無実を証明するだけなら簡単かもしれない、と思ったが、予想以上に困難だ。授業中という、最も目撃者の少ない時間帯での犯行だ。シンプルな事件だけに物証も乏しい。
うーん、とオウマが知恵熱を発症しそうなほど思考をフル回転させる様子を見て、京子は震えた声で言った。
「……どうして、お兄ちゃんは私を信じてくれるの?」
「ん?」
「だって、一度も聞いてこないじゃん……。『お前が犯人なのか?』すら、聞いてこない。何でそこまで信じてくれるの?」
潤んだ目で見つめられ、オウマは答えに詰まる。
何故、と問われても、自分の中に明確な指針があるわけでもない。探偵を気取りたいわけでも、単に面白そうだから首を突っ込んだわけでもない。おまけに、父と違って彼は京子を溺愛していない。赤の他人よりは話す程度だ。
彼女に対して複雑な思いを抱いていないと言うのなら、それはきっと嘘になる。
彼女が家庭内で明るく笑っている姿は、本来自分のものだったはずなのに、と思ったこともある。
自己分析をしても、京子を助けようとすることに確かな答えを示すことはできない。
だからオウマは、自らの感情を素直に吐露する。
「――――俺はただ、そうすべきだと感じたからだ」
あまりに言葉が少なかったため、京子は理解できていない風だった。
彼は続けて、
「俺の知っている護国寺京子は、決して窃盗なんかをする人間じゃない。そう思ったから、俺は動いているだけだ」
聞くべきことは聞いた。オウマは椅子から立ち上がり、ポンと京子の頭に手を乗せた。
「心配するな。仮にも兄貴だ。――――妹を守るくらい、難なくこなしてみせるさ」
そう言い残して、彼は保健室をあとにした。
振り返ることはしない。今はただ、誰かのために動くだけだ。




