⑤
唐突な推理要素。ですがまだトリック関係思い付いてません
――――それは唐突に訪れた。
七時過ぎに家を出たオウマは、いよいよ明後日に初めて授業を行うので、作成したばかりの授業予定を担当教員に添削してもらっていた。
一限目が終わり、京子たちのいる二年B組へと向かった。次の見学がその教室だったのである。音楽室のピアノを入れ替えているらしく、業者が慌ただしく動いていた。
今朝は京子を起こしてすぐに出て行ってしまったので、ちょっとだけ会うのが気まずいな、などと考えていると、
「――――私の財布がないっ!!」
女子生徒の悲鳴が窓越しに飛び込んできた。
(今のは二年B組からだ……!)
確かこのクラスは体育終わりで、今は女子が着替え中の可能性もあったが、彼は気にも止めずに勢いよく扉を開いた。
「何があった!?」
入ってすぐに教室を見渡す。声だけではどの生徒のものか判別できなかったため、いったい誰の財布が盗まれたのかは一見分からない。女子全員が着替え終わっていたのは幸いだったが。
とりあえずオウマは最も声のかけやすい京子の元まで歩み寄る。
「いったいどうしたんだ?」
「あ、おに……じゃなくて、オウマ先生! 実は亜子ちゃんの財布がなくなってるみたいで……!」
なるほど、先ほどの悲鳴は山無亜子によるものだったのか。
山無の方を見やると、彼女は懸命に鞄の中を漁って財布を探している様子だった。しかしあれほど騒ぎ立てたのだ、既に何度も見直しているはずだろう。
ざわざわ、と不特定多数の声による喧騒が広がる。その大半が「いったい誰の仕業だ?」という風な、俗に言う犯人探しの声である。
オウマは山無に話しかける。
「山無さん。財布をどこか別に落とした、みたいな可能性はないのか?」
「ううん、ないよ。だって私、着替える時にちゃんと財布を鞄の中に入れたって覚えてるもん!」
二年B組は先ほどまで体育の授業中だった。当然財布をグラウンドまで持ち出すわけにもいかないので、着替える際に鞄に入れておくことになる。ここまで強く言うとなると、山無にも強い確信があるのだろう。
そうなれば、財布の行方は――――
「ねえ、それだったら今、この場で皆の持ち物を調べてみればいんじゃない?」
この場にいる女子生徒のうちの誰かが提案した。そうだ、財布は高確率で何者かに盗まれた。そしてその犯人は、この教室内にいる可能性が高い。
しかし犯人捜しをすれば、その後のクラスの雰囲気は悪くなる。誰かを疑うとはそういうリスクを備えている。できれば止めたかったものの、どうやら「私は犯人ではない」と証明したい欲求が上回ったようで、我先にと全員が持ち物を机の上に取り出す。
身に着けているものから、鞄の中身まで。友達同士で調べ合っている者までいた。そうして一応疑いの晴れた者から、ロッカーの中などに隠されていないかを捜索し始める。
「――――どうしたの?」
クラス担任の綴町が扉の前で立ち尽くしていた。騒ぎを聞き駆けつけたのか、少しだけ息を切らしていた。
全員が捜索に夢中になっている中、オウマが今来たばかりの彼女に状況説明をする。
「いったい何があったの? うちのクラスが騒いでるって聞いたんだけど?」
「実は、何者かに財布を盗まれてしまったみたいで……」
何だか大事になりつつあるみたいだった。漠然とだが、職員室にまで情報が届いているとは。
それだけ聞いて綴町は被害者の山無に声をかけに行った。ショックを受けている彼女を励ましに向かったのだろう。
「あ――――」
つい言い漏らした、と言わんばかりの、力のない声。
それが不思議と全員の注目を引いた。オウマもまた、その声の主を目で追ってしまう。
「な…………!」
オウマは驚きで言葉をなくす。――――その声の主とは、京子のことだったからだ。嫌な予感が全身を駆け巡る。
京子の近くにいた生徒が、何やら下に視線を落とすと、不意にしゃがんで姿を消した。おそらく京子の鞄を探っているのだろう。
「え、ちょっと、これって…………っ!?」
その生徒は掲げるようにして、手にした『それ』を見せびらかす。『それ』は見て分かる通り財布だった。赤色の、カジュアルなデザインの財布である。
山無の目がそれに釘付けになる。
「間違いない、それ、私の財布だ……」
信じられないといった風に、彼女は京子を見つめる。友達だと思っていた京子の鞄から、財布が見つかったのだ。信じたくないというのが本音かもしれない。
一転して、今度は京子へと視線が注がれる。当事者からすればゾッとするほどの、冷たい視線。彼女はようやく我を取り戻す。
「ち、違う! 私は――――私は犯人じゃない!!」
悲痛な叫びだった。聞いている側に訴えかけるような。
しかしそれがどれほど周囲に効いたことだろうか。『犯人の言い訳』と決めつけて見ている以上、生徒たちの胸にはまるで届かない。
オウマは唖然として、まったく状況判断が追い付いていない。山無の財布が、京子の鞄の中から見つかった。つまり今、京子が財布を盗んだ張本人ではないか、と疑われているのだ。
冷静になってみると、この憶測には穴が多いことが分かる。たとえば誰かが悪意を持って京子の鞄に財布を投げ入れて、陥れようとしているのかもしれない。その可能性だってある。
一旦周りの疑いを和らげようと、声に出そうとするが、生徒の一人が呟くようにして言った。
「そう言えば、護国寺さん。体育の授業中に、一度教室に戻っていたよね? 鍵を貰って」
「あ、あれはヘアゴムを取りに行ってただけで……!」
当然体育の時間中、着替えに使った教室は施錠することになる。そしてその鍵は、女子のクラス委員が預かることになっているのだ。京子はヘアゴムを忘れたことに気付き、教室に戻るために鍵を借りたのだろう。
つまり、密室となっていた二年B組の教室に、京子は入ることができたということだ。
間違いなくその機会があった、という事実はさらに疑いを強めてしまう。京子もそれに気付かないほど鈍感ではない。
彼女は突然胸元を押さえ始める。呼吸が浅く、速くなり、途端に苦悶の表情を浮かべる。やがて立っているのも困難になったのか、崩れ落ちる風に倒れてしまった。
「――――京子っ!」
真っ先にオウマが駆け寄る。床の上で丸くなって、未だに呼吸を荒げている京子の上体を抱き抱える。
(この症状は過呼吸……。多分、極度のストレスで患ったんだろう。ともかく、落ち着かせないと)
何かで読んだことのある対処法に検索をかけながら、彼はなるべく優しい声音で話しかけ
「いいか、京子。ひとまず呼吸を止めるんだ。十数えるから、その間は止めていろ。いいか、十、九、八――――」
とにかく呼吸を落ち着かせることに終始する。五分ほど処置を施すと、ようやく過呼吸が和らいだようなので、今度は華奢な彼女を背負って保健室へと向かう。
「大丈夫……大丈夫だからな、京子」
オウマは言い聞かせるように、何度も繰り返し呟いていた。




