第三章 犯人じゃない
間が空いてすみません。
『――――君が自己紹介で見事に滑ったという生徒だよね?』
それが、綴町未来子との出会いだった。
どこから聞きつけたのか、わざわざ一年生の教室にまで駆けつけた三年生の彼女は、ちょっぴり傷心中のオウマにそう言ったのだ。
デリカシーのない人だ、と思った。お前が言うなと突っ込まれそうだが、当時のオウマはさほど冗談を言う性格ではなかった。センスの悪い冗談を言うようになったのは――――そう、綴町に笑ってほしかったからだ。
たとえ拙いジョークであっても、彼女ならツッコミを入れるなりして会話を広げてくれる。彼女との会話は楽しい。家で誰かと話すなんて、京子以外いなかったからとても新鮮であった。その京子も、頻繁に話す機会はなかったが。
惹かれていたのだ。
恋焦がれていたのだ。
この人だけは自分の手で幸せにしたいと――――そう願うほどに。
最も鮮明な記憶は、毎日のように共に歩いた下校時の景色。夕陽が紅く照らしてくれて、煌びやかに補正をかけてくれたことも一因としてあるだろう。何気ない会話も全て輝いてみえた。
彼女とは付き合ったこともある。確か綴町が卒業する日に告白したはずだ。「もう少し早くしてくれたら、一緒に高校生活をエンジョイできたのに」と、小言をいただいたがOKしてもらえた。
彼女がそのまま大学生となっても、二人の関係は変わらなかった。互いに時間を調整して、何とか会う機会を作ったのは微笑ましい思い出だ。家が近いこともあって、会うこと自体に困難はなかったが。
オウマが脱童貞をしたのは、高校二年生の時だった。場所は綴町の自室で。踏み切るキッカケは何だったか、ともあれ些細なことだったのは間違いない。心身共に満たされる感覚は、何よりも得難いものがあった。
その後彼は必死に勉強して、何とか同じ大学・学部に合格することができた。当然、一緒にいられる時間は増える。それは即ちオウマにとって、幸せな時間が増えるのと同義だった。
――――しかし。
その一方で、彼はどこか罪悪感を抱いているのを自認していた。
何故だ? と自問しても、答えは返ってこない。浮気をしたとか、風俗を利用したとか、そんなことは一度たりともしていない。そもそも風俗を利用したのも、綴町と別れてから知り合いの先輩に奢らってもらった数回のみだ。
後ろめたいことなんてない、と思い込もうにも、心の穢れは拭い去れなかった。
その気持ちは次第に、綴町に心配をかけるレベルにまで膨れ上がってきていた。
どれだけ気丈に振る舞っても、彼女はそれを見透かしてくる。深く想ってくれているのだと思うと嬉しいけれど、自分が重荷になっているのではと考えてしまいそうになった。
そんな、ぎこちない日々が続き――――ようやく気付いた。
逢魔斗真は、綴町未来子に対し母の影を重ねていることに。
母親を早くに亡くした彼は、彼女に知らず知らず母性を求めていた。本来注がれるはずだった愛情を、綴町のそれで代用しようとしたのだ。
絶望した――――何故ならオウマは、綴町のことを見ているようで、実は母を重ねて見ていただけだったのだから。
未だ母の死に直面し切れていない自分が情けなくて、綴町を代用品と捉えていた自分が憎らしくて。彼女に対する愛情が偽物だったことが――――どうしようもなく、悲しかった。
綴町を愛していなかったと言えば、それは絶対に否である。
ただ愛していたかと言えば、今となっては僅かに迷ってしまうだろう。迷って、『愛している』と答えるけれど、オウマはその『僅か』がどうしても許せなかった。
別れ話を切り出したのは、それに気付いて間もなくだった。理由について聞かれたけれど、答えることなんてできなかった。最後の最後で彼女を曇らせたくなかったのだ。そして綴町もまた、それ以上追及することをしなかった。聡明な彼女のことだ、薄々気付いていたのかもしれない。
別れ話がトントン拍子で済んで、彼女が彼の家から立ち去ろうとした間際、背を向けたまま尋ねてきた。
「斗真は――――寂しくないの?」
寂しい、と反射的に口が動いてしまいそうになるのを、魂を擦り減らして堪える。
そんなことを口走ってしまえば、また自分は彼女にとっての重荷になってしまうのではないかと思うと、死んでも口にするわけにはいかなかったのである。
愚かな自分が、素晴らしい彼女を縛るようなことはあってはならない。それが彼に示せる精一杯の愛情表現だった。
「どうか、幸せになってほしい。それが俺にとっての、何よりの幸せだから」
答える声はなかった。
ただスン、と小さく鼻を啜るような音がした。
この時綴町が何を求めていたのか、オウマは見て見ぬフリをしていた。
愛を知らぬ男が、誰かに愛を与えるなど――――できるはずもなかったのである。
それ以降、彼女は変わらず接してくれた。恋人関係ではなくなったけれど、友人関係を継続できたのは幸いだった。もはや彼女のいない日常など、想像できなくなっていたところだ。
特にギクシャクすることもなく、月日だけが過ぎていった。
「ん……」
重い瞼を持ち上げる。ゆっくりと上半身を起こした。
壁にかかった時計を見やると、まだ五時半前だった。最近眠りが浅いのか、早く目が覚めてしまう。これは生活習慣が変化したことに関係しているのか。
「ってか、最近夢見すぎだろ、俺……」
そう独りごちる。どれも昔の記憶ばかりなのは、間違いなく京子と再会したからだろう。懐かしい顔を見ると、思考もそっちに引っ張られてしまうのだ。
寝癖のついた髪を掻く。二度寝はできない。もし寝てしまうと、最悪遅刻してしまう恐れがあるからだ。今日から教育実習だ、始めからしくじるわけにはいかない。
ひとまずシャワーを浴びようと、二日連続でオウマは浴室へと入っていった。
――――輝かしい思い出だった。
夕陽が如く、何もかもが輝いて見えた時代。それはきっと、綴町未来子がいたからであろう。彼女が隣にいたから、自然と世界は明るく見えたのだ。
夢とはつまり、過去を懐かしむ映像のようなもの。素晴らしい記憶も、消し去りたい黒歴史も、全てランダムで平等に映し出される。
ただそれらは突拍子もないことを除けば大抵過去にあったもので、今では手に入らないものだ。
今では手に入らないからこそ、過去の思い出に縋るのである。夢が作為的でなく、無意識的に抽出されるものだからこそ、それは何より本質に近い。
――――つまり。
図らずもオウマは、この金色の思い出を今では再現できないことを、悟っていたのである。




