第二章⑦
不働高校の最寄りにあるファミレスを、オウマたち三人は訪れていた。未成年がいるので禁煙席を選んだ一行は、各々がメニューを見て何を注文するかを決め始めた矢先、オウマはあれ? と首を捻った。
彼の隣に座る綴町が、メニューを覗き込んでくる。
「どしたー?」
「いや、これ。こんなメニュー、俺がいた時にはなかったなって」
「どれどれ?」
「これですよ。『大人のお子様ランチ』ってやつです」
指差す。あまり推されていないらしく、ページの隅っこに件の文字と簡素な写真が一枚だけ貼られていた。
山無も興味を惹かれたようなので、彼はテーブルの中央に置いた。というか、各自が持つメニュー表で見たらいいのに、と思った。
山無がホントだ、と口を開いた。
「こんなのあるんですね。友達と来た時も見逃してましたよ」
「私も知らなかった。……うーん、写真だけじゃ何とも分かりづらいね」
通常のお子様ランチと言えば、チキンライスにハンバーグ、エビフライ、ナポリタンなどが思い浮かぶが、あえて『大人の』と形容している以上何らかの特徴があると考えるべきであろう。
チェーン店なら存在するはずのないメニューでも、個人経営のファミレスならではの遊び心が読み取れる。普通と逸脱したものを見つけると、異様に関心を抱いてしまうのはオウマだけではないはずだ。
彼が悩んでいる間にも、他二名は早々にオーダーを決めていた。
「私はスパゲッティーミートソースにしようっと。ミク先生は?」
「私は……うん、この若鶏のグリルにしようかなあ。単品でスープも付けよ」
「俺、俺は…………!」
気分的には断然ハンバーグである。チーズインハンバーグにしたい。他人の財布だからと、ライスを大盛りにしてデザートにパフェを頼みたい!
しかし、心は――――本能は、『大人のお子様ランチ』を頼めと囁いてきている。その気配を察したのか、山無は呆れた風に息を吐いた。
「男は度胸ですよ。いいじゃないですか、『大人のお子様ランチ』。オウマさんにピッタリです」
「どういう意味かなそれは?」
「外見は大人だけど、中身は子どものまんまってことですよ」
出会ってまだ僅かだと言うのに、もう彼の本質に気付くとは……。なかなかの強者である。くす、と小さく綴町にも笑われてしまった。
言い返せないオウマは、せめて決断力だけは示そうと呼び出しボタンを押した。ここの支払いを受け持つ綴町が代表してオーダーを告げる。
「えっと……若鶏のグリルと、オニオンスープ。それとミートソーススパゲッティ―と大人のお子様ランチで。あ、追加で山盛りポテトお願いします」
店員は注文をオウム返しで確認してから、厨房へと戻っていった。
三者三様の料理だが、何だかんだ一番高いのはオウマのそれである。税込み一〇八〇円だ。
「考えてみると、お子様ランチって洋食屋でメイン張れるのが揃ってるから高くて当然ですよね。小笠原選手のいた頃の巨人軍的な」
「野球好きだよねえ、オウマは。私らはサッカーだから、いまいちよく分かんないや」
「私は知ってますよ。父が巨人ファンなんで」
「駄目だなあミク先生は」
「え、なに? これ私が批判される流れだったの?」
不満顔になる綴町。彼女をからかうと表情の変化が楽しめるので、ついやってみたくなるのだ。からかい上手(?)のオウマくん。
それは学校でも同じなのか、山無も綴町をからかうことには慣れた様子である。それだけで彼女がいかに教師として親しみやすいかが見えてくる。
「せんぱ……ミク先生は、学校ではどんな感じなんだ?」
「てゆーかさあ……、何でさっきから『先生』呼びなの? 蚊に足裏刺された時みたくむずむずするんだけど」
綴町が改めて教師なのだと思うと、少しだけ愉快に思えたのでしばらくは先生呼びで通そうと考えているオウマ。これもからかいの一環である。
先に届いたポテトに手を付けながら、山無は答えた。
「基本は真面目ですよ。男女問わず人気があります。女子からはお姉さまとして百合ってますし、男子からは『むしろ体罰してほしい』って言われてます」
「それホント? 嬉しいようなそうでないような……」
「まあ言ってみればオナニーのオカズにされてるみたいなもんですからねえ」
「改めて口に出さないでくれる? 殺意湧いてくる」
オウマはおっと、と口に手を当てた。
綴町未来子は護国寺京子や、目の前の山無亜子のようないわゆる美人系ではなく、どちらかと言えば可愛い系に属する容姿の良さを誇るが、それでいて大人の魅力を備えているのだ。どことなくエロスを感じるというか、所作の一つ一つには可憐さが滲み出ているというか。どうあれ男子高校生には目に毒だろう。
彼の胸ぐらを掴むモーションをかける綴町を見て、教え子の彼女は微笑ましいものを見る眼差しになった。
「――――だから、そんな風に砕けた様子の先生を見るのは初めてです」
それを聞いて、綴町はパッと手を放した。つい地が出てしまっていたことに、今頃気付いたのか。時既に遅しではあるが、彼女はオホホと上品に笑う。
「何を言うのですか、山無さん。ワタクシがそんな野蛮人の如き言動を取るはずが」
「ちょっと無理ありませんかイデデデッ!?」
テーブルの下で思い切りももをつねられたオウマは悲鳴を上げた。それを見てさらに山無は腹を抱えて笑う。
そもそも何故素を隠すのか、彼には理解できなかった。ありのままを偽るなど、少し彼女らしくないと思ったのだ。それを教師になって約二年貫いてきたのだから、それなりの理由があるのではないか。単に大学デビューならぬ教師デビューの可能性も、綴町ならば否定できないが。
そうこうしているうちに、真っ先に料理が届いたのは綴町のグリルだった。オリジナルの野菜ソースとともに、若鶏の香ばしい香りが立ち上ってくる。
間もなく次の料理が運ばれてくる。スパゲッティーミートソースは確かに美味しそうだが、男の観点からすれば「それで足りるの?」と勘繰ってしまう。節制しているのも理由としてあるかもしれないが、女性の食の細さには驚かされる。
――――そして、ついに『あれ』がやってきた。
「お待たせしました。こちら、『大人のお子様ランチ』でございます」
ででーん! と(彼の脳内で)派手なエフェクトが鳴り響くとともに、オウマの前に一枚のプレートが置かれる。そこにはミニハンバーグ、ナポリタン、エビフライ。そしてメインとも呼べる、旗の差されたチキンライス。圧倒的陣容。
女性二人は、凄いといった風な感想を抱いていたものの、オウマだけは腑に落ちないといった表情をしている。店員が「ご注文は以上でよろしかったでしょうか?」と確認してきたので、彼は咄嗟に尋ね返した。
「あの……このランチには『おもちゃ』は付いていないんですか?」
そう聞くと、店員はフフと表情が笑みに歪んだ。しかしすぐに気を取り直して、このランチには付いていないと説明してくれた。
その店員が離れていくのを見て、山無は茶化すような視線を寄越してくる。
「あっれ~? もしかしてオウマさん、おもちゃ目当てで頼んだりしました?」
「…………、」
目当てで頼んだわけではないが、『ひょっとすれば付いてくるのではないか』くらいの期待は抱いていたが故に、オウマは若干裏切られたような気分になった。
彼はパクパクと口を開閉させて、
「――――『大人のお子様ランチ』って言うくらいだから、てっきり『大人のおもちゃ』が付いてくると思っていたのに…………っ!」
通常のお子様ランチだと大抵ガチャガチャの景品のようなおもちゃが付いてくるのだから、このランチにもそれに類するものが付録としてあるのではないか、とオウマは期待していたのだ。よくよく考えてみなくても、そんなものを出す飲食店などあるはずないが。
その言葉を聞いた綴町は、呆れるよりも先に彼の後頭部を叩いた。
「バカバカ! そんなもの出るはずないが事前に分かっていないのと、高校生の前でそんなことを言うのと合わせて、ダブルバカだよ君は!」
「だってだって、普通思うでしょ? シュレディンガーの猫的に考えて」
「高尚な実験を汚さないでくれるかな!?」
出たとしても肝心の使い道がないので、結局は出なくてよかったのだが、確かに女子高生の前でする話題ではなかったのかもしれない。
ちらり、と当のJKに目をやると、キョトンとした表情をしていた。
「? 『大人のおもちゃ』って何です? ドローン?」
「思った以上にピュアガールで良かったよ……」
綴町はそっと胸を撫で下ろした。『対童貞特攻』とか自慢げに述べていたが、知識的には並みレベルらしい。多分義妹の方がそっち方面の知識は豊富だろう。顔を赤くして、「そ、そんなの知らないよ!」と否定するだろうが。
ともあれ、まず先にハンバーグを口にする。噛んだ途端、じゅわっと肉汁が口内いっぱいに広がっていく。グルメリポーターでないオウマには、この程度の感想しか述べられないのがもどかしい。
かちゃかちゃ、と食器にフォークが当たる音が連続する。食事中だからか、口数がめっきり少なくなってしまった。オウマはどちらかと言えば話しながら食事したいタイプなので、率先して会話のタネを蒔くことにした。
「長い英語の文章で、頭文字だけ取って作る単語ってあるじゃないですか」
「唐突だなあ、キミは」
沈黙から話を始めるのって難しくありません? とオウマは同意を求める。トークショーの司会者なら、もっと上手な切り込み方もできるだろうが、素人の彼ではできるはずがない。決して彼が会話下手なわけではないのだ。
彼は強引に話を進める。
「たとえば『Q.E.D』みたいなのって、字面だけでもう何かカッコいいじゃないすか」
「『Q.E.D』って証明完了、みたいな意味ですよね? あれのフルネームって何なんですか?」
「『Quod Erat Demonstrandum』だったな、確か。えっ、ですよね?」
「知らんけど」
山無が疑問を発し、オウマが答え、綴町は相槌を打った。ちょっとした阿吽の呼吸みたいな感じだった。
「カッコよくないか? 言葉の終わりに『Q.E.D』を付けると、誰でも知的キャラになれる説」
「酒に罪はない。泥酔する人に罪がある。――――Q.E.D。うーん、言うほどかなあ」
「これって雰囲気だけ名言っぽく聞こえるだけじゃないですか。最後に名前付けるだけでも名言っぽくなりますけど」
「色事が大罪なら、神は異性を作らなかった。――――綴町未来子。うん、こっちの方がしっくりくるかな」
あれ? と首を傾げるオウマ。思ったより評価がよろしくなかった。というか、綴町のセリフのチョイスが悉くズレている気がする。
山無は分かってねえなあとでも言いたげに肩を竦めて、
「だいたい、『Q.E.D――――証明完了』の時点で映画っぽいタイトルになるでしょ。他だと……『B.B.Q』とか?」
「ぷふ……! 笑わせるなJKよ」
オウマは思わず吹き出してしまった。
B.B.QとQ.E.Dだと、意味合いというかエレガントさにかなり差があると思う。B.B.Qだと『B.B.Q――――焼却完了』にでもなるのか。
「じゃああれか。『L.E.D――――照明完了』とでもなるのか」
「『A.E.D――――蘇生完了』とかね」
「じゃあじゃあ、『J.F.K――――試合終了』とかもありですね!」
「山無はほんと野球好きだなあ」
『J.F.K』とは阪神タイガースで形成されていた、最強無敵の勝利の方程式のことである。ジェフ・ウィリアムス、藤川球児、久保田智之の三人がそれぞれ一イニングずつ抑えていくのだ。リード時に出されたらまず勝てないことから、確かに試合終了と言っても過言ではないだろう。
サッカー少女であるはずなのに、本人の口から出るのは野球のことばかりである。しかし不働高校には女子野球部が存在しないので、仕方ないことだと思い直した。
話しているうちに、いつの間にか三人とも食べ終わっていた。山無はさっと立ち上がって、お手洗いへと向かっていった。彼はこの隙に、と思い財布を取り出し、二千円を綴町に手渡した。
「これ、ご飯代です」
「いやいいって。元から私が奢るつもりだったんだし」
「山無を誘ったのは俺ですからね、それに俺、一番高いの頼んじゃいましたから。さすがに悪いかなって」
そもそも奢られる気など、更々なかったのだが。
自分で決めたことに関しては、なかなか譲らないオウマの性格を知っている彼女は、渋々それを受け取った。
「結構前に先輩から風俗奢られた人間とは思えない、殊勝なセリフだね」
「どこでそれを……?」
「前に話す機会があってね、その時教えてくれたの」
「いやあ、風俗の奢りってそこまでよくないですよ。金は浮くけど、額が額だから嬢選びに制限かかりますし」
「聞いてないから」
そんな下らない話をしていると、カランコロンと客が入店してくる時に鳴るベルが音を立てた。そんなことは頻繁に起こるので、別段気に留めることはしなかったオウマだが、耳に飛び込んできた声で意識が引っ張られてしまう。
「三名、禁煙席で」
――――ぞくり、と。
背筋が凍った。
昨夜久しぶりに聞いたばかりの、低く威圧する声。――――父・護国寺茂雄のものだった。オウマと話す時よりは声音は柔らかいものの、彼にとっては威圧されているのと何ら変わらない。
続いて、聞き覚えのある声が複数飛んできた。母・美和子と、義妹の京子である。実家とほど近いこのファミレスで昼食を摂りに来たのだろう。和気藹々とした空気が、離れたここからも伝わってくる。
「どうしたの? …………っ」
途端に様子のおかしくなったオウマを心配して見つめた際に、ふと視界の端に茂雄の姿が入ったのだろう。綴町の表情が険しくなった。笑みを絶やさない彼女にとって、珍しい表情であった。
その表情を見て、怖いとさえ思った。
こうして父の顔を見るのはかなり久しぶりだった。大柄な体格に、彫りの深い顔。染めているのか、五十代になっても白髪が見当たらなかった。
「さあ、何でも食べていいぞ。これは父さんからのお詫びの印だ」
朗らかに笑って言う父。傍目からは家族サービスに勤しむ、良き父としか見えないのだろう。実際、オウマを覗けば彼は欠点のない父親と言えよう。給料も良く、愛妻家でもある。しいて言えば娘を甘やかしすぎるきらいがあるものの、微笑ましい程度だ。
あれだけ心配していた京子も、何のことない。昔からよく見ていた、心底両親を愛している表情だ。実家でどのような話し合いがあったか定かでないけれど、親子関係を悪化させるものではなかったのは明らかである。
ぎり、と奥歯を噛み砕かんばかりの力で、歯ぎしりが鳴った。隣にいる綴町による音だった。今にも飛び出さないか心配になる。彼女はオウマの高校一年生の時、家庭環境の歪さを父に向って問い詰めた経験があるのだ。その時以来、彼女は茂雄のことを心底嫌っているようであった。
加えて、もう一人の同行者――――山無亜子のこともある。京子と同じ学年で同じ学校ということは、知り合いあるいは友達という可能性もある。彼女が京子たち一家を見つけて、話しかけるとオウマたちも見つかる恐れがあるのだ。そうなれば険悪ムード一直線なので、できればそんな雰囲気を高校生二人に味あわせたくはない。
彼は綴町の手首を取って、
「行きましょう、先輩。……俺は、大丈夫だから」
――――この時、自分がいったいどんな顔をしているのか、皆目分からなかった。
ただ綴町が、悲しげに目を伏せていた。
オウマは山無の鞄を持って会計まで早足で向かう。両親たちに決して気取られないように。その途中、トイレから出てくる山無を回収し、困惑する彼女を連れて店外へと出て行った。
できるだけ店から遠ざかっていると、山無は我慢できない風に声を上げた。
「ちょ、ちょっと! いきなりどしたんすか? もう少し店ん中でお喋りしたかったんすけど」
「あ、ああ。悪い悪い」
言われて、パッと手を放した。
後からついて来ていた綴町もようやく追いついた。会計を済ましていたのだ。
オウマは少しだけ、綴町の反応を見るのを恐れていた。誰かに八つ当たりをするような人物ではないが、僅かでも彼女の評価が翳ることになるのだけは避けたかった。
綴町は息を整え、ゆっくりと顔を上げた。
「――――山無さん、ごめんね? 実は彼、少し用事ができたようで」
そこには、いつも通りの彼女の姿があった。
山無も大して違和感を覚えなかったらしく、そうなんですかと残念そうに言った。
「用事ってなんなんです?」
「……ん? ああ。それは……大人には色々とあるんだよ」
何だかはぐらかしたような受け答えになってしまったが、咄嗟のアドリブが思い付かなかったので仕方ない。山無はやや怪しむ風な眼差しを向けて来ていたものの、やがて諦めたのか目を逸らした。
「まあ、いいです。家帰って宿題しないといけないですしおすし」
「そのネタ古いな」
『ですしおすし』とか使う人、長年見なかったとオウマ。流行に敏感そうで、意外と古風なネタ知識を持っている女子高生である。
なんだとー、と力感なく唸った彼女は、その後すぐに別ルートへと別れて去っていった。その後ろ姿を見ながら、彼はポツリと言い漏らした。
「良い子だな……」
気付いていない風を装ってはいたが、多分何らかの問題があったことには山無も察していただろう。確証があるわけではないが、何となく気を遣っているようだったからだ。
残った綴町もそうだね、と同意した。
「クラスでも人気者だよ。とにかく気配りのできる生徒で、私も助かってる」
「へえ。わりと想像できますね」
――――それきり、彼女は閉口してしまった。先ほど父を見たことと関連しているのだろうが、そのせいで綴町の気持ちを翳らせたくはない――――それがオウマの本心だった。
だが、彼もいまいち本調子ではなかった。予期せぬ遭遇の衝撃により、脳みそが本来の機能を発揮していないのか。
いつもこうだ、父の顔を見ると、冗談ばかり言う口が上手く働いてくれない。デバフでもかかっているんじゃないかってくらい、声が出なくなるのだ。電話越しならともかく、その姿を見てしまうと、なおさら。
結局この日はそれ以上彼女と言葉を交わすことなく、別れてしまったのだった。