第二章③
それからショッピングモール内をぶらぶらと探索し、帰宅した頃には夜六時を回ろうとしていた。オウマの両手いっぱいに買い物袋がぶら下がっている。
「六時か。結構かかったな」
「手伝ってもらった私が言うのもなんだけど、お兄ちゃんがランジェリーに対して異様な興味を示さなければもっと早く帰れたね」
「いやいやいや、お前だって男のパンツに興味あるだろ? それと同じことだ」
「ないよ!」
おかしいな、と首を傾げるオウマ。男物のパンツに常在している前開き部分に興味のない女性はいない、と綴町未来子が熱弁していたのだが。まあ彼女が言ったことだから、嘘の可能性は大いにある。
雑談もほどほどに、早速京子は買ってきた、間仕切り用のカーテンの設置に取り掛かる。部屋を妹用と兄用に区別するためである。突っ張り棒を伸ばして、そこからカーテンを吊るすのだ。
「これって本当に必要なの? 脱衣所とかで着替えるつもりなのに……」
「ばか。ある程度プライベートな空間ってのは必要なんだよ。具体的にはお兄ちゃんにな」
「…………?」
とはいえ、カーテン一枚隔てたところで気休めにしかならないが、視覚をカットできるだけまだマシと考えるべきだろう。
カーテンの設置が終わり、その後も購入した生活必需品をあるべき場所へと分けていく。バスタオルは洗面所に設けた京子専用の籠に、歯ブラシは別のコップに入れるなどである。
――――一時間ほど作業をこなしたところで、ようやく全ての準備が完了した。時刻は七時二〇分。そう認識すると、途端に腹が減って来た。それは京子も同じようで、不思議と視線がかち合った。
彼女はポンと手を叩いて、
「そうだ。今日は私がご飯を作るよ!」
「…………京子が? 以前はまるでできなかっただろ」
「中学生時代の話でしょ! 今の私は違うの!」
ええ……、と疑いの眼で京子を見つめる。なにせ彼女は中学生時代、野菜を洗う際に洗剤を使おうとしたほどの料理下手だ。疑うなと言う方が無理である。
何度か制止を試みたが、当の本人がやる気になっている。フンス、と鼻息を荒げてキッチンへと向かう。これ以上無下にするのも悪い気がしたので、オウマは改装時に散らかった部屋を片付けて待つことにした。
度々「きゃあっ!?」だの「アツゥイ!!」だの、不安を煽る声がした気もするが、空耳と思い込んだ。せめて実食の前から評価を落としたくなかったのである。
十五分ほど経ったか、京子はお盆に二つのお皿を載せてやって来た。テーブルに並んだのはソースの香りが匂い立つ――――焼きそばであった。冷蔵庫に残っていた中華めんと、キャベツなどの野菜と豚肉が炒められていた。
くんくん、とオウマは匂いを嗅いで、
「うん、匂いはいいな。匂いは」
「ふ、そんな強がりを言っていられるのも、今のうちだよお兄ちゃん!」
自信ありげな表情を覗かせる京子。それに反比例して、オウマの反応はいまひとつである。
彼はいただきますを言って、ひとまず焼きそばに手を伸ばしてみる。本当に匂いはいい。とはいえ、焼きそばの匂いの大半はソースの香りなので、ぶっちゃけ焦がしたソースを嗅いでいるだけだ。焼肉の味はタレに依存するみたいな、そういう理屈である。
京子はチラリとこちらの反応を窺っている。一挙手一投足にまで注目されているようで非常に食べづらいが、一口食べて感想を言ってみないことには解放されまい。オウマは意を決して焼きそばを口に運んだ。
もぐり、と咀嚼。
「こ――――これはっ!!」
カッ、とオウマは目を見開く。
口いっぱいに広がるソースの風味。というかソースの味が強過ぎる。噛んだ瞬間に溢れるギトギト感に、キャベツの芯に歯がぶち当たった。これは……これは――――っ!
「知ってる人ならまあ許せるけど、店で出されたら二度と行かないレベルだな」
「嘘っ!? そんなはずが……っ!」
オウマの評価を聞き、今度は京子自らずるずると試食する。できれば味見してから出してほしかった、とは言わなかった。
う、と彼女の表情が曇る。
「そそそんなヴァカな! だって、前にお父さんに食べてもらった時には、死んだ目で『オイシイ、オイシイ』って言ってくれたのに!」
「それほとんど答え出てますね」
相変わらず京子に対してだけは甘い父親である。叱るような姿が想像できないほど、父は義妹を可愛がっていた。
食べ進めるペースは遅いながらも、オウマは着実に量を減らしていた。京子はその姿を見て、慌てふためく。
「別に無理して食べなくていいよ! どう見たって失敗作だし……」
「……せっかく作ってくれたもんだし、何より食べ物を大切にしろって昔、耳にタコができるくらい言われたからな。出されたものくらいちゃんと食べるさ」
「…………、」
それが生前の母の教えだった。母に限って不味い食事など出すことはなかったが、自分の作ったものは失敗作だろうが食べさせられた。元を辿れば、それが嫌で料理の腕を磨いたはずだ。
京子は自らの腕の未熟さを恥じたのか、それでもなお完食してくれようとする姿勢に喜びを覚えたのか、隠すようにして顔を伏せた。
オウマはその様子を見て、
「でもまあ、あれだ。明日が休みで良かった。最悪腹痛になっても治せるからな」
「まるで毒みたいな扱い!? これがツンデレって言うのかな……?」
「幸せな思考回路してんなあ」
ポジティブを飛び越えてもはやお気楽思考である。一種の自己防衛機能なのかもしれない。ちょっとだけ羨ましくも思うオウマだった。
今度は感想を述べるための大雑把なものではなく、改善点を挙げるための分析を口内で行っていく。不快感にも似た刺激が味覚に広がるのを我慢しながら、彼は懸命に知恵を振り絞って答えた。
「これ、ちゃんと炒める前に湯洗いしたか?」
「麺のこと? いや、してないけど……」
「市販の麺は油が付いてるから、一回洗った方が美味しくなるんだよ。あと、これ麺と野菜同時に炒めただろ?」
「うん……。普通そうかなって」
「初心者の普通なんて大抵アテになんないから、最初はレシピ通り作った方がいいぞ。それでも不味かったら、もうどうしようもない」
オウマも最初はクックパッドを見ながらやったものだ。母から仕込まれていたとはいえ、誰だって最初は教科書が必要なのである。
何とか共に完食した二人は、ふーっと一息吐いた。オウマのは単に一服する的な意味合いだが、京子のそれはやや気疲れしているようであった。そんなため息を吐かれては、その理由について突っ込まざるを得ないだろう。
「どうした?」
オウマが食器をまとめて流しまで運びながら問いかける。
「え、……うん。どうしようかなって」
「何が?」
「明日家に荷物を取りに戻るんだけどさ…………」
「ああ……」
京子はまたもや深いため息を漏らした。よりによって明日は日曜日だ。父が仕事休みで家にいる確率は高い。鉢合わせた場合のことを考えると、気が重くなるのも分かる気がする。
とはいえ、オウマにできることなどほとんどない。たとえ使用済みパンツを手渡されたとしても実家には戻りたくないのだ。いや、少しは考えるかもしれないが、結論は変わらないだろう。
「突き放すようで悪いが、俺は何も手伝ってやれないぞ」
「うぅ、分かってるよ……。自分で蒔いた種は自分で何とかしなきゃいけないくらい。分かってるんだけど、さ」
「…………、」
父親にビンタしていなければ、まだ帰りやすかっただろう。時として言葉は物理的暴力に勝るというが、実際後者の方が相手に与えるダメージは大きい。それが身内となると、心理的ダメージも加算されるはずだ。
そういえば、とオウマは今さらながらに気付いた。
「ところで、何で京子は親父と喧嘩なんかしたんだ?」
「え?」
「家出の理由はその喧嘩なんだろうけど、そもそも何故勃発したかは聞いてなかったと思ってさ。どうせ進路のこととか、そんなんだろうけど」
私、AV女優になりたい! とか宣言すれば正常な親ならば必ず止めるだろう。さすがにAV女優は有り得ないが、美容師になりたいとかなら有り得る。それに反対する父親かどうか、長らく会っていないオウマには判断できないが。
不意を突かれた彼女は「ぅえっ!?」と言葉を詰まらせる。それから何やら唸り始める。
「理由、理由か……。別に言ったっていいけど、てか言わなきゃいけないことなんだけど。でもそれは今じゃないというかもっと仲良くなってからの方が良さげというかだけど早ければ早いほどいいしもうどうすればいいのか――――」
外界の情報の一切を排除したかのように、京子は自身の世界に閉じこもっているようだった。物凄い早口だったので内容のほとんどは聞き取れなかった。
どうやらそれなりに深い――――というより、込み入った事情がありそうなので、オウマは踏み込むことを止めた。どう足掻いても面倒臭そうなことにしかならない気がしたのだ。
「まあ何でもいいけど、明日ちゃんと荷物取りに戻れよ。教科書とかだって家の鞄の中だろ?」
「そうなんだよねぇ。あーあ、私も置き勉してればよかった」
「あれ確か盗まれたら大変だから持って帰るよう言うんだって」
「なるほど」
とはいえ大半の教師は見て見ぬフリをしてくれるので、オウマは全力で置き勉していたが。形骸化した規則ほど効力のないものはない。まあ、テスト期間や長期休暇前には机の中を空っぽにするよう命じられるから、結局最後にまとめて負担が圧し掛かってくる仕組みだ。
食器洗いも終わり、次に待つのは入浴タイムである。ちなみにオウマは風呂よりも夕食を先に済ませるタイプだ。ちら、と彼は妹に視線をやる。それに気付いた彼女は何? と首を傾げた。
「先にどっちから風呂に入る。京子が決めていいぞ」
「……あーどうしよっかなあ」
照れたように苦笑する京子。頭を悩ませた様子で、
「…………先に入ろっかな。お兄ちゃんもそっちの方がゆっくり入れるでしょ?」
「いいのか? 俺が後に入ったら、浴室クンカクンカしてお前の入ったお湯を飲む奇行に及ぶかもしれないぞ?」
「ヘンタイ! えぇ……、じゃあ後から入るよ…………」
「いいのか? 俺が先に入ったら、毛とか浮いた風呂に入ることになるかもしれないが」
「どないせえゆうねん!」
突如コテコテの関西弁になった彼女は、ビシとツッコミを入れてきた。もしかしたら彼女の生みの親は関西人で、そのDNAが開花したのかもしれない。
はは、と笑い飛ばしたオウマは再度選択を迫る。
「冗談だ。何もしないからどっちでもいいぞ」
「お兄ちゃんってさ、食事中にトイレの話をする人種だよね……」
「はあ? 俺はそこまでデリカシーのない男じゃない。せいぜい先行上映で観た映画のネタバレをするくらいで…………」
「最低だこの人!」
結局彼女は先に入浴することを選んだ。覗かないでね、とその際に念押しされてしまったが、そんなことをする兄に見えるのだろうか。残念ながら見えたからしたんだろうが。
彼はその間、先に歯を磨いてから一旦玄関の外へ出てスマホを取り出した。電話帳を開き、最近の通話履歴の中から一つを選んでタッチする。プププ、と電話番号のプッシュ音が連続する。それを悠長に感じてしまうのは、彼の気が急いているからか。
がちゃ、と相手方に通じた音がした。
『――――……もしもし?』
びく、と少し身体が震えた。ある程度予期していたとはいえ、それは出てほしくない側の声だったからだ。
低く、ともすれば厳かな声音。昔オウマに接する時は、こんな声は出したことはなかった。いつだって優しく、柔らかな口調だった。
電話越しの父――――護国寺茂雄に対し、オウマは知らず警戒心を高めていた。ふう、と一つ深呼吸をして、気持ちを解す。
「……斗真ですが。互いに忙しい身でしょうし、用件だけ言います」
『…………さしずめ、京子のことだろう? 美和子から話は聞いている、そっちにいるようだな。元気にしているか?』
実の息子にではなく、真っ先に連れ子の心配をするとはいかにも父らしい、と彼は自嘲気味に小さく笑った。
「京子は明日、そちらに荷物を取りに戻るそうです。幾分帰りづらそうにしていたので、できればあまり責めないでやってくれませんか?」
『ふん。どのみち、ずっとそっちに預けておくわけにもいかん。私は明日休みだ、無論もう一度話す気でいる』
「……そうですか。どうぞご勝手に」
それだけ告げて、オウマは早々に通話を切った。
どっと疲れが押し寄せてくる。これならセンター試験本番の方がまだリラックスできていたはずだ。父親に対して敬語を貫いていたのも、一種の防衛反応のようなものだった。敬語を使うと自身が機械であるような気がして、下手なことを言わずに済むのだ。
ぶる、と身体が震えた。外で通話していたから、外気に触れて身体が冷えてしまったのだろうか。彼は室内へと戻ると、ちょうど京子が風呂から上がったようで、Tシャツとショートパンツというラフな格好に着替えていた。煽情的な格好だが、オウマはそんな姿には目も暮れず、つかつかと彼女の傍まで寄る。
「な、なに……?」
彼女は多少戸惑った表情を見せる。オウマは彼女の肩に触れて、
「――――明日、必ず戻って来いよ」
「ほえ……?」
自分でも半ば無意識的に、そんなことを口走っていた。
ぽかん、と京子は口を開けて、間抜けっぽい顔をしている。当然だ、冗談しか言わない兄が、真顔で「まだ傍にいてくれ」的な発言をしたのだから。
心なしか彼女は顔を朱に染めて、
「と、突然どしたの?」
「……、いや。変なことを言ったな。悪い」
「悪いってことはないけど……」
??? と京子は未だ困惑しているようだったけれど、オウマは入れ替わりで脱衣所へと入って行った。扉を閉めて、念を入れて内側から施錠もした。侵入してくる者がいない状況を作り出し、そこで彼はようやく脱力した。
(何を言っているんだ、俺は……っ!)
シャワーを浴びながら、激しい自己嫌悪に陥る。
(俺はさっき、あいつのためを想って要求したんじゃなくて、ただ父親への意趣返しのために妹を利用した――――っ!)
京子を実の娘として可愛がっている父に対し、『実家よりも我が家の方が居心地が良い』と知らしめてやりたかったのだ。そのために彼女に戻って来るように催促をした。
くそ、と心中に渦巻く黒いモヤを、鬱憤とともに吐き出した。その声が自分のものでないと錯覚するほど、ひどく醜いものに聞こえた。




