序章 突撃下宿のお兄ちゃん
これからよろしくお願いします。
その日はひどく疲れていた。
彼――――逢魔斗真は現在大学四回生となって、まだ一月程度しか過ぎていない。単位はほとんど取り終えたものの、卒業論文などに割く時間が莫大に多くなった。加えて放課後には十時過ぎまでバイトを入れてあるのだ。慌ただしさに忙殺されていると言っていい。
スーパーで値引きされていた弁当などが入ったビニール袋を片手に、重い足取りで下宿先のマンションの階段を上がる。時間があれば可能な限り自炊をするよう心掛けているのだが、バイト帰りだとどうしても弁当になってしまう。
エレベーターのないマンションなので、毎日三階まで昇り降りを続けている。個人的にはこれだけで運動不足が解消されるのでは、と考えている逢魔。友人から「ちょっと太ってきてない?」と指摘されたが、きっと勘違いだろう、うん。
彼は器用に片手だけで背負ったリュックから鍵を取り出す。家に着く時点で鍵を準備しておくのが逢魔流なり。当然、その間は前方不注意となるが気配を頼りにしている。こんな時間帯に出歩く住民もそういないだろう。
「お兄ちゃん――――」
通路に透き通ったソプラノボイスが響いた。しかし逢魔は意に介さない。彼は今鍵を取り出すのに必死でそれどころではないのだ。それに、彼には妹と呼べる存在がいなかった。
ようやく鍵を引っ張り出すことができ、彼はふうとやり切った感のある息を吐いた。あと三歩で自宅の扉前に辿り着くはずだ――というところで、彼はようやく顔を上げた。
「――――お兄ちゃんってば!!」
うおっ!? と彼は反射的に情けない声を上げた。覚束ないファイティングポーズまで取っている。超カッコ悪い。
視界に入ったのは、長髪の美しい女性。やや吊り眼気味の双眸は宝石の如く煌びやかで、高めの鼻に小さな唇は極めて整った目鼻立ちと言える。宗教の勧誘か、と瞬時に勘ぐってしまうあたり、逢魔も相当混乱していた。
彼女の視線は間違いなくこちらに注がれている。軽く後ろを確認してみるも、そこに人影はなかった。ということは、恐らく彼に向けて話しかけたのだろう。
急いで記憶に検索をかけるも、最近一年間で該当する人物の存在はない。となるともっと過去の人物ということになる。うーん、と頭を悩ます時間が続く。
「ひょっとして……覚えてないの?」
疑うような、ショックを受けたような目付きに変わる。そんな顔をされると、答えを言われる前に逢魔は答えてみせないといけない。
これまで行った風俗店で、お兄ちゃん呼びをオプションで付けた記憶は毛頭ない。となると、と彼は頭をフル回転させる。
(さっきこの子は『お兄ちゃん』と言った……。だが、俺は一人っ子だ。人違いか……? いや……――――!)
ようやく検索に引っ掛かった人物が現れた。あまりに関わりが薄くて、すっかり頭から抜け落ちていたが、確かに自分には『妹』がいたと。
「――――京子、か?」
半ば当てずっぽうだったがどうやら正解だったらしく、彼女は一転花のように明るい顔をする。ホッと胸を撫で下ろして、
「なんだあ、よかった。忘れられちゃったのかと思ったよー」
「そ、そんなわけないでしょう……? 仮にも家族だったんだからな」
よもや直前まで完全に忘れていたなんて言えない。真実だからと言って無闇に誰かの表情を曇らせてはいけないのである。
護国寺京子。彼女とは五つ歳が離れていて、つまり今は高校二年生である。彼が実家を出て四年目になるので、ちょうど京子ともそれくらい会っていなかったことになる。
ちなみに苗字が違うのは、逢魔が母親のそれを使っているからである。
「どうしたんだ、何の連絡もなくいきなり……?」
「あ、えっと、うん。実はね…………」
彼女は話しづらそうに指を遊ばせている。その様子を見て、こんな殺風景な老化ではさぞ話しづらいと気付き、とりあえず彼は鍵を使って自宅の扉を開けた。
「まあ入れよ。ちょっと汚くて狭いが、住めば都だ」
「あ、お邪魔しまーす……」
恐る恐るといった感じで京子は兄の背中に続く。彼女はキョロキョロと物珍し気に周囲を物色している。少し気恥しい気分になった。
1DKの室内は一人だと手狭に感じなくとも、やはり二人だと窮屈に感じる。彼はひとまず彼女を居間で待たせておいて、お茶を淹れたコップを持って彼女の対面に座った。
「それで、どうしたんだ今日は?」
「うん……。実は私、家出してきたの」
ふんふん、家出ねえ。と彼はまさしく他人事のようにお茶を啜った。しかし他人と言えど、彼女は妹である。ぶっ!? と一拍置いてお茶を吹き出しかける。
わ、と彼女は兄の豹変ぶりを見て慌ててハンカチを差し出した。
「ど、どうしたの?」
「いや驚くだろ、普通さ。いきなり家出してきたなんて言われたら」
京子が中学生くらいまでの記憶でだが、大人しい模範的な子供だったという印象だ。とても家出をするような人種には見えなかった。
何とか落ち着きを取り戻した逢魔は、再度コップに口を当てる。
「で、理由は?」
「あー……、言わなきゃダメ?」
「当然。こんな夜更けに来たってことは、今日は泊まる気なんだろ?」
コクリ、と京子は小さく頷いた。
一応友人が泊まりに来た場合のための布団は用意してあるが、兄弟関係とはいえ年頃の男女である。――――それが、義理の関係だとすれば尚更のことだろう。
彼女はひどく言いづらそうにしながらも、観念した風にポツポツと語り始めた。
「……ちょっとお父さんと喧嘩しちゃって」
「親父とか……。言っとくけど、俺に仲裁とかを期待しても無駄だからな?」
「うう、分かってるよ……」
「それにしても珍しいな。五年くらい前は仲良しだったろう? ちょっと想像が付かないや」
「それは…………、」
すると、彼女は何か言いたげにチラッと兄の顔を見て、すぐに視線を外した。何だ? と逢魔は首を傾げる。自分が原因とでも言いたげな雰囲気だった。
詳しい事情については、彼は深く追及しなかった。彼女がこれ以上話したがっていないと察したからであり、彼自身無造作に踏み入る気になれなかったからだ。デリケートな理由なら、逢魔にはどうしようもできない。
会話が詰まる。何しろ五年ぶりの再会だ、会話のネタがそうポンポンと思い付くはずもない。実家にいた頃にもっと仲良くしておけば別だったのだろうが。
――ぐう、と腹の虫が確かになった。逢魔も空腹だったが、それ以上に疲労で食欲があまり湧いていなかったこともあって、すぐにその虫の主が京子であると判明した。加えて、彼女は恥ずかしげにお腹を押さえ込んでいる。
「夕食まだ食べてないのか?」
「はい……、情けないことに…………」
「……だったら、少し待ってなさい」
彼はおもむろに立ち上がって、キッチンへと向かった。冷蔵庫の中身を確認してから、手慣れた様子で調理に取り掛かった。十数分後には、空腹な京子の前に野菜炒めが並んでいた。
わあ、と野菜炒めと兄の顔を交互に見つめる京子。逢魔は顔色一つ変えずに、
「独り暮らしだとこういう食事が増えてなあ。美和子さんと比べると質素だが……」
「ううん、そんなことない! すっごく美味しそう!」
いただきます! と彼女が元気よく食べ始めたので、逢魔もそれに倣って弁当に手を伸ばす。
(そう言えば――こうして家で誰かと食べるなんて何年ぶりだろうな……)
これに関して言えば五年ぶりなんて期間では済まされない。軽く見積もっても八年ぶりくらいにはなるだろう。下手に気付かって場を盛り上げる気負いもなく、それでいて落ち着いた雰囲気で居られるのも、京子が彼にとって家族であるからに相違ない。
(家族、か。俺がまだ京子をそんな目で見ているとはな……)
さっきまで顔も忘れていたというのに、おかしな話だ。久しぶりだから、というだけでなく、彼自身が家族に関する記憶を封印していた節がある。
会話こそ少なかったものの個人的には満足していた逢魔は、食後に京子自ら皿洗いを担当するということでコンビニまで足を運ぶことにした。明日一人分が増えたことで、朝食用のパンが足りなくなったのだ。
ついでに――というよりも、こっちが本命――彼はスマホを取り出し、おもむろにどこかへ電話を掛けた。プルル、と何回かコール音が続く。
『――はい、もしもし? 護国寺ですが?』
接続されて電話越しに届いてきた声は、女性のものだった。柔和なそれは、されどどこか焦りを内包している風にも思えた。
「もしもし。斗真です」
『…………、斗真さん? こんな時間にどうかしましたか?』
意外そうに息を呑んだのが、相対していなくても察することができた。彼だってこの通話先から連絡が入ったら、何事かと驚愕して通話拒否してやろうかしらと悩むことだろう。
通話先は逢魔の実家。電話を取ったのは京子の実母である護国寺美和子である。彼の実父と再婚する時に連れてきたのが京子だったのだ。
一秒でも早く電話を切りたいと願っている逢魔は端的に要件を伝える。
「ええ、心当たりはあると思うんですが、お宅の娘さんの件でちょっと」
『……まさか、そっちにいるんですか?』
「今さっき家出してきたと、そう言われましてね。夕食を食べていないようでしたので、こちらで用意させてもらいました」
『そう……。詳しいことは聞いていないんですか?』
「語りたくもないようでしたし、大方成績がどうとか進学がどうとかそういう類の話でしょう? だったら自分から何か言うつもりはありません」
美和子が質問して、逢魔が答えるというやり取りが続く。向こうだけが疑問解消されていくようで、彼としてはあまり面白くない時間が費やされていく。
一頻り尋ねたいことを聞き終えたらしい彼女は、少しばかり黙り込んだ。どう対処すべきか悩んでいるのだろう。なので彼は間髪入れずに進言する。
「終電はまだ残ってますけど、高校生をこんな時間から帰らせるのは色々と問題があると思うんで、今日のところはこっちに泊めさせます。明日はちょうど土曜日だから学校もないでしょうし……。あ、京子は部活にでも入っているんですか?」
『……いいえ。入っていません』
「だったら、明日にでもまた電話か直接会って話し合ってください。ちなみに自分の部屋を話し合いの場にしないでくださいよ?」
『そうですね、分かりました。じゃあ今日のところはお願いします。茂雄さんには私から話しておきますので……』
助かる、と逢魔は内心で安堵した。あの父親と話さなくて済むならそれに勝るものはない。
通話を切り夜道を歩く。不気味さが滲み出た真っ黒な暗闇も、今はどこか心地よいとすら感じてしまう。自己の存在をしっかり保とうと思えて、心の所在を確かめることができるのである。
最近耳にさえ入れていなかった名前が、今日一日で一気に押し寄せてきたせいで、ふと昔の記憶に思いを馳せる。――幸せだった小学二年生までと、それ以降食い縛るような日々が続いたことを。
逢魔が小学二年生の時に母は死去して、残された彼と父との関係は険悪なものへと豹変してしまった。言い訳をするように夜遅くまで仕事をして帰る父。再婚すると知ったのもその数日前に至ってからだ。
大学に入ってからは下宿することを望み、父もまたそれを大いに歓迎した。それ以来年末年始にさえ実家に帰ることのなくなった逢魔は、故に義理の母と話すのも随分と久しぶりであった。
コンビニの光が目に入ったところで、記憶を振り返ることを止めた。そうすることを強く禁じていたはずだった。だからもう忘れよう。明日になれば、きっと京子も実家に帰るはずだ。そうすれば全て元通りになる。
前向きになろうと自身を鼓舞しながら、彼は店内へと入って行った。
――――京子とのこの出会いが、この先の人生を大きく変えることになることを、今の彼には知る由もなかったのである。