淑女の一撃
あたしは大の字に寝転がっていた。
瞼が腫れて狭くなった視界いっぱいに、星空が広がっている。
意識はハッキリしている。さっきの一発が逆に気付けになった。
やべーな。終わるところだった。
最初のパンチで完全に意識が飛んでた。飛んでたというか、混濁してたのか。
やけに暢気な事考えてた気がする。
それがもう一発パンチ貰ったら元に戻るんだから、人の脳って不思議だぜ。
ん。まだなんかおかしいかな。まぁいいや。
そろそろ起きないと、勝手に終わりにされちゃいそうだ。
よっ……と。
上半身を起こす。うぅ……頭痛い。
口の中が血でいっぱいだ。吐き出すと白い物が混じっている。
歯だ。何本欠けたんだか……
つーか、あのハゲ。えげつない攻撃しやがって。
自分がハゲだからあたしの髪が羨ましかったに違いない。
相当抜けたぞ。あたしまでハゲたらどうすんだ。
せめて殴る瞬間手を離せ。
それより顔のダメージの方がヤバいっつーの。恐る恐る触って確かめる。
あー、鼻が曲がってるよ……。指でまっすぐ戻す。戻ったかな。
歯も無くなっちゃったし、折角の美人さんがもっと美人になっちゃった。
はぁ。言ってて空しい。
さて、立てるかな……。
お尻を上げて……よっと。よし、こっから両膝に力を入れてぇ……うぎぎぎぎ!
立てた。立てたなら大丈夫。まだ戦える。
足が生まれたての馬の赤ちゃんみたいにガクガクしてるが、気にしない。気合だ気合。
取り合えずダメージ確認。
顔面はどうなってんだか。滅茶苦茶だ。左手は指何本か、あと甲の骨が折れてるかも。
全身打撲及び擦過傷。体中痛くて何が何やら。まぁ動けりゃいいや。
ザンドは何処かな、と思って周りを見渡す。みんなこっちを見ていた。
健一が泣いてる。ハルはなんか呆然としてる。
犬人間はハルの隣にいる。顔が犬だから感情は分からん。
あと月見酒してた連中だと思うが、ギャラリーに加わってる。
そしてザンド。
ずっと仏頂面してたこいつに、珍しく表情がある。
『まさか立つとはな』みたいな感じかな? あたしを凝視している。
あれで終わったと思ったかな? むしろ、こっからだろ。
獣と女は手負いにしてからの方が怖いって事を教えてやらにゃ。
あたしはフラフラと、ゾンビみたいな足取りでザンドに近づいていく。
今は見た目もゾンビみたいかもしれないが。
ザンドもゆっくりとあたしに向かって歩き出した。そうだ。掛かって来い。
「まだやる気なのかよ……」
ハルがなんか言ってるのが聞こえた。当たり前だ。あたしはまだ動けるんだからな。
ザンドとの距離が詰まる。奴は右手を振りかぶった。またあの打ち下ろしか。
ワンパターンにも程がある。
来た。今度は後ろに下がらず左に避ける。髪の毛を掠めた。
イメージと動きが一致してない。体の動きが思った以上に悪い。ヤバイな。
隙だらけの脇腹に膝蹴りを叩き込む。
あたしの攻撃を意にも介さず、ザンドは左アッパーを放つ。
これもなんとか左に避ける。がら明きの脇腹に左肘を突き刺す。
だが、やはり止まる気配はない。
避ける。叩き込む。
避ける。突き刺す。
おいおいおい。マジか。どんだけタフなんだよ。
避ける。叩き込む。
避ける。突き刺す。
何なんだ、この馬鹿。
止まらない。レバー打ってんだぞ。いい加減に効くだろ!
あたしのダメージのせいで、二人の速度差は限りなく小さくなっている。
足も縺れる。かなり際どいタイミングも増えてきた。ちょっとミスったら食らう。
こいつ、パンチが当たるまで続けるつもりじゃないだろうな?
やばい、あたしの方がバテてきた。これが狙いか。
くそ化け物め。
だがあたしが焦りだした時、もう何度目かも分からないあたしの膝蹴りを受けたザンドが、そこで初めて動きを止めた。
拳を地面に打ちこんだ姿勢のまま、肩で息をしている。
チャンス。ここだ!
顔面に左肘。こめかみを直撃。
返す刀で右ハイキック。顎を直撃。
ザンドが尻餅をついた。効いてる!
顔面に飛びついて頭を押さえつける。鼻っ柱に膝。もう一発膝。
さらにもう一発入れようとした瞬間、ザンドがあたしの腰に抱き着いた。
あっ、ちょっとお触りは止めてもらえます!?
ってやべぇ。そのまま肩に抱えあげられる。
スキンヘッドの巨漢に誘拐される女子高生の図だ。
どうする気だ? もがいてみても馬鹿力で抑え込まれている。
ザンドはあたしの両足首を掴んだ。そのまま水平にぐるんぐるん振り回し始める。
放り投げる気か、と思って頭を両手で抱えた瞬間、回転が縦方向へ。
まずっ……!
後頭部から地面に叩きつけられた。
世界が揺れる。これはダメだ。人間が生身で受けていい破壊力じゃない。
頭を庇った両腕は多分折れた。やばい。もう一回食らったら終わる……。
ザンドがまたあたしを振り回し始めた。
横回転から縦回転へ変わる瞬間、右足を捩じるようにして引き抜く。
靴が脱げてザンドの手がすっぽ抜ける。右足の脱出に成功。
顔面を蹴りつける。ザンドがバランスを崩した瞬間、体ごと捩じって左足も脱出成功。
着地。地面を這うようにしてザンドから距離を取る。
さて。こっからどうする。両手はもう殆ど役に立たない。
というか、もうフラフラで立ってるのがやっとだ。
何か無いか。なんとかあいつをぶっ倒すには――――?
周囲を確認する。何か。確認する。何か無いか!?
――――あれだ。
やれるかわかんねーが、やるしかねーからやる。
あたしは覚悟を決めてザンドを待ち構える。
ザンドはこちらに突っ込んできている。決めるつもりか。
大ぶりの右フック。初見のパターンだ。
なんとかバックステップ。もう足が限界で反撃する余裕がない。
左アッパーがくる。サイドステップ。肩に掠った。
体が泳ぐ。やべっ!
ザンドの動きが……これは蹴りだ。これも初見。こいつ、ここに来て!
右足での前蹴り。なんとか右足を挙げてガードする。重いっ!
後ろに吹っ飛ばされ、地面を転がる。背中を何か硬い物に打ち付けて止まった。
石壁だ。
あたしは中庭を囲む建物まで追い詰められていた。
もう後はない。
もはや意地で立っているだけだ。ザンドを睨みつける事しか出来ない。終わりだ。
――――――――と、ザンドが思ったかどうかは分からないが。
一直線に突っ込んできた。トドメの一撃が来る。
左手を前に出し、右手を後ろで溜めている。こいつの必殺ブローだ。
あたしはこれを2回も食らったんだった。
つーかほぼこれのせいでこんなボロ雑巾みたいになってんだよ。
これだけは絶対食らっちゃダメだ。集中しろ!
顔に真っすぐ吸い込まれるように向かってくる拳を倒れこむように回避。
ザンドのパンチは石壁に直撃した。破砕される石材。やっぱりとんでもない威力だ。
あたしはザンドの脇を無様に転がりつつ退避。出来るだけ遠くへ離れる。
直後の事態を予想していたからだ。
壁が崩落した。
下部が壊れ、石材が抜け落ちた事によって連鎖反応のように崩壊していく。
この建物、かなりの古さだ。昔の砦か何かなんだろうが、あちこちが崩れている。
あたしは、石壁のこの辺りが半ば崩れかかっているのを確認していた。
ここまでザンドを誘導したのだ。
ザンドの攻撃をかわしつつここまで辿り着けるか、ザンドのパンチが壁を破壊するか、どっちも賭けだった。
しかし、勝った。
恐らくひとつ何十キロにもなる石材が、滝のように降り注いだ。
まぁこいつの事だ。死んだりはしてないと思うが。いや、どうだろう。
だが何を使っても構わんと言ったのはこいつだ。文句はねーだろ。
ホントは体ひとつで勝ちたかったんだけど、あたしの力不足だ。ごめんなザンド。
つーかあたしも危なかった。かなり離れたと思ったがあたしのすぐ足先まで石片が転がってきている。
巻き込まれたら完全に死んでたな……
辺りには白い粉塵が舞い上がり、崩れた壁の周辺は何も見えない。
「ザンド……」
ハルの声だ。
振り返るとギャラリーの皆さんがすぐ近くまで来ている。
「明殿! 拙者、拙者は……」
健一。心配掛けたなぁ。よせよせ、そんなに泣くなよ、男の子だろ。
ハルはザンドが倒れているであろう、粉塵の中を見つめている。
「やくおくあ、あおえお」
歯と口の中がズタズタなのを忘れてた。喋れないです。通訳プリーズ。
その時、粉塵の中から、積み重なった石が崩れる音が聞こえてきた。
瓦礫を退かしている音だろう。まぁな。分かってたぜ。
ファイナルラウンドか。
振り返るとザンドが粉塵の中で立ちあがっていた。
頭からは血を流し、幾つもの筋になって顔を伝っている。
両手はあちこちが赤黒く腫れあがっている。あれは折れてるな。頭を庇ったのか。
足元の石片を掻き分け、ザンドが瓦礫から出てくる。
足も痛めているようだ。歩き方がぎこちない。
それでも歩いてくる。まっすぐにあたしに向かってくる。
こいつ、カッコいいな。なんかそんな事思っちゃったぜ。
あたしの目の前で立ち止まった。
呼吸は荒く、全身あたしと同じくらいにボロボロだ。
だが眼光だけは勝負開始前と変わらずに鋭い。あたしを睨みつけている。
ザンドは折れた両手を前に突き出し、掌をこっちに向けた。
なんだ? ハイタッチ? 違うか。
……力比べでもしようって?
「明殿! 付き合う必要はないでござるよ! 自分の持ち味を生かすでござる!」
健一。勇次郎みたいなアドバイスしやがって。
あたしの持ち味っつったらそんなもん、この女子力に決まってんだろ!!
両手を合わせ、恋人繋ぎのように指と指を絡ませる。
「おい、いくらなんでもそりゃ……」
「馬鹿あああああ!! 何やってるでござるかああああ!?」
外野うるせーな。
――行くぜ。
両手に力を込める。込めたつもりだ。骨がバキバキなせいで上手く伝わらんが。
ザンドが上から圧力を掛けてくる。重い。耐えられるのか。
ふと、ザンドと目が合う。なんだ? 目で何か言ってるな。
ザンドが頭を仰け反らせた。ほう、そういう趣向ですか。
良い趣味をしているぜ。当然付き合う。
頷いて、あたしも頭を仰け反らせる。
上から降ってくるザンドの頭にタイミングを合わせ、自分の額を叩きつけた。
堅い、湿った音が辺りに響き渡る。
決着は頭突き合いで付けようってさ。分かり易くて良い。
二発。叩きつける。
額を打ち付け合う度、血が飛び散る。鼻から血が噴き出す。
三発。叩きつけられる。
脳みそまで飛び出しそうだ。意識が断続的に飛んでる。
四発。叩きつける。
ザンド。お前、攻撃がえげつな過ぎるだろ。人の顔滅茶苦茶にしてくれやがって。女の子だよ?
五発。叩きつけられる。
ハル。無理やり売春させようとか、どこのヤクザだ。
それをあたし達の為だとか抜かしやがって、頭おかしいだろ。
六発。叩きつける。
こいつらにはちょっと女性の扱いを叩き込んでやらなきゃ駄目だ。
七発。ザンドが片膝を付いた。
どうせ馬鹿だから言っても分かんねーだろ。だから、物理的に叩きこんでやる。
八発。ザンドが頭を仰け反らせたまま、動きを止めた。
繋いだ手を引き、ザンドの頭を引き寄せる。さぁ、トドメといくぜ。
最後に、残った力を全て込めて叩きつける。
今、名付けた。流石あたし。実に良いネーミングセンスだ。
――――くらえ。
淑女の一撃!!
頭と頭の衝突でしてはいけない音がした気がする。
ザンドはそのまま後ろに倒れていく。手が離れ、大の字に倒れた。
白目を剥いて、ピクリとも動かない。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
あたしはその場で呆然と立ち尽くす。
静かだった。聞こえるのは自分の呼吸と、虫の声くらいのものだ。
誰もいなくなったかと思って、振り向くと健一もハルも犬人間もその他ギャラリーも皆呆然と突っ立っていた。
「……嬢ちゃんの勝ちだ」
思い出したかのようにハルが宣言した。
勝ち? 勝ちか。嘘みたいだ。勝った。はぁ。疲れた。疲れたよー。
その場に寝転がろうと思ったけどやり忘れた事を思い出し、歩きだす。
ふわふわしてなんかおかしい。目の前は暗いし、呼吸は苦しいし。
はよ寝たいが。もうちょっとだけ。
ハル。目の前まで来て、立ち止まる。
ハルも、犬人間も、ギャラリー連中も、皆黙ってあたしを見つめている。
全員をぐるっと見まわし、睨みつける。
「ああったあ?」
「分かったか? と言ってるでござる」
健一がナイス通訳。
「……よく、分かった。俺が間違ってたようだな……ぐあっ!」
頭突きをくれてやった。
「えりーはーうとあ……」
「……多分、色々間違ってるでござる」
ホントはボコボコにしてやりてーが、もうあたしも限界なんでな……
あーマジでクソ疲れた…………。目の前がどんどん暗くなっていく。
あ、なんか……これは……やばいか……も……
…………。