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闘拳女

作者: 高橋英明

  誕生

 

 「カーン」試合終了の鐘が鳴った。

 昭和20年8月15日。大日本帝国敗北の日。埼玉県蕨市に一人の女の子が誕生した。後の日本ボクシング界初の女子プロボクサー。その名は「勝美」である。勝美は根本家の長女として生まれる。父の名は「勝男」バリバリの天皇陛下万歳の思想の持主だ。常日頃から「我々皇軍は太平洋で敗れたのであり大陸では一切負けてはいない。いつか必ず米国にも勝利する」と豪語している男だ。そんな父に育てられた勝美はもちろん勝気な子に育った。体も大きくとても同年代の男の子では太刀打ちできない。勝男はよく「あーあ勝美が男なら軍人にしてお国の為に働かせるのにな」とぼやいていた。母はと言えば常に一歩下がった大人しい女性であった。名前はみち。

 根本家は蕨市の旧家で所謂大地主である。敗戦後農地解放によりかなりの土地がなくなったがそれでも当時としては裕福であった。多くの人々はその日の暮らしもままならない状況であったが根本家は決して食うに困るような事はなかった。勝美は食った。周りの子供達は食べるものもろくにない状況であったので勝美との体格差は広がる一方だ。小学校に上がる頃には身長は130㎝を超えていた。当時としては圧倒的なでかさだ。いつも男の子の子分を連れていた。一の子分は伊作だ。

 伊作は元々根本家の小作人の子であり勝美とは同じ歳だ。生まれながらに親分子分の関係の様なものだ。

 蕨市は江戸時代中仙道が通った宿場町として発展した。街道沿いには多くの商家が立ち並びその中でも一際目立つのが鰻屋だ。勝美は鰻が大好物だ。「伊作。今日は鰻を取りに行くぞ」「へい。今日はどちらへ」「そうだな。この前は今井屋だったから今日は池田屋にしよう。2、3匹くすねてもわからないだろう」「わかりやした。池田屋の池州は楽勝ですよ。平助。おまえは見張り番な」「わかりやした」平助は伊作の舎弟だ。当時の子供達は鰻をちょろまかす位はなんとも思わない。みんな食うのに必死だ。「勝美の姉御はここで待ってて下さい。ちょこっと行って来ます。平助行くぞ」伊作は小柄だが滅法足が速い。逆に平助はとろくさい。暫くすると「姉御。すみません。しくじった。平助が捕まりました。どうしましょう」「まったく平助は相変わらずとろいね。しょうがない行こう」勝美は度胸もあり潔かった「池田屋さん。すみません。私が鰻が食べたいって言ったもんでこいつらが気をきかせてくれたんです。本当にすみません」「なんだよ。根本さんとこの勝美ちゃんじゃないか。鰻くらい親父さんに言えば食わせて貰えるだろう。まーいいや。ちゃんと逃げずに頭下げに来たんだ。できた蒲焼やるから食ってきな」「うわー本当ですか。ありがとうございます」「その代わり今度やったら警察につき出すよ」「わかりました。ありがとうございます」「うまい。やっぱり池田屋さんの鰻は最高ですね。なっ伊作。平助」「本当にうまいですねー。又、お願いします」「調子に乗んじゃねーよ。今度はちゃんとお金払って貰うよ。でもそんだけ褒められると悪い気はしないね。何たってうちは元禄時代からの老舗だからな。味の深みが他とは違うよ」「元禄時代か。凄いなー」「なに。勝美ちゃんちだってその頃からここで暮らしてたと思うよ」「そうなんですか」「そうだよ。だからこの辺で勝美ちゃんの事。知らない奴はいないからあんまり悪さしちゃだめだぞ」「はい。わかりました」

 勝美はやんちゃであったが家が裕福であったこともありそれなりにしっかりとした教育も受けていた。

 中学に上がり勝美は持ち前の体力を活かし柔道部に入部した。女子部員は勝美だけだ。当初は柔道部の先生から「うちの部は男だけだ。女はいらん」と言われたが勝美は執拗に入部を懇願した。「先生。お願いします。私。体力には自信があります。女だからって特別扱いしないでいいですから」「駄目と言ったら駄目。帰りな」勝美は何度も何度も訪れた。「先生。お願いします。入部させてくれるまで何度でも来ますよ」「本当におまえはしつこいね。よし。わかった。じゃあ奴と一遍試合して見ろ」奴とは2年生の柔道部員だ。「わかりました。ありがとうございます」勝美は入部が認められればすぐにでも稽古ができる様に父、勝男の柔道着をいつも持ち歩いていた。この時には勝美の身長は既に160㎝を超えていた。

「はじめ」勝負は一瞬だった。勝美の背負投げが見事に決まった。先生の目が泳いだ。「わかった。入部を認めよう」「ありがとうございます」「しかしおまえ強いな。今の奴は今度黒帯に挑戦させようと思っている奴だぞ。柔道習ってたのか」「習ってたと言うか父に家で稽古つけてもらってました」「へーお父さんは柔道やるんだ」「はい。一応自分では5段だって言ってました」「ほー5段は凄いな。んっ。ちょっと待て。お父さんの名前はなんて言うんだ」「根本勝男です」「なんだおまえあの根本さんの娘か」「先生。父を知ってるんですか」「知ってるも何も戦友だよ。そうかあの根本さんの娘じゃ強い訳だ。お父さん。元気か」「はい。元気です。毎朝皇居に向かって頭を下げてます」「あはは。相変わらずだな。よろしく言っといてくれ」 

 勝美は柔道部へ入部が許可された事を父の勝男に報告すると「あーあ勝美が男だったらな」もはや口癖だ。「いいか勝美。こうなったらおまえは徹底的に強くなって米国の奴らを負かせ。いいな」「鬼畜米英ってやつ」「そうだ。日本人の魂を見せてやれ」「まーとにかく一生懸命やるよ。あーそういえば柔道部の先生が父さんによろしくって言ってたよ。名前は千葉周作って言うんだけど」「あっ。千葉周作って。あの千葉周作か」「あのって言われてもわからないけど戦友って言ってたよ」「おーじゃーそうだ。あのやろう。名前が千葉周作で北辰一刀流の開祖と同じなのに剣道はからっきしのくせに何故か柔道は強かったな。そうか。じゃー今度挨拶に行かなくちゃな」「いいよ来なくて。めんどくさくなりそうだから」

 翌日。「たのもう」勝男が学校の道場に来た。「あちゃー。だから来なくていいって言ったんだよ」何と勝男は柔道着を着てやってきた。「もう嫌な予感的中」「よー千葉。久しぶり。元気か」「あー元気だけど根本も元気そうだな。ところで何だその格好」「何だって決まってるだろう。道場に来るのにスーツって訳にはいかないだろう。稽古しに来た。どうだ久しぶりに一丁やらないか」「ふー。相変わらずだな。よし。相手になってやる」「猪口才な。望むところだ」生徒たちは二人の稽古を呆然と見つめていた。とにかくすさまじい稽古だ。お互い一進一退。稽古と言うよりは試合だ。生徒そっちのけだ。30分後ようやく終了した。「いやー根本は相変わらず強いな」「いやいや千葉こそ流石に普段から体を動かしてるだけあってこっちはついていくのが精一杯だよ。まー何れにしても今後とも娘を頼む」「あー任してくれ」「ところでどうだ今夜一杯」「そうだな。久しぶりに会ったしやるか」「よし決まった。じゃー学校終わったらうちに来いよ」「わかった」「よし。じゃー勝美。学校終わったら千葉先生連れてきてくれ。うまい日本酒があるからな。それじゃー後で」

 学校が終わり勝美は千葉を自宅まで案内した。「おー千葉。上がれ上がれ」「じゃー失礼するよ」「遠慮するな。母さん。酒だ。酒だ。今日はじゃんじゃん呑むぞ」1時間もすると二人はすっかり上機嫌だ。「ところで千葉。まさか我が皇軍が負けるとはな。もし俺が大陸ではなく太平洋に行っていればあんな米英なぞ一網打尽にしてやったのに」「あははっ。根本は相変わらずだな。まっお互い生き延びたんだから良しとしようや」「そうだな。生きてればこそだ。ところで勝美は結構強いだろう」「あーびっくりしたよ。最初は入部を断ってたんだがあんまりしつこいんで2年生の男子と試合をさせたら秒殺だよ。秒殺。仕方なく入部を許可したよ。それで聞いたら父親がお前だってんだから納得したよ」「そうだろう。あれは小さい時から俺が稽古をつけてたからな。そんじゃそこらの男には負けないよ。まーこれからもよろしく頼む」「わかってるよ。こちらこそたまにはこうやって飲もう」「そうだな。戦友とこうしてのんびり飲めるなんて夢のようだ」「全くだ」二人は明け方まで飲みあった。

 勝美は柔道に明け暮れた。相手は男子。女子はいない。しかし女子と言うことで試合に出る事はなかった。「いくら練習しても試合ができないんじゃ面白くないな」勝美はもんもんとした気持ちを抑えられなかった。

 「千葉先生。何とか試合出してもらえませんか」「俺もお前の実力なら出してやりたいけど何せ女子柔道がないからな。どうしようもないよ。ただな今度2中と練習試合をやるから2中の先生には勝美の話をしてみるよ」「本当ですか。ありがとうございます。公式戦がダメならこの際練習試合でも何でもいいですのでよろしくお願いいたします」

 こうして勝美は2年生の春から練習試合だけは出場する事になった。「練習試合でも普段の乱取りよりは緊張感があるから面白い」唯一の女子選手であったが勝美はまったく男子選手に引けをとらなかった。「あーあ勝美が男だったらな」この頃は千葉までがこんな事を言う始末だ。柔道に明け暮れる日が続きあっという間に月日は経って行った。

 そして高校受験。勝美は決して勉強も手を抜かなかった。見事地元の進学校蕨高校に入学した。


  

  決意


 無事に地元の有名高校に入学した勝美だが何か物足りなさを感じてしょうがなかった。高校に進学するとあの勝男が「おまえももう高校生か。ちょっと前ならもう嫁に行く年頃だな。そろそろおとなしくならんとな」こんな事を言う始末だ。勝美は血が騒いでしょうがない。気持ちの持ってき場所がない。高校には柔道部もない。「あーなんか気持ち良いもんないかな」折しもこの頃日本では空前のボクシングブームとなりつつあった。

 勝美が高校に入学する前年の昭和35年には新人王戦のフライ級には原田雅彦(後のファイティング原田)、海老原博幸、青木勝利の3人が登場し「フライ級三羽烏」と呼ばれた。

そして勝美が高校2年生。昭和37年10月10日にはファイティング原田が7年10ヶ月ぶりに日本に世界王座をもたらし巨人のON、大相撲の大鵬らと並ぶヒーローになった。

ファイティング原田が世界チャンピオンに輝いた10月10日にちなんでこの2年後に行われた東京オリンピックの開会式の日を決めたと言う話まである。勝美はテレビでこのファイティング原田の世界戦を観戦した。「なにこれ。めちゃくちゃ面白そうじゃない」勝美の心に火が点いた。「これだ。ボクシングしかない」勝美は決意した。「父さん。私ボクシングやる」「おまえは何を言ってるんだ。柔道ならいざ知らず。ボクシングなんぞは米英のもんだろう。絶対に許さん」「なんと言われようと私はやるからね」「駄目だと言ったら駄目だ」それから1ヶ月押し問答が続いた。全く二人とも引く気配すらない。「母さん。お前からも勝美にボクシングは絶対ダメだって言ってくれ。だいたい女のくせに殴り合いだなんてとんでもない話だ。絶対に許さん」「お父さん。私が言って聞くような子じゃありませんよ。だいたいお父さんそっくりの性格なんだからわかるでしょう」勝美は勝美で「ちょっと母さんからも父さんに言ってよ」「無理無理。あんたお父さんの性格わかってるでしょう。あんたそっくり。私を巻き込まないで」こんな調子だ。

 「もう面倒臭いな。このままじゃ埒があかないな。どうしよう。そうだ。学校やめて家出しちゃおう」なんと勝美は本当に学校に退学届けを提出し家出してしまった。これにはさすがの勝男も驚いた。「なんて奴だ」

 勝美は隣町の川口市の矢沢ジムの門を叩いた。

「入門したいんですが」「はっ。ボクシングは女のやるスポーツじゃないよ」「掃除洗濯なんでもやりますから住込で練習生にしてください」「あんたまだ若いだろう。幾つ」「はい。17です」「悪い事言わないから帰んな。親御さんは何て言ってんの」「家出しました。行くところがありません。ですから何とかお願いします」「随分とっぽい子だな。でもダメなものはダメだ。帰んな」それから一週間。勝美は毎日矢沢ジムの門を叩いた。「会長。私は入門させてくれるまで毎日来ますよ」「毎日来るってジムの前で寝てるくせによく言うよ」勝美は家出し寝るところがないので何と毎晩ジムの前で寝ていたのだ。「まったくしょうがねーな。まー練習くらいならいいか。その代わりしっかり雑用はやってもらうよ」「はい。ありがとうございます」「それと部屋だけど3畳一間で便所も洗面所も共同。もちろん風呂なんてないよ」「全然構いません」「なんて女の子だ」とうとう矢沢は根負けしたがどうせ3日も持たないだろうとタカをくくっていた。

 翌日から勝美の新たな人生が始まった。朝6時起床。7時に下宿を出て8時から17時まで清掃の仕事。18時から20時までジムでトレーニングだ。

 勝美はボクシングに没頭した。「何これ。柔道なんかより全然面白いじゃん。やっぱり取っ組み合いより殴り合いだね」勿論相手は男だ。ボクシングは階級別の競技なので勝美の相手も男とはいえ体重は同じ程度だ。中学時代柔道をやっていた事もあり勝美の筋力は男並だ。サンドバッグ、ミット打ち、スパーリング何でもこなす。特に勝美はスパーリングが大好きだ。入門し1年が経つ頃にはプロの4回戦と平気でスパーリングをした。これが決して負けていない。「あー気持ちいい。スパーリングは最高だ。ぎりぎりでパンチをかわして相手の懐に飛び込みボディを食らわす。常に緊張感を保っていないとやられる。この緊張感がたまんないんだよね。でも試合はもっと気持ちいいんだろうな」

 そんな生活が3年続き又、勝美は物足りなさを感じてしょうがなかった。この頃にはジムの4回戦クラスでは誰も勝美に歯が立たず6回戦の選手とスパーリングをしていたがこれも全く引けを取らなかった。「会長。私試合したいんですけど何とかなりませんか」「日本には女子のプロはないからな。アメリカしか女子プロはないからどうしようもねーよ」「そうですか。アメリカですか。会長。私アメリカ行きます」「はーまたおまえ何言ってんだ」「だって試合するにはアメリカに行くしかないんですよね。それじゃーアメリカ行くしかないじゃないですか」「そうは言ってもおまえそんな簡単に言うな」「いや。もう決めましたから何処かアメリカのジム紹介して下さい」「おいおい本当かよ。アメリカだぞ。熱海にでも行くみたいに簡単にいうな」「熱海でもアメリカでも一緒ですよ。要は試合ができればどこにでも行きます」「お前は恐ろしい女だね。まったく呆れるよ」勝美は一度決めたら頑として譲らない。さすがに今度はアメリカ。海外だ。一応親には言っておこうと思い実家に行った。この頃には流石の勝男も勝美のボクシングを認めていた。「父さん。私アメリカに行ってプロになる」「はーおまえは又、何を言ってんだ」「日本には女子プロはないの。アメリカに行くしかないの。だから行く。そしてアメリカの選手をぶっとばしてくる。父さん昔よく言ってたじゃない。いつかアメリカを倒す。鬼畜米英だって。それを父さんの代わりに私がやってくる」「くー。おまえ思い出させるなー。あれから20年。そうだな米国をぶっ倒してこい。絶対に負けんじゃねーぞ」「うん。まかしといて」親が親なら子も子だ。

 こうして勝美は親の承諾も得て単身アメリカに渡った。丁度二十歳だ。


  

  渡米


 勝美は単身アメリカカリフォルニア州ロサンゼルスに乗り込んだ。

「何なんだこの国は。スケールが日本とは桁違いだ」さすがの勝美も驚きを隠せなかった。

日本も戦後の復興を遂げ前年には東京オリンピックが開かれまさに高度経済成長真っ盛りの時だ。「この国から比べると日本はまだまだだな。こんな国と戦争したんじゃ勝てるわけがない。父さんもやっぱり井の中の蛙だったな。さて、先ずは住むところを決めないと」勝美は矢沢に紹介されたジムのオーナーケリーを頼りジムに行った。ケリーは190㎝を超える大男だ。

 「ハローケリー。マイネームイズカツミ」「おー勝美。矢沢から聞いてるよ。大丈夫僕は日本語しゃべれるから。先ずは今後の君の世話役を紹介するよ。成田だ」「初めまして勝美さん。成田です。どうぞよろしくお願いします」「根本勝美です。こちらこそどうかよろしくお願いします。何しろアメリカは勿論海外に出たのは初めてですから」「大丈夫。まかして下さい。僕はこちらに来て10年になりますから何でも聞いて下さい。とりあえず今後の拠点。住まいに行きましょう。このジムはロスのダウンタウンにありますがあなたの住まいはここから40分程のガーデナと言うところです。ご案内します」「ありがとうございます」成田の車で向かい予定通り40分程で到着した。「今日は疲れたでしょう。ゆっくりお休み下さい。くれぐれも夜間の外出はしないようにそれと門と玄関は必ず両方ともしっかり鍵を掛けてください。日本と違いこちらは物騒ですからね。それじゃ明日は10時にお迎えに上がります」「何から何までありがとうございます」「それじゃ失礼します」

「ふーん。やっぱりアメリカは物騒なんだ」

 この昭和40年。1965年はベトナム戦争が本格化した年でアメリカ社会も混沌とした時代であった。

 翌日成田が10時に迎えに来た。「今日はとりあえずジムに行ってトレーニング風景を見て今後のスケジュールを相談しましょう。それとアパートの周りをご案内します。買物の場所とか日常の生活に必要な最低限の知識は持ってないとね」「ありがとうございます。よろしくお願いします」

 ジムについて勝美は驚いた。「何だ。この立派な設備は。ウェイトマシーンなんて初めて見た。挙句に冷暖房完備にシャワーまで付いてる。日本のジムは暗くて臭くてシャワーなんて勿論ない。凄い違いだ。でもラッキーだ。家のシャワー使わなくて済む。節約。節約」アメリカは日本と違いジムの会費の中にトレーナー代は含まれていない。別料金でトレーナーを雇わなければならない。何事にも金だ。色々と金が掛かる。早速成田から紹介されたトレーナーのリッキーと契約した。リッキーは日本語がしゃべれないので成田が通訳を兼ねた。勝美は成田がどういう立場になるのか不思議でならなかった。「成田さん。色々お世話をいただいてありがたいんですけど私は成田さんを雇うお金はありませんけど」単刀直入に聞いてみた。すると「あー僕のことは気にしないで。お金は君から取るつもりはないから。但し君のプロモートはさせてもらう。僕はそっちで自分で稼ぐから大丈夫」「プロモートと言うと」「要は君の試合を組んだりスポンサーを見つけたりしてプロボクサーとしての君をコーディネートして行く訳だ。僕は単身アメリカに乗り込んできた日本人女性の挑戦に賭けた訳だよ。絶対に話題性はある。だから君はとにかくボクシングを頑張ってくれ」「そうですか余り難しい事はわかりませんがボクシングはとにかく大好きですからその点は全力で頑張ります」「うん。君はそれだけに集中してくれればいい。その為の環境作りも僕の仕事の一つさ」

 翌日から早速トレーニングが始まった。アメリカは日本の様なプロテストはない。実績を積みプロモーター、トレーナーと契約すれば一応プロとして認められる。先ずは実績を積む為に一ヶ月後からアマチュアの選手と試合を始める事になった。勝美はリッキーが作ってくれたトレーニングメニューに沿って練習した。

◯朝6時半 ランニング5㎞ ラダートレー   

      ニング シャドー

◯夕6時  ジムにて縄跳び2ラウンド 腕 

      立て50回 腹筋背筋50回

      シャドー3ラウンド サンドバ  

      ック5ラウンド ミット3ラウ

      ンド パンチングボール3ラウ

      ンド

 これが基本メニューだが時にスパーリング等が加えられる。まずは朝のランニングだがこれが最高に気持ちがいい。何しろアメリカは日本と違いでかい。雄大なのだ。「あー本当に気持ちいい。都会なのに緑もあって朝のランニングには最適だ」勝美は朝が待ち遠しくなった。昼間は清掃のアルバイトだ。ここには黒人、メキシカンなど色々な人が働いていて面白い。音楽が流れれば黒人もメキシカンもリズムに合わせて体を動かしモップをかけ始める。街を歩いていても彼らはいつもリズムを刻んで歩いている。「やっぱりリズム感がすごいな。でもこれフットワークの練習になる。私もやろう」昼間の清掃作業も楽しみの一つになった。そしてお昼は街のあちこちにあるハンバーガーショップへ出掛け大好きなハンバーガーを食べる。「何なのこの馬鹿でかいハンバーガーは。うわ。何このコーラのカップは。花瓶じゃないんだから。本当。アメリカは何でもでっかい。みんな太るわけだ」アメリカは世界一の肥満国家だ。「買い物も面白いなー。リズム感あふれる黒人やメキシカンが体を揺すりながら買い物してるかと思えば超デブッチョのおばさんがのっそのっそととんでもない量の爆買いをしてたり色んな人間がいて面白いや」全てが真新しい。そして夕方はジムでトレーニングだ。その日その日が楽しくてしょうがなかった。

 勝美は1ヶ月後の試合に向け練習に明け暮れた。特にスパーリングに重点を置いた。相手はもちろん男子だ。黒人とメキシカンがほとんどだ。「スピードとリズム感が半端じゃない」当初勝美は全く歯が立たなかった。「ダメだ。全然スピードについて行けない。リッキー。もっとスピードをつけるトレーニングはない」「ソウネ。カツミ。スピードハカハンシンネ。ダッシュトハシリコミ。ソレトスクワットヲフヤシマショウ」それから勝美は徹底的に下半身を鍛えた。通常のランニングに加え100mダッシュを10本。スクワットもリッキーを肩に担いでのスクワットを試みた。「リッキー。ちょっと私の肩に乗って」「ノー。カツミ。ムリムリ。カラダコワレルヨ」「うん。ちなみに何キロあるの」「130㎏ネ」「太り過ぎだよ。全くアメリカ人はデカけりゃいいってもんじゃないでしょう。全く」仕方なくジムにいる手頃な練習生を担いでスクワットを行った。

 1ヶ月後勝美の下半身は見違えるほどしっかりしスピードもパンチ力も格段にアップした。

 「リッキー。ちょっとミットやろう」「OKカツミ。ヘイジャブ」「バチン」「ジャブ・ワンツー」「パンバチン」「ワンツーー・フック・アッパー・フック・ストレート」「パチン・パチン・パン・パチン・ズドン」「オーカツミ。パンチストロングヨ。ベリーグッド」「どうリッキー。だいぶパンチのスピードと威力ました」「ナイス。ナイスヨカツミ」

 そして初の試合を迎えた。勝美は日本にいた時から男子プロと年がら年中がちんこのスパーリングを行っていたので戦い方は熟知している。初戦は楽にKO勝ちを飾った。その後も連戦連勝。やはり女子のアマチュアレベルでは勝美は群を抜いていた。10戦10勝しいよいよ念願のプロデビューが決まった。


  

  プロデビュー


 「勝美。デビュー戦が決まったぞ。9月30日。場所はオリンピック・オーデトリアムだ。相手はアメリカ女子プロ第1号のマリアン・トリミアーだ。アメリカの女子プロ第1号対日本の女子プロ第1号の対決だ。盛り上がるぞ」成田は意気揚々だ。「クラスは何級ですか」「ライト級だ。それとリングネームなんだけど僕の方で勝手に考えちゃったんだけどいいかな」「はい。構いませんけど何て言うんですか」「うん。パールハーバー勝美」「はー。それって思いっきり喧嘩売ってません」「だって鬼畜米英でしょう。それに絶対話題性があっていいよ」「信じらんない。さすがにもうちょっと考えません」「ごめん。もう提出しちゃった」「なんだかなぁ」「お詫びに飯でも奢るよ。今後の話もあるしね」「ラッキー。行きましょう」「何か食べたいものは」「もちろんハンバーガーよ。試合が終わるまではもう食べられないから」「よし。じゃーリッキーも誘おう。リッキー。飯食べに行こう」「OK。ナリタ」「勝美。どこか行きたいショップは」「そうね。ISLANDSにしよう」「OK。レッツゴー」

 各自が好きなハンバーガーを注文した。

 「どう。トレーニングは順調」「えーお陰様でだいぶこっちにも慣れてきた。言葉はまだダメだけどなんとかなるもんですね。身振り手振りで理解し合えますよ。かえってそっちの方が面白くてコミュニケーションもとれる感じですよね」「へー面白いもんだね。リッキーはどう」「えー。いい人を紹介していただいてありがとうございます。とっても明るくてきついトレーニングもリッキーとなら苦にならない感じになります」「ふーん。リッキー良かったね」「ナンダカヨクワカリマセン。デモアリガトウ」「ところでこれから僕は徹底的に君を売り込んでいく。パールハーバー勝美のリングネームもその一環だから勘弁して。僕は君の世界戦まで視野に入れてるからね。そのつもりでリッキーと頑張ってよ」「はい。もちろん私の目標も世界チャンピオンですから。リッキーよろしくね」「オフコース。シンパイナイヨ。カツミ」「とにかく成田さん。どんどん試合組んでください」「わかった。体に支障をきたさないペースで組むよ」「よろしくお願いします」3人は食事を終え外に出た。すると一見して不良とわかる若いのが3人こちらに向かってくる。一人がナイフを出した。「リッキー。勝美を頼む」「えっ。ちょっと成田さん」「カツミ。ダイジョウブ。ノープロブレム」成田は一言二言若者らと話すといきなり一人がナイフで成田に切りかかった。成田はそれを左に交わし左フックを食らわしたかと思うと残りの二人に向かって踏み込みたちどころに3人を倒した。

「嘘。成田さんすごい」「オー。カツミシラナカッタノ。ナリタ。モトニホンチャンピオンヨ」「えー。全然知らなかった。だってどっから見てもなよなよしてる風にしか見えないよ」「能ある鷹は爪を隠すってね。これでも元ライト級の日本チャンピオンさ。勝美のボディーガードも兼務してるわけだ。まーいらないかもしれないけどね。とにかくこっちは物騒だから気をつけてね」「はい。わかりました。それにしてもたまげた」

 9月30日まで後3ヶ月。リッキーのトレーニングが激しさを増した。「カツミ。スピード。スピード」女子はやはり男子と比べるとパワーとスピードが劣る。勝美は柔道をやっていたのでパワーには自信があったが若干スピードに難がある。リッキーは勝美にスピードを上げるトレーニングをこれまで以上に施した。ボクシングのパンチは腕力ではない。背筋力。腰。肩の回転だ。足腰の強化と背筋の強化だ。先ずはランニングだ。これも普通のランニングではない。100mダッシュして50m軽く流す。これを毎日50本。腕立て100回。背筋100回。スクワット50回。勿論腹筋もだ。今回の試合はライト級。ライト級ならば殆ど減量はない。その分楽と言えば楽だが筋力を付けると体重は増えるので注意しなければならない。勝美は必死にトレーニングをした。スパーリングも毎日行った。相手はもちろん男子だ。黒人、メキシカンがほとんどだ。これまでの相手は男子アマチュアだったが今回からはプロを相手に行った。当然スピードも段違いに速い。「何なのこいつらのスピードは。尋常じゃないしこのリズムも凄い。日本人と全然違う」勝美は当初スピードに翻弄されていた。しかしスパーリングを重ねるにつれ徐々に慣れてきた。

 「やっとリングに立てる。アメリカに来て1年半。試合がしたくてしょうがなくてこっちまで来たけどようやっと実現する。あー早く試合がしたい」勝美は辛い練習も楽しくてしょうがなかった。

 3ヶ月はあっという間に過ぎた。いよいよ試合当日。控室で勝美はワクワクしてどうしようもなかった。「あー早くリングに上がりたい。思いっきりパンチを打ちたい。早く。早く」

「サーカツミ。レッツゴー」リッキーの声がかかった。いよいよ入場だ。

 「リメンバーパールハーバー」「リメンバーパールハーバー」「キルジャップ」物凄いブーイングだ。「だから言ったんだよなぁ。成田さん勘弁してよ」当の成田は「いいねーこれだよこれ。最高。もっと熱くなれ。ヤッホー」「駄目だこりゃ」勝美はリングに上がり手を上げた。一段と激しいブーイングだ。「あー気持ちいい。ここに上がりたかった。最高」今日の試合は4ラウンドだ。最初は日本と同じく4回戦から始まる。女子のルールは1ラウンド2分。インターバル1分で行われる。相手のマリアン・トリミアーには応援の声援が凄い。「どうでもいいけど凄い美人じゃない。頭にくる。ぼこぼこにしてやる」

 「カーン」1ラウンド目が始まった。勝美は左ジャブで威嚇しながらボディ、フック、ストレート、アッパーとコンビネーションを繰り出して行く。相手のマリアンも中々のものだ。「こいつ結構やるじゃん。女子プロ第1号は伊達じゃないね」勝美は水を得た魚の如くリング上を舞った。あっという間に最終ラウンドとなった。これまでのラウンドを見れば圧倒的に勝美が優勢だ。最終ラウンドのゴングが鳴った。「カーン」ジャブで距離を測りながら的確に勝美はパンチを当てた。相手も必死だ。「カーン」終わりを告げるゴングが鳴った。「あー楽しかった。気持ちいい。美人をぼこぼこにするのは気分がいいね。これで私と同じくらいかな。あはっ」判定が始まった。「ウィナーマリアン・トリミアー」「えっ。ちょっと何で」まさにアウェイの判定だ。会場はマリアンコールとリメンバーパールハーバーの歓声で一杯だ。「畜生。判定じゃ勝てない。次は絶対にKOしてやる」

 「いやー勝美。最高。大成功だ。この調子でばんばん試合組むぞ」成田は絶好調だ。「あのねー成田さんこんなふざけた判定がある。冗談じゃないわよ」「まーそうかりかりしなさんな。しょうがないよ。ここはアメリカ。完全アウェイなんだから判定じゃ勝てないよ」「次は絶対KOしてやる」「その意気その意気。ところで今後の階級はどうする」「減量が必要なら気合入れてやるから何でもいいですよ」「本当かよ。じゃー遠慮なく試合組むよ」「望むところです」

 勝美はその後バンタム級からウェルター級まで戦う事になる。バンタム級のリミットは53・52㎏。ウェルター級のリミットは66・68㎏。その差13・16㎏だ。これだけの体重の幅で試合をするのは通常であれば考えられない。勝美は普段は63㎏のライト級だ。当然減量は厳しいものになる。真夏でもサウナスーツを着てのトレーニングは当たり前。それでもなかなか落ちない時は真夏に窓を閉め切ってストーブを焚いてトレーニングをする。これにはさすがに他の練習生に迷惑が掛かるがプロの試合優先だから仕方がない。しかも水は一切飲まない。まさに体は干からびた状態だ。唯一許されるのは野菜だ。この減量次第で試合当日の動きは全く変わってくる。現在は前日計量になったが当時は当日計量だ。減量失敗は即、敗北につながる。計量後いくら食事を取ってもすぐに体力が戻るはずもない。常にコンディションを整えて動ける状態で減量しなければ意味がない。選手の中には減量が試合になってしまうものもいる。これでは試合では全く体が動かず勝つことはできない。勝美は試合が決まった翌日から綿密な計画を立てて徐々に落として行くので体のキレにはほとんど影響しない。とは言えやはり減量はきつい。しかも試合ごとに減量の幅が異なるのも厄介だ。「あの試合の気持ち良さを味わえるのなら減量なんかへっちゃらよ」勝美は歯を食いしばって減量を行った。もちろん大好きなハンバーガーもお預けだ。この計量にも実はホームとアウェイの差がある。勝美が計量するときはしっかりと計られるが対戦相手は一瞬計りに上がりすぐに降りて水を飲む始末だ。これではまともな計測は出来るはずがない。要は計量オーバーしているのを隠すためにみんなでグルになっているわけだ。当然計量係もグルだ。最初は勝美も文句を言ったがここはアウェイ。所詮無駄な足掻きだ。今では気にもしなくなっている。「相手が重かろうが関係ない。ぶっ倒すのみ」

 デビュー戦は飾る事が出来なかったがその後は連戦連勝。全てKO勝ちである。会場は勝美が入場すると一斉に「リメンバーパールハーバー」の大合唱だ。そんな中を勝美は勝ち続けた。試合は4ヶ月に一度のペースで組まれた。年間3試合だ。ボクシングは過激なスポーツなのでこのペースが目一杯のペースだ。

 段々と「パールハーバー勝美」の名は全米に知れ渡ってきた。成田は次のステップを考えていた。それはボクシングの聖地ラスベガスで勝美の試合を組む事だ。当時ラスベガスで試合をした日本人は勿論いない。現在でも西岡選手がやっと試合ができたくらいだ。ラスベガスで試合を行うのはボクシング選手にとっては夢でもある。又、プロモーターとしてもラスベガスで成功を収める事は一流のステイタスでもある。成田は何としても勝美の試合を組みたかった。目標は勿論世界タイトル戦だ。

 勝美は週に一度は完全なオフ日とした。勝美のオフの過ごし方は決まっている。渡米後買った愛車のハーレーダビットソン。愛称「大和」に跨りロスからラスベガスまでツーリングだ。アメリカならではの荒野を走り巨大トラックをぶち抜いて行く。「ヒュー。アメリカはでっかいな。気持ちいい。最高。それにしてもでっかいトラックだな。日本じゃこんなの走れないよ」ロスからラスベガスまでは3時間くらいで着く。勝美はMGMグランドホテルの前で「いつか必ずここのリングに立ってやる」と誓った。

 勝美は勝ち続けた。この頃勝美は父の勝男に短い手紙を書いている。「父さん。約束通り鬼畜米英。ばんばんぶっ倒してるからね」

勝男からの返事は「8月15日を忘れるな。世界チャンピオンになれ。天皇陛下万歳」似た者親子だ。

 チャンスが来た。ウェルター級のチャンピオンが勝美を指名したのだ。これは成田が仕組んだ。チャンピオンの父親はミッドウェイ海戦で零戦に殺られ戦死していた。未だ恨みは消えていない。勝美のリングネームは「パールハーバー勝美」だ。チャンピオンが意識しない筈はない。成田は微妙にそこを突いた。

「チャンピオン。どうですか勝美と戦ってすっきりさせませんか。勝美もアメリカの原爆投下には納得していません。お互いに戦ってすっきりさせませんか」ちなみにチャンピオンのリングネームは「エノラ・ジェシカ」だ。勿論広島に原爆投下した爆撃機B29のエノラ・ゲイからとったものだ。リングネームもお互い因縁めいている。この時勝美はウェルター級世界ランク5位。実力的にも申し分ないカードだ。「アメリカに渡って5年やっとチャンスが来た」勝美は燃えた。

 このニュースは日本でも話題となった。「日本人女子第1号プロボクサーパールハーバー勝美 世界に挑戦 相手はエノラ・ジェシカ まさに因縁の対決」各紙が取り上げた。試合は半年後の日本時間10月10日午前8時。これも因縁かファイティング原田が世界チャンピオンになった日でもある。場所はラスベガスMGMグランドホテル。ボクシングの聖地での対決である。メインイベントはあのモハメッドアリの世界戦だ。その一つ前に組まれての試合だ。ダブル世界戦である。世界中が注目する試合だ。


  

世界戦


 世界戦が決まり勝美は愛車ハーレー大和に跨りラスベガスMGMホテルに向かった。「とうとうここで試合ができる。次来る時は試合の時だ。そしてここを出る時は世界チャンピオンだ」勝美は誓い。MGMを後にした。

 「リッキー。ばしばし鍛えてね」「OK。カツミ。ゼッタイカチマショウ」リッキーも大分日本語が喋れるようになった。勝美はと言うと英語は相変わらずからっきしである。

世界戦の準備とはいえ基本的なトレーニングは変わらない。ただ相手のジェシカを想定してのトレーニングとなる。ジェシカはサウスポーだ。サウスポー相手のスパーリングが増える。ウェルター級なら減量の必要もない。大好きなハンバーガーも食べられる。体力的には問題がない。やはり問題はスピードだ。デビュー当時から比べるとスピードは格段に上がったが相手のエノラ・ジェシカはリングネームが爆撃機だけあってスピードと破壊力は図抜けている。今の勝美のスピードでは太刀打ち出来ない。勝美は徹底的にランニングと筋トレを行った。今回はウェルター級だから筋力を付けてもウェイトをオーバーする心配はない。朝のランニングは10㎞。筋トレも倍に増やした。勝美の体は見る見る無駄が削げ落ち筋肉が増した。筋肉が増したとは言えボディビルダーのような大きな筋肉ではない。パンチのスピードと破壊力が増したシャープな筋肉だ。「カツミ。モットカタノカイテンヲハヤクネ。コンパクトニネ」リッキーのアドバイスは的確だ。試合が近づくにつれスパーリングにも熱が入る。勝美のスパーリング相手はもちろん男子だ。女子で勝美のスパーリングパートーナーをできるものはいない。それにやはり女子よりも男子の方がスピードがある。ジェシカ対策には持ってこいだ。「カツミ。モットカラダフッテ。スピードニタイオウスルニハボディバランスガタイセツヨ」リッキーの声が飛ぶ。「しかし黒人選手は本当にスピードがある。いい練習になるけどまともにもらったら大変だわ」勝美はスパーリングに明け暮れた。

 試合まで1ヶ月。勝美とリッキーはサンタモニカで合宿に入った。

 朝6時起床。ランニング10㎞。

        ラダートレーニング

 朝食7時30分 9時まで休憩

 9時     筋トレ

        鉄アレーシャドー

        ダッシュ&スロー

 午前中は3時間の練習だ。

 昼食12時 15時まで休憩

 15時    体操

        縄跳び*2R

        シャドー*3R

        サンドバック*5R

        スパーリング*6R

        ミット打ち*3R

        パンチングボール*3R

        ディフェンストレ*2R

        ストレッチ

 午後は2時間の練習だ。

 夕食18時

 20時    ビデオ観察及び対策

 1時間のイメージトレーニング

 22時就寝

 このスケジュールを2週間行った。

 合宿を終えてからはほとんどがスパーリングに費やされた。毎日10ラウンドだ。試合まで1週間は疲れを取る為軽めの練習に変わる期間だ。

 「やるだけの事はやった。あとは本番を待つのみ。この1週間は軽めのトレーニングで体を整えよう。でもハンバーガーを食べられるなんて本当ウェルター級でラッキーだ。これがバンタム級の世界戦じゃ減量がきつくて参っただろうな」勝美本人には知らせていなかったが成田はバンタム級からウェルター級まで全てのチャンピオンに勝美との世界戦を打診していた。しかし勝美のパンチの威力はこの頃有名で軽いクラスでは敬遠されていたのだ。唯一受けたのがウェルター級のジェシカだった。

 その頃成田は今回の試合の注目度を上げるためテレビ局やスポンサーへのロビー活動を積極的に行っていた。「今回の試合は日本のボクシング界にとっても重要な試合だ。何が何でも成功させなければならない」成田はアメリカだけでなく日本にも何度も帰国しスポンサー集めに躍起になっていた。その甲斐あって日本テレビがテレビ中継する事となった。日本で初めての女子世界戦のテレビ中継だ。

 半年はあっという間に過ぎ去った。試合1週間前。父勝男から手紙が届いた。「ここまでよく頑張った。試合には観戦に行く。鬼畜米英。天皇陛下万歳」「全くわけわかんない。全然変わらないな」勝美は微笑んだ。

 試合当日計量。勝美もジェシカも一回でパスした。お互いに握手を交わしその場を離れた。

 試合当日控室。「勝美。とうとうここまで来たな。5年前おまえが単身アメリカに渡ってきた時はどうせ持っても3ヶ月だろうと思ってたけどまさかここまで来るとは思わなかったよ」「随分失礼ね。あの時俺に任しとけって言ったのは誰だっけ」「そうだな。やっぱり俺の目に狂いはなかったわけだな」「よく言うよ」「俺もこの試合を成功させてプロモーターとしてステップアップするぞ。おまえも勝って日本にベルトを持って帰れよ」「任しといて」「そういえば今日は天皇陛下万歳のお父さん来るんだろう」「そう。それと鬼畜米英が口癖なの。試合中言わなきゃいいと思ってるんだけど」「大丈夫だ。言ったって通じないから」「それもそうだね。あはは」「さて、そろそろ時間だな」「OK。レッツゴーカツミ」リッキーだ。「よし。行こう」勝美はリングに向かった。

 「ウォー。リメンバーパールハーバー。リメンバーパールハーバー」物凄い盛り上がりだ。勝美の気分も最高潮だ。リングに上がり観客を煽る。「もっと言え。もっと騒げ。あー気持ちいい。最高だ」実はこの頃には勝美も大分人気が出てきていた。この「リメンバーパールハーバー」もある種勝美に対する声援でもある。笑いながらやじる客もたくさんいる。チャンピオンのエノラ・ジェシカが入場してきた。「ボンバーエノラ」こちらは正真正銘の大声援だ。ジェシカがリングに上がって観客に手を振る。「エノラ・ジェシカ」物凄い人気だ。それもそのはずめちゃくちゃ美人だ。「あーなんでまたこんなに美人なのかなぁ。私の相手はいつもそう。成田さんわざとそういう風に組んでんじゃないの」勝美はぼやく。「まーいーや。あの顔ぼこぼこにしてやる」

 国歌斉唱。先ずはアメリカ国歌が流れた。続いて日本の国歌。君が代が流れた。終わると同時に「鬼畜米英。天皇陛下万歳。勝美頑張れ」袴に下駄履きの勝男がリングサイドにいた。「うわー。勘弁してよ。しかも日の丸の鉢巻に日の丸の扇子かよ。まいったなぁ」コーナーでは成田とリッキーが笑っている。「特攻服じゃないだけましだよ」「冗談やめて」「勝美。頑張れ」「千葉先生も来てくれたんだ」「姉御。頑張れ」「あっ。伊作だ。来てくれたんだ。相変わらずちびだな」

 リングアナウンサーの選手紹介が終わりいよいよゴングだ。この試合はタイトル戦なので10ラウンドで争われる。両者が中央で睨み合う。レフリーの注意が終わり両者が離れた。

 「カーン」第1ラウンドのゴングが鳴った。先ずはお互いジャブで牽制だ。ジェシカはサウスポーだが勝美は比較的サウスポーは得意な方だ。右をジャブ代わりに多めに繰り出すのがこつだ。ジェシカもジャブを中心に繰り出してくる。このラウンドはお互い距離を測りながら様子を見ている。「カーン」静かな1ラウンド目が終わった。「カツミ。ツギノラウンド。ワンツーカラボディネライマショウ」「OK。リッキー」

 「カーン」ラウンド2。

 「シュッシュッドン」ワンツーボディだ。ジェシカの顔がゆがんだ。「シュッシュッドンバシン」今度はワンツーボディフックだ。ボディ打ちでガードが下がった所に強烈なフックだ。これは効いた。「よし。もう一丁だ」しかしジェシカもさすがはチャンピオン。2度は食らわない。ワンツーをダッキングでかわし逆に空いているボディに強烈な一発を見舞った。「グッ」勝美の顔がゆがんだ。そこに容赦なくアッパーが飛んできた。「バチン」頭が揺れる。お互いに一歩も引かない打ち合いが始まった。「カーン」2ラウンド終了のゴングが鳴る。「カツミ。ガードシッカリ。ウチマケテナイヨ。ジブンノキョリタイセツニネ」「OK。リッキー」

 「カーン」ラウンド3。

 このラウンドも両者譲らず。どちらかと言えばジェシカはスピードを生かした手数で勝負。勝美は強烈なパンチ力で勝負。戦前の予想通りの戦いだ。「カツミ。ツギノラウンドスコシショウブイクネ」「OK。リッキー」「ゴー。カツミ」

 「カーン」ラウンド4。

 勝美が飛び出した。「シュッシュッバチンパチンバチンビシッ」ワンツーフックアッパーフックストレートの6連発コンビネーションだ。「ダウン」ジェシカが倒れた。見事なコンビネーションだ。「ワン。ツー。スリー。フォー。ファイブ。シックス。セブン。エイト」カウント8でジェシカが立ち上がった。まだ1分ある。勝美はラッシュした。ジェシカはクリンチを混ぜ体を入れ替えながら何とか凌いだ。「カーン」第4ラウンド終了。惜しくもしとめることが出来なかった。「カツミ。グッドネ。コノチョウシヨ。アイテモソロソロクルコロヨ。ガードネ」「OK」

 「カーン」ラウンド5。

 ジェシカが出た。中盤。勝負に出た。「シュッドンパチン」ジャブボディアッパー。「ドンパチン」勝美ダウン。アッパーが諸に入った。顎は急所だ。食らうと頭が振られ一発で倒れる。「ワン。ツー。スリー。フォー。ファイブ」カウント5で立ち上がった。「カツミ。モットユックリタチアガルヨ」リッキーが怒鳴る。今度はジェシカのダッシュだ。勝美が堪らずクリンチする。「クソ。さすがに強い」勝美は性格的にクリンチはまずしない。ジェシカはボディとアッパーが得意だ。わかっているがやはり速い。「カーン」第5ラウンド終了。何とか凌いだ。「ふーやっぱり強いや」「カツミ。モットカラダフッテ。ジェシカ。テガナガイカラカラダウゴカシテ、カワシテ、フトコロハイッテコンビネーション。OK」「OK。リッキー」

 「カーン」ラウンド6

 壮絶な打ち合いが始まった。このラウンドはお互いに一度づつダウンする。「カツミ。カラダガレンシュウオボエテルヨ。カタマワシテ。スピードスピード」「OK。リッキー」

 「カーン」ラウンド7。

 両者瞼を切り血まみれだ。「カツミ。ダイジョウブ。メミエル」「リッキー大丈夫。まだ見える。ジェシカの顔も酷くなってきたね。美人が台無しだ。あは」

 「カーン」ラウンド8。

 残すところこのラウンドを入れて3ラウンドここからが勝負だ。相手も必死だ。勝美は得意のコンビネーションを放つ。ワンツー、フック、アッパー、フック、ストレート。ジェシカもダッキング、ウィービングをしながらかわす。かわす反動を利用して得意のボディ、アッパーが勝美を襲う。どちらも一歩も引かない。もはや両者クリンチもしない。まさに死闘だ。「カーン」8ラウンド終了のゴングが鳴る。

 「カツミ。ノコリ2ラウンドネ。コレマデカラダデオボエテルコトオシゼントダスネ。コレマデノレンシュウオシンジルネ」「OKリッキー。もう何も考えない。自分の体に任せるわ」

 「カーン」ラウンド9

 ここまで二人共ダウンは二度づつ。まさに一進一退だ。勝美の右ストレート。ジェシカがダッキングでかわし左のフックがカウンターで勝美を捉えた。勝美倒れない。堪えた。ジェシカのラッシュだ。ボディ、フック、バックステップしてとどめのストレートだ。勝美がこれに合わせた。クロスカウンターだ。もろに入った。ジェシカぐらつく。今度は勝美のラッシュだ。両者全く譲らない。「カーン」9ラウンド終了のゴングだ。

 「カツミ。ナイスファイト。ツギデサイシュウラウンドネ。ジブンシンジテガンバルネ。メハダイジョウブ」「リッキーありがとう。ここまで来たら目なんて関係ない。死ぬ気て行くわ」「OK。レッツゴー」

 「カーン」ラウンド10。ラストラウンド。

 「勝美。鬼畜米英。天皇陛下万歳。頑張れ」

「父さんだ。相変わらず何言ってんだか」会場は敵も味方ももはやない。両者に大声援だ。

勝美もジェシカもボロボロだ。飛び散る血。光る汗。飛び散る血が汗で光り美しい。二人共もはや意識がないのではないかと思うほど自然だ。だが両者パンチを繰り出す。これまで練習で培ったものが恐らく自然に出るのだろう。

 「あー気持ちいい。なんだろうこの感じは。ジェシカのパンチがスローに見える。私のパンチもスローだ。宙に浮いてるみたい。あー気持ちいい。最高」

 「カーン」試合終了のゴングが鳴った。両者が健闘を讃えあいリングの中央で抱き合う。

会場は割れんばかりの拍手。スタンディングオベーションだ。こんなクリーンな美しい試合は見た事がない。この模様は海の向こうの遠い日本にも送られている。「勝美。いい試合だったぞ。ナイスファイトだ」矢沢会長だ。「勝美。相変わらずあなたらしい試合よ」勝美の母だ。実は勝美が渡米するとき母のみちは「勝美。行くからには絶対にチャンピオンになりなさい。なれなかったら辞めさせるわよ」と伝えていた。多くの日本人が初めて女子プロボクシングを目の当たりにした試合でもある。結果はどうあれこの試合は永遠に語り継がれるだろう。ジャッジが出た。レフリーが両者を中央に呼ぶ。緊張の一瞬だ。ジャッジが両者の手を上げた。「ドロー」引き分けだ。チャンピオンベルトの移動はない。勝美はベルトに手が届かなかった。「ドローか。悔しいけどしょうがない。あーでも気持ち良かった。こんな気持ち良さは初めて。又、やろう。今度こそチャンピオンになってやる。勝てなかったけど負けてもいないからまだ母さんに止めさせられないしね」「勝美。よくやった。惜しかったな。見てみろよこの声援。もうリメンバーパールハーバーなんて誰も言わないよ。勝美は完璧にアメリカに受け入れられたな」「成田さんのおかげよ。ありがとう」「カツミ。ザンネン。ザンネン」「何。リッキー泣かないでよ。次よ。次々。これからもトレーナーよろしくね」「モチロン。モチロン」

 勝美がリングを降りると大声援が勝美を包んだ。「勝美。よくやった。天皇陛下万歳」「全く父さんは。でも鬼畜米英が消えた。父さんもすっきりしたかな」伊作が抱きついてきた。「姉御。ナイスファイト」「ちょっと重い。あんたちびのくせに体重だけはあるね。でも遠いところ応援に来てくれてありがとう。地元のみんなは元気」「元気ですよ。きっとみんな今頃テレビに釘付けですよ。おーいみんな見てるか。平助見てるか」「あはは。伊作やめな」勝美は笑いながら会場を後にした。

 翌日。MGMグランドホテルを見つめ「又、来るからね。やっぱりボクシングは最高に気持ちいい。特にここでの試合は最高だ。ちょっとの間待っててね」MGMに別れを告げ、愛車のハーレーダビッドソン大和に跨りラスベガスを後にした。



  挫折


 「やっぱりボクシングは最高だ。特にこの間のラスベガスでの試合は最高だった。あーまた早くやりたい」試合後1週間がたち顔の腫れも引くと勝美は軽いロードワークを始めた。「試合の疲れも取れたしそろそろ体を動かさないと鈍ってしょうがないわ」20分位走った時だ。「痛っ」突然勝美が頭を抱えてうずくまった。目の奥から後頭部、脳天へ激しい痛みが走った。すぐに家に戻り成田に電話した。「ちょっと頭が痛くてしょうがないから医者に連れてってくれない」「大丈夫か。すぐに行くよ」成田が来た。「どうした」「軽くランニングしてたら突然頭が痛くなって、今は大分いいんだけど」「とりあえず医者に行こう」

 医者に行くとCT等色々な検査が行われた。すぐに検査の結果が出た。結果は最悪。「網膜剥離」だ。当時は網膜剥離を起こすと即刻ボクサー引退と言う時代だ。勝美はその場にへたり込んだ。「何で。何で」成田が肩を抱く。

 勝美はどちらかと言うとアウトボクサーと言うよりもファイター型のボクサーだ。打ち合いが多い。それが仇となった。又、先日の世界戦でのジェシカとの壮絶な打ち合いがやはり決め手になったのだ。

 勝美は全くジムに姿を見せなくなった。電話も繋がらない。昼のパートにも出ていない。

成田とリッキーは「暫くそっとしておこう」「ソウネ。ソレシカナイネ」

 勝美は網膜剥離の手術を受けた。結果は良好だが一度網膜剥離にかかったボクサーは二度と復帰できない。退院後勝美は荒れた。元々アルコールは大好きだったがボクシングの為控えていた。「ふん。もうどうせ復帰できないんだから浴びるほど飲んでやる」勝美は毎日昼から酒を飲んだ。そんな生活を続けていたある時夜の酒場で勝美はトラブルに巻き込まれた。「おい。お前パールハーバー勝美か。それにしてもひでーつらだなー」「うるせー」「ドス」思わず手を出してしまった。女とはいえ勝美は世界戦まで戦ったボクサーだその辺の男には負けない。連れの男連中とも揉め3対1の大立ち回りを演じてしまった。当然警察官が現れ勝美はその日はブタ箱泊まりだ。翌朝。引き取り人は成田だ。「勝美。もういい加減いいんじゃないか。何か別の事を考えろよ」「別の事。あんたボクシング以外で私に何があるって言うのよ。適当な事言わないでよ」「でもこのままじゃどうしようもないだろう」「いいからほっといてよ」勝美は一人街へと消えていった。それからというもの勝美はアルコール、ドラッグにまで手をつける始末だ。勝美は身も心もボロボロになった。そんな生活が3ヶ月続いた。

 一通の手紙が届いた。母のみちからだ。「勝美。話は成田さんから聞きました。目の具合はどうですか。まずはきちんと治す事を心がけなさい。お母さんにはよくわかりませんが網膜剥離になったボクサーは引退しなければならないそうですね。そういうルールであればこれはもう仕方のない事だから素直に受け止めなさい。そして時間はあるのだから今後の事は色んな人とも相談しこれまでのあなたの生きた人生を振り返ってこれからの生き方を自分の意思でしっかりと決めなさい。あなたらしく他人任せではなく自分でしっかりと決めなさい。決めた事に関しては父さんも母さんも何も言いません。とにかく前を見て歩きなさい。こんな事でダメになるような子に育てた覚えはありませんから。それとあなたは負けたわけじゃないからまだ帰ってこなくてもいいですよ。好きなだけそちらにいなさい。最後に父さんからの伝言です。天皇陛下万歳。母みち」「アッハッハ。さすが母さんだ。あの旦那のキンタマ握ってるだけのことはある。こんな落ち込んでてもしょうがないや。ひとっ走りぶっとばすか」

 勝美は愛車のハーレー大和に跨りロスからラスベガスへ続く荒野をぶっ飛ばした。100㎞、120㎞、150㎞、180㎞。どんどん加速して行く。「あー気持ちいい。でもやっぱりボクシングには敵わないな。畜生。もうあの気持ちいい思いはできないのか。次は何やろうか」目の前の大型トラックをぶち抜く。「しっかしこっちのトラックはでっかいな。日本の道じゃ走れないよ。何もかもアメリカはでかいや」MGMの前に着くと「あーもうここで試合できないのか。気持ち良かったなー。グッバイMGM」

 勝美はMGMに別れを告げハーレー大和に跨り荒野をぶっ飛ばしてロスに戻った。

 翌日1ヶ月ぶりにジムに行くと。「成田さん。私と結婚してくれない」「ぶっ。おまえいきなり何言い出すんだ」コーヒーを吹き出してしまった。「本気で言ってんのか」「本気だよ。5年間成田さんと一緒にいてわかった。あなたとならタッグを組んでやって行ける」「そうか。じゃあ初めからやり直しだ。勝美。俺と結婚してくれ。こう言うのは男から言うもんだ。結婚してくれ」「ありがとう。もちろんOKよ。よろしくお願いします」「ヒュー。コングラチュレーション。オメデトカツミ」「ありがとう。リッキー」

 二人の生活が始まった。住まいもジムに近いダウンタウンに引っ越した。勝美は料理がからっきしなので食事は成田が作る。成田の料理はプロ顔負けの腕前だ。特にラーメンは1級品だ。「いやー実はさあ。俺まじでラーメン屋になろうと思ってたんだよね」「まじ。でもなれるよ。めっちゃうまいもん」「でもさ。やっぱりボクシングのプロモーターの方が面白いよ。好きなボクシングからは離れられない。勝美の試合はもう組めないけどこれまでの実績のおかげで何とか食える様になったしね。これも勝美のおかげだよ。感謝してる」「何言ってんのよ。いまや飛ぶ鳥を落とす勢いのプロモーターのくせに。私の方こそ感謝してる。おかげで勝てなかったけどラスベガスのMGMのリングに立つ事も出きた。あなたのおかげよ」成田と勝美はお互い酒好きだ。勝美はプロを引退したため減量の心配もなくなった。毎晩晩酌は欠かさない。成田はワイン党。勝美はもちろん日本酒だ。楽に一升は呑む。「しかし勝美は日本酒好きだよな」「当たり前でしょう。日本人にっぽんじん日本酒にっぽんしゅに決まってるでしょう。ワインなんて邪道よ」「はいはい。悪うございましたね。でもあんまり呑みすぎるなよ」「大丈夫。これまで体調管理の為にほとんど呑んでなかったからその分取り戻してるだけ。それに翌日に影響が出るほどは呑まないから」「一升呑んで翌日に影響が出ないなんて化け物だな」「化け物って酷くない」「悪い悪い。それだけ心配してるって事だよ。お父さんも呑むのかい」「勿論。あれこそ化け物よ。私と同じで日本酒だけどね」「そうだろうね」

 勝美は毎日の様に大好きなハンバーガーを食べた。「あー引退して唯一良かったのはハンバーガーがいつでも食べられる事だ。本当。美味しい」しかし太ることはない。試合は出来ないがトレーニングは相変わらず続けていた。勿論スパーリングも行っていた。「あーやっぱりスパーリングじゃ全然気持ちよくない。何かないかな」

 成田はプロモーターとしてアメリカ中を飛び回っていた。勝美は休日になると相変わらず愛車のハーレー大和に跨り荒野をぶっ飛ばしていた。そんな生活が5年続き勝美も30歳になった。

 「成田さん。日本に戻ろうと思うんだけど」「いきなりどうした」「うん。日本に戻って女子プロボクサーを育てたい。今度はトレーナーとしてMGMのリングに上がりたい」「そうか。やっぱりボクシングの血が騒ぐか」「あの快感は忘れられない。血が騒いでしょうがないのよ。トレーナーなら又、リングに上がれる」「日本じゃなきゃだめか」「やっぱり日本に女子プロを定着させたいし日本人の世界チャンピオンを育てたいのよ」「わかった。僕はこっちの仕事があるから戻れないけど日本でもプロモーターの仕事が出来る様にするよ。そうすればこっちと日本を行ったり来たりの生活もできる」「第2の人生のスタートだね。世界を股にかけるプロモーターか。かっこいいじゃん」「へへ」「何がへへよ。トレーナーの仕事なんかたかが知れてんだからちゃんと仕事してよ」「アイアイサー」

 勝美は身の回りの整理をし1週間後10年間過ごしたアメリカを後にした。ロスの空港ではリッキーが「カツミ。サビシイネ」泣きながら勝美に抱きついてきた。「ちょっとリッキー。でっかい図体してメソメソ泣かないでよ。成田さんは当分残るし私もまた来るから」「オー。カナラズネ。マッテルヨ。レンラクスルネ」「うん。必ず連絡する。成田さんのことよろしくね。グッバーイ。リッキー」「グッバーイ。カツミ」

 「色々あったけどこっちに来て正解だった。次来るときはトレーナーとして世界戦にチャレンジする時だ。必ず再びMGMのリングに上がってやる」



  帰国


 勝美は帰国し先ずは実家の蕨に帰った。「ただいま。父さん」「おう帰ったか。長い間ご苦労さん」「しばらくはこっちにいるんだろう」「うん。もうアメリカの暮らしは終わり。なんか凄い久しぶりの実家って感じ。考えてみれば17で家出したから14年ぶりなんだ。早いな」「成田君はどうするんだ」「とりあえず向こうの仕事があるから当分私一人。こっちでのプロモーターの仕事が軌道にのればあっちと行ったり来たりの生活になると思う」「そうか。とりあえずうちのアパートも空いてるからそこで当面暮らせばいい」「ありがとう。そうさせてもらう」「ところでおまえは今後どうするんだ」「うん。やっぱり私にはボクシングしかないからトレーナーとして女子選手を育成しようと思ってる。そしていつかあのMGMで世界戦をやってチャンピオンを育てる」「そうか。俺もまたあの会場でボクシングが見たいな。あんなスゲー会場見た事ねーし、何よりあの外人のねーちゃん達はたまんねーな。俺が生きてるうちに頼むぞ」「何ニヤニヤしてんだか。じゃあ今60だから後40年か」「あほか。幾ら何でもそこまで生きる気ねーよ」「あははは」「どうだ。たまには一杯やらねーか」「いいね。呑もう呑もう」「うまい日本酒があるんだ。鬼畜米英の話でも聞かせろよ」「鬼畜米英はもういいでしょう。それより呑みましょう」「そうだな。今日は浦霞禅で行こう。うまいぞ。おーい。母さん。酒とつまみだ」「いいねー浦霞禅」「じゃあ乾杯だ。勝美の見事な鬼畜米英に乾杯」「なんだかわかんないけど乾杯」「しかしお前がいきなり学校やめて家出した時はさすがの俺も面食らったわ」「あはは。私も今思えば無茶なことしたなと思ってる。でも後悔はしてない」「そりゃそうだろう。こんだけ好きな事して後悔してるなんて言ったら怒るぞ」「そうだね。ごめん」「まーでもお前がアメリカに行かなきゃ俺も一生アメリカなんぞ行かなかったな」「そうだろうね。でっ。行った感想は」「まーとにかくでっかい所だな。我が皇軍が太平洋で負けたのもうなずける」「そうだね。さすがにあそこと戦争したのはまずかったかもね。でも相当鬼畜米英。やっつけたよ」「そうだな。よくやった。とにかく無事に帰って来て何よりだ。今度はお前の弟子のタイトル戦でまたあそこに連れてってくれ」「了解。私ももう一度必ずあのリングに上がりたいから待ってて」「ところで目の方は大丈夫なのか」「全然問題ない。手術すればなんてことないのよ。大体ボクシングコミッションは大げさなんだよ。網膜剥離。即引退なんて頭くる。あれからも試合はしなかったけどスパーリングはバンバンやってた」「あはは。まったくお前は心底殴り合いが好きなんだな」「あんな興奮するものはないよ。スリルとサスペンスじゃないけどあの緊張感というか快感はない。ゾクゾクワクワク痺れて興奮するんだ」「へーそんなもんかね」「特にリングに上がると最高。ライトを浴びて観客がいて。MGMなんて口では言えない位快感だった」「そうか。じゃー頑張れよ。俺も楽しみにしてっから」「了解。任しといて」

 その日は親子二人でこの14年間を酒の肴に遅くまで呑んだ。

 翌日勝美は矢沢ジムに行った。「会長。ご無沙汰してます」「おー勝美。久しぶりだな。相変わらず元気そうだな。いつ戻った」「昨日です。10年ぶりに戻りました」「そうか。あれから10年か。早いな」「会長もお元気そうで何よりです」「いやーもう65だ。あっちこっちがたきてるよ。歳には勝てねーな。ところでおまえはこれからどうするんだ」「えー。女子選手の育成をやって行こうと思ってます」「そうか。まだまだ日本じゃ女子のボクシングは定着してないから難しいけどおまえが先陣を切って頑張るしかないよな」「はい。ですから明日から早速又、こちらに厄介になりたいんですけど。もちろん今の所女子はいませんから男子の練習生の面倒も見ます。これでも一応世界戦までやった世界ランク5位のボクサーですから」「おう。頼むわ。でもまさか又、住込じゃねーよな」「えっ。何言ってるんですか。もちろん住込ですよ」「おい。嘘だろう」「あはは。冗談ですよ」

 翌日から勝美はジムに通った。勝美の指導は女性だが非常に評判が良かった。的確なのだ。ゴルフでも一般の男子は初めは女子プロの真似をしたほうが良いと言われるがボクシングもそうかも知れない。一般男子では男子プロの様な筋力はない。そう考えれば当初は女子の方が体に適しているとも考えられる。

又、矢沢ジムの会員はプロ志望者はもちろんだが小学生や中高年も多数いた。そう言った人達にも勝美の指導は評判が良かった。

 勝美はトレーナー仕事の合間を見ながら後楽園の日本ボクシングコミッションに通い海外の女子プロの状況を説明し日本でも女子プロ育成に力を入れるべきだと説いた。又、勝美自ら後楽園ホールにて男子プロとのエキシビジョンマッチを行い話題となった。こうして徐々に女子プロに注目が集まり始めた。矢沢ジムには勝美を頼って女子選手が集まり始めた。又、ボクシングはシェイプアップにも非常に良いと言う評判が後押しし現役のモデルや芸能人でも始めるものが相次ぎ女子ボクシングに火がついた。矢沢ジム以外のジムにも女子が集まりだした。又、ボクシング専門のジム以外。通常のトレーニングジムでもボクシングを行う所が急増した。女子ボクシングは一気に空前のブームとなった。

 勝美も矢沢ジムはもちろんの事頼まれれば他のジムへも応援として出向いた。しかしなかなかプロになろうとする子はいない。

 「やっぱり本人がやる気にならないと他人がいくら言ってもダメだ。どこかにやる気のある子はいないもんかな」「どうだい勝美。いい選手出てきたかい」「全然だめ。シィプアップの為にジムに来る子がほとんどよ。あっ、この子見込みあるなと思ってもちょっとしごくとすぐ来なくなっちゃうし。全く嫌んなっちゃう」「まーなかなか勝美みたいな女性はいないからな」「それどういう意味」「いやいや。変な意味じゃないよ。意志の強い子って事。だいたい女性であの時代単身一人でアメリカに乗り込む女性はいないよ。ましてやボクシングをやりにだよ。相当変わってるよね」「はいはい。どうせ私は変わりもんですよ。しょうがないでしょう。当時はアメリカでしかできなかったんだから。それだけボクシングが好きって事。でも今は日本でもできるんだから幸せよ」「そうだな。君の努力で段々日本でも女子ボクシングも定着してきたもんな。そのうちいい子が来るよ」「ところでアメリカはどう。何か変わった事ある」「そうだね。女子ボクシングに関して言えば勝美とジェシカの試合から一層火が点いた感じだなぁ。凄いブームになってるよ。ジェシカは勝美の引退を聞いて気が抜けちゃったのか身を引いちゃったけど全体的には凄い人気だよ」「ふーん。いいなぁ。じゃあ成田さんの仕事も大忙しだね」「お陰様でね」   

 勝美が帰国して既に3年が経っていた。この頃には成田も日本でのプロモーターとしての仕事も定着し日米半々くらいのライフスタイルになっていた。



  千里


 一人の少女が矢沢ジムの門を叩いた。名前は千里。17歳。丁度勝美が家出し矢沢ジムに入った歳と同じだ。この頃勝美はとりあえず入ってくる子には全て「どうあなた。プロでやってみない」と声を掛けていた。当然千里にも声をかけてみた。すると「はい。私プロになりたくて入門しました。3年前の勝美さんの後楽園でのエキシビジョンマッチ見てました。あの時女でもできるんだと感動しました。よろしくお願いします」「そう。じゃあがんばりましょう。ところで親御さんはプロになる事わかってるの。まさか家出じゃないでしょうね」「はい。説得しました」

「みんな勝美と一緒にするなよ。こいつ家出してきていきなり住込で練習生にしてくれって来たんだよ。確か君と同じ17だったな」「会長。余計な事言わないでいいから。親御さん公認なら良かった。未成年者は親の承諾がないとプロテスト受けられないのよ」「大丈夫です。ちゃんと了承してますし家出でもありません」千里は母子家庭で高校には行かず昼間はガソリンスタンドで働いていた。そう言った点ではボクシングにおいて大切なハングリーさは持っていた。「よし。今日は時間あるの」「はい。1時間くらいでしたら」「じゃあ今日はとりあえず体験という事で一通り軽くやりましょう。まずは縄跳び1ラウンド。1ラウンド3分だからね。早速始めて」千里は縄跳びからサンドバッグまで一通り体験した。これを見ていた勝美は驚いた。「何この子。全くリズム感がない。ひどい運動オンチ。センスのかけらもない。まいったな」勝美は内心頭をかかえた。

 翌日から千里は毎日ジムに通った。

 「千里。あなたこれまで運動は何をしてた」「いえ。何もしてません」「そうよね。運動していたとはとても思えないもの」「わかりますか」「わかるわよ。私これでもアスリートだから」「運動は子供の頃から苦手で」「プロになるには相当頑張らないと無理ね」「頑張ります」とは言えちょっとひどすぎる。勝美は「こりゃー1ヶ月持てばいいかな」と思った。

 ところが千里は毎日ジムに通いあっという間に3ヶ月が経った。

 「あれ。千里。縄跳びだいぶ様になってきたね」「ありがとうございます。自分でもびっくりです」「へーやっぱり継続は力なりね」「はい。勝美さん。私続ける事には自信があるんです」「続ける事も才能の一つだからね。人より時間は掛かるかもしれないけど頑張りましょう」「ありがとうございます」

 「普通は早くて半年。1年もあればプロテスト受けさすんだけどあの子はちょっと無理ね」

 「それでどうなんだプロになりたいって子は」成田が日本に戻ってきた。「なんなら俺がプロモートするよ」「あのね、それどころの騒ぎじゃないわよ。とんでもなく運動オンチなんだから。3ヶ月経ってようやっと縄跳びが跳べるようになったのよ」「ほーそれはまた貴重だ」「そうでしょう。本当参っちゃうわよ。ただ本人も言ってたけどこれと思った事を続けるのは大したもんなのよ」「へーそれって才能だよね。もしかするともしかするんじゃない」「まー長い目でみるわ」

 矢沢ジムでは練習中はいつも矢沢永吉のミュージックをかけている。矢沢会長が永ちゃんの大ファンなのだ。因みに会長の本名は矢沢ではなく矢吹だ。現役当時のリングネームは矢沢ジョーだ。矢沢栄吉と明日のジョーの矢吹ジョーがごっちゃになっている。全くもって安易というか軽いというか。「会長。本当に永ちゃん好きですよね」「そりゃ我々60代のスパースターだもん。なんたって成り上がりだよ。めちゃくちゃかっこいいだろう」「確かにとても60代には見えませんね。会長みたいにこれでもかって位お腹出てないしね」「うるせー。余計な事言うな。大きなお世話だ」「会長。本当にフェザー級だったんですか。減量大変だったでしょう」「確かに減量はきつかったな。15㎏位落としてた」「15㎏はちょっと凄いですね。もっとウェイト上げれば良かったじゃないですか」「あのね。俺は身長158㎝しかないの。フェザー級でも一番小さい方なのにこれ以上上のクラスに行ったらもっとやりずらくなるだろう。でもね俺はこれでも日本タイトル14回防衛の記録保持者だよ」「確かに。凄いですよね。本当。今は見る影もないけど」「大きなお世話。さー勝美はほっといて今日も永ちゃん聞きながら頑張ろう。千里ちゃん」「はい」「んー。かわいいね。シェキナベイビー」「なんだこのエロ爺。それは内田裕也だよ」「んっ。なんか言った」「いいえ。千里気にしないで練習練習」

 千里は日曜日を除いて毎日ジムに通った。日曜日は完全なオフにするそうだ。休む事もトレーニングの一つという事だ。勝美は千里に毎朝のロードワークを課した。「千里。毎朝ロードワーク5㎞走りなさい。ボクシングで最後に物を言うのはスタミナだからね。それには走る事が一番よ。いい」「はい。わかりました」それから千里は日曜日を除き毎朝走った。

 それから半年が経った。「千里。ちゃんと毎朝走ってる」「はい。日曜日以外は毎朝欠かさず走ってます」「よし。これからもきちんと続けなさい」「そういえばこの子ここの所だいぶ足腰がしっかりしてきた」勝美はひょっとするとひょっとするかもと思い始めていた。あと3ヶ月で千里が入門して1年。勝美はそろそろ千里のプロテストを視野に入れ始めていた。

 「ねー成田さん。千里。あなたが言った通りもしかするともしかするかも知れない」「そうだろう。続けられる奴が結局は最後勝つんだよ。俺が言った通りだろう」「あのねー私はもしかするとって言っただけ。まだまだ分からないわよ」「いーや。俺はいけると思うよ」「だってあなた千里にあった事もないじゃない」「じゃー今度会わせろよ」「もう少し先が見えたらね」

 「チャイナタウン・・・・」今日も永ちゃんだ。「会長。おはようございます」「おう。勝美。永ちゃんはいいだろう」「そうですね。よく毎日聞いてて飽きねーな」「んー何か言ったか」「いえ。何も。年取っても耳だけはいいんだから」「それも聞こえてるぞ」「やばっ」 

 勝美は千里のプロテストの目安を半年後に設定した。その為のトレーニングメニューの作成を開始した。

 ◯朝 5㎞ロードワーク、ラダートレーニ 

    ング、シャドー3ラウンド

 これで準備運動を入れて約1時間のトレーニング

 ◯夕 縄跳び2ラウンド、腿上げジャンプ   

    20回*3セット、腕立て20回*  

    3セット、シャドー3ラウンド、サ 

    ンドバック5ラウンド、パンチング

    ボール3ラウンド、ミット3ラウン  

    ド、振り子1ラウンド、腹筋・背筋 

    20回*3セット、首の強化トレー  

    ニング

 これを基本的なメニューとした。

 「問題はスパーリングね。まだまだ女子選手は少ないから男子選手の中から体重が軽い子を選んでやるしかない」幸い矢沢ジムには高校生、大学生の軽量級の選手が複数いた。千里は女子でも54㎏位だから千里の方がウェイトはある。ただやはり男子とはスピードが違うがその分差し引いても丁度いいスパーリングパートナーだ。

 「このメニューで半年間乗り切ればプロテストも何とかなる。問題は千里が付いてこれるかどうかだ」

 翌日千里に「千里。プロテストを半年後に受けようと思う。それでこれからのトレーニングメニューを作ったんだけどちょっと目を通してくれる」「はい」千里はそれを見て一瞬顔が引きつった。「どう。出来る」「出来るも何もやります。これをやらないとプロテスト受からないわけですよね」「そう。今のあなたじゃ最低これくらいやらないと追いつかないと思う」「わかりました」「じゃー早速今日から始めるわよ。それとあなたのジムに来れる時間を1週間教えといて。それに合わせてスパーリングの調整もするから」「わかりました」「じゃー早速始めて」

 正直男子でもこのメニューはきつい。又、勝美のトレーニングは非常に厳しい。「千里。休みはインターバルの40秒だけ。それ以外は3分間休まずトレーニングを続けなさい。はい次。サンドバック」通常インターバルは1分だが矢沢ジムでは40秒に設定してある。「バン。バン」「ちょっと何なのそのサンドバックは。もっと強く叩きなさい。パンチ力はパンチを出して始めて身につくのよ。もっと強く。もっと速く。遅い」「カーン」ラウンド終了のゴングが鳴る。「はい。次直ぐやる」まったく休みを持たせない。「ちんたらやってもスタミナつかないわよ。ボクシングのスタミナはボクシングで作るのが一番。休むな休むな」ミット打ち「ジャブ」「パスン」「何。そのパンチはもっとビュンとスピード出して」「パン」「遅い」「パチン」「もっと速く。左は世界を制す」

 初日の練習が終わった。千里は全く動けないでいる。「いい千里。今日は初日だからあんまりうるさく言わないけど今日の練習は全然だめ。全く付いてこれてない。もっと考えながら練習しなさい。ただラウンドこなすだけじゃ進歩しないよ。頭使いな頭。今日はもういいから早く着替えて帰りなさい。風邪ひくわよ」千里は返事も出来ず頷くだけだ。「付いてこれるかな」

 千里は宣言通り毎日ジムに来てトレーニングを続けた。テストまであと3ヶ月。入門してからちょうど1年が経った。「よう勝美。千里はどうだ」「まー見てくださいよ。1年前とは大違いでしょう」「本当だな。凄い進歩だ。1年前はひどかったもんな。どうだテストの方は」「そうですね。あと3ヶ月このままきちんと練習を続ければ行けると思います。でもテストに受からせる事は出来ても試合で勝つようになるにはまだまだですけどね」「まーそれは次のステップだよ。まずはプロテスト合格だ」「そうですね」「受かったらテーマソングを決めないとな。やっぱり永ちゃんだな」「まじですか。ちゃんと本人にも聞いてくださいよ」「わかってる。わかってる」「大丈夫かなこの会長」

 プロテストまでの3ヶ月千里は毎日欠かさずジムに来て厳しいトレーニングをこなした。

 「大分良くなってるけど問題はスパーリングね。特にディフェンスが全然だめ。あんたパンチは避けるもので顔で受けるもんじゃないんだよ。あんなパンチたくさんもらってたら頭ばかになるよ。もっと体振らないとパンチは避けられない。テストまでダッキング、ウィービングの練習をもっとやって。じゃなきゃ受からないよ」「はい。わかりました」「この子基本的に攻撃力が全然ない。元来のセンスのなさがやっぱりネックだ」 

 そしてプロテスト当日を迎えた。先ずは筆記試験だがこれは事前に出題がわかっているので問題ない。肝心なのはスパーリングだ。スパーリングは2ラウンド。1ラウンド2分で行われる。それとシャドーボクシング1ラウンドが女子のC級ライセンスのテスト内容だ。スパーリングは日本のボクシングの聖地「後楽園ホール」で行われる。

 千里のスパーリングが始まった。「何?どうしたの。千里攻めなきゃ。全然体が動いてないじゃない」スパーリング中は大きな声は出す事が出来ない。「何なの一体。練習と全然違う。これじゃ受からない」テストが終了した。「どうしたの千里。全然体が動いてなかったじゃない」「すみません。緊張して何が何だか覚えてません。後楽園のリングを見た瞬間から緊張しちゃいました」「ちょっと今回は無理ね」「すみませんでした」翌日。結果が出た。勝美の予想通りやはり不合格であった。

「千里。やっぱりダメだった。どうするまだやる」「もちろんです。勝美さん。次回頑張りますので今後とも宜しくお願いします」「ふー。まーいいか。テストは毎月あるけど来月のテストはもう間に合わないから再来月になる。これまで以上にしごくよ」「はい。お願いします」「多少緊張してもいいように体に覚えこませるくらいトレーニングするからね。ちゃんとついてきなさいよ」「はい。ありがとうございます。頑張ります」

 これまで以上に激しいトレーニングが始まった。「ほら。次のラウンドが始まるよ。ちんたらやってんじゃないよ。そんなんじゃ次も受かんないよ。はい。移動は駆け足。休んでんじゃない。サンドバッグは休まず打ち続ける。じゃないとスタミナなんかつかないよ。休むな。休むな」15ラウンド休みなしのトレーニングが連日続いた。

 2ヶ月後プロテスト当日。今回は筆記テストはない。筆記テストは一度受けるだけで免除される。いきなりスパーリングの実技テストだ。千里のスパーリングが始まった。

「ジャブ、ワンツー、フック、アッパー、フック、ストレート、ボディ、ストレート」「うん。練習通りのパンチが出てる。やっぱりこつこつとしっかり練習していたんで体にきちんと身についている。でもちょっと迫力に欠けるな。攻撃力がやっぱりない。ちょっと微妙だな」スパーリングが終わり千里は満足気な顔をしている。「勝美さん。どうでしたか」「ちょっと微妙ね。攻撃力がない。迫力に欠けるのよ。明日の結果待ちね」「そうですか」「まっ明日になんなきゃわからないから。とにかく早く着替えて今日は帰りましょう」「わかりました」

 翌日。結果が出た。不合格。勝美は電話で「千里。残念だけどダメだったわ。どうする。まだやる」「・・・やります。受かるまで頑張りますので今後とも宜しくお願いします」「そう。わかった。まー今日は1日ゆっくり休みなさい」「今日は日曜日じゃありません。休んでなんていられません。いつも通りジムに行きますので宜しくお願いします」「ふー。わかったは待ってる」「はい。ありがとうございます」電話を切った。「本当にあの子は根性だけはある」

 「さて、千里。次はいつ受けるつもり」「はい。2ヶ月後でお願いします」「そう。わかった。あなたに足りないところは1に攻撃力。2に迫力。まー闘争心に欠けるってとこかな。これはもうスパーリングを増やすしかないわね。それと迫力がないイコールパンチ力がない。これは下半身を強化して体幹を鍛えるしかない。今日から私を肩車してスクワットトレーニングを加えるよ。それと朝練に50mダッシュ10本加えて。体幹を鍛えるには走るのが一番だからね。スピードもつくし。どうできる」「やります。今度こそ絶対に合格します」「よし。じゃー早速練習始めて」「はい」千里の猛烈なトレーニングが始まった。「今度こそ絶対受かってやる。3度目の正直だ」

 2ヶ月はあっという間に過ぎ、テスト当日を迎えた。今回も筆記テストはない。千里のスパーリングが始まった。「これなら大丈夫だ。さすがに3度目だからリラックスもしてるし何よりパンチも強くなって力強さが出てる」勝美は見ていて合格を確信した。

 翌日結果が出た。予想通り合格。「おめでとう千里。これであなたもプロボクサーね」「ありがとうございます。これも勝美さんのお陰です」「まー3回も受ける人も滅多にいないけどね。それでどうするの。プロとしてやって行くの。それともライセンス取ったからやめる。結構そういうのもいるよ」「勝美さん。何言ってるんですか。もちろんプロとして頑張ります」「うん。でもはっきり言っとくけどプロは甘くないよ。正直あなたには向いてないと思う。私に気使って無理して言ってんじゃないでしょうね」「違います。だって私初めて勝美さんにお会いした時にプロ志望とはっきり言ったじゃないですか。忘れたんですか」「もちろん覚えてるよ。でもね。プロでやって行くと言うのは相当な覚悟がいるよ」「わかってます。頑張りますから今後ともよろしくお願いします」「よし。わかった。あんたの覚悟を知りたかったのよ。さて、

テストも合格したことだし問題はこれからよ。まずは4回戦で4勝して6回戦に上がる事。これまで以上にしごくから覚悟しといて」「はい。頑張ります。よろしくお願いします」「おーい。勝美。千里ちゃん。テーマソング決めたぞ。永ちゃんのスタイナー逃亡者だ。こりゃかっこいいぞ」「あのねーリングに向かう曲が逃亡者じゃどうしようもないでしょう。何考えてんの」「そうかなぁ。かっこいいと思うんだけどな」「駄目だこりゃ」



  デビュー戦


 千里のデビュー戦が決まった。2ヶ月後の10月3日(土)場所は後楽園ホールだ。階級はライトフライ級。「千里。あなた今、体重何キロあんの」「54㎏位です」「そう。ライトフライはリミット48・99㎏だから6㎏位減量しないと。まー6㎏位どうって事ないでしょう。どう」「はい。大丈夫です」「それじゃ試合までのスケジュール組むから

しっかりやってよ。基本的にはこれまでと変わらない。大きな違いはスパーリングの回数を増やす。最後2週間は減量次第で考える。とにかく初陣を飾れる様に頑張ろう」

 「千里は本当に真面目で練習も一生懸命やる。でも元来のセンスの無さはまだまだ克服できてない。戦い方がわかってない。それとリズム感がひどい」勝美はこの事が不安でしょうがなかった。「戦い方をマスターするにはスパーリングを増やすしかない」矢沢ジムには軽量級の男子選手が多いのでこれらとのスパーリングは出来るがやはり実際の女子選手とのスパーリングもしっかりやらなければならない。「会長。千里とスパーリングやる女子選手を探して下さい。やっぱり男子選手だと女子には中々本気にならないところもあるのでお願いします」「OK。わかった。まかしときな。これでも元14回防衛記録保持者の日本チャンピオンだ。なめんなよ」「お願いします」事実、矢沢会長はフェザー級の元日本チャンピオンで14回防衛している。この記録は未だに破られていない。

 千里は連日の様にジムでは男子選手とスパーリングをした。又、他ジムに遠征して女子選手ともスパーリングをこなした。「千里。もっと自分の距離をしっかり把握して。強いパンチが打てるところがあなたの距離よ。しっかり把握して、今のままじゃ全然ダメ」千里の元来のセンスのなさはスパーリングで如実に現れる。「そんなにくっついたらパンチ出せないでしょう。出せても弱いパンチばっかりじゃない。何度言わせるの。何でわかんないの。パンチもらいすぎだよ。パンチは受けるものじゃないよ。もっと体降って。リズミカルに。本当リズム感ないな。もっとしっかりガード上げて。攻撃が下手くそなんだから防御位しっかりやりなさい。そんなんじゃボコボコにやられるよ。何度言ったらわかるんだよ」勝美の口調も段々エスカレートしてくる。「千里。ちゃんと毎日走ってるの」「はい。毎朝走ってます」「その割にスタミナがないわね。もっとサンドバッグ休まず叩いて。パンチのスタミナはパンチを出してつけるしかない。3分間休まず叩いて」「はい」「ドン。バスン。ダダン・・・」「ほら休むな。リズムなんか取る必要ない。どんどん叩け」「バン。ババン。ドン・・・」「だから休むなって言ってんだろう。リズムなんか取って休んでんじゃねーよ。どんどん叩け。アホ。連打連打」「パスン。パスン」「そんな弱いパンチいらないよ。そんなんじゃスタミナつかないよ。もっと強く。速く。ボクシングは相手をぶっ倒すスポーツだよ。はい残り30秒。叩け叩け。倒せ倒せ。ぶっ倒せ。そんなんじゃ倒せないよ。はい。次ミットやるよ。リング上がって」「パスン。パスン」「なんだそのジャブは。ビュンとスピードだよスピード」「バチン。バチン」「もっと引きを速く。体降って。膝が硬いんだよ。膝でリズムとるんだよ。この運動音痴」千里のリズム感のなさはなかなか治らない。「あんた本当リズムないね。そこにタイヤがあるからその上に乗って軽く跳ねて膝柔らかくするトレーニングして」「はい」

 猛烈なトレーニングが続いたが千里はなんとかそのトレーニングについて行った。

 そしてあっという間に2ヶ月が過ぎ試合前日を迎えた。勝美は千里を伴い後楽園に赴き計量に臨んだ。体重はリミットジャストの48・99㎏。OKだ。「千里。じゃー軽くお昼ご飯食べよう」「はい。もうお腹が減ってるのかもよくわかりません」「そう。減量すると胃袋がおかしくなるのよ。だから一気に食べると胃に負担がかかって逆に体調を壊すからまずは水をゆっくり飲んで徐々に食べる様にしなきゃだめ。ちなみに何か食べたいものある」「カレーがいいです」「カレーか。それはだめだは。刺激が強すぎる。食べるんだったら夜にしなさい。別なものは」「じゃーパスタ」「よし。それで行こう」

 パスタを食べながら明日の試合に付いて二人は話した。「明日の相手もデビュー戦だから立場は一緒だからね。スタイルもオーソドックスみたいだからやりずらい事はないと思う。普段の練習通りワンツーを中心に組み立てて」「わかりました。明日は何時までに後楽園に行けばいいですか」「試合は6時からで2試合目だけど4時に集合しましょう。今日は帰ってゆっくり休んで体調整えて」「わかりました。なんだかドキドキしてきました」「まー初陣だからしょうがないよ。私はリングに立てると思うとワクワクしてしょうがなかったけどね。あの頃は今と違ってアメリカでしか戦えなかったから大変だったのよ」「アメリカですか。すごいですね」「まーね。今思えば懐かしい思い出よ。この話をすると長くなるから今度ゆっくり話すよ」「お願いします。楽しみにしてます」

 翌日。川口市は雲ひとつない快晴だ。勝美はジムに寄り試合の最終チェックを終え後楽園に向かった。地下鉄を降りると後楽園はバケツをひっくり返した様な猛烈な雨。所謂ゲリラ豪雨だ。「川端康成の雪国じゃないんだから勘弁してよ。トンネルを抜けると雪国ではなく地上に出ると大雨か。嫌んなるな。試合は出がけの天気みたいにスカッと行きたいもんだわ」勝美は一人ごちた。

 千里は既に後楽園ホールに着いていた。「どう。体調は」「はい。昨夜は緊張して余り眠れませんでしたけどお昼を早めに食べて昼寝をしたらバッチリです」「そう。それじゃゆっくり準備して体を動かして」「わかりました」

 6時第1試合が始まった。「次だから体あっためて」「はい」「千里。リラックス。リラックス」第1試合が終わった。「よーし。行くぞ。今日は永ちゃんのラストシーンにした」「ちょっと会長。初陣でラストはないでしょう」「KO勝ちのラストシーンをイメージするんだよ」「まったく。千里気にしないで行こう。レッツゴー行くよ」「はい」千里は赤コーナー。セコンドは矢沢会長と勝美だ。

両者の紹介が終わりいよいよゴングだ。女子は1ラウンド2分で戦う。

 「カーン」ラウンド1。

千里はいつも通りジャブを放つ。出足はお互いに慎重だ。だが相手の選手は千里より明らかにスピードがある。体も柔軟そうだ。「カーン」1ラウンド終了のゴングだ。「千里。相手はあんたよりスピードがあるから体を振って懐に入って打ちなさい。あんたはスピードはないけどパンチ力はあるから自信持って行きなさい」「はい」

 「カーン」ラウンド2。

 相手がスピードを上げてきた。「速い。4回戦の選手のスピードじゃない。この子センスある。戦い方もうまい」勝美は不安になった。千里はシャープさがない。戦いのセンスもない。こういった相手は一番苦手なのだ。

「カーン」第2ラウンド終了。

 「千里。もっと体を振って。振りながら懐に入って打ちあいに持ち込んで。パンチはあんたの方が間違いなく上よ」

 「カーン」ラウンド3。

 上手い。相手は完全に千里のパンチを見切っている。千里のワンツーを左にダッキングしてのボディ。見事だ。「カーン」第3ラウンド終了のゴングだ。

 「千里。判定では負けてる。次が最終ラウンド。もう思い切って行くしかない。倒して来なさい。それしか勝てない」

 「カーン」ラストラウンド。

 千里が突進して行く。相手はフットワークでかわす。千里のパンチは全く当たらなくなった。相手は無理をせずかわしながらパンチを入れてくる。「カーン」試合終了のゴングが鳴った。結果は3-0の判定負け。完敗だ。

千里は初陣を飾る事が出来なかった。

 「千里。今日の相手はとても4回戦のレベルじゃなかった。がっかりしないで次頑張ろう」「いいえ。4回戦は4回戦です。畜生。悔しい。勝美さん。私もっともっと頑張りますから強くしてください。畜生」

 後日相手選手の情報が入った。小学生から空手をやり女子サッカーでもならしたスポーツ万能選手という事だ。「千里とは全くタイプが違った訳だ。それにしてもセンスあったな。あれは将来いい線行きそうな子だ」その選手こそ生涯千里のライバルになる澤美香だ。



  生まれ変わる


初陣の敗戦から1週間。

 「こんちは。勝美さん。今日から練習再開しますからよろしくお願いします。それと会長。次の試合早めに組んで下さい。よろしくお願いします」「おいおい。千里ちゃんどうしちゃったの。まだ試合終わったばっかりじゃん」「えー。とにかく早く結果を出したいんです。もう悔しくて夜も眠れませんでした」「まーそう焦るなよ」「千里。疲れは十分取れた」「もうバッチリです。トレーニングよろしくお願いします」「まーとにかくいつもの基本トレーニングから入って」「わかりました。それと勝美さん。色んなタイプの選手とスパーリングやりたいんでそっちの方もよろしくお願いします」「ふーん。随分張り切ってるわね。会長。色んなジム当たっといて下さい」「OK!了解!なんか千里ちゃん変わったね。よっしゃ今日も永ちゃんかけてノリノリで行こう」

 「澤美香。いつか必ずリベンジしてやる。待ってろよ」千里は初陣の敗戦から何かスイッチが入った様だ。

 人間面白いものでこの敗戦を境に千里は見る見る上達していった。

 「おーい。千里ちゃん。試合が決まったぞ。今年ももう終わりだから年内は無理だったけど年明け1月23日(金)だ。これが最短だ。場所は新宿FACEだ」「よし。勝美さん。バンバンスパーリング入れて下さい」「この子どうしちゃったの」勝美も驚くほど千里は変わった。

 「ねー成田さん。最近千里が人が変わった様にボクシングに熱中してるのよ。なんだか顔付きまで変わってきた」「やっぱりね。俺の思った通りだ。勝美の話を聞いてて千里ちゃんは絶対にものになると思ってたんだ。きっと化けるよ」「まーでもまだ1勝もしてないけど」「それは勝美次第だよ。本人はやる気出してるんだからさ。今度勝ったらきっともっと変わるよ」「実は私もそんな気がする」「そうだろう。なんだか段々楽しくなってきたな。俺のプロモーターの仕事もいよいよかー」「あのねー。だからまだ1勝もしてないって言ってるでしょう。気が早い」

 千里は徹底的にトレーニングした。体幹も見違えるほど強くなった。それにつれパンチ力も上がった。スピードも毎日の50mダッシュのお陰でかなりついた。「継続は力なりとはよく言ったもんだわ。この子本当に良くなってきた。本当にもしかすると」勝美はほくそ笑んだ。

 そして試合前日を迎えた計量。48・99㎏。リミットぴったりだ。「よし。勝美さん。お昼食べに行きましょう」「そうね。行きましょう」この子は本当に変わった。「勝美さん。今日はラーメンにしましょう」「いいけど何で」「前回はパスタでダメでしたから今日はラーメンを食べて伸びない様にします」「面白い。こんな冗談言う子じゃなかった」

 試合当日。「どう。昨日はよく眠れた」「今回はバッチリです。夕飯はカツ丼にしました。お昼はカツカレーです」「あんまり体重増えると逆に動きが鈍くなるよ」「大丈夫です。今日は前回より体も軽い感じです」「そう。じゃー気合入れて行きましょう」

 千里は控室で試合を待っていた。「何だろう。今回は早く試合がしたくてしょうがない。早くリングに上がって戦いたい」「よし。千里ちゃん。時間だ。行くぞ」会長が来た。今日のセコンドも会長と勝美だ。「千里ちゃん。やっぱりテーマソングは永ちゃんのラストシーンにしたから。よろしく」「もう好きにして下さい」「よっしゃ!これでずっとこの曲で行くぞ。ラストシーンはKO勝ちだ」

 千里はリングに上がった。「何だろうこの感じは。何か気持ちいい。あー早くゴング鳴らないかな」「おい。勝美。なんか千里の顔。昔のおまえみたいだな」「そうですか」「あーなんかウキウキしてる顔だ。こりゃ期待出来るぞ」

 「カーン」ラウンド1。

 始まった。序盤から千里は積極的に前に出た。「ジャブ、ジャブ、ワンツー、ボディ」

このボディがきいた。相手の体が海老の様にうずくまる。ガードが下がった所に渾身の右ストレート。「ダウン」レフリーがカウントを数え始める。レフリーが手を振る。千里のKO勝ちだ。時間は1ラウンド1分28秒。「よし。なにこれ。超気持ちいい」千里は震え上がった。「よっしゃ。どうだ言った通りだろう勝美。これは化けるかも知んねーな。パールハーバー勝美の再来だ」



  シンクロ


 「ねえ成田さん。何かちょっと変なのよ」「変って何が」「千里のデビュー戦の時にも感じたんだけどあの子の試合が始まると私が自分でリングに上がって戦ってる感じになるの」「そりゃーおまえ自分の大切な選手なんだから自分が戦ってるのと同じ気持ちになるのは当然だろう」「そうじゃないのよ。まるっきり戦ってるのよ。まるで千里の中に私がいるみたいな感覚っていうのかな。この間のKO勝利の時なんか現役時代のあの気持ちいい感覚がそのまんま感じた。絶対何か変だよ。大体千里だってこの頃急に激変してるのもちょっと異常だよ。会長だってまるっきり昔の私みたいだって言ってる」「そうか。でもいいじゃん。千里ちゃんが強くなるって事は」「まーいいんだけど」

 試合後1週間が経ち千里が練習を再開した。「会長。次の試合早くお願いします」「おいおい。そんなに焦るなよ。試合終わってまだ1週間だぞ」「わかってますけど早く6回戦にあがりたいんです。6回戦に上がるには4回戦で4勝しなきゃですよね。そうするとあと3勝ですから急がないと年内間に合わないかもしれませんからとにかく試合組んで下さい」「わかったわかった。いつでも試合ができるように準備はしっかりしといてくれ。勝美。頼むな」「えーそれはもちろんですけど千里。休むこともトレーニングのうちだからしっかり体を休める日もきちんと作りなさいよ」「はい。それは言われた通り毎週日曜日は完全なオフにしてますから大丈夫です」「それじゃいつも通りの基本練習から始めなさい」「はい。そうだ勝美さん。いつアメリカの話。聞かせてくれますか」「そうだな。じゃあ6回戦に上がったら話すわ」「よし。じゃあ頑張ろう」「さあみんな練習を始めるぞ。今日も永ちゃんだ。チャイナタウン」

 この頃、矢沢ジムの会員は100名を超えていた。その内女子は千里を含め5名の練習生がいた。プロは男子が10名。女子は千里一人だ。男子プロもフェザー級が1名。バンタム級が3名。残りの6名がフライ級だ。千里はこのフライ級の選手達と積極的にスパーリングを行った。千里のウェイトは通常であれば男子のフライ級よりもあるのでちょうどいい練習相手だ。それにやはり男子の方がスピードもパワーもあるのでその分練習にもなる。千里は毎日誰かしらを捕まえて「スパーリングお願いします」この調子だ。特に良く相手にされるのが成澤だ。あだ名は畳屋。「畳屋。千里の相手してやって」「勝美さん。別にいいですけど。千里ちゃん何ラウンドやる」「6Rお願いします」「6。本当に。勝美さん。俺殺されちゃいますよ」「何情けないこと言ってんのよ男でしょ。だからあんたはいつも勝てないのよ畳屋。畳んじゃうよ」「酷い」「成澤さん。お願いします」「はいはい。わかりました。6Rね。やりゃーいいんでしょう」練習量は男子プロも顔負けだ。

「しかし千里ちゃん強くなったね。負けちゃいそうだよ」「何言ってんのよ畳屋。ろくに練習もしないで。千里。畳屋に負けるようじゃ澤になんて到底勝てないからね。大体腹が出てるプロボクサーなんて見たことないよ。わかった千里」「はい。わかりました」「酷い。二人とも酷い」「言われたくなかったらその腹どうにかしろ。みっともない」「おーい。千里ちゃん。試合決まったぞ。4月10日(木)場所は後楽園ホールだ。相手はサウスポーで戦績は3勝1敗だ」「ありがとうございます。2ヶ月半後ですね。勝美さん。サウスポー対策よろしくお願いします」「了解。任せて。私は現役時代サウスポー大好きだったから。あっそういえば畳屋。サウスポーじゃない。よし。とりあえず千里。畳屋を血祭りに上げてみな」「はい。わかりました」「あのタプタプのだらしない腹にボディー食らわせば一発だよ」「酷い。酷すぎる」

 サウスポー対策のトレーニングが始まった。「基本的には右も左も一緒。ただ右をジャブ代わりに多めに出すのがポイント。後は実践でサウスポーとスパーリングをこなすしかない。会長。男でも女でもサウスポーのスパーリング相手見つけて下さい。もう畳屋じゃ相手になりませんよ」「OK。まかしとけ。チャイナタウン」「何か最近特に永ちゃんが乗り移った感じだ」「勝美さん。会長はあれでみんなをリラックスさせてるんですよ」「まーいいや。千里。シャドーしてる時もサウスポーを常にイメージするように」「わかりました」

 千里は男子問わずサウスポーと徹底的にスパーリングをこなした。

 「勝美さん。サウスポーとやると足が引っ掛かりますよね」「そう。それを嫌がる人もいるけど逆に利用する人もいる。例えばわざと足を踏むとかね」「あっ。それって勝美さんでしょう」「まーね。でもそれも作戦の内だから」

 試合前日計量。今回もリミット丁度の48・99㎏だ。

 「さて、千里。今日はお昼何食べる」「今日はお蕎麦にしましょう」「ふーん何で」「つなぎですよ。試合中勝美さんと繋がるように」「えっ。やっぱりこの子も違和感感じてるのかな」勝美は一人ごちた。

 試合当日。いつものように控室で千里は順番を待っていた。「あー早くリングに上がって試合がしたい。この前もそうだけどうずうずしてしょうがない」会長が来た。「よっしゃ千里ちゃん時間だ。レッツゴー。行くぞ。今日も永ちゃんのラストシーンだ。イメージは今日もKO勝ちだ。(踊ろうよ 摩天楼の)んっ。摩天楼。これラスベガスにぴったりだな。千里ちゃん。頑張ってラスベガスだ」「OK会長。行きましょう」「私も連れてってよ」「もちろんです。勝美さん」

 両者の紹介が終わった。いよいよゴングだ。

 「カーン」ラウンド1。

 千里は練習通り右をジャブ代わりに上手く当てていく。「あの子本当に戦い方が上手くなった」「本当に現役時代のおまえを見てるようだよ」「カーン」第1ラウンド終了。

 「どう。調子は」「バッチリです。次倒してきます」「よっしゃ。その意気だ。行って来い」

 「カーン」ラウンド2。

 ジャブ、ジャブ、ワンツー、フック、アッパー、フック、ボディ、バックステップして止めの右ストレート。ダウン。レフリー手を振った。KOだ。2ラウンド1分10秒。見事なKO勝利だ。「あーもう最高。気持ちいいなあ」「千里。聞こえる」「えっ。勝美さん」「そう。やっぱり試合中は私はあなたの中にいるのね。あー気持ちいい。千里。最高でしょう」「もう。最高です」

 試合終了後。勝美は「千里。私とあなたが試合中繋がっているのは当分二人の秘密にしておこう」「そうですね。それに話しても信じてもらえないですよ」「それもあるけど何だか話したら繋がらなくなりそうな気がする。当分この状態を維持しましょう」「わかりました」「あー又、あの気持ちいいのが味わえるなんて夢みたい。千里ありがとうね」「何言ってるんですかこちらこそ勝美さんがいると思うと百人力ですよ」「一気に世界まで駆け上るよ。千里」「はい。頑張ります」

 その後千里は2勝を上げ6回戦に上がった。4勝全てKO勝利だ。



  6回戦


 「勝美さん。6回戦に上がりましたから約束通りアメリカの話聞かせて下さい」「そんな大した話はないよ。逆に何を聞きたいか言ってくれれば話すよ」「そうですね。そもそも何でアメリカに単身で乗り込んだんですか」「それはほら。当時まだ日本では女子プロボクサーは認めてもらえなかったから試合ができなかったのよ。唯一試合が出来たのがアメリカだった。理由はそれが第1。それに試合をしないとあの気持ち良さを味わえないでしょう。あなたもあの気持ち良さはわかるでしょう」「はい。わかります。もう最高ですよね」「そうでしょう。あれは試合でしか味わえない快感。それを味わえるのがアメリカしかなかったってこと」「ふーん。ところでリングネームのパールハーバー勝美って誰がつけたんですか」「成田さん。今の旦那。最悪のリングネームでしょう」「それって完全に喧嘩売ってますよね」「もろよ。もろ。大体私が入場するとリメンバーパールハーバーの嵐だもの。完全なキラー。悪役。まーでもその分盛り上がったし有名にもなったから世界戦も転がってきたのかもしれないけどね。それが成田さんの狙いでもあったんでしょう」「ふーん。向こうでは何級でやってたんですか」「バンタム級からウエルター級までやったわよ」「なんですかそれ」「要は試合をたくさんやる為にウエイトの幅を広げて待ってたって訳。あの気持ち良さを味わう為にね」「それって幾ら何でも異常ですよ。私はさすがにまだそこまではいってないな」「そのうちなるよ」「へーそれで向こうでの戦績はどうだったんですか」「15勝1敗1引分け15KO勝ち。勝ちは全部KO勝ち。1敗は判定負け。唯一の負けはデビュー戦。もろにアウェイ判定。これはひどかった。だって相手は血だらけ。私は無傷だよ。ありえないと思った。こりゃ判定では今後も勝てないと思ったからとにかく全てKO狙いで行った。お陰でKO率は88%よ」「88%って凄すぎですね」「まーね。パンチには自信があったからね。それと引分けは世界戦。これは自分でも納得の行くドローだった。やっぱりチャンピオンも強かったしね。相手の選手の名前はエノラ・ジェシカ。これは広島に原爆を落としたB29の爆撃機エノラ・ゲイから名前を取ったんだって。方やパールハーバー。方やエノラ・ゲイだから当時はめちゃくちゃ盛り上がったわよ。まさに因縁の対決。これを仕組んだのも成田さん。彼はこの試合を機に一気に売れっ子プロモーターにのし上がった」「へーじゃあ成田さんは勝美さんさまさまですね」「だから旦那にしたんじゃない」「ところで世界戦はどこでやったんですか」「これがあのラスベガスのMGM。もうあそこは最高。あそこで試合をやったらもうたまらなく気持ちいいわよ。千里も頑張ってMGMのリングに上がりなさいよ」「んーそんなこと聞いたら頑張ちゃおうかな」「それで二人でラスベガスへ行く荒野をぶっ飛ばそうよ」「何ですかそれ」「私はロスからベガスへはいつもハーレーに乗って荒野のロードをぶっ飛ばして行ってたのよ。それがまた気持ちいいんだ。とんでもなくでかい大型トラックをぶっちぎって真っ直ぐ伸びたロードをかっ飛ばす。周りは広大な荒野。でっかいわよアメリカは。ちなみに私の愛車ハーレーの名前は大和って言うんだけどね」「へー。想像しただけでワクワクしてきますね。私もその時はハーレー買っちゃおう」「そうね。一緒に走りましょう。何たって試合中はシンクロしちゃうからね。任しといて」「こちらこそよろしくお願いします」

 千里は6回戦に上がり初の試合に臨んだ。さすがに6回戦になると相手も手強い。「千里。こんなところでモタモタしてられないよ。とっとと2勝して8回戦に上がるよ。次のラウンド倒しに行くよ」「はい」6回戦の初陣もKO勝利。2戦目もKO勝利し難なく2勝を挙げ8回戦へと進んだ。「ふー。やっと8回戦A級か。デビューして2年。やっぱり叩き上げだと結構かかるな」「千里。ここからが勝負よ。やっと上の選手達と戦える切符を手に入れたんだからね。一応あなたは現在世界ランク16位。上位の選手に勝ち続けてうまく行けば3戦目で東洋太平洋にチャレンジできるかもしれない。そしてその上はもう世界チャンピオンしかないからね。いよいよだよ」「はい。頑張ります」女子の世界では東洋太平洋チャンピオンと世界チャンピオンしかなく日本チャンピオンというものは存在しない。

 千里のトレーニングは基本的に月曜日から土曜日までの朝練と夕方のジムでのトレーニングだ。日曜日は完全なオフにしてある。千里の休日の過ごし方はとにかく十分に睡眠をとり起きれば読書にふけっている。勝美の現役の頃とは大違いだ。どちらかと言えば元来大人しいタイプなのだろう。闘争心に欠けるところがある。そこに闘争心の塊の勝美がシンクロするわけだ。千里にとっては最高のパートナーに違いない。

 「ねー成田さん。継続は力なりって本当だね。千里は本当に上手くなった。ボクシングは才能のスポーツだって言う人もいるけどそれだけじゃないわよね」「そりゃそうだよ。才能のある奴は人の倍早く上手くなるけど人の何倍もかけて覚える奴は体に嫌って言うほどしみつくから覚えた後の伸び代が違うんじゃないかなかえってそっちの方がいいかもな」「そうだね。才能のある奴はすぐ生意気になるしね。全部俺の才能のおかげだなんて顔するしね」「そうだな。その点千里ちゃんは真面目で素直なんだろう」「そう。馬鹿が付くくらい素直で真面目」「早くプロモートするのを楽しみにしてるから頑張ってくれよ」「OK任しといて」

 千里は順調に8回戦でも勝ちを収めていた。「千里ちゃん。喜べ」「何ですか会長。慌てて」「今度の試合。勝ったほうが東洋太平洋チャンピオンに挑戦が出来る」「本当ですか。試合はいつですか」「2ヶ月後の8月8日(水)だ。そしてこれに勝てばタイトル戦だ。現チャンピオン。もちろんわかってるよな。おまえがデビュー戦で負けた唯一の1敗の相手。澤美香だ」「もちろんわかってます。よーしやっとリベンジのチャンスが来た。絶対に勝ってやる」「その前に次の試合絶対に勝つよ。千里」「もちろんです。勝美さん」

 千里は試合に向け調整に入った。この頃には既に何をすべきかは千里自身十分にわかっていた。勝美はそれにアクセントを施しスキルアップさせる。調整は順調に進み前日計量を迎えた。今回も千里はリミット丁度の48・99㎏だ。

 「さて、千里。今日のお昼は何にする」「今日はパスタにしましょう。デビュー戦ではパスタを食べて負けちゃったけど心機一転新たな気持ちで明日勝ってチャンピオンに挑戦します。だからパスタを食べて1からスタートします」「あはは。OK。じゃあパスタにしよう」

 二人はパスタを食べながら明日の試合の打ち合わせをした。「明日の相手の松本は28歳。丁度油の載ったいい選手よ。決して油断しないように。序盤は距離を測ってジャブ中心にしっかり組立てよう。自分の距離を把握出来たら遠慮せずに打って行こう。4ラウンド目に勝負をかけよう」「わかりました。私も松本選手のビデオ見ましたが試合巧者の良い選手ですね。相手のペースに引き込まれないよう注意します」「うん。まずは明日の事だけ考えましょう」「はい」

試合当日。「あー早くリングに上がりたい」例によって千里は体がうずいてしょうがない。「よーし。そろそろ行くか。千里ちゃん」「はい。お願いします」「今日も永ちゃんのラストシーンだ。イメージはKO勝ちだぞ。行くぞ」千里はリングに上がった。「あーこの感覚。興奮してくる。頭がスーッとする」「千里。興奮するでしょう」「あっ勝美さん。もう限界です」「でも焦っちゃだめ。クレバーに行きましょう」「勝美さん。一緒に楽しみましょう」

 「カーン」ラウンド1。

 ジャブ、ジャブ。千里は足を使いながら距離を測る。相手の松本は体を左右に揺らしながら懐に入るタイミングを測っている。巧みに千里のジャブをかわしながら一瞬の隙をついて入り込む。千里は体を入れ替えてジャブを放つ。両者互いに主導権争いだ。「カーン」第1ラウンド終了。

 「どうだ千里ちゃん。松本は」「そうね。さすがに上手い。でももう1ラウンドやれば大体タイミングと距離はわかると思う」「んっ。なんで勝美が言うんだ」「はい。そりゃ私は千里の動きを見ればわかるわよ。ねー千里」「勝美さんの言う通りです」「あっそ。じゃあ次のラウンドもこの調子でな」

 「カーン」ラウンド2。

 「千里。ちょっと仕掛けて見ようか。フェイントでジャブ出して早いストレート打とう」チョン、ズバン。「千里。もうちょっと踏み込もう」チョンチョン、ズバン。「うん。この距離だ」「カーン」第2ラウンド終了。

 「どうだ千里ちゃん。大分掴めたか」「はい。そろそろコンビネーションを混ぜながら仕掛けてみます」「よし。カウンターだけは気をつけろよ。松本はカウンターには定評があるからな」

 「カーン」ラウンド3。

 シュッシュッシュッ。早いジャブ。「よし。この距離だ」千里は体を振りながらタイミングを測った。「よし。ここだ」ワンツー。「だめ」勝美だ。しかし遅い。その時松本のカウンターの左フックが千里を捉えた。ダウン。絶妙のタイミングで松本の左フックが決まった。「ワン、ツー、スリー」「千里。大丈夫」「大丈夫です」「カウント6まで寝てましょう」「フォー、ファイブ、シックス」千里は立ち上がった。松本が一気に詰めてきた。千里にはまだダメージが残っている。千里はクリンチをしながら何とか耐えている。「千里。あと20秒。耐えるよ。コツコツ手は出して。じゃないとレフリーに試合止められる」「カーン」何とか凌いだ。

 「大丈夫か千里ちゃん」「すいませんタイミングを測ってたのは私だけじゃないですよね。さすがに松本さん上手いです」「千里。今度は私の言う通りに動いて。一瞬早くイメージ送るから」「はあ。イメージ送るっておまえら何言ってんの」「会長。私と千里はいつも一緒にトレーニングしてるからなんとなくわかるの。こんな時に一々深く考えない。さあ行こう」

 「カーン」ラウンド4。

 「千里。いつもより大きく体を左右に振って。相手おびき出すよ。ダメージが残ってるふりをして。ガードをしっかり固めてわざと手を出させて。彼女熱くなると右ストレートを打つ時右肘を引く癖があるからあなたのパンチの方が必ず早く当たる。ガードの隙間からよく見てカウンターよ」案の定松本がラッシュをかけてきた。右、左、ボディ、アッパー、止めの右ストレート。「ここだ」「バチン」ダウン。千里のクロスカウンターが見事に松本の顎を捉えた。「ワン、ツー、スリー、フォー、ファイブ、シックス、セブン」カウント7で松本が立った。千里が勝負に出た。一気に詰めてワンツー。下がる松本を追いさらにワンツー、フック、アッパー、フック、アッパー、ボディ、ストレート。レフリーが割って入る。手を振った。TKOだ。第4ラウンド1分50秒。千里のノックアウト勝ちだ。「よし。勝った。あー来た来た。この感覚。気持ちいい。最高。勝美さんどうですか」「どうもこうも最高よ。止められない」「本当ですよね。早く次の試合がしたいです」「次はあの澤美香よ。今日以上の強敵だからね」「えーわかってます。もう誰でもいいから早く試合がしたい。気持ちいい。最高」まさにこの二人はボクシング気狂いだ。



タイトル戦


 千里は松本を破り初の東洋太平洋タイトルへの挑戦権を得た。相手は因縁の澤美香だ。澤はデビュー以来負け知らずで一気に東洋太平洋チャンピオンまで駆け上がった。千里はデビュー戦でこの澤に敗れた為、常に一歩遅れを取っている状況だ。「これで同じリングに立てる。ここで彼女を破って今度は私が世界チャンピオンまで一気に駆け上がってやる。今の私はあの時の私とは違う」「千里。この間の試合はお疲れ様。おめでとう」「あっ。勝美さん。ありがとうございます。勝美さんのお陰です」「何言ってんの。体はあなたのものなんだからすぐに反応したあなたの練習の賜物よ。ところで知ってる今度のタイトル戦の勝者が世界チャンピオンに挑戦できるかもしれないんだって」「えっ。本当ですか。初耳です」「そりゃそうよまだ極秘だもの」「なんで勝美さん知ってるんですか」「そりゃね。それを仕掛けてるのが敏腕プロデューサーの私の旦那の成田だからよ」「凄い。まじですか」「まーまだわからないから内緒にしといてよ」「もちろんです」「さーそんな事より次の澤戦よ。この間試合見てきたけど相当腕を上げてるよ。このままじゃ前回の二の前になるよ。あなたはパンチ力はあるから今回はスピードトレーニングに重点をおきましょう。まずは走り込み。距離はこれまで通りでいいからスピードを上げて走るようにする事。それと踏み込みの練習。これはラダートレーニングで養うようにしよう。試合まで後2ヶ月。集中しよう」「はい。よろしくお願いします」勝美は練習メニューを組み立てた。

 朝練      ◎ランニング5㎞

          (100mダッシュ+ 

          50mジョグ)

          ラダートレーニング

          1㎏バーベルシャドー


夕練ジム   ◎ストレッチ

          縄跳び*3R

          腕立て100回

          ウェート2㎏腿上げ5          

          0回

          シャドー*3R

          サンドバッグ*5R

          シングル*3R

          振り子*1R

          腹筋100回

          背筋100回

          首トレーニング

 これが日曜日以外毎日の練習メニューだ。男子プロと同等以上の量だ。これにスパーリングを加える日もある。千里は必死にこの練習をやり続けた。        

 「ねー成田さん。信じる信じないは勝手だけどやっぱり試合中、千里と私は千里の中でシンクロしてる。この間の試合の最後のクロスカウンターは私よ」「本当かよ。まー俄には信じらんねーけど。それが事実だとすれば千里ちゃんは百万パワーを得たみたいだな。百万パワー鉄腕アトムか。んっ。ちょっと待った。これいいな」「何が。また何か変な事考えてる」「そうだ。リングネームはアトム千里で行こう。決まりだ」「成田さんねー。また勝手に考えるんじゃないの。まっ。パールハーバーよりはいいか」

 千里とのトレーニングが日に日にハードになる。「千里。この前の試合のクロスカウンター覚えてる」「もちろんですよ。あの時は勝美さんの声が聞こえたと同時に体が反応した感じでした。何だか勝美さんそのものが乗り移って力も倍以上になった感じでした」「でも試合が始まらないとシンクロしないのも不思議だね。お陰であの状態での練習ができないのが残念だけど」「ただ私は勝美さんがいると思うと負ける気がしません」「よく言うわよ。見事にカウンターもらってダウンしたのは誰だっけ」「そう。あの時は勝美さんのストップがかかったのはわかったんですけど止められませんでした」「その辺だよねー。元々私と千里の身体能力の違いがあるからずれが生じるんだと思う。スピード。筋力アップするしかないね」「そうですね。でも勝美さんの現役時代の写真見たらとても女性の体つきじゃなかったですよ。あんまりあーはなりたくないって言うか」「あん。何だって」「なんでもありません。頑張ります」「とにかくスパーリングを増やしましょう。なんだかんだ言ってスパーリングに勝る練習はないからね。会長。遼がジムに来れるスケジュール聞いといて下さい。一番澤とタイプが似てますから。畳屋じゃもう話になりませんから」「OK。わかった。でも遼は毎日ジムに来てるぞ。あいつも千里ちゃんに負けず劣らず練習するからな」「大体いつも何時頃きてますか」「そうだな6時頃かな。6時から8時頃までいるよ」「そう。じゃー千里7時までにジムに来れる」「はい。調整して7時に来るようにします」「じゃー会長。遼に言っといて下さい。千里のスパーリングパートナーやるように」「了解」「それとは別に出稽古も組んで下さいよ」「わかってるよ」遼は身長170㎝体重50㎏。軽量級では背が高くリーチが長い。澤対策にはもってこいだ。出稽古以外は毎日遼とスパーリングを行った。「へー久しぶりに遼見たけど随分上手になりましたね。会長」「そうだろう。あいつも千里ちゃんと一緒で不器用だけどとにかく真面目で素直なんだよ」「やっぱりそれが一番ね。遼もこれから期待できるんじゃないですか」「そうだな。結構楽しみにしてるよ」「こら千里。もっと体降って。パンチもらいすぎだよ。遼ももっとガンガン行け」「澤。待ってろよ。絶対リベンジしてやる」これまでにないスパーリングラウンドをこなした。

 10月9日試合前日計量。千里はいつも通り48・99㎏リミット丁度で計量を終えた。

 「勝美さん。今日のお昼は中華にしましょうよ」「えっ。珍しいじゃん」「一度後楽園飯店に行って見たかったんです。いつも後楽園ホールに来て試合してるけど一回も行った事ないですから。実はここに来るといつも気になってたんです。フカヒレラーメン」「そう。じゃそうしよう」二人はフカヒレラーメンを頼んだ。「うわーでかい。一度食べたかったんですよ。うん。美味い」「本当。おいしいね。でもラーメンと言えばうちの成田のラーメンは美味いよ」「えっ。そうなんですか」「うん。あの人実はラーメン屋志望だったの」「まじですか。今度食べさせて下さい」「じゃー試合に勝ったら言っとく。そう言えば千里まだ成田にあった事ないんだっけ」「はい。写真しかないです」「じゃー今度紹介するよ」「ありがとうございます。紹介だけでなくラーメンもよろしくお願いします」「了解」

 いよいよ試合当日。千里と勝美は控室にいた。試合はセミファイナルだ。ファイナルは同じく東洋太平洋男子のタイトル戦だ。

 「千里。いよいよね。成田の話だと例の世界戦段々現実味を帯びてきてるみたい」「本当ですか。よし。絶対やってやる。でも相手の澤選手はこの事まだ知らないんですよね」「んー。成田の事だから試合を面白くする為に言ってるかもしれない。それにお互い知ってた方がフェアでしょう」「そうですね。お互いわかってて正々堂々とやりたいですね」「まっ。どちらにしても私たちはベストを尽くすだけ」「そうですね」「よっしゃ。そろそろ出番だぞ千里ちゃん。気合い入れてくぞ。今日も永ちゃんのラストシーンだ。イメージはわかってるなKO勝ちだ。それじゃレッツゴー」両者がリングに上がった。ここでアナウンサーが「今回の試合の勝者には現世界チャンピオンへの挑戦権が与えられます」場内がどよめいた。憎い成田の演出だ。アナウンサーが下がりレフリーが「両者中央へ」千里と澤が睨み合っている。「今回は負けないよ」「ふん。望むところだ」

 「カーン」ラウンド1。

 今回はタイトル戦なので10回戦だ。

 千里がジャブを出し距離を測る。澤は柔軟な体を最大限に生かすスタイルだ。右に左にかわしながら距離を詰めて行く。挨拶代わりの強烈な左を千里に食らわす。千里これをしっかりブロック。千里はしっかりとガードを固めるタイプだ。まさに剛と柔の戦いだ。「カーン」第1ラウンド終了。

 「どうだい。久しぶりの澤は」「いやー相変わらず捉えどころがない感じです」「とにかく序盤足を使わせよう。スタミナなら千里ちゃんが上だから左右のボディを徹底的に打って行け」「千里。今日は終盤に勝負をかけるよ」「本当に勝美が戦ってるみたいだな」

 「カーン」ラウンド2。

 千里は徹底的にボディを狙った。澤もそうやすやすとは食らわない。「カーン」第2ラウンド終了。

 「少しづつですけどタイミングがわかってきました」「そうか。ただまだじっくり行け。おまえは10ラウンドは経験ないんだからな。まだ2ラウンド終わっただけだ。とにかくもっと足を使わせろ」「そうね。その為に次のラウンドは少し強いパンチを打つよ。パンチのあるとこ見せれば食らいたくないからこれまで以上に足を使わざるおえなくなる」「よし。勝美の言う通りちょっと強いパンチ出して揺さぶろう」「はい」

 「カーン」ラウンド3。

 千里が飛び出した。いきなり強烈なワンツーだ。澤がガードごと飛ばされた。千里が詰める。澤が足を使って回り込む。強烈な右アッパー。返しの左フック。これも強烈だ。辛うじて澤が交わした。澤の顔色が明らかに変わった。一発でも食らえばKO必死のパンチだ。「カーン」第3ラウンド終了。

 「いいぞ。千里ちゃん。あちらさん。おまえのパンチに面食らってるぞ。この調子でプレッシャーかけてけ」「はい」

 「カーン」ラウンド4。

 千里は再びジャブを連打し距離を測る。いきなりノーモーションのストレートが千里を捉えた。「くっ。やっぱり速い」パンチ力はないがスピードはやはり澤の方が上だ。千里は左右のフック、ボディを使い澤に足を使わせる。「カーン」第4ラウンド終了。

 「さすがに速いな」「速いですね。あれに合わせてカウンター取るのは至難の技です」「んっ。今言ったの勝美か千里ちゃんか。何だか最近訳がわからん」

 「カーン」ラウンド5。

 澤が体を振って距離を詰めてきた。千里のジャブを交わす。スパン。左ボディ、返しの左アッパーが千里を捉える。千里も負けずに右ボディ。澤が足を使って回り込む。攻防が激しくなってきた。しかし未だ一進一退の互角の戦いだ。「カーン」第5ラウンド終了。

 「どうだ勝美」「会長。私千里です」「あーすまん。すまん」「千里。次のラウンドは又、徹底的にボディを狙おう」「はい」

 「カーン」ラウンド6。

 澤が一気に距離を詰めてきた。千里はガードを上げて迎え撃つ。澤の強烈な速いジャブが千里を捉える。左フック。右アッパー。澤の連打だ。「ちっきしょう駄目だ」バチン。千里のストレートに澤がカウンターで左フックをみまった。ダウン。「ワン、ツー、スリー」「おい。千里起きろ。起きろ。駄目だ。私の意識じゃ千里の体は動かせない」カウントが進む。「フォー、ファイブ」「起きろ千里。成田のラーメン食わせないぞ」ムク、ムクムク。「あれ。私ダウンした」「ダウンしたじゃない。早く起きろ」「シックス、セブン、エイト」千里はカウント8で立ち上がった。「千里。ガード固めて相手にくっつけ。くっついたら頭下げてクリンチ。とにかくこのラウンド持ち堪えて」「カーン」第6ラウンド終了。何とか千里は持ち堪えた。

 「大丈夫か。意識あるか」「大丈夫です。あー気持ち良かった」「何が気持ちいいだ。そりゃ意識が飛んだ証拠だ。あほ」「千里。いい。次のラウンド仕返しするよ。私の合図で右にウィービングして奴の顎に右ストレートぶちこむよ。いい」「合図って。それじゃ間に合わんだろう」「いいから会長はちょっと黙ってて。千里。もっとクレバーに行こう。相手の方がスピードあるんだから熱くなったら相手の思う壺よ。わかった」「はい。すいません」

 「カーン」ラウンド7。

 澤が来た。「千里。ガードの上から思いっきりストレート叩き込んで」ドスン。澤の突進が止まった。「千里。あんたの距離暫く保って打ち合って」澤の左足が一瞬前に動いた。「そこ」千里は右にウィービングし渾身のストレートを澤の顎にみまう。バチン。ダウン。「ワン、ツー、スリー、フォー」今度は澤がダウンだ。カウントが続く「フィブ、シックス、セブン、エイト、ナイン」澤がカウント9で何とか立ち上がった。残り30秒。千里が前に出る。今度は澤がクリンチだ。「カーン」千里捕らえきれず。第7ラウンド終了。

 「おいおい。勝美の言った通りになったな。どうやって合図送ったんだ」「会長。それは秘密。いい千里。澤は決めの左フックを打つ時ほんの一瞬左足が前に出る癖がある。見逃さないように。それと今日はあの子ここまであまり右のストレートを出してないからストレートをウィニングショットにするつもりだと思う。恐らく次のラウンドくらいから打ってくると思う。それをしっかり見定めて9ラウンド目にそいつに合わせてカウンターとって決めよう。ラストシーンはKO勝ちよ」「そうだ。行くぞ千里ちゃん」

 「カーン」ラウンド8。

 お互い前に出る。ジャブの応酬だ。バシン。澤の右ストレート。速い。又右。バシン。「くそっ。どこだ。どこかにタイミングを取れるポイントがあるはずだ」「千里。もっと体大きく左右に振ってみて」千里が体を振る。澤が左右をタイミングをずらして放つ。「くそっ。速い」澤尚も右。左。「あっこれだ」「カーン」第8ラウンド終了。

 「千里。わかった。私が合図したら左にダッキングして右のクロスカウンターを思いっきり叩き込んで」「勝美。また合図ってどうやって」「いいから会長黙ってて。千里。目をつぶってイメージして。そこ。ダッキングしながら右のクロスカウンター。どう感覚つかんだ」「はい。大丈夫です。合図お願いします」「よーし。このラウンド勝負よ」

 「カーン」ラウンド9。  

 両者中央でぶつかり合う。スピードがある分接近戦では澤が有利か。手数が多い。しかし千里も負けずに打ち返す。両者一歩も引かない。壮絶な打ち合いだ。「いまだ」澤のノーモーションの右ストレート。千里左にダッキングしながら右のクロスだ。バチン。決まった。澤ダウン。「ワン、ツー、スリー、フォー、ファイブ、シックス」澤。ピクリとも動かない。レフリーカウントをストップ。手を振った。ノックアウトだ。千里の9ラウンド1分50秒のKO勝ちだ。しかし見事なクロスカウンター。まるで右ストレートが来るのがわかっていたようだ。それほど素晴らしい一撃だ。千里が澤に駆け寄る。「澤さん。ありがとうございました」「ふー。やられたわ。今日は完敗。世界戦がんばってよ。次やる時は世界戦だからね。必ず勝ってチャンピオンになって待っててよ。次は必ず私がリベンジするから」「はい。必ず勝ってチャンピオンベルト持って帰ってきます。そしたらリターンマッチやりましょう。今日はありがとうございました」

 「よーし。千里ちゃん。よくやった。凄いクロスだったぞ」「ありがとうございます。これも会長と勝美さんのお陰です」「何言ってんのあんたの反応がよかったのよ。それより行ってらっしゃい。チャンピオンベルトが待ってるよ」会長がチャンピオンベルトを掲げ千里の腰に巻いた。場内は千里コール以外何も聞こえないほどの大歓声だ。

 「さあ。いよいよ世界戦だ。今度は私のリベンジだ」勝美は強く心に誓った。「絶対に勝つ」

 この試合初めて千里の母親が観戦に来ていた。「千里。おめでとう。すごかったわよ」「ありがとうお母さん」「でもあのチビでいじめられっ子だったあんたがボクシングのチャンピオンだなんて信じられない。みんなびっくりするだろうね」「うん。そうだろうね。でも私には昔の友達はいないから関係ないよ」「でも職場の人たちには言うんでしょう」「そうだね。世界戦の日程が決まったらね」「おい。勝美。千里ちゃんと喋ってるべっぴんは誰だ」「あー会長。あれは千里のお母さんですよ」「すごいべっぴんじゃないか」「またエロ爺が」「あっこんにちは。会長の矢沢です」「あっ千里の母です。いつもお世話になります。又今日は勝たせて頂きありがとうございました」「いやいや千里ちゃんの日頃の努力の結果ですよ。私なんて何もしてませんよ。そんな事よりこれからみんなで千里ちゃんの祝勝会やるんですけどどうですかご一緒に」「えっいいんですか」「もちろんですよ。なっ勝美」「もちろんですよ」「それじゃお言葉に甘えて」

 「会長。変な事企んでるんじゃないでしょうね」「お前。何言ってんだ。でも俺一応独身だからね」「はあー。あんたいくつだ65超えてんだろう。千里のお母さんはまだ40だ」「恋愛に年の差なんて野暮な事言わないの勝美ちゃん」「うえー。気色悪い。エロジジイ」

 打ち上げはカラオケボックスだ。「YES 

 MY LOVE」「会長さん。本当に永ちゃんお好きなんですね」「そりゃー永ちゃんは60代の英雄ですからね。ところでお母さん。お名前はなんとおっしゃるんですか」「知恵です」「そうですか知恵さんですか。素敵な名だ。これからは知恵さんとお呼びしていいですか」「はい。もちろん結構ですよ」「それじゃー知恵さん。一緒にデュエットしませんか」「私。あんまり歌は得意じゃないんですよ」「大丈夫。僕に任せてください」「全く。エロ爺が何デレデレしてんだ。千里。何とか言ってやりなよ」「まーまー勝美さん。今日はおめでたい日ですから好きにさせましょう」

  

  世界チャンピオン


 「勝美。決まったぞ」「何成田さん」「何じゃないよ。世界戦の日程が決まったの」「本当。いつ、どこで」「8月15日。終戦記念日。場所は何とあのラスベガスのMGMだ。セミファイナル。ファイナルはあのマイクタイソンの世界戦だ。こりゃ最高に盛り上がるぞ。俺にとってもこれまでにない一世一代のプロモートだ。絶対に成功させるぞ」「成田さんの成功よりも千里の勝利の方が大切よ。そっか。又あのMGMのリングに上がれるのか。考えただけでも興奮する。しかも8月15日。終戦記念日は私の誕生日だ。成田さんありがとう」「どういたしまして。ところで勝美。相手のチャンピオンのトレーナー誰だか知ってる」「もちろん。あのエノラ・ジェシカでしょう。まさに因縁を感じる。今度こそはっきりと白黒つけてやる」「そういえばチャンピオンのリングネームはボンバーシェリーだよな。アトム千里対ボンバーシェリーか。原子と爆弾。まさに原子爆弾だ。こりゃいいやー。勝美の時はパールハーバーとエノラ・ゲイだからな。益々いいや」「ちょっと成田さん。もしかしてわかってて千里のリングネームアトムにしたんじゃないでしょうね」「いやいや。偶然。本当偶然」「怪しいな。まっ。名前なんてどうでもいい。とにかく勝つのみ」「そう。その通りだ」「ところで成田さん。千里があなたのラーメン食べたがってたよ」「いいよ。お安い御用だ。今度の日曜日のお昼はどうかな」「わかった。千里に言ってみる。さあ。今日も練習。練習」  

 「千里。今度の日曜日空いてる」「何時頃ですか」「お昼。成田がラーメン作ってくれるって」「わーい。行きます。お昼ですね」「そう。それじゃ日曜日のお昼にうちに来て」「了解しました」「あっそうだ。肝心な事言い忘れた。ラーメンなんてどうでもいいや。千里。世界戦の日程が決まったよ」「本当ですか。いつですか」「8月15日。場所はあのラスベガスのMGM。セミファイナルよ。ファイナルはなんとマイクタイソンの世界戦だってさ。最高のシチュエーションだよ。相手のトレーナーは私の因縁の相手。エノラ・ジェシカ。今度こそ白黒はっきりつけるよ。絶対に勝とう」「もちろんです。絶対勝ちましょう。あのMGMで世界戦かー。考えただけでも興奮する」「もうあそこのリングは最高だよ。今度こそ勝ってチャンピオンになるわよ」「はい」

 「こんにちは。千里です」「いらっしゃい。どうぞ上がって」「お邪魔します」「紹介するは。私の旦那の成田」「どうも初めまして千里です」「おっ。やっと会えたね千里ちゃん。成田です。よろしくね」「こちらこそよろしくお願いします」「まー座っててよ。今、特製ラーメン成田スペシャル作るから」

 「ところで千里。試合は8月だけど7月早々にはアメリカに渡るわよ。1ヶ月はあっちでトレーニングして慣れておかないと」「わかりました。じゃああと2ヶ月しかないですね日本にいるのわ」「そう言うこと。今度の相手のトレーナーは私と世界戦を戦ったエノラ・ジェシカよ」「そう言ってましたね。凄い因縁ですね」「これからビデオ見て相手の研究するけどジェシカがトレーナーとなると相当厄介な気がする。気合い入れて行きましょう」「はい。大丈夫ですよ。私には勝美さんがいるから」「そんな呑気な事言ってんじゃないよ」「へい。ラーメンお待ち。特製成田スペシャルだよ」「うわー美味しそう」「この人。ラーメンだけはうまいから食べて」「なんだよ。そのラーメンだけわって。失礼だな」「ごめん。ごめん。他も美味しいけどラーメンは特にって言う意味だから」「うん。美味しい。プロ見たい」「千里ちゃん。みたいじゃなくプロだから。僕は」「いやー本当美味しいです」「ところで千里ちゃん。僕は最初から君は行けると思ってたよ。勝美は超運動音痴だから厳しいって言ってたけどね」「何言ってんの。今日初めてあったくせに」「いや。僕は勝美の話を聞いていて続ける才能があると言うのは何物にも勝る才能だと思ってるから絶対に行けると思ってた。案の定ここまで来た。勝美の夢はトレーナーになってもう一度MGMのリングに上がる事。そして世界チャンピオンベルトを取る事だから勝美と二人三脚で頑張って」「はい。ありがとうございます。勝ったら又、ラーメン作って下さい」「そりゃお安い御用すぎるな。あはは」

 2ヶ月はあっという間に過ぎた。日本でのトレーニングを終えいよいよアメリカに出発する日が来た。まずは勝美と千里が先にアメリカに飛ぶ。会長はジムがあるので試合当日の2週間前にアメリカに渡る。「勝美。千里ちゃん頼むぞ。俺は後から永ちゃんの曲持って行くからな。千里ちゃんお腹こわすなよ」「会長。大丈夫ですよ。何たってアメリカで暮らしてた勝美さんが一緒なんだから」「さて、そろそろ時間だから千里。行きましょう。じゃあ会長。向こうで待ってますから。行ってきます」「うん。頼むな」

 試合会場はラスベガスだが調整はロサンゼルスで行う。ロサンゼルスは勝美がお世話になったジムがある。そこをベースにトレーニングを行う予定だ。ロスまでの飛行時間は凡そ10時間10分だ。

 翌日の朝9時。二人はロスに到着した。

 「ヘイ。カツミ」「あっ。リッキー。迎えに来てくれたの」「モチロンダヨ。ヒサシブリネ。ゲンキ」「元気。元気。リッキーは」「モチロンゲンキ」「リッキー紹介するは。千里よ」「オーチサト。コンニチハ。カワイイネ」「千里。リッキーよ。私の当時のトレーナー」「初めまして千里です。よろしくお願いします」「マカセテチサト。シンパイナイ。シンパイナイ」「あれ。ところで成田さんは。先にこっちに来てるはずだけど」「オー。ナリタハシアイノウチアワセデコレナイネ。ダカラボクガキタヨ」「そうなんだ。じゃあリッキー行きましょう。まずはジムに寄ってくれる」「OK。チサト。レッツゴー」「千里。アメリカはでっかいよ。そうだリッキー。私の愛車大和は大丈夫」「オフコース。モチロンバッチリサ」「じゃあ今日はジムに寄ってアパートに荷物置いたら大和でひとっ走りしようか千里」「・・・・・」「どうしたの千里」「いや。あまりのでかさに圧倒されて」「あはは。大丈夫。すぐに慣れるよ。でかいと言えばこっちのハンバーガーはでかいよ。日本の5倍はあるな。試合終わるまで食べられないから今日後で食べに行こう。私はこっちにいるときは年がら年中食べてたよ。本当。美味しいよ。でもあんなもんばかり食べてるからアメリカ人はでぶっちょが多いんだよね。リッキーなんかまだマシな方だよ」「えーあれでですか」「チサト。ヒドイネ」「ごめんなさい」

 「ヘイ。チサト。ココガジムヨ」「でか。何ですかこれは」「あはは。驚くのはこれから。中はまさにロッキーの世界よ」千里は勝美に連れられ中に入ると「うわー。本当にロッキーの世界だ。かっこいー。勝美さん。今日の予定変更しましょう。私着替えてサンドッバック叩きます」「かー失敗。ジムなんか寄るんじゃなかった。嫌な予感してたんだよね」「イイネチサト。ムカシノカツミミタイネ」「あはは。最近本当に私もそう思う」「デモチサトノホウガカワイイネ」ドン。「グッ。ゴメンカツミジョウダンネ」「次は本気で打つよ」「アイムソーリー」事実千里はアイドル並みの可愛さだ。この点は勝美とはちょっと違う。

 千里はサンドバックを叩き始めるとさっきまでの緊張が嘘の様に溶けていった。「あーやっぱりボクシングは最高。気持ちいい。あと1ヶ月こんなところで練習出来ると思うと痺れてくる」軽い練習を終えると「さあ千里。ハンバーガー食べに行こう。リッキーも行こう」「OK。ドコイク」「ISLANDSにしよう。あそこはポテトもてんこ盛りだからね」「OK。レッツゴー」

 ショップに着くと勝美が「私はBIGWAVEとコーラ」「ボクモソレネ」「千里は」「じゃー私も一緒で」暫くするとハンバーガーが来た。「なんですかこれは。こんなの一人で食べるんですか」「あはは。ねっ。でかいでしょう。笑っちゃうよね。でも美味しいよ。試合終わるまでもう食べられないからしっかり食べときな」「でもこれ。お皿がトレンチじゃないですか」「ダイジョウブ。チサト。アマッタラボクタベルネ」「ねっ。デブるわけでしょ」

 ロサンゼルスに到着したその日から千里のトレーニングが始まった。基本的には日本に」いる時と変わらない練習だが一番の違いは相手のチャンピオン。ボンバーシェリー対策のトレーニングとスパーリングだ。スパーリング相手探しはリッキーの仕事だ。1ヶ月でスパーリング150ラウンドを目標にした。当然ジムの男子ともスパーリングを行った。相手はメキシカンと黒人がほとんどだ。「早い。すごいリズム感だ」「どう千里。スピードが全然違うでしょう」「えースピードもリズム感も段違いです」「そうでしょう。私も初めて彼らとスパーリングした時はびっくりした。まーでも段々慣れるわよ。それにこれくらいの相手は難なくこなさないとチャンピオンになんかなれないよ」「はい。頑張ります」

 朝はシーサイドをランニング。これが又、高台から海を一望出来る最高のコースだ。千里は毎朝のロードワークが楽しくてしょうがない。「いやー。最高。本当にきれい。こんな所で毎日ロードワークができるなんて夢みたい」ロードワークが終わると筋トレ。その後砂浜でラダートレーニングとダッシュだ。凡そ1時間半のトレーニングだ。その後休憩し午後から6時まではフリーだ。このフリーの時間はしっかりと休憩を取る。そして日曜日は完全オフ日だ。オフ日が千里は楽しみでしょうがなかった。中でも勝美と愛車大和に乗りロスからラスベガスまでの荒野をぶっ飛ばす快感はボクシングと違った気持ち良さがある。「千里。気持ちいいでしょう」「最高ですね」「見て。あの馬鹿でかいトラック。今から追い越すけどこれがでかくて中々抜けないんだ。行くよ」カーン。「うわ。本当だ。でかいし長い。まだ抜けない。でも本当に気持ちいい。勝美さんの話は本当だった。アメリカはでっかい」「さあ。千里。着いたよ。ここがラスベガスのMGM。試合会場よ。ちょっと中入って見よう」勝美と千里はホールに向かった。「どう。感想は」「どうもこうも勝美さん。本当にこんな所で試合するんですか」「そうよ。ここが人で埋め尽くされる。その中を入場しリングに上がったらもう大変。想像しただけで気持ち良くて狂いそうでしょう」「いや。もう想像してなんか夢ごこちです。あーだめだ。早く試合がしたい」「私も早く戦いたい。再びこのリングに上がれるなんて夢のようだよ。そして今回はリベンジ。必ず勝つわよ」「もちろんです」「ドローじゃベルトは移らない。ここはアウェイだから必ずKOしましょう」「わかりました。次ここに来るときはリングに上がる時ですね」「そう。そしてチャンピオンベルトを巻く時」

千里と勝美のトレーニングが続く。勝美も千里と一緒になり現役さながらにトレーニングした。「恐らく千里とシンクロした時、私もトレーニングしていれば反応速度が増す様な気がする。前回の澤選手との試合の前には私も若干トレーニングした。その結果間違いなく千里の反応速度は上がった。そう考えると私自身がトレーニングすることが重要になってくる」勝美はなんと千里のスパーリングパートナーまで勤めた。ズドン。バチン。「千里。あなたガードが甘いよ。それにもっとリズムよく動いて。パターンがワンパターンだからダメなんだよ。もっと細かな動きをしなくちゃ相手崩せないよ」「でも勝美さんのパンチ異常に重いんですけど」「当たり前でしょう。ウェルター級で世界戦戦ってるんだから」「勝美さん。まだまだ現役でいけるんじゃないですか」「目さへ大丈夫なら死ぬまでボクシングやるわよ」「かー。恐ろしい」「千里だってもうボクシングの快感を味わったんだからちょっとやめらんないんじゃない」「おっしゃる通りです」「あはは。あんたも完璧にはまったわね」「はい。お陰様でどっぷりです」「好きこそものの上手なれ。頑張りましょう」

 成田が血相を変えてやってきた。「おーい。勝美。千里ちゃん。ファイトマネーが決まったぞ。驚くなよ。いくらだと思う」「そんなのわからないよ。私の時が確か50万ドルだったから。あれから大分経つから10倍の500万ドル」「全然違う。何と5000万ドルだ」「えー。5000万ドルって日本円でいくらよ」「50億だよ」「50億。何それ」「取り分はチャンピオンサイドが30億。我々が20億だ。これは女子の試合では過去に例がない。見たかこの敏腕プロデューサーの腕前を」「いやー凄いよ成田さん。あんな気持ちいい思いをした上にこんな大金もらえるなんて最高ね。千里」「本当ですね。でも何でそんな高額になるんですか」「それはね。スポンサーはもちろんだけどアメリカのテレビはペーパービューって言って放映権を試合を見たい人が買う訳だよ。だから注目度の高い試合程多くの人がみる訳だから収入も当然増える。それとラスベガスはギャンブルの街。この試合も当然賭けの対象だ。千里ちゃんの試合が高額な掛け金に跳ね上がったんだよ。因みにファイナルのタイソン戦は5倍の250億だけどね」「250億。何ですかそれは」「それだけ世界が注目しているって事さ。千里ちゃんがいい試合をすれば今後も千里ちゃんの試合は高額なものとなると思うよ。だからこのチャンスを絶対にものにしよう。因みにここで言ういい試合って言うのは打ち合い。クリンチなんかしないで戦う事。それが客が一番喜ぶ試合だ。頼むよ」「成田さん。私たちはお金の問題じゃないのとにかく世界チャンピオンになる事。お金の事は成田さんに任せるから。ねっ。千里」「はい。その通りです」「じゃー練習に戻ろう」「はい」

2週間後。矢沢会長が到着した。「千里ちゃん。ファイトマネー50億だって。凄いね。流石は成田君だ。こりゃまさに永ちゃんの成り上がりだな。今回勝って主戦場をアメリカに変えよう。アメリカンドリームの始まりだ。勝美。頼むぞ」「会長。私たちはお金の為にボクシングやってるんじゃないの。お金の事は会長と成田さんに任せるから。私たちはボクシングに集中しますからそういう話はしないで下さい」「わかった。わかった。とにかく試合に集中してくれ」「会長。お金の話は僕としましょう。ちょっとこちらへ」「おう。成田君いたのか。いやー流石だな50億か。笑いが止まらないな」「そうでしょう。任せて下さいよ。ところで会長の取り分ですけど。こちらのファイトマネーが20億ですからその10%の2億でお願いします」「そんなにもらえるのか。よしこれでやっとジムを建て替えられるぞ。うちのジムも一気にメジャーだ。いっしっし。ところで前から聞こうと思ってたんだけど成田君。勝美は夜の方はどうなんだ。やっぱり恐竜のように激しいのか。いっしっし」「会長。ところがこれが以外にしおらしいんですよ。もうびっくり。んっ。どうしたんですか」「成田君。後ろ」「ドン。何くだらないこと言ってんだ。アホ。本当にボコボコにするよ。くだらない事言ってないでスポンサー集めでもしてこい。アホ」

 勝美と千里は壮絶なトレーニングをやり抜いた。

 試合三日前。勝美と千里はラスベガスに向かい荒野をぶっ飛ばしていた。千里もハーレーを購入した。愛称は武蔵だ。「千里。いよいよね。一緒に頑張ろう」「はい。勝美さんと一緒だと本当に負ける気がしません」「油断は禁物。何しろ向こうにはあのジェシカがついてるからね。あーそれにしても大和でぶっとばすのは気持ちがいい。最高」

 試合前日。計量日。「久しぶりね。勝美」「ジェシカ。こちらこそ久しぶり。ジェシカ日本語上手になったね」「勝美との試合から大の日本ファンになっちゃって実は5年くらい日本で暮らしてたのよ」「そうだったの。だったら連絡してくれればよかったのに」「ソーリー。ところでどうそちらの選手の調子は」「もちろん絶好調よ。そっちは」「もちろんバッチリよ」「じゃあお互い頑張りましょう。今度こそ白黒はっきりつけてベルトを頂くわよ」「それはこっちのセリフよ」「じゃあ明日会場で会いましょう。ジェシカ」

 千里の計量はいつも通り48・99㎏。リミット丁度だ。「さて、千里。今日は何食べる」「そうですね。日本そばがいいけどこっちのそばはいまいちですからパスタにしましょう。夜はステーキで行きましょうね」「了解」

 その晩二人は明日の戦略を練った。「シェリーのビデオを見たけど癖って言う癖は見当たらなかった。でも実際に戦えば必ず何か見えると思うから私は序盤相手の癖探しに集中するから千里はしっかり相手に対応して」「わかりました。又、終盤勝負になりそうですね」「そうね。でもあなたはすぐ熱くなって相手の術中にはまってカウンター貰うからそれだけは気をつけるように」「はい。気をつけます」「じゃあ明日のために休みましょう」

 「まーでもよくここまで来れた。最初千里を見た時には運動神経のなさにびっくりしたのを思い出す。とてもプロになれるとは思わなかったし世界戦まで来れるなんて本当に驚く。やっぱり継続は力なり。努力は裏切らない。こうしてまたMGMのリングに上がって世界戦が出来るなんて本当に夢の様だ。ましてや相手があのジェシカの選手なんてまさに

因縁だ。明日は絶対に勝つ」

 翌朝。8月15日。外は雲一つない快晴。勝美と千里はロードワークを軽く行った。試合当日でも汗をかかねば体は動かない。「そう言えば今日は勝美さんの誕生日ですよね。

いくつになったんですか」「もう38だよ。でも21歳の体が手に入ったから関係ない」「今日は勝美さんに最高のプレゼントを約束します。チャンピオンベルト。一緒に手に入れましょう」「ジェシカ戦から13年。長いようであっと言う間だった。今度こそベルトを手に入れるわよ」「はい」

 試合は5時から始まる。千里の出番は6時だ。勝美と千里は4時に会場に入った。会場には勝美の父の勝男が13年前と同じ姿で応援に来ていた。「あーまるでタイムスリップしたみたい。会場の雰囲気もそのままだ。やっとここに戻ってこれた。最高。さあ千里。控室で軽く体動かそう」世界戦だけあって控室は千里専用の控室だ。「どうだい。千里ちゃんの調子は」「悪くないよ。やれるだけの事はやった」「こっちも最高の舞台を用意出来たと思ってる」「ありがとう。さすがは成田さん」「ここに戻ってくる夢が叶ったな」「成田さんのお陰よ」「どういたしまして」

「さあ千里。バンテージ巻いて準備しよう」「はい」

 前の試合は順調に進んでいる。恐らく時間通り6時試合開始だ。千里は軽くシャドーボクシングをしながら出番を待った。会長が来た。「よーし。千里ちゃん。時間だ。行くぞ。今日も永ちゃんのラストシーンだ。(踊ろうよ 摩天楼の)ラスベガスの為のテーマソングだ。今日もラストシーンはKO勝ちだ」「チサト。イクヨ。レッツゴー」今日のセコンドは会長、リッキーそして勝美だ。千里は会場に足を踏み入れた。「うわー何これ。凄い雰囲気。まさにロッキーだ。気持ちいい。最高。早くリングに上がりたい。あっ母さんだ」「千里。頑張って」まず初めに千里がリングに上がった。続いてチャンピオンのボンバーシェリーが登場した。国家斉唱が始まった。まずはアメリカ国歌。続いて日本の国歌。君が代が流れた。国歌斉唱が終わると同時に「天皇陛下万歳」勝男だ。勝美が頭を抱えている。両者の紹介が終わりレフリー注意が行われた。両者中央で睨み合う。いよいよ試合が始まる。「さあ千里。行くよ」「はい。勝美さん」

 「カーン」ラウンド1。

 まずは両者ジャブを出しながら様子見だ。「カーン」第1ラウンド終了。「チサト。グッドヨ。リラックス。リラックス」「どうだい。シェリーは」「はい。なんか捉えどころがない感じです。やっぱりスピードはかなりありそうです」「千里。遠慮することないからどんどん手を出して行こう」「はい」

 「カーン」ラウンド2。

 千里が前に出た。シェリーが回りこむ。シェリーのパンチは全てがノーモーションで繰り出されるので分かりづらい。だが千里もよく対応している。「カーン」第2ラウンド終了。「うん。いいぞ。この調子で行こう」「チサト。ナイスファイトネ」

 「カーン」ラウンド3。

 今度はシェリーが前に出た。千里は下がらずに応戦する。パーリングして速いジャブを放つ。パチン。シェリーが右にダッキングして右アッパーを放つ。これを千里は左にダッキングしながら左ボディを打つ。お互い好機を掴めず3ラウンド目も終了した。「チサト。カラダモアッタマッタコトダシスコシヒートアップシヨウ」「そうだな。千里ちゃん。お客さん楽しませよう」「千里。少し攻めてみて。まだ癖がわからない。少し打ち合わないと出てこないかもしれない」「わかりました。少し誘ってみます」 

 「カーン」ラウンド4。

 千里が前に出る。ジャブ、ジャブからストレート、左アッパー。シェリーはスウェーとダッキングで交わすと同時に左フックを放った。これを千里はウィービングで交わしノーモーションの右ストレートを放つ。流石は世界戦だ。両者上手い。「カーン」第4ラウンド終了。「チサト。イイペースネ。コノチョウシデイコウ」「どうですか勝美さん」「うん。流石にジェシカが教えているだけあるわ。今の所隙がない。でも必ず何かあるはず。残り6ラウンド。そろそろ向こうさんも来る頃だからしっかり対応して」「はい」

 「カーン」ラウンド5。

 今度はシェリーが仕掛けてきた。体を振りながら前に出てきた。左ボディ。ドスン。強烈だ。右アッパー。千里の顎をかすめる。シェリーの連打だ。千里何とか体を入れ替えて交わす。「千里。自分の距離をしっかりとって。どんどん来るよ」又、シェリーが体を降って入って来る。左フック。ドン。これも強烈だ。返しの右アッパー。千里は左にダッキングしてその反動を利用して強烈な右ストレートを放つ。バチン。ガードの上からでも遠慮なくぶちかます。「カーン」第5ラウンド終了。「相手は接近戦が得意みたいね。しっかり自分の距離を保ちましょう。あと5ラウンド行くよ」

 「カーン」ラウンド6。

 千里が仕掛けた。いきなりノーモーションのストレートをガードの上に叩きつける。バチン。元来千里は勝美ほどではないがパンチ力がある。一瞬ガードが開いた所に左アッパーを放つ。これをシェリーが嫌がりガードを上げて下が空いた。そこに強烈なボディを食らわす。ドスン。シェリーの顔が歪む。「いまだ」「だめ」決めの左フックを千里が放った。ガードが空いた左にシェリーの強烈なストレートがカウンターで千里の顎を捉えた。バチン。ダウン。「ワン、ツー、スリー、フォー」「千里。大丈夫」「大丈夫です」「カウント8まで待ちましょう」「ファイブ、シックス、セブン、エイト」カウント8で千里は立ち上がった。そこで丁度ラウンド終了のゴングが鳴った。「千里。左フックは狙われてるよ。さすがはジェシカ。あんたの癖を見抜いてるわ。あなたは決めの左フックを打つ時ほんのちょっと左肘が下がるのよ。普段は出ないけど決めにかかった時だけ出る。しかしよくわかったな。セコンドからは見えないはずだけど。なんか嫌な予感がする」

 「カーン」ラウンド7。

 シェリーが出た。ジャブジャブジャブからウィービングして左ボディ。千里のガードが一瞬下がった所に左フック。バチン。返しの右アッパー、左フック。「ちょっとこの連打はジェシカじゃない。まさか」「カーン」ラウンド終了。「千里。大変だ。シェリーとジェシカはシンクロしてる。私たちと一緒だ」「本当ですか」「間違いない。前のラウンドであなたの癖を見破ったのもジェシカよ。こうなったら私もがんがん行くわよ」「チサト。ナニ。ブツブツイッテル。アト3ラウンド。ソロソロスパートカケルヨ」「OK。リッキー」

 「カーン」ラウンド8。

 「千里。行くよ」千里が突っ込んだ。ジャブ。フェイント。ノーモーションのストレート。ドスン。ガードが空いた。もう一発ストレート。ドカン。シェリーがぐらついた。右アッパー。パチン。ダウン。「ワン、ツー、スリー」「シェリー大丈夫。千里のパンチが急に重くなった。おかしい。まるで勝美のパンチみたい」「フォー、ファイブ、シックス、セブン、エイト」シェリーが立ち上がった。再び千里がダッシュをかける。シェリーが体を入れ替えて交わす。シェリーも得意の接近戦を挑む。「カーン」ラウンド終了。「シェリー。間違いない。千里と勝美も私たちと一緒でシンクロしてる。本当に因縁の対決だわ」

 「カーン」ラウンド9。

 千里のストレート。シェリー左にダッキングして左ボディ。「勝美。聞こえる。そこにいるでしょう」「ジェシカ。やっぱりあなたたちもシンクロしてるんだ」「そうよ。面白くなってきたね」「望むところ」「千里。行くよ」「シェリー。絶対勝つわよ」千里。ストレート。ドスン。さっきまでと違うパンチだ。いかにも重そうだ。これをシェリーが華麗に交わす。シェリーのスピードも上がった。「ナンカ13ネンマエノカツミトジェシカノシアイミタイネ」両者全く譲らない。凄い試合だ。「カーン」ラウンド終了。「千里。いよいよ最終ラウンド。このままじゃベルトは奪えないわ。相手がジェシカじゃ癖も何もあったもんじゃない。あなたの決めの左フック囮に使うよ。間違いなくカウンターを取りにくるからそこを狙う。決めの左フックを出して。相手のストレートに合わせて右のクロスカウンターで仕留めるよ。いい。ちゃんとついてきてよ」「はい。わかりました」

 「カーン」ラストラウンド。

 シェリーが接近戦を挑んできた。千里はジャブを放ちながら距離を取る。一進一退の攻防が続く。「勝美。頑張れ」勝男には千里の姿が勝美としか思えない。「勝美。そこだ。行け」成田もだ。「カツミ。リベンジ。リベンジ」リッキーもだ。千里。右ストレート。シェリーの空いた腹に右ボディ。「千里。今よ。決めの左フック」止めの左フックだ。そこにシェリーの右ストレート。タイミングドンピシャだ。千里危ない。ドカン。ダウン。なんと言うことだ。倒れたのはシェリーだ。何が起こったんだ。「ワン、ツー、スリー、フォー、ファイブ、シックス」あーとレフリーが手を降った。ノックアウトだ。新チャンピオン誕生だ。その名は「アトム・千里」「やった。勝美さん。勝った」「やったね千里。爆撃完了」「チサト。コングラチュレーション」「天皇陛下万歳、万歳、万歳」最後の千里のストレートは全く見えなかった。まさに神の手だ。シェリーが起き上がった。千里が駆け寄る。「完敗だわ。おめでとう。新チャンピオン」「ありがとうございます。シェリー。んっ。ジェシカさん」「もうシンクロはしてないよ。千里は」「あれ。そういえば私もしてない」「あっち見て」ジェシカと勝美が抱き合っている。「ナイスファイト。勝美。まさかあそこで右のクロスが打てるなんて。さすがね。完敗よ」「ありがとう。でもあれは正確無比なジェシカが相手だから出来たのよ。2度目の対戦だからね。なんだかこの日の為に神様がお互いをシンクロさせたのかなぁ」「そうかもね。これでもうシンクロする事はないかもね」「いやー。でも気持ちいい。やっぱりボクシングは最高」「勝美さん。ありがとうございました」「千里。おめでとう。どう。最高に気持ち良かったでしょう」「もう。最高なんてもんじゃありません」「あはは。あんた何泣いてんの」「だって最高ですよ。本当ありがとうございます」「何言ってんのよ。こちらこそありがとう。あなたのおかげで夢が叶ったわ。ほら。会長が待ってるよ。ベルト巻きに行こう」「はい」「千里ちゃん。おめでとう。うちのジムから世界チャンピオンか。なんか夢みたいだよ。本当にありがとう」「チサト。カツミ。コングラチュレーション」「よーし。じゃー打ち上げに行こう。千絵さんも来て下さい」「もちろんです。本当に皆さんありがとうございました」

 「よし。じゃー乾杯だ。我が矢沢ジム初の世界チャンピオン誕生。おめでとう。乾杯」「乾杯」「乾杯」「乾杯」「いやーでも最後のクロスカウンターは本当に見事だったよ千里ちゃん」「はい。ありがとうございます。勝美さん。そろそろ言ってもいいんじゃないですか」「そうね。実はみんなに話があるの」「んっ。なんだ勝美改まって」「いやー実は試合になると千里と私はシンクロするんだ」「シンクロ?なんだそりゃ」「私の意識が千里の体に入り込んでるって事」「本当かよ。ちょっと信じらんないけど。それじゃ何か。最後のクロスカウンターは勝美か」「そう。あれは私の得意なパンチでしょう」「そうかそう言えばそうだな」「それともう一つ。実はシェリーとジェシカもシンクロしてた」「えー。じゃまさに13年前の対決だ」「どうりで千里ちゃんとシェリーがまるで勝美とジェシカに見えたはずだ」「えっ。じゃーファイトマネーも半々でいいの」「何。調子に乗ってんのラーメン屋」「お前ねー。亭主に向かってラーメン屋はないだろう」「だったらそういうしょーもない事言わないの」「はいはい。分かりました」「トニカクオメデトウチサト」「本当に皆さんのおかげです。千里がチャンピオンになるなんて夢にも思いませんでした。ありがとうございます」「とんでもないですよ知恵さん。私は最初から千里ちゃんはやると思ってましたよ。私の目に狂いはございません。今後もこの矢沢ジョーにおまかせください」「本当に調子いいな。大体あんたは矢沢じゃなくて矢吹だろうが」「あん。勝美。なんか言ったか」「いえ。何も。もういいからどんどん飲もう」「そうだ。天皇陛下万歳」

 翌日。勝美と千里はMGMに別れを告げた。「やっぱりあなたは最高だったわ。最高に気持ち良かった。ありがとう」「防衛戦もここで出来ますように」「さあ。千里。行くよ。ロスまでぶっとばすよ」「はい」大和と武蔵が吠えた。


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