侍女が護衛に落ちるまで
ある、晴れた日の昼下がり。
晴れ晴れとした春の空が広がる頃、エルフェノン公爵家にてとある事件が起きた。
部屋の中に、もうもうと煙が立ち込める。
フィリダはその煙にげほげほと咳込み、涙目になりながら座り込んでいた。
(わたしはただ、お嬢様のお部屋を伺っただけなのに……)
いつも通り昼食ができたことを知らせに、部屋へ向かっただけだった。しかし断りを入れて開けた瞬間、フィリダが仕えるラティーシャの「フィリダ、ダメ!」という声とともに、煙が湧き上がったのだ。
上がった悲鳴を聞きつけ、屋敷から人が集まってくる。
フィリダはようやく見え始めた視界に安堵しつつ、立ち上がった。
「お嬢様。ラティーシャ様。ご無事ですか?」
「ええ、大丈夫よ、フィリダ。ごめんなさい、試作していた魔法薬を落としてしまって……」
「いえ。ラティーシャ様になんともないのであれば、わたしは構いませんよ」
フィリダはそう笑顔で答えた。なんせここはエルフェノン公爵家。そういったことは日常的に起こる。今回は少し規模が大きかっただけだ。
(どちらにしても、賊が入ったとかじゃなくて良かった)
フィリダは胸を撫で下ろした。
煙が晴れた頃、部屋にひとりの男が入ってくる。フィリダはその男を見て、思わず眉をしかめた。
男は、この国においては珍しい漆黒の髪をしていた。瞳も黒である。見た目からしてパッとしないが、唯一つけている銀縁の眼鏡が彼の本体と言っても過言ではないだろう。
彼の出身は遠い東の国であるらしい。しかしフィリダは、それが気に入らなかった。
(こんな、さほどパッとしない男がお嬢様付きの護衛だなんて……まったく)
フィリダは男、ナギのことが大嫌いだった。
外部から来た者であるくせに公爵家に仕えていることも、フィリダを何かと気にかけてくることも。年下のくせに公爵毛で重宝されていることも。すべてが癪に障るのである。
彼はフィリダのほうに真っ直ぐ歩いてくると、心配そうに問いかけた。
「お怪我はありませんか?」
フィリダは思わず、眉をひそめた。お嬢様を差し置いてフィリダのほうを心配するとは、どういうことだと思ったのである。
「わたしの心配より、お嬢様の心配をしたらどうでしょうか」
嫌味を込めてそう言ってやると、ナギは目を見開き「え?」という顔を作る。フィリダは、片眉を釣り上げた。
「わたしはフィリダです。お嬢様はあちらにいらっしゃいますよ。それとも、とうとう目まで悪くなったのですか?」
「え、いや……お嬢様、ですよね?」
「は?」
フィリダは、「何を言っているんだこの阿呆は」と言った態度を貫いた。しかしだんだんと頭が冷静になっていくにつれて、違和感を覚え出す。
(……あれ。ちょっと待って……? わたし、こんなにも可愛らしい声をしていた?)
フィリダは慌てて、自身の姿を顧みた。そして悲鳴をあげる。
「な、な、なっ……」
彼女は、可愛らしいドレスを身にまとっていた。
黒の生地に白のレースやフリルがあしらわれたそれは、今令嬢たちの中で流行している『ゴスロリ』というファッションだ。しかしそれはあくまで令嬢たちの中だけで流行っているのであり、フィリダはすでに二十代後半。そんな可愛らしいドレスを着る機会はない。
そんなフィリダに追い打ちをかけるかのように、目の前にフィリダが現れた。
茶色の髪に、オレンジの瞳。
化粧もさしてせず、服は侍女たちの中では一般的な、白いシャツに黒のワンピース。その上からエプロンを付けている。どこからどう見ても、一般的な人間の容姿出会った。
そう。それはまさしく、フィリダの姿そのものだったのである。
「フィリダ?」
フィリダの姿をしたラティーシャが、首をかしげている。しかしラティーシャの姿をしたフィリダを見ると、大きく目を見開いた。
数秒固まった後、双方は絶叫する。
ある、晴れた日の昼下がり。
エルフェノン公爵家にて、長女ラティーシャとラティーシャ付きの侍女フィリダの中身が入れ替わるという、事件が起きた――
***
ここレンベスフェルン国は、人ならざる者が治める国である。
されど彼らは門扉を閉めることなく、数多くの種族を受け入れてきたのである。そのためレンベスフェルンには、獣人から妖精、人間まで、様々な種類の種族が集い、お互いに共生していた。
その国で、エルフェノン公爵家は一二を争う実力を持ち合わせた、猫獣人の一族であった。
彼らは多くの優秀な薬術師を輩出し、国の医学の発展に貢献しているのである。
しかしその一族で今問題視されているのは、その優れすぎた力が生み出してしまった弊害であると言えよう。
その力の被害者たるフィリダは、ラティーシャの体をしたままどんよりと落ち込んでいた。隣りに座るラティーシャは、そんな彼女を慰めている。
その後ろに控えるナギは、なんとも言い難いといった顔をしていた。
そんなふたりを楽しそうに見つめるのは、エルフェノン公爵夫人であった。
彼女は白銀の髪に青と銀のオッドアイを持っている。白い耳がピクピクと動き、尻尾が楽しそうに揺れていた。ラティーシャはその容姿をとても良く受け継いでいる。
夫人は、勢い良く尻尾を振った。
「あらやだラティーシャちゃん。入れ替わりの薬なんて作れるようになっちゃったの? 優秀だわぁ〜!」
「奥様、そう言った問題ではないと思いますよ……?」
「あら、そう? ナギったら、本当に真面目ねー」
ナギが最もなことを言うと、夫人は肩をすくめた後こほんと可愛らしく咳払いをする。
彼女は居住まいを正すと、真面目な顔をした。
「今戻すための薬を作る材料を採りに行かせているけれど、集まるまでに時間もかかるし、わたしが作ったとしても丸一日かかるわ。そうね……三日はかかるかしら」
「そ、そんなにかかるのですか!?」
フィリダが愕然とした様子で叫んだ。その声に、夫人が小首を傾げ顎に指を添える。
「そうね〜……やっぱり、合計で三日はかかるわね」
「く、薬屋で取り寄せることは……」
「お金もかかるし、どれもあんまり薬屋では扱わない品物なのよね〜。竜族の友人が手伝ってくれるから、これでも早いほうなのよ?」
「……な、なんと……」
フィリダは、夫人からの言葉に頭を抱えた。
(お、お嬢様の姿で三日も過ごすなんて無理!!)
畏れ多くて外にも出歩けない。
怪我をしてしまったら、何かしらの粗相をしてラティーシャの名に泥を塗ることになってしまったら。
それを考えるだけで、胃がキリキリしてくる。
今このように入れ替わっていることですら、フィリダからしてみたら申し訳ないのだ。彼女はそれほどまでに、主人たるラティーシャを尊敬し、敬愛し、また崇高していた。
フィリダが顔を真っ青にするのを面白そうに見つめながら、しかし夫人は決定をひるがえさない。
「フィリダ。ラティーシャちゃんの体で、三日間耐え忍んでちょうだい。わたしが責任を持って調剤するわ」
フィリダは渋々頷いた。
夫人は、今代の公爵家において最も優れた薬術師である。彼女がやるというのだから、必ず成功させるはずだ。
しかしそれとこれとは、話が別である。心がどうにも追いつかないのだ。
フィリダがひどく落ち込んでいると、ラティーシャが申し訳なさそうに言う。
「ごめんなさい、フィリダ……わたくしのせいでこんなことに」
フィリダの見た目をしていても、中身はラティーシャだ。滲み出る空気が、なんとも言えず可愛らしい。
フィリダはそれを見た瞬間、愕然とした。
(中身が変わるだけで、こんなにも変わるだなんて……!!)
フィリダは慌てて顔を上げた。
「滅相もございません!! わたし三日間、お嬢様の代わりを務めさせていただきます!!」
「ありがとう、フィリダ」
フィリダの姿をしていても、ラティーシャはラティーシャだった。天使の微笑みは健在である。フィリダはうっとりとした。さすがお嬢様である。滲み出る気品は隠せない。
しかしそれと同時に浮上する問題に、フィリダはどうしたものかと頭をひねった。
公爵家にいる間は、なんとかなるのだ。
しかしラティーシャは、学園に通っているのである。
この国は優秀な児童を学び舎に通わせ、それぞれの得意分野に分けた教育を施していた。
今日は休日であるが、明日からは学園に行かなくてはならない。フィリダは、ラティーシャの学園における過ごし方を知らないでいた。
そう言えば、ラティーシャはにっこりと笑う。
「大丈夫よ、フィリダ。だってナギがいるもの」
「…………左様ですか」
ナギは、ラティーシャの護衛だ。隠密としての技量は高く、ラティーシャが学園に通っている間つきっきりで守っているらしい。
されどフィリダは、それがなんとなくもやっとした。
(わたしはラティーシャお嬢様の学園生活を見たことがないのに、この男はそれを知っている……お嬢様付きの侍女として働いてきたけど、これほどの屈辱はないわ……!)
そんなフィリダの剣呑な眼差しに気づいたのか、ナギが困ったように笑う。その気のない笑みが、また気に入らない。
されど、フィリダは侍女。侍女は主人に仕えるものである。その敬愛する主人が謝罪までし頼んでいるのだ。文句など言えるわけがなかった。
そのため、何を言うでもなくそっぽを向く。そして夫人とラティーシャを見た。
「不肖フィリダ。精一杯、お嬢様として務めさせていただきます」
そう頭を下げる。
こうしてフィリダはラティーシャとして、三日間を過ごすことになったのである。
そうは言ったものの。
フィリダは公爵家にいる一日目から、失敗の連続であった。
なんせ、体がまるで違うのである。獣人は特に耳と尻尾に感情が出やすく、ことあるごとに動いてしまった。自分の意思と関係なく動くそれに、フィリダは赤くなったり青くなったりと、忙しなく顔色を変える。恥ずかしいやら申し訳ないやら。
何より大変だったのは、その染み付いた侍女としての所作を、公爵令嬢としての所作に変えることである。
一体何度、「貴族令嬢はそんなことしない」と心中で唱え続けたことか。
しかし慣れとは恐ろしいもので、ついつい手が動いてしまう。
お茶を淹れてもらう際も自分でやろうとしたり、やってもらう前にやろうとしてしまうのだ。こればかりは意識して変えるしかなかった。
一日目にして、前途多難である。
夜になった頃には、フィリダは疲労のあまりベッドに沈み込んでしまった。
「お、お嬢様らしくするの、大変……」
言葉遣いなどは、なんとかなる。しかし意識しないと勝手に動いてしまうのが、本来ならば侍女がやる役割であった。
慣れないことばかりが続き、体よりも精神が疲労困憊していた。金輪際やりたくない。そう、強く思う。
フィリダがそんなふうにして疲れ切っている中、寝室の扉が叩かれた。
「どうぞ……」
誰が来たかなどは特に確認しないまま、フィリダは体を起こしてそう言う。
一拍おいて部屋に入ってきたのは、ナギだった。
フィリダは思わず、顔をしかめてしまう。
「なんであなたがここに来てるの」
「なんで、と言われましても……」
ナギは困ったように笑み、カラカラとカートを引いてくる。その上にはティーポットとカップが一式乗っていた。どうやら茶を持ってきたらしい。
「疲れたでしょうから、ラベンダーティーを淹れてきました。どうぞ飲んでください」
ナギはそう言うと、カップにお茶を注ぐ。たちまち、部屋の中がラベンダーの優しい香りに包まれた。
フィリダはそれを不承不承受け取り、そっと口に含む。
ひとくち含み飲み込めば、心がホッと落ち着いた。肩の荷が下りた気分だ。
しかしそれを口にするのは癪で、フィリダは苦言を呈する。
「……お湯が少しぬるいわ。それに抽出し過ぎ」
「あはは。手厳しいですね」
「お茶に関しては特にうるさいわよ、わたし。だってお嬢様のために、たくさん勉強したもの」
「さすがです」
そこまで言ってから、フィリダはむぅ、と唇をへの字に曲げた。さすがに、礼を言わなければならないと思ったのだ。
なんせナギは、フィリダのことを心配してお茶を淹れてくれたのだ。しかもラベンダーティーである。ラベンダーティーには精神を落ち着かせる効果があった。それは、彼なりの思いやりであろう。
フィリダとしては、こういうところが気に入らない部分でもあった。なぜそつなく、他人を喜ばせることができるのだろうか。悔しい。
しかしその気持ちを抑え込み、フィリダはぽそりとつぶやく。
「……でも、ありがと」
「……え?」
「あ、ありがとうって言ったの! 疲れてたから、とても落ち着いたわ」
「そう、ですか……ならば、良かったです」
瞬間、ナギの表情が和らいだ。フィリダの心臓が大きく跳ねる。彼女はそれを、なんとなしで抑えようとした。
普段ならばそれで終わったのだが、しかし今回は違う。フィリダは今、ラティーシャの姿をしているのだ。
つまりそれは、猫獣人の姿をしている、ということに他ならない。
喜びに打ち震えたことを、フィリダは隠せなかった。耳がピクピクと震え、尻尾がピーンッと伸びたのである。
瞬時にそれに気づいたフィリダは、顔を真っ赤にして耳と尻尾を抑えた。そしてナギに向けて言う。
「き、今日はもう良いから! おやすみなさい!!」
「……はい。おやすみなさい、フィリダ」
ナギはそう言い残すと、カラカラという音を立てながらラティーシャの寝室を後にした。
フィリダはベッドの上で丸まりながら、両手で顔をおおう。
(やだ、恥ずかしい……!)
ラベンダーティーを飲んだのに、羞恥心のあまり意識が覚めてしまった。
フィリダはそれから数時間、ベッドの上でごろごろする羽目になったのである。
***
フィリダの目覚めは、とても重苦しくやってきた。
これも、昨夜あまり寝れなかったためである。
彼女はその元凶たる男を恨むと同時に、彼の柔らかな笑顔を思い出し再度顔を赤らめた。
(なんで……なんであんなにも、破壊力抜群なの……!)
普段はあまり笑わない上に、なんとも言いがたい困った顔しか浮かべないせいだろうか。これが十代の間で流行っている『ギャップ萌え』というものなのだろうか。
フィリダはそんなことを頭の中でぐるぐると考えながらも、学園へ向かう準備を整えて行った。
フィリダはこのとき、初めて制服というものに袖を通した。
否。制服という意味では、侍女服とて立派な制服である。しかし学生が着るようなものは、一度たりとも着たことがなかったのである。
学園指定の制服は葡萄酒色の生地を使った、ワンピースタイプのものであった。スカート部分にはスリットがあり、レース地が覗いている。
控えめながらもレースやフリルがあしらわれ、とても可愛らしい。
平日は毎朝その服を見ていたはずなのだが、自分が着るとなると違うらしい。見た目はラティーシャであるために合っていないわけなどないのだが、それでもなんだか気恥ずかしかった。
馬車に乗り込んだ辺りで、フィリダの胸に先ほどとはまた違った不安が生まれ始める。
なんせフィリダは生まれてこのかた、一度も学校というものに通ったことがないのだ。
幼い頃からエルフェノン家に仕え続けてきたフィリダは、学園に行くことを価値のないものとして捉えていたのである。何代にも渡って仕え続けているというのもあろう。フィリダは、学園というものに関心がなかった。
しかし今回ばかりは、そんなことなど言っていられない。フィリダは馬車に同乗するナギを見つめた。
「ねえ、ナギ」
「なんでしょう?」
問いかければ、ナギは首をかしげた。眼鏡の奥に覗く黒い瞳が、フィリダを不思議と落ち着かせてくれる。
フィリダは数秒置いてから、首を横に振った。
「ごめんなさい。やっぱり、なんでもないわ」
「……そうですか」
「ええ。ナギがいてくれるなら、なんとかなりそうだもの」
「……そう、ですか」
ナギが曖昧な笑みを表情を作る。そして手元の懐中時計を弄り出した。フィリダはそれを見て、首をかしげる。
その懐中時計は、ナギの誕生日に使用人みんなでお金を払ってプレゼントしたものだ。時計は、使用人の必需品。この屋敷では毎回、先輩使用人が贈ることになっている。
(そういえばわたしといるときは良く、懐中時計を弄ってたわね……)
そう思い出したが、それがどういう意味なのかは分からない。そのためフィリダはそれを気にしながらも、自分のことに手一杯でそれを深く考えるようなことはしなかった。
しばらくして、馬車が止まる。従者が扉を開け、にこりと笑った。
「お嬢様、着きましたよ」
その呼び方に、フィリダの緊張が否が応でも強まった。
「はい」
そう短く返事をし、スカートの裾をつまみながら降りる。続いてナギが降りてきた。彼はぺこりと頭を下げると、ふ、と消える。
まるで風のように消えたナギに、フィリダは肩をすくめた。彼は東の国において、かまいたちという名前の種族であると言う。彼はあの力があったからこそ、ラティーシャの護衛としてそばにいることを許されている。
(わたしも、人間じゃなかったら良かったのかしら)
そんなどうにもならないことを考えながら、フィリダはラティーシャの銀髪を揺らした。
学園生活一日目は、フィリダにとってどれも新鮮なことばかりだった。
ラティーシャが降りてくるや否や、大半の者が「ご機嫌よう」と声をかけてくるのである。フィリダは少しためらいながらも、「ご機嫌よう」と手を振った。
挨拶もそこそこに教室に向かおうとすると、ナギが声をかけてくる。
『中央の棟を入ってから二階に上がり、右に折れてください。そこから二番目の部屋が、ラティーシャ様のご教室です』
「……分かったわ」
フィリダは、風に乗ってきた声に小さく肯定した。
ナギの言うとおり中央の棟には入り、二階へ上がる。歩き方に関しては特に気にすることはなかったが、周りの視線や音、匂いが妙に神経を逆撫でした。
どうしてだろうかと考えたが、少しして気づく。フィリダは今、ラティーシャなのだ。彼女は猫の獣人である。人間のフィリダよりも音や匂いに敏感になるのは、ある意味当たり前のことだった。
令嬢や令息たちがつけているであろう香水の匂いに、頭が痛くなってくる。人間の姿であっても不快感を感じるのだから、その苦痛は並大抵のものではなかった。
(くさいわ……)
鼻が曲がりそうだと、そう思う。
それを感じフィリダは「うちの屋敷では金輪際、香水を使わないようにしよう」と心に誓った。特にラティーシャの前では使わないと、固く誓う。こんな苦痛、ラティーシャに味合わせてはいけない。
フィリダはそれが表に出ないように努めながら、教室に入った。
教室に入ると、誰しもが笑顔でフィリダに近づいてくる。
「おはようございます、ラティーシャ様」
「ご機嫌よう、ラティーシャ様」
フィリダはその熱気に押されながらも、笑顔で答えた。
「ご機嫌よう、皆様」
そう言うと、皆嬉しそうに笑う。そしてそそくさと自身の席に着いた。フィリダもナギに言われるがまま、席に着く。
この時点でもうへろへろだ。ラティーシャは毎日こんな苦痛に耐えているのかと思うと、涙が出てきそうになる。
(お嬢様には、お家でくらい気楽に過ごさせてあげなくては……!)
フィリダ、本日二回目の決心であった。
これからもその決心が続いていくのは、また別の話である。
そんなことをつらつらと考えていると、鐘が鳴るとともに教員が入ってきて授業が始まった。
フィリダは色々な意味で内心ビクビクしていたが、「なんだ、そんなことか」と拍子抜けする。
授業でやることの大半が、ラティーシャがフィリダに教えることばかりだったからである。
フィリダは良くラティーシャの実験の手伝いをするのだ。それを繰り返してきたため、フィリダだけでも日用的に使う薬は作れる。特に手のあかぎれを治す塗り薬は、使用人の間でもかなり重宝していた。
(勉学なんてしたことがないから、お嬢様の顔に泥を塗ることになったらどうしようって思ってたけど……そんなに気負う必要もなかったのね)
何より、ナギの存在がとても心強い。フィリダが少しでも戸惑った顔をすると、瞬時に声をかけてくれるのだ。
彼の力は本当に不思議なもので、周りの者には聞こえないらしい。
それを続けていくうちに、フィリダはだんだん憎らしさよりも感心を持つようになっていった。
(どうして分かるのかしら)
フィリダは内心そわそわする。
ナギは屋敷にいるときよりも生き生きと、そしてとても頼りになる護衛であった。公爵がその実力を認め、愛娘の護衛に付ける理由も分かる。
自分には決してできないことばかりをこなすナギに、フィリダの中でくすぶっていた嫉妬という感情が、音を立てて砕け散った。
(…….敵わないわね)
フィリダなんかじゃ、手を足も出ない。ナギは、いる場所が違った。
彼女はひっそりと苦笑する。
(ほんと私、ダメダメね)
今までどれだけ、ナギの温情に許されてきたのやら。
思い返せばナギは確かに自己主張が弱いが、やることはどれもしっかりしていたな、と思う。
フィリダはこのとき初めて、自身がナギに嫉妬し敵対心を抱いていたことに気づいた。
授業が進むに連れて、フィリダの心は重たくなる。
なんとも言えず醜い嫉妬で、ナギにひどいことを言い続けた。それをようやく悟ったのである。
フィリダとしての体に戻ったら謝ろう、と思いつつ、彼女は学園生活一日目をなんとか終えた。
周りからの帰りの挨拶に気力で対処しながら、フィリダは迎えの馬車に乗る。すると中にはすでに、ナギがいた。
「お疲れ様です、フィリダ」
「……あなたもお疲れ様。わたしに付き合って疲れたでしょう」
そう言うと、ナギは一瞬目を見開いてから首を横に振る。
「……仕事ですから」
フィリダはその言葉に、口端を緩く持ち上げた。
それからしばらくしていると、馬車の揺れもあってかとても眠くなってくる。
「……フィリダ?」
ナギの声が聞こえたが、フィリダの意識はほとんどない。
彼女はかくりかくりと船を漕ぎながらも、なんとか起きようとしていた。
しかしそれを、柔らかい声が制する。
「疲れたのですね。ゆっくりおやすみください、フィリダ」
隣りに誰かが座る気配がする。おそらく、ナギだ。
彼は自身の肩にフィリダの頭を寄せると、眠気を促すかのようにとんとん、と頭を撫でてくる。フィリダはそれに逆らうことなく目をつむった。
「ナギ……あり、が、と……」
なんとかそれだけを言い残し、フィリダは穏やかな眠りについたのである。
***
フィリダが起きたのは、次の日の朝であった。
昨夜何があったか分からずほうけていると、扉がノックされる。
『フィリダ? 入るわよ……?』
恐る恐るといった様子で部屋に入ってきたのは、ラティーシャだった。
彼女は起きたフィリダを見て、ホッとした顔をする。
「自分自身の顔なのにこんなにも胸がときめくなんて、さすがはお嬢様!」とフィリダは不覚にも思ってしまった。
フィリダが慌てた様子でベッドに腰掛けると、ラティーシャがくすくすと笑いながら近くの椅子を引き腰を下ろす。
そして昨日のことを教えてくれた。
「フィリダったら、馬車で寝てしまったのよ? ごめんなさいね、慣れない学園生活は疲れたでしょう?」
「あ、えっと、その……はい……」
「ふふふ。わたしも、慣れるのには苦労したわ」
ラティーシャの軽快な笑い声に、フィリダの心も楽になった。自分だけではないということを聞き、とても安心したのである。
それを見たラティーシャは微笑ましそうな顔をした後、楽しそうに笑い声をあげる。フィリダは首を傾げた。
「それにしても、ふふ。本当にびっくりしたわ」
「……えっと。何がでしょうか、お嬢様」
ラティーシャはにっこりと、満面の笑みを浮かべ。
「だってフィリダ、ナギに横抱きにされて屋敷に帰って来たんですもの」
それを聞き、フィリダはほうける。
しかし数秒後何を言われたのかを理解し、顔を真っ赤に染めた。
「な、なっ……!」
「びっくりしたわ。あのナギが、優しい顔をしてフィリダをお姫様抱っこしてたんですもの。わたくしのときなんて、従者に頼むか起こすかしていたのに」
「え、そ、そうなのですか……!? い、いや、でも、たまたまでは……?」
フィリダがパタパタと手をあおぎながらそう言うと、ラティーシャは首を横に振る。
「ナギはあまり、女性に触れたがらないわ。フィリダだけなんじゃないかしら、ナギがあんなことするのって」
否が応でも意識してしまうラティーシャの言葉に、おさまりかけていた熱が再度沸き上がるのが分かった。それを受け、尻尾がピンッと伸びる。
そのときフィリダは、馬車でのことを思い出していた。
(そう言えば、ナギって意外と身長高かった……昔はあんなにも小さかったのに……)
フィリダの中でのナギは小さく、終始おどおどとした陰気な少年だった。顔がパッとしないということもあり、それが余計に引き立っていたのを思い出す。
しかし今は違う。昨日のやり取りで、それを突きつけられたような気がした。
フィリダの中のナギが、ダメダメな少年から頼りになる優しい男性へと変貌を遂げる。
フィリダは衝撃のあまり、頭が真っ白になっていた。
自身の主人が、その姿を楽しげに見つめているなど知らぬまま。
二日目の学園生活は、正直それどころではなかった。
そばにナギがいると言うだけで、動揺してしまうのである。
失敗は一日目以上に続き、周りからも体調不良かと心配される始末。
フィリダは落ち込むばかりであった。
しかも今日はなんと運の悪いことか、課外学習があったのである。教員が引率して、近くの森に足を運ぶのだ。そして自分の目で薬草を見て、実際に触れて、それがどういうものかを体験するのである。
教員が配った紙には、今回採ってきて欲しい薬草がスケッチされていた。そのどれもが、フィリダにとっては馴染みのある薬草である。そう苦労することなく採れるであろう。
しかしそれよりも、フィリダには優先させるべき事案があった。ナギのことである。いい加減どうにかしないと、取り返しのつかないことをしでかしそうだったのだ。
フィリダはこれではいけない、と頭を切り替えることにした。これはひとりになれるチャンスである。一度ひとりになり、しっかりとラティーシャとして振る舞うのだ。
教員から言われている範囲ギリギリのラインに陣取り、フィリダはぽつりとつぶやいた。
「ナギ。ごめんなさい、少しひとりにして」
その言葉に、ナギが逡巡するのが分かった。しかしフィリダの切実な様子を感じ取り、しぶしぶ遠くへ行く。
フィリダはようやく、人心地つけた。
(ダメね、わたし……ラティーシャお嬢様の代わりすらできなくなってしまうだなんて)
与えられたカゴに摘み取った薬草を入れつつ、フィリダは嘆息する。今の彼女は、動きやすいようにと学園指定の運動着を着ていた。下まできっちりと覆うタイプのズボンは、おそらく怪我をしないようにという配慮なのだろう。
されどどこかフェミニンで可愛らしい運動着に、少しだけ気分が上がる。
「……ナギのことは、明日以降考えることにしましょう」
公爵夫人が言うには、明日の朝には元に戻す薬ができるのだという。それが終われば、フィリダがナギと四六時中一緒にいることはなくなるのだ。そうすれば精神も落ち着くし、ナギのことを考える余裕もできるはずである。
フィリダは森の中の新鮮な空気を吸い込むと、ホッと息を吐き出す。だいぶ気分転換できたと、自分でもそう思えたのである。
しかしそれは、大きな過ちであった。
フィリダの全身が産毛立つ。それは、獣人特有の本能であった。
そうっと後ろに目をやれば、そこには二メートル以上はある巨大なクマがいる。毛の色は真っ黒で、腹の辺りが白い。瞳はいかにも飢えていた。
それが森に生息する魔獣だということに気づいたとき、フィリダの精神は凍りつく。
(なんで、こういうときに限って魔獣が……!)
運が悪いにもほどがある。勘弁して欲しいと心の底から思った。
しかしクマ型の魔獣はフィリダを餌だと認識したらしく、よだれをだらだらと垂らしながらゆっくりと歩いてくる。
フィリダは恐怖のあまり、へたり込んでしまった。
(ど、どうしたら……!)
魔獣に襲われそうになった際の対処法など、分からない。
今はナギもいない。助けてくれる者は、いない。
フィリダはガクガクと震えながら涙を流す。
自分が招いた災難とは言え、ラティーシャの体で死ぬのだけは嫌だった。しかし体は思うように動いてくれない。それがたまらなく悔しく、フィリダは唇を噛んだ。
(誰、か……)
お願い、誰か。助けて。
「ナ、ギ……たす、け、て……!」
フィリダがかすれた声で叫んだ瞬間、魔獣がフィリダ目掛けて走ってくる。
フィリダが目をつむりこの世の終わりを予期したとき、風がなびいた。
同時に、獣の咆哮が上がる。それは間違いなく、悲鳴だった。血の匂いを、ラティーシャの体が拾う。
フィリダはほうけた。何が起こったのか分からない。
彼女が恐る恐る目を開くと、目の前にひとりの男がいた。
「……ナギ?」
間違いなく、ナギだ。
しかし普段のへなへなした感じとは違い、ひりつくような気を放っている。ラティーシャの体をしているからか、それが余計に分かった。
まるで別人だ。
フィリダが固まっていると、ナギはフィリダを優しく抱き上げた。そして魔獣に背を向け、フィリダの目元を手でそっと覆う。
「フィリダ、大丈夫ですよ」
風がつんざく音がした。再度魔獣の悲鳴があがり、肉が切り裂かれる音が響く。
血の匂いが立ち込めているのにもかかわらず、フィリダの心はひどく落ち着いていた。ナギにこうして抱き上げられているからだろうか。
「おやすみなさい、フィリダ」
緊張が解けたのか、はたまたナギに名前を呼ばれたのか。フィリダは起きていられないほどの眠気に襲われる。
フィリダはそのまま、意識を手放した。
***
ゆらゆらと、意識が浮上する。
目が覚めたときに見た天井は、フィリダに馴染み深いものだった。
(ここは……わたしの部屋?)
そう思った瞬間、フィリダはガバリと起き上がる。そして自身の体を確認し出した。
「……体、元に戻ってる」
服は寝間着だが、肌の色や髪の色を見ても元に戻っていた。
声を出してみても、それはフィリダ本人のものだった。
安堵すると同時に、昨日の記憶がまるでないことに疑問を抱く。というより、ここ二日間寝過ぎではないだろうか。
色々な意味で自己反省をしなくてはいけない気がしたが、それよりもやらなくてはならないことがある。フィリダは侍女なのだから。
彼女はベッドから起き上がろうとしたとき、扉が叩かれた。
「フィリダ、入ります」
その声は紛れもなく、ナギのものだった。フィリダが思わず硬直する。
フィリダがまだ寝ていると思ったのだろう。ナギは断りの声を聞く前に入ってきた。
「……フィリダ?」
「あ……ナギ」
ナギは、フィリダが起きていることに驚きながらも、ホッとしたような顔をして近づいてくる。その手にはトレーがあり、軽食と飲み物が乗っていた。
「起きたのですね。良かったです」
「え、ええ。ついさっき」
「昼になっても起きなかったので、とても心配しました」
「……え? お昼!?」
フィリダはすっときょんな声を上げた。
それと同時に、何故ナギがいるのかという疑問が湧く。
「お昼なのに、どうしてここにいるの!? というより、昨日はあれからどうなったの!?」
「ええ。本日はお嬢様も、学校をお休みしました。昨日はあんなことがありましたので、フィリダは早退しましたよ。……俺はこうして、フィリダの看病に」
「そ、そう、なの……」
フィリダは、思わず顔を背けた。
今は、ラティーシャの体ではない。そのため尻尾や耳に感情が現れることはなかった。
しかしそれが今、恋しいと感じてしまっている。あれがあれば、言葉に表さずとも伝わるのに。
しかしフィリダは、それではいけないと首を横に振った。
(それじゃあ、ダメだ)
言葉に表して伝えなくては、前と何も変わらない。
感謝を口にするには、今だ。そう思ったのだ。
フィリダは意を決して口を開いた。
「ナギ」
「はい」
「昨日は……いえ。わたしが学園に行っているときも。たくさん助けてくれて、ありがとう」
それがなければ、フィリダは学園生活を安寧に送ることなどなかった。
クマの魔獣に襲われたのもそうだ。あれはフィリダが完全に気を抜いていた結果起こった事態だった。ナギがいなければ、今ここにいられなかっただろう。
「今までの暴言も詫びるわ。ごめんなさい。あなたはちゃんと仕事をしていたのに……」
「い、いや……失敗なく仕事ができるようになったのは、本当に最近ですし……それにフィリダが色々言ってくれなければ、俺は成長することなどできませんでした。ですから、謝罪なんていりませんよ。むしろ礼を言わなくてはならないのは、俺ですから」
「……そんな、ことは……」
ナギのストレートな物言いに、フィリダの頭は真っ白になる。
されどナギは、笑顔を浮かべて言った。
「フィリダが無事で良かったです」
瞬間、フィリダの顔が真っ赤になった。
フィリダの口がわななき、彼女は思わず両手を口元でおおう。
「なんで……そんな、恥ずかしいことを、さらっと言うのよ……!」
「え、いや、だって事実ですし」
「〜〜〜〜〜〜もうっ!!」
フィリダは何を言ったらいいか分からず、そっぽを向いた。するとナギは真顔で言う。
「ずっと言えませんでしたが……俺はフィリダのことが好きですよ」
「………………は、い?」
フィリダの頭がとうとう、動かなくなった。
(何を言っているのこの男……)
だんだんと言葉を理解していくうちに、今まで以上に顔が赤くなっていく。耳や首まで真っ赤に染まったフィリダは、ぱくぱくと魚のように口を開閉させた。
頭が完全に茹だってしまっている。
「え、あ……え……?」
フィリダが完全にショートしてしまったのを見て、ナギは肩をすくめる。そして「返事は後日で構いません。これ、置いていきますね」と言い残し、その場を立ち去った。残ったのは、ナギが置いていった軽食と飲み物だけだ。
フィリダが呆然としたままそれを見送ると、ぼふりとベッドに横たわる。
フィリダはその日一日、ナギの言葉を反復しながら過ごした。
***
休みをもらった一日を使って考えそれから四日間過ごし、フィリダは心を決めた。
ラティーシャの休日を使い、フィリダはとあることをしようと決意する。そのために、彼女は主人たるラティーシャにとあるお願いをした。
「ラティーシャ様。ひとつお願いがあるのですが……」
フィリダが申し訳なさそうに頭を下げると、バラが咲き誇る庭で紅茶を飲んでいたラティーシャはにこりと微笑む。今日も今日とて、ラティーシャは天使のように麗しかった。レースやフリルがふんだんに使われたゴスロリドレスが、彼女の美しさを引き立てている。
「なぁに。フィリダ」
「その……半日ほど、お時間いただけないでしょうか?」
その言葉がどういうことを意味するか、頭の良いラティーシャは分かっていただろう。主人たるラティーシャのそばを離れてまで別のことをしたい、というのは、侍女としての仕事を放棄するということである。
フィリダとしても、このようなお願いをするのは筋違いだと思っている。しかしナギも休みである今日しか、彼にそれをする機会はないのだ。
しかしラティーシャはすべて分かっているとでも言うように、紅茶を一口含む。
「フィリダ。後悔しちゃダメよ? わたくしはフィリダに、幸せになってもらいたいんだから」
「ラティーシャお嬢様……」
フィリダは目を潤ませ、頭を深々と下げた。
「ありがとうございます、ラティーシャ様! このご恩は一生をかけて払わせていただきます……!!」
「まぁ。わたくしも、フィリダがずっとそばにいてくれると心強いわ」
フィリダは何度も何度も頭を下げてから、その場を後にした。そんなフィリダを見て、ラティーシャはひっそりと微笑む。
「ちょっとやりすぎちゃったかしら。でも、あのふたりには、これくらいしないとダメよね。いじらしくて本当、フィリダは可愛いんだから」
主人の確信犯的なセリフは、フィリダには届かずじまいであった。
そんなことなどつゆ知らず、フィリダは台所へと駆け込んだ。料理長からは使用許可を得ている。
あらかじめ用意しておいた食材を見つめ、よしっと拳を握り締めた。
それからはもう、一心不乱に作業をした。
普段ならばさほど緊張などしないのに、今回ばかりはひどく緊張する。それを作ること以外は頭になかった。そんな余裕はなかったのだ。
今考えるべきなのは、それを作ること。そして食べてもらうこと。
フィリダの頭にあるのは、ただそれだけ。
それがフィリダに出来る、精一杯だった。
すべての作業を終えて片づけを終えると、フィリダはナギを中庭に呼び出す。彼は不思議そうにしながらも、彼女の言うとおり中庭に来てくれた。
中庭にも花は咲いている。今は薔薇の盛りだった。ほのかに香る薔薇はとても芳しく、美しい。
その真ん中にはテーブルとひとり分のチェアが用意されている。テーブルの上にはレースのテーブルクロスが敷かれていた。
フィリダは戸惑うナギにそこに座るように促すと、用意しておいたものと紅茶を乗せたカートを引いてくる。
「フィリダ、それは……」
「ええ。ナギに、食べてもらいたくて」
フィリダは笑みを浮かべてから、テーブルにそれを乗せた。
それは、チーズケーキだった。タルト生地の中にチーズのフィリングを流し込み、オーブンで焼き上げたものだ。ナギはこれが好物なのである。
それとともに用意したのは、ミルクがたっぷり入った紅茶だ。それらを用意すると、フィリダは口を開いた。
「これは、先日のお礼よ。食べて」
そう言うとナギは、戸惑った表情を浮かべた。しかし眼鏡の奥から覗く瞳は、どこか爛々としている。意外な一面を見たフィリダは、くすりと微笑んだ。
「わたし、お菓子作りが得意なの。だから感想を聞きたいわ」
そう言うと、ナギは借りてきた猫のようにこくりと頷いた。そしてフォークを手に取り、ケーキを切る。それが彼の口に入っていくのを、フィリダは固唾を飲んで見守った。
チーズケーキを口に含んだ瞬間、ナギの表情がパッと華やぐ。同時にフィリダの表情も明るくなった。
「すごく美味しいです……!」
「な、なら、良かったわ……」
「この紅茶もチーズケーキと良く合いますし、フィリダはさすがですね」
「……そりゃあね。二十年近く、侍女として働いていてるんだから」
フィリダは苦笑した。
しかしそこでようやく満足する。
(ナギの笑顔が見れて、良かった)
笑うとナギは、とても可愛らしいのだ。普段の影の薄さなど分からなくなるほど、パッとする。戦闘時の空気も澄んでいて、鋭い刃のようだった。
しかし彼は護衛であるために、それらをひた隠しているのだろう。陰が薄いほうが、隠密には向いているから。
(ナギは確か、まだ十八歳だったかしら……)
一方のフィリダは、もうすでに二十六歳である。婚期はとうの昔に逃しているし、自分が誰かと結婚している様を想像することはできなかった。フィリダ自身も、死ぬまでラティーシャに仕えるつもりだったのだ。婚姻など、考えた試しもない。
ゆえにナギからの告白も、フィリダにとってはふわふわとした曖昧なものだった。
されど、嫌ではないのである。むしろ嬉しいと感じた自分がいた。
フィリダは昔から、ナギのことを誰よりも見ていたのである。
フィリダは意を決して言葉を紡いだ。
「ナギ」
「はい」
「わたしも多分、ナギのことが好きなんだと思う」
そう言うと、ナギが珍しく動揺を示した。カシャン! とさらにフォークが落ちる音がする。
ナギの漆黒の瞳が、眼鏡越しでも分かるほど大きく揺れていた。頬が少し赤くなっているような、そんな気がする。
フィリダは自身の顔が赤くなるのを自覚しつつ、口を開いた。
「でも、こう、なんていうか……付き合いたいとか、結婚したいとか。そう言う感じじゃなくって……一緒にいられたら良いなっていう、そんな曖昧な感じなの……」
フィリダの尻すぼみになっていく。彼女は最後に「ごめんなさい、こんな感じで……」というと、ナギは首を横に振った。
「構いませんよ。フィリダからの想いを聞けただけでも満足ですから」
「そ、そう……本当にそれで良いの? わたしよりも、良い人はいっぱいいるのに」
「そんなフィリダだからこそ、俺は好きになったんですよ? 何事に対しても一生懸命で、真面目で優しくて。俺のことをちゃんと見てくれました。じゃないとあんなに厳しく指導はできませんし」
ナギは、今まで見たことがないくらいの笑顔を浮かべてチーズケーキを食べていた。ここまで花が撒き散らされているのを見るのは、本当に初めてのことである。フィリダは動揺を禁じえない。
ナギは「それに」というと、すっと立ち上がった。そしてフィリダに一歩ずつ近づいてくる。
「両想いなんですから、今までのような回りくどいアプローチじゃなく、ストレートにいっても良いということですよね?」
「……へっ?」
「フィリダが嫌がることはしたくなかったので、ほどほどにしていたんです。ほらそれに、俺がこれからフィリダがそう思えるように押していけば済む話ですから」
「え、いや、そ、の……?」
あまりの変わりっぷりに、フィリダは及び腰になっていった。しかし歩幅が違う以上、距離はぐんぐん詰まっていく。
「母国では元々忍という職業をやっていたので、誰かひとりに傾倒することはなかったんですが……俺をこんなにも深く沈めたんですから、責任は取ってくださいね?」
「え、え、えっ!?」
フィリダはすっときょんな声をあげて後ろに下がった。しかしやすやすと捕まり、腕の中に囚われる。フィリダがすっぽりとおさまってしまうほど、ナギの身長は高くなっていた。
フィリダの心臓が高鳴っていく。
ナギはそんな彼女を上から見下ろし、ちらりと唇を舐めた。それはまるで獲物を狙う獣のようである。今までどこに隠していたのだろうか。不思議で仕方ない。
眼鏡の奥に隠されたその瞳に、フィリダは魅せられてしまった。
(も、もしかしなくてもわたし……とんでもない人に捕まった……?)
そうは思ったが、後の祭り。すでに囚われてしまった。フィリダの心とて、かなり傾いている。修正は不可能であった。
一度坂から転がり落ちてしまえば、あとは坂の下まで転がるのみ。転がり落ちるのを抑えていたのが、フィリダにとっては嫉妬という感情だったのである。
それが取り払われた今、落ちるところまで落ちるだけ。
フィリダはどこまで落ちるのだろうかと不安になりつつも、ナギのぬくもりに身を委ねた。
そう。不安はすべて、ナギが消し去ってくれるのだ。先日魔獣に襲われたときのように。
だから恐れることはないと、フィリダは思う。
そっと重ねられた唇はあたたかく、とても甘かった。それは、フィリダが作ったチーズケーキよりも甘い。
より深くなっていく口づけに溺れながら、フィリダはナギの服を握り締めた。
それから一年後。フィリダとナギは結婚することになる。
気づいたときには子どももふたり生まれ、ふたりはその子らをエルフェノン公爵家の使用人として立派に育て上げた。
それからふたりは、次期後継者たるラティーシャの双璧と呼ばれたり。
またフィリダとナギの一家は、エルフェノン公爵家最強の使用人一家と謳われるようになるのだが。
それはまだ先の話である。
短編・中編企画第三弾。
今回使用したお題はこちらになります。
ゴスロリ・眼鏡・猫・尻尾・かまいたち・洋菓子・体が入れ替わる
お嬢様大好き侍女・時計・その持ち主
異世界(架空世界)・溺愛・年の差・すれ違い・ハッピーエンド
Twitterで頂いたお題+短編・中編企画でお二人の方に頂いたお題を使わせていただきました!
お陰様で文字数が大変なことになりましたが、色んなものを詰め込んだだけのものになったと思います。
お楽しみいただけたでしょうか?
最後まで読了してくださった皆様、ありがとうございました!