魔王様と契約
絶望。
その二文字がとてつもなく相応しく、どうしようもない状況に全員が空を見上げて絶望の表情を浮かべていた。
空に浮かぶ不吉な暗雲とその中央に存在する闇の塊。
広げられる漆黒の翼は鋭く禍々しく。
見降ろす瞳は黒く闇の如く濁っている。
絶対的な強者がそこに君臨している。
彼の者は何も語らない。
眼光の鋭さだけが、全てを物語っている。
彼の者は何も聞き入れない。
自身の行動が絶対であり、全てであるからだ。
故に人々はその存在を恐れる。
故に魔物どもはその存在を崇め奉る。
そして全ての存在は畏怖の念を込め、彼の者をこう呼んだ。
魔王、と。
「こん……なのって…………」
絶望に打ちひしがれる人々の中、一人の女の子が呟くようにそう言ってその瞳から一筋の涙を溢した。
その片手に中程で無残にも折れてしまっている剣を握りしめて、歯を食いしばり悔しさにその身を震わせる。
彼女は勇者。
勇敢にも魔王に立ち向かったうちの一人。
彼女の他にも魔王に立ち向かった男女が計三人。
彼女の周りに虫の息で転がっていた。
四人一緒に立ち向かい、決着がついたのはほんの数秒後。
目を疑うような光景だった。
見せた行動はまるで虫を払うように動いた右腕の一振りのみ。
そんな軽い行動で、四人は地上に倒れ伏すことになった。
たったそれだけの行動で巻き起こった疾風と竜巻に呑みこまれ、生きていたのは四人にとってこれ以上にない幸いだった。
四肢が千切れなかったのは奇跡と言ってよかった。
「誰か……誰か助けてよ……っ」
祈るような気持ちで絞り出す言葉。
自分の力の足りなさを嘆く涙。
悔しくて堪らなかった。
魔王に手も足も出ず、それどころか指一本触れることすら出来ずに敗れた自分が情けなかった。
何のために今日まで鍛えてきたのか。
何のために特訓をこなしてきたのか。
何のために、勇者になったのか。
全てを否定された気分だった。
他者に頼らなければたったひとつの世界すら守れない。
じわりと涙で視界が滲む。
泣いたところで何も変わらない。
そんなことは分かっている。
分かっているのに後からあとから、涙は止まらず溢れて出てきた。
ギュッと瞑った目から溢れて、大きな雫が零れ落ちる。
「お願い……だから……っ」
魔王が動き出してしまえば全てが終わる。
あれに慈悲はない。
全てを殺すだけだ。
あれに遠慮はない。
全てを壊すだけだ。
だからこそ人々は恐れる。
なればこそ魔界の長として君臨し続けているのだ。
「誰でも……いいから……っ」
藁にも縋る思いだった。
こんな状況を覆せる奴なんているはずがない。
それは分かりきっているのに、それでも願わずにはいられなかった。
誰が助けに現れたところで無駄死にとなるだけ。
それならいっそのこと、誰もこない方がいいのかもしれない。
だというのに、願うことを止められない。
ポロポロと溢れて落ちる涙が剣を握る手の甲を濡らした。
打つように雫が落ちるたび、自分の無力さに打ちのめされるかのようだった。
「誰か助けなさいよぉーーーーっ!!」
叫ぶように声を上げ。
一際大きな涙が地面に零れ落ちて弾けた。。
「っ――――な、なにっ……!?」
それに呼応するかのように突如、勇者の目の前に光の柱が立った。
突然の出来事に全員の視線が一挙にそっちを向く。
恐怖におびえる村人も。
森に巣食う魔物どもも。
魔王の一番の配下と恐れられている男も。
闇を纏った魔王自身も。
突如上がった光の柱に目を向ける。
「…………――――――――」
まず何かに反応して空を見上げたのは配下の男だった。
続いて魔王が一瞥だけして地を見降ろす。
見るに値しなかったのか、それとも見たところで何も変わらないと思ったのかどうなのか。
続いて反応したのは勇者だった。
常人より耳がいいのだろう。
彼女は遥か上空から聞こえてきたそれを聞き取った。
「何か、くる…………でも何が……? っ! アイツッ!」
勇者の見上げた先で動いていたものが一人いた。
行動を起こしたのは配下の男。
光に向かって一直線に、落下してくる何かを食い止めようという動きを見せる。
魔王の配下として、光の正体が何であれ少しでも異質なものであるならば、調べるのがその男の仕事だ。
有り得ないことだとは思ってはいるが、万が一にも魔王の脅威となり得る何かである可能性を鑑みて。
空中を高速で飛行し、光に向かって片手を翳した。
その右手を内側に軽く引いて丸め、突き出すように再度手のひらを動かす。
その動作で手のひらからかまいたちが発生した。
風を斬り、雲を裂き、光の柱に一直線に向かっていく五枚の刃。
「いけないっ! 痛゛ッ――――く、そ……ッ」
動こうとして腹部に走った激痛に思わず身を丸めた。
ギィンッという金属を裂く高い音が五回ほど響いた。
その音に顔をしかめて上げると、鋭い眼光で光の柱を睨む男と、無傷の柱が目に入った。
かすり傷一つ付いていない。
「嘘…………」
敵の行ったことだが、勇者は男の実力を知っている。
男の放った魔法がどれほど高威力であるのかも分かっていた。
けれど傷一つ付いていないところを見れば、あの光の柱は男の魔法を弾いたのだ。
音は確かに五回響いていた。
つまり反射したわけでも無力化したわけでもない。
受けたうえで、尚、無傷。
それほどの硬度を持っているということになる。
「――――ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
聞こえていた声が、段々とハッキリと聞こえ始める。
青年の声だ。
光の柱の上の方から、徐々にその声が落ちてくる。
「あれは…………」
見えたのは光の塊。
しかし塊であり、生物には見えない。
すごいスピードで遥か上空から地面に向かって一直線に落下している。
見ようによっては大気圏を突破して燃えたように見えなくもない。
しかし確かに声は聞こえる。
ここまでくればハッキリと聞こえた。
「ああああああああああああああああああああああああああっ!!!!」
やはり聞き違えることはない、青年の声だった。
それからは早かった。
光が地面に落ちたと同時に柱が弾けて消え、着弾点を中心に竜巻が発生し砂塵が大きく巻き上がる。
勇者は竜巻の内側に巻き込まれ姿が見えなくなった。
木々が軋み、草木が揺れて、砂が巻き上がる。
そうして発生した竜巻が暗雲すら巻き込み空を晴らし、徐々にその威力を弱めて空の青が広がった頃。
「うおおおおっ! なんだ! 落ちる! うおっ! あれっ! 生きてる! あれっ!?」
何度も自分の体を確認する青年が勇者の前で百面相を繰り返していた。
▲
「くぁぁ~~~~…………眠ぃ…………」
大きな欠伸を一つする。
出た声はカラカラに乾いていた。
眠気で重い体を何とか倒れないように揺らし、朝の睡魔と格闘する。
昨夜は少しネトゲで夜更かしをし過ぎたかも知れない。
しかし、アレだ。
煽ってきたアイツが悪い。
俺はあの武器は武器レベル七十五で満足していたにも関わらず。
『あれ? それMAXまで上げないんすか?』
と打ち込んできたのが事の始まりだった。
俺は正直その武器は気まぐれで使っていたこともあり、初対面なのに失礼な奴、と思いながらも。
『いやー、あんまり使ったことないんで使ってただけなんですよww』
と返したところ。
『へー』
とだけ返してきて、且。
『まぁ、MAXまであと五なんで気楽に上げますよ』
とこちらがサラッと流そうと試みたにも関わらずソイツは。
『^^』
とだけ打ちこんで消えていきやがった。
これが許される訳がない。
神が許しても俺が許さない。
許した神すら許さない。
そして気付けば、本日の睡眠時間として取っていた四時間と引き換えに、俺は徹夜でその武器レベルをMAXにまで上げていた。
故に昨日は一睡もしていない。
こんな筈ではなかった。
本日は久しぶりの休日。
バイトも学校もなく一日まるっと空いている。
更には最近始めたネトゲのアプデ明けで絶好のゲーム日和だった筈なのに。
「くぅぅぅぅそぉぉぉぉぉがぁぁぁぁ~~~~…………」
眠気で落ちそうになる意識を頭を振ってなんとか持たせる。
しかしそれでは数秒と持たない。
気付けばコントローラーを握って頭は船を漕いでいた。
「ハッ! い、いかん……こ、このままではアプデ後のスタートダッシュに置いてかれちまうっ……」
ベシベシと頬を叩いて立ち上がる。
シャワーでも浴びれば目も覚めんだろ……。
そう考えてショボショボする目を擦り、重くて傾く頭を片手で支えて風呂場を目指す。
昨晩から着っぱなしだった服とパンツを脱ぎ捨てて浴室に入り、カランがきちんと湯になっていることを確認する。
寝ぼけてても俺はアホじゃない。
このまま水を被るような間抜けな真似はしないのだ。
ドヤ顔で鼻を鳴らし、椅子に座って蛇口を捻る。
ジャッと音がして、顔面に冷水がぶっかかった。
「どっひゃいやぁっ!!」
自分でも訳の分からない奇声を発して椅子から転げ落ちた。
「なんだよなんでだよ! 確認しただろうが俺ァ!」
やり場のない怒りに思わず伸びた足先が壁に激突し指先を軽く挫く。
痛みでその場で数秒丸まった。
ダサすぎる。
「っ痛ぅ……くっそ……でも、目ぇ覚めた…………」
虚しい成果に涙目になりながら、未だに冷水を流し続けているシャワーのカランに目をやる。
温度の調整が冷のままだった。
その少し隣に目を向けてその理由にすぐに納得がいく。
最近、壊れてしまい本体から取り外し、壁に埋まったままの古いカランがそこにあった。
「ガ…………」
言葉にならない悲しみが胸の内を支配する。
こんなものにしてやられるとは、なんという悲劇。
喜劇だろとか思ったやつは殴る。
シャワーヘッドの角の少し角ばったところで殴る。
なんて虚しいこと考えてないでさっさと湯を浴びようこのままじゃ風邪ひく。
カランを湯に切り替えて再度浴びる。
数秒のうちに体が熱と湯気に包まれポカポカと温かくなった。
「…………っと、いかんいかんっ」
温かさに思わず落ちそうになった意識を首を振って覚ます。
折角冷水で、いや、あれを折角というのはどうなんだとも思うがとにかく目覚めかけている意識だ。
ここで落としてしまうのはあまりにもったいない、主にアプデ待ちの身として。
手早く切り上げよう。
そう思い最後に冷水でバシャバシャと顔を洗って風呂場を出た。
体を拭いて適当な服に着替える。
そこまですれば随分と目も覚めるものだ。
すっかりとスッキリした意識ですがすがしく風呂場の扉に手を掛ける。
「……ん?」
開けようとしたところで違和感に気付いた。
なんだろう、やけに部屋の外が発光している。
磨りガラスが眩しく、ドアの隙間から光が漏れ出していた。
一瞬だけ部屋の電気の消し忘れのかとも思ったが、ここまで発光はしないだろう。
「なん――――……なんだよホントに」
パソコンの画面が有り得ないくらい発光していた。
具体的に言えば、女神様ごっことか出来そう。
全然具体的じゃない。
意味が分からない。
でも、あの画面の前にたったら凡人でも物凄い後光が差しているように見えて凄い存在に見えるかもしれない。
そのくらい発光している。
「故障、とかじゃねぇよな。モニターは最近買い換えたばっかだし」
眩しすぎるモニターまで近づいて目を細めながら画面を見てみる。
相変わらずの眩しさだが、何かが映っているような気がした。
眩しく輝き続ける画面の向こうでぼんやりと丸いものが浮かんでいる気がする。
それにほんのわずかだが、ボソボソと何かが聞こえていた。
音のような、もしくは声のような何か。
それを確認しようと更に画面に近づく。
すると同時にヌゥと画面の中から視界に何かが伸びてきた。
「だわああああああああああああああああああああああああっ!!!!!」
モニターからダイビングをする勢いで離れて、地面を這ってさらに距離を取る。
というかした。
ダイビングした。
間違いなくした。
痛いとか考えてる余裕もない。
今のは見間違いじゃなかったら間違いなく人の手だった。
「お、オバ、オバッ、オバァ、オバァ、オバアアアアァァ!!」
完全に頭が混乱してなんとか這いつくばって部屋の入口を目指した。
後方を確認している余裕などない。
もう少しで部屋の外。
そう思った瞬間。
「なーにこんなとこで這いつくばってんのよ」
突如ドアが開き、頭上から降ってきた声に恐る恐る顔を上げる。
「おはよ。アンタ何してんの?」
「オバケエエエエエエエエ!!」
「誰がお化けよ!!」
勢いよく顔面に振ってきた足の裏と淡い桃色の生地を視界に納め、俺の意識はフェードアウトしていった。
▽
「オバケェ!!」
飛び起きた。
自分のベッドの上だった。
時刻は午前七時五分。
アプデ明けから一時間五分の遅刻だ。
頭の中で即座にそんな計算をして、先ほどの出来事を思い出し弾かれたようにモニターの方を見る。
スクリーンセイバーが普通に起動していた。
画面の中でボールがあっちこっちに跳ねまわっている。
「まーだそんなこと言ってんの? 将平アンタ大丈夫?」
声の聞こえた方に向くと馴染み顔が俺の方を見ていた。
「真咲……? おはよ……」
「あ、うん、おはよ。じゃなくてホント大丈夫? ゲームのし過ぎなんじゃない?」
「何を言うか。ゲームをし過ぎて悪い、なんてことあってたまるかっ」
「なくてたまるかっ」
チョップをされた。
落ち着く空気だ。
そのチョップに押されるようにそのままベッドに横になる。
「……? ちょっと、将平、どうし――」
「悪ぃ、寝不足なんだ……」
手の甲を目の上に乗せ、光をシャットアウトする。
さっきのは夢だ。
あんな現実があってたまるか。
それを一刻も早く忘れたかった。
当面の間は発光物とか見たくない。
「……そ。じゃあ寝なさいよ。ご飯は温めたら食べられるもの作っといたげるから」
「おう。サンキュ」
言いつつも眠気などこれっぽっちもなかった。
ただ目を閉じていたい、それだけのために吐いた嘘。
多分見抜かれているだろうけど。
それでも見栄のようなものだ、張らせてほしい。
一人しかいない相手にバレているというのに、誰に対して張っているんだよ。
そんな風に自分に突っ込みを入れて、一度深呼吸をした。
鼻から吸った際に真咲が作ってくれているであろう料理のいい匂いがする。
それがまた、心を落ち着かせてくれた。
落ち着いたところで、少しだけ考えてみる。
忘れたいと思っても忘れられない光景だ。
夢だと思いたいが紛れもない現実だ。
しかしだとすると、あの光は何だったのか。
あの小さな手は何だったのか。
そもそも、なぜ俺のパソコンから突然あんな光が発したのか。
そんな考えても分かるわけがないことが頭の中に次々と浮かんでくる。
「将平、どうせ起きてるんでしょ? ちょっといい?」
「……なんだ?」
手をずらして真咲の方を確認する。
エプロン姿の真咲がフライパンを軽く動かしながらこっちを見降ろしていた。
何を作っているのかはこの角度からは残念ながら見えない。
が、真咲の作るものならば何であれ美味いだろう。
その点に関してはまったく心配はしていない。
もっとも俺に心配されるようなことは、コイツには何一つないだろうけど。
「荷物届いたみたいよ。いま手が放せないから出てほしいんだけど」
「……荷物? なんか頼んだっけ?」
確かに真咲の言う通り、玄関の方から、宅配便でーす、という声が聞こえている。
しかし、最近何かを注文した記憶がない。
もしかしたらさっきのあの現象に何か関わりが――――……バカバカしい。
さっきからビビり過ぎだろ、何考えてんだ俺は……。
さっきのことだって不意を突かれてあんなことになったが、手が出てきたからなんだというのか。
事実、今現在に俺の身に何か起こっているわけじゃない。
「将平? 出なくていいの?」
「いや出る、よっ……と」
言葉に合わせて体を起こす。
勢いに任せるように、そのまま玄関に向かった。
道すがら何が届いたのか考えてみたが皆目見当がつかない。
やはり何も頼んだ記憶はなかった。
「ちわーっす。ここにサインオナシャーッス」
届いたのは軽く抱えられる大きさの段ボール箱。
あの大きさだと、可能性があるのはブルーレイボックスか?
ますます頼んでないな。
えーっと中身は、ゲームハード?
なんだよこれ本当に頼んでないぞ。
でも住所は確かにここになっている。
……待てよ。
そういや高橋の奴がなんか俺の家宛てに送るって言ってたっけ。
あの時は眠かったから適当に聞き流してたけど、このことか。
いつまでも待たせるのも悪いのでササッとサインをして荷物を受け取る。
「アザーしたー」
扉が閉じられて荷物に目を落とす。
さてこの荷物。
中身はゲームハードとなっているが送り主が高橋だとすると油断は出来ない。
アイツが送ってくるものでこの大きさとなると、エロDVDの可能性がある。
しかし真咲がいる現状ではこれは爆発物となんら変わりない破壊力を持っている、パンドラの箱だ。
高橋も間の悪い奴だ。
とにかくこれは開封せずに適当に部屋に置いておこう。
真咲も未開封の段ボール箱を開けるような真似はしないし。
部屋に戻って適当なところに荷物を降ろす。
「あれ? 結局荷物届いてたんだ。なんだったの?」
「ゲーム機だ」
「ふーん。ご飯そろそろ出来るけど食べる?」
「あー、そだな。目も覚めたし食おうかな」
見るとテーブルの上に出来たてで湯気の上がっているチャーハンが置かれていた。
遠目で見ても美味そうだと感じる。
「いただきまーす」
手を合わせてさっそくいただくことにした。
「そういやさ、お前結局どうするつもりなんだ?」
朝飯を食べ終わってのんびりと食後のお茶を飲んでいた時。
ふと思い出したことを聞いてみた。
「え? 何が?」
「進学するか就職するかで悩んでたろ、結局どーすんのかなって」
俺の質問に真咲は二度ほどパチパチと瞬きをして、深く溜め息を吐いた。
「それ、ハッキリ言ってアタシのセリフなんだけど。人の心配してる場合じゃないでしょ」
そう言ってひらひらと手を払って話を流される。
確かにこの話題はブーメランだった。
コイツにはいつも心配されてるような気がするからたまにはこっちから心配してみたかったのだが、話題選択で既に失敗してしまったようだ。
けれどここで話題を終わらせたくはなかった。
俺を頼ったことのなかった……自分で言うのは少し悲しいが、ともかく真咲が俺に愚痴のように悩んでいると溢したのは初めてのこと。
「俺は、たぶん進学する。真咲は?」
適当に繋げて話を促す。
真咲には世話になりっぱなしだ。
少しでも助けになれるなら正直なりたかった。
「へー。将平が進学ねー。まぁ、就職するってより遥かに現実味あるわね」
クスクスと笑っているところを見ると、どうやら場繋ぎ的に吐いた嘘だとバレバレのようだ。
しかし嘘も尽き通せば真実だというし、悪いがこのまま話を続けさせてもらおう。
「どうなんだ? 決めたのか?」
「ううん、まだ決めかねてる」
真咲は意外にもアッサリと話してくれた。
少し面食らって反応が遅れてしまう。
「そ、そうなのか」
「そうなの。で、なんなの?」
「あ、いや……」
なんなのと聞かれたら困る。
正直何も考えてなかった。
手助けをしたいとは思ったが具体的には何も考えていないとはこれ如何に。
「どーせ何も考えなしにアタシに意見しようなんて考えてたんでしょ」
さすがだ、当たらずとも遠からず。
「百年早い」
生意気さもさすがと言ったところだ。
しかし言い当てられているが故にぐうの音も出ない。
「でも、ありがとね」
続けるように二カッと笑ってそう言った。
なんだろう、俺こいつには一生敵わない気がする。
「ん? どうしたんだ?」
何も言わずに急に立ち上がった真咲に思わず声をかける。
真咲は少し困った様子で視線を逸らしてピッと人差し指をこっちに向けた。
「そういうこと、いちいち女の子に聞かないの」
それだけ言ってそそくさと部屋を出て行ってしまう。
数秒して向かった先がトイレだと思い至り、自分の気遣いの無さに思わずため息を吐いてしまった。
真咲に言われた通り、俺が真咲に意見しようなんて百年、とは言わないが難しい話だ。
そもそも自分のことすら決められていない俺に何が言えるというのだろう。
口にすること全てがブーメランと化して自分に戻ってくるんじゃないか?
「…………ん?」
ふと違和感に気付いて手元のお茶に落としていた視線を上げた。
さっきより遥かに部屋の中が明るくなっている。
「…………マジ、かよ……」
まさかと思い振り返ると、さっきまでスクリーンセーバーだった画面が光り輝いていた。
しかも気のせいじゃなく光が増し、着実に部屋の中を?み込む勢いで強くなっている。
直感的に立ち上がった。
このままここにいるのは良くない気がして逃げるように光に背を向ける。
「っ――――!?」
瞬間、階段を踏み外したような感覚に捉われた。
一瞬の浮遊感のあと視界が一気に白色に包まれる。
部屋の中にいるはずなのに何もなく。
足を動かしても床に着かない。
どっちが入口でどこから光が発生しているのか。
それどころか、どこが天でどこが地なのかすら分からない。
何もない真っ白な空間に投げ出され、無重力の中その場所に位置だけ固定されてしまったかのようだ。
「っ…………ぁ…………」
言葉を発そうとしたが、何を言いたいのか自分でも分からず何も出てこない。
ただ空気だけをもらす口がパクパクと動くだけ。
何を言えばいい?
助けてくれ?
誰かいないのか?
ここはどこなんだ?
なぜこんなことに?
何を口にしたところで誰が聞いているというのか。
無意味に、無為な時間が過ぎるだけ。
誰が聞いているとも分からなければ、誰かに呼び掛ければ――。
「ぁ…………すぅぅ…………」
そう思ってからは早かった。
すぐに頭の中に浮かんだ人物の名前を口にしようと思いっきり息を吸い込む。
体が何かに引き寄せられるような感覚を感じながら口を開いた。
「まさ…………!」
き、という声は自分にすら聞こえなかった。
ただ途切れていく意識の中で、収縮する光の内側に自分がいて、それがモニターの中に吸い込まれるように呑まれて消えた。
ような気だけがずっとしていた。
▲
白い光から解放されて最初に目にしたのは広大な宇宙だった。
宇宙のど真ん中に投げ出され、気にする間もなく光の柱に包まれた。
体も光に包まれて地上に引っ張られるように落ちていき速度を上げていく。
抵抗など出来る筈もない。
それ以前に状況の理解が追いつかなかった。
周りの景色が無数の星から青空に変わった辺りで視界を下げると地上の木々が見えた。
落下の速度は緩むことなく、体が地面に叩きつけられる。
しかし、体には傷一つなかった。
どころか服にも汚れ一つ付いていない。
自分の身の無事を確認し続いて辺りを見回すと、真っ先に目の前にいる女の子が見えた。
「うわあああっ!!」
慌てて座ったまま後ずさるように距離を取る。
しかし、女の子は固まっているかのように動かなかった。
いや、あの柱が見えていたのなら唖然としているのかもしれない。
とすると俺はこの子に間違って召喚されたとかそういうことなのだろうか?
するとこれからたくさんの女の子に出会っててんやわんやすったもんだの毎日を送る派目に……。
「…………バカか俺は……」
いくらなんでもゲーム脳すぎる。
いや、あんな目に会っていて今さらだとも思うけど。
それにしたってヤケに静かな森だ。
動物の鳴き声はおろか、木々のさざめきすら聞こえてこない。
「あの……」
立ち上がって女の子に声を掛けようとしたその時だった。
カチリ、とよく分からない機械的な音が耳に響く。
「なんだ、今の」
音は、と口にしようとしたが、それは阻まれた。
「い、今……いや、そんなことより、そこのあなた!」
「は、はいっ! ………………はい?」
声を掛けられたと思い、思わずビシッと背筋を正してしまう。
その後、確認するように自分の顔を指差した。
これで人違いだったら相当恥ずかしい。
しかし間違いではなかったようで女の子は少し慌てた様子で俺の方に詰め寄ってきた。
「そうよ! 色々聞きたいことがあるけど今はそんなこと言ってる場合じゃないの! あなた、戦う力はあるっ?」
「た、たたかう、ちから……?」
ゲームでしか聞かないような単語が目の前の女の子の口から飛び出る。
一応運動は人並みには出来るつもりではいるが、この子が言ってるのはそんな話ではないだろう。
こう言っては何だが、身なりも普通ではない。
見た感じ、勇者のような格好だ。
それに折れているようだが手には剣のようなものを持っている。
これで、気合いの入った悪い魔物に負けてしまった勇者のコスプレと言われたら思わずAVの撮影かよと突っ込みの一つでも入れたいところだ。
そんなアホみたいな俺の思考を余所に、反応を見た女の子は一度残念そうに目を伏せた。
そして歯を喰いしばり、折れた剣を構えて空を見上げる。
「なんだ? 空に何か――――」
つられるように見上げた先に、黒い靄が浮いていた。
いや、ただの靄ではない。
よく見ると人の形をしている。
しかし、異質だった。
人の形をしてはいるが、人であるかは定かではない。
蝙蝠のような翼を大きく広げ、全身を覆うドス黒い何か。
見ているだけで心の底から不安になるようなそれはいったい何なのか。
「なんだ……あれ…………?」
反射的に半歩だけ足が下がったが、それだけだった。
恐怖に体が竦んで、それ以上動かなくなる。
「逃げなさいっ……!」
「え?」
「逃げなさい、早くっ!」
剣を構える女の子の声は、大きく張ってはいるものの震えていることが分かった。
「……泣いてんのか?」
「そんなことどうでもいいでしょ! 戦えないなら早く逃げて!」
振り返った女の子は泣いていた。
俺に逃げろと言いながら、辛そうな体で俺を守るように折れた剣を構えている。
お願いだからと、これ以上誰かが傷つくところは見たくないと。
ヤケ気味に、叫ぶように何度も繰り返し口にする。
「逃げてよ! お願いだから早く逃げて!」
その姿が、幼い頃のアイツに被って。
俺はまた、動けなくなった。
逃げたら自分は助かるかもしれない。
だけど残されたこの子はどうなる。
そんなの、決まっている。
そんなこと、一度経験したら分かる。
だからあの時誓ったんだ。
目を背けてしまったら、自分は助かっても周りの誰かが傷ついてしまう
なくしたものは戻ってこない。
幾ら悔やんでもかえってこない。
そうして後悔だけ残して生きるのは、一緒に痛みを受けるよりずっと辛いことだと知った。
逃げる?
逃げない?
そう問われている気がした。
そんなこと決まっている。
「俺は、逃げない!」
決意が決まった瞬間、ドクンと心臓が高鳴った。
体の奥から熱くなり、妙に軽く感じる。
「何を言ってるの! みすみす死ぬような真似を――」
「死なねぇよ」
遮るように出た言葉には確信に似た何かがあった。
俺はここでは死なない。
こんなところで死んじゃいけないんだ。
俺はアイツを止めなきゃならない。
俺が止めなきゃならないんだ。
女の子の肩を掴んで下がらせる。
だけど、その腕を掴まれた。
必死に、まるで縋るかのように。
「待って! 私はこれ以上誰かが死ぬのも、あんなふうになっててもアイツが誰かを殺すのも見たくないの! だから逃げてっ! お願いだから……っ」
女の子は泣いている。
ああ、そうか。
あれだけじゃ足りなかったのか。
だったらそうだ。
付け加えよう。
この子が安心出来るように。
「さっき言ったろ、俺は死なない。それに一つ俺の中で変わったことがある」
「な、何が……」
「俺は死なない、それにアイツも殺さない。なんだか知らねぇけど、知り合いが正気じゃねーってことだろ? だったらぶん殴って正気に戻させる」
「あなた、いったい……」
「俺は単なる、学生だ」
「がく……せい……?」
足に力を込める。
妙な気分だ。
それだけでどこまでも高く飛べる気さえする。
そして、それがただの思い込みじゃないということも分かる。
今なら、なんでも出来る気がした。
誰にも負ける気がしねぇ。
踏み込んだ力そのままに、ジャンプをするように地面を蹴った。
「ほぁっ!?」
すると自分が思っていた以上に体が浮かび上がった。
空中に浮かぶ闇の塊を通り越してしまう。
「うわっ、ちょっ!」
慌てて体を捻って体勢を立て直す。
闇の塊の方に向き直ると空中で踏み止まった。
滑るように体が空中で下がる。
まるでそこに地面があるかのように体が浮いた。
「……ははっ、なんだこれっ」
心の中で楽しくなり自然と笑みが漏れた。
闇がこっちを向いた気がする。
未だに黒過ぎてそれが何なのか分からないが、それでも明確にこちらに敵意を向けている気がした。
視線が交錯する。
睨み合うかのように。
その睨み合いを邪魔するかのように、一人の男が立ち塞がった。
燕尾服を来た男。
それが闇の塊を守るように立っている。
「お前は何者だ」
「あー……何者だって聞かれてもな」
なんて答えればいいんだ?
異世界の住民です。
そういうことが聞きたいんじゃない気がする。
「ただ、今一つだけ言えることがあるとすれば。その黒いのの敵だ」
「そうか」
男が手のひらを突き出して静止する。
「ならば死ね」
「……? 何してんだ?」
あんなに遠くであんなふうに構えて、手が伸びたりするんだろうか?
それはそれで少し見てみたい気もするけど。
「避けて!」
「え?」
地上から聞こえた声の後。
男の手が光った。
いや、手ではない。
正確には掌の中に光る何かが発生した。
まさか、あれは……!
「魔法!?」
発した言葉と同時に光が走った。
視界を覆うように閃光が迫ってくる。
こんなもの避けようがない。
「うわああああああああっ!!」
眩しさと反射的な防衛本能で意味もなく両腕で顔を覆う。
「ああああああああああああああああああぁぁぁぁ………………………………あ?」
暫くすると光が収まり視界が開ける。
体に何か起こった様子はない。
なんだ? 光っただけか?
いや、そんな筈はない。
「ほう、どういうわけか魔法は効かないようだな。ならば……」
あの男が魔法と口にして放ったモノはどういうわけか俺には効かなかったようだ。
男の手にどこから取り出したのか剣が握られている。
さすがにあんな形のあるものに当たったら光っただけなんてことはなさそうだ。
身構えるように拳を握った。
武道の経験があるわけじゃないのであくまで形だけだ。
しかしこんな状況になっても心のどこかでは少しわくわくしていた。
あの男が口にした魔法が効かなかったという言葉。
それが俺はこの世界では特別な存在だと言っているように聞こえてならない。
この世界では俺は誰にも負けない最強の人間なんじゃないかと思えて仕方がなかった。
さっきから負ける気がまったくしないのもそれが原因なんじゃないかと思える。
「いくぞ、名も知らぬ人間」
「待て」
背後から聞こえる歪んだ声に男はピタリと動きを止めた。
「喋った…………」
随分と低く歪んだ声だ。
あんなドス黒い見た目から更に化け物にでも変身しそうだな。
「お前が何者か知らないが、人間が魔王になぜ歯向かう」
「魔王。お前魔王なのか。まぁ、悪いけどそっちの事情は俺には関係ねぇんだよ」
「なに……?」
「女の子が泣いてた、泣かせてるのはお前だ、だからお前を止める、それだけだ」
「そうか」
頷くような魔王の声は冷めきっていた。
まったく興味無さ気で頷いたというより会話を流したと言った感じだ。
魔王は手のひらを空に向けてかざす。
何をする気なのかと身構えた。
「お前が魔王に歯向かう理由は分かった。だったらまずその理由から消してやる」
魔王の手のひらから生まれた黒い点。
その点を中心に黒い何かが渦巻き始める。
まるで周りの光を呑みこんでいるかのようだ。
例えるならそれはブラックホール。
感覚で分かる。
あれを放置すればこの世界など簡単に滅ぶと。
「ついでだ、お前も闇に呑まれて、死ね」
手のひらから空間が歪んで見える。
ボケっと見てるだけじゃマズイな。
「お前には悪ぃけどな。それが完成する前にお前を止めてやるよ!」
「出来るものならな」
もう片腕をこっちに突き出してくる。
するとその手のひらから強風が発生した。
「ぬぁっ!?」
体を吹き飛ばさん勢いで襲ってくる風に上半身が仰け反る。
「なん、だ、この風ッ……うぉおおおおっ!!」
なんとか吹き飛ばされないように体を屈ませた。
しかし、このままでは近づくことも出来ない。
こうしている間にも手のひらの闇の渦は拡大を進めている。
「やはり、魔法は効かずともこういう自然現象は効果があるようだな」
「ぐっ、く、そっ……おい! お前はこの世界を壊して何の得があるんだ!」
「得? 何を言っている。魔王が自らの世界を壊すことになんの異論がある」
「自らの、世界だと?」
「そうだ。今までは人間などと言う下等な生き物に住まわせてやっていたに過ぎん」
「お前はそうやって自分勝手な理由で、なんの罪もない人々を殺すのか!」
「何の罪もないと思っているのはお前ら人間の思い込みに過ぎん。人間の罪は、その生にこそ存在する」
生きてることが罪だと?
何を寝ぼけたことを言ってやがる。
「それこそ、お前の思い込みだろ!」
「……これ以上は無駄な問答だな」
「ぐっ……このっ……!」
突風がより強さを増す。
このまま踏ん張っているだけでは飛ばされてしまいそうなほどの威力だ。
「お前の言い分も、この世界が消えれば無いも同然だ」
「いや、あの女が消えれば、か?」
渦巻く闇を地上に向けた。
そのまま渦は魔方陣へと変貌し、黒く輝き始める。
何をする気だ、などと考えるまでもない。
殺す気なのだ。
あの子のことを。
この世界ごと。
「そこで見ていろ。いま、消してやる」
「――――――――――」
消す、だと?
ここに生きている人たちを。
ただの自己満足の為に。
失うのか。
あの涙さえ、止めることが出来ずに俺はまた。
俺は――――。
また――――。
ドクンとまた強く、鼓動が鳴った。
そして感じる、心の底から力が湧き出るような感覚。
「ふざ、けるなああああああああああああああああっ!!」
足を曲げて込めた力のままに空を蹴った。
体が強風を裂き、魔王に向かって直進する。
「なにっ!?」
「例え世界がお前のモノでも、そこに存在する人たちを自由にする権利なんてお前にはねぇ!」
「ぐぅっ! この魔王の魔法を打ち消すだと!? ならば、お前から死ねぇ!」
「俺は死なねぇよっ! お前なんかには殺されねぇ! 目を覚まさせてやるから、歯ぁ食いしばれーっ!」
魔王がこちらに向けた黒い魔方陣の発動より早く、固めた右拳を塊の顔らしき部分に打ち込む。
「ぬぐぅっっ!!」
「うぉぉぉぉおおおおおおらぁぁぁああああああああっ!!!!」
そのまま力任せに振り抜いた。
途端、弾けるように闇が拡散し、本体らしき何かが地面に向かって吹き飛んでいった。
数秒して地に落ちた大きな音が鳴り、静寂が戻ってくる。
「ば、バカな……魔王様が…………」
それを最後に体全体の力が抜けてそのまま地面に落下した。
地面に直撃する手前でふわりと柔らかい風に包まれて降りる。
疲れから一息だけ吐いて体を起こすと、女の子は泣きそうな表情で微笑んでいた。
どうやらこの子がそうしてくれたようだ。
「助かったよ。どうも、あり――――」
お礼を言おうとした口を指先で塞がれる。
そして嬉しそうに満面の笑みを見せてくれた。
「……ありがとうっ」
そう言って見せた笑顔にドキリと心臓が高鳴る。
「私はユリシア。勇者ユリシアよ。あなたの名前を教えて?」
「俺は将平。鏑木将平だ」
自己紹介をして、生まれた安堵感で笑みがこぼれた。
なんとかこの子を守れてよかったと、心の底からホッとする。
しかし、その安堵感も数秒と持たず。
「いっっっっったあああああああああああああああああああああいいいいいいいぃぃぃぃっ!!!!」
叫ぶような泣きそうな大声によって掻き消されてしまった。
「あの声はっ……魔王っ」
ユリシアは驚いたように目を見開いた。
けれど、どこか嬉しそうにも見える。
そういえば、知り合いっぽいようなことを言っていたけど、勇者と魔王が知り合いなんだろうか?
「…………へ?」
いや、ちょっと待て。
魔王?
いまの完全に女の子の声だったじゃないか?
なのに魔王?
俺がブン殴ってぶっ飛ばしたのなんだっけ?
魔王?
てことは俺が殴ったのは――――…………。
「――――――――――…………」
全身から血の気が引いていく。
疲労感に満ちた体を跳ね起こして声の聞こえた方に向かって走り出した。
疲れたとか動けないとか言ってる場合じゃない。
俺全身が直ちに向かえと警笛を鳴らしている。
「ちょ、ちょっとどうしたの!?」
後ろで聞こえた声を無視して走り続けること数秒。
声の主が追ってこないところをみると、まだ動けるような状態じゃないんだろうが、申し訳ないが今はそれどころではない。
少しして声の主の姿が見えてきた。
おそらく俺の殴ったであろう右頬を抑えて両目いっぱいに涙を溜めているその姿は紛れもない女の子。
身形は普通には見えないけれど、見た目は完全に女の子。
「あっ、う、うぅぅぅぅ、ひぐっ、えぐっ」
俺の姿を見ると、堰を切ったかのようにその両目からボロボロと涙が零れ始めた。
「うわぁぁぁぁぁああああああんっ、なぐったあああぁぁぁぁっ」
「だぁぁぁぁあああああっ!! ほんっとうに申し訳ありませんでしたあああああっ!!!!」
完全に泣きだしてしまった女の子に地面に頭を擦りつけて土下座をする。
俺がここまでするのにはわけがある。
単純に女の子を殴ったことへの罪悪感だけではない。
我が家の家訓。
女性に暴力を振るうことは万死に値する。
これにより、子供の頃真咲と喧嘩になった時、俺は親父に何度死ぬような目に合わされたか分からない。
親父は今や帰らぬ人だが、俺の中では親父の存在は今でも恐怖でしかない。
死んで尚、化けて俺を断罪しにくる可能性だって考えてしまう程だ。
「ひどいよぉぉぉぉっ、うわぁぁあああああんっ」
「ごめん、謝る! なんでもする! 俺に出来ることなら何でもするから!」
大きな声で泣き声を上げる女の子に土下座で謝り続ける。
「うぐっ、ひぐっ、なん、でも……?」
「する! なんでもする!」
「……じゃあ、契約」
鼻を啜りながらも、なんとか泣き止んでくれたことに安堵する。
「オーケーオーケー、契約ね。つっても、何すればいいんだ?」
今はとりあえず話を合わせておくことだけを考えよう。
「得意な事を活かして、魔王の傍にいればいい。お前、クラスは?」
「クラス……? 3年D組だけど、それに得意な事っつってもしてやれることって言ったら勉強教えるくらいだぞ?」
「さん、ねん、でぃー? 聞いたことない。それに勉強を教えるって何?」
「えーっと、なんだろう、家庭教師、なんて言っても伝わらないか。うーん……」
「……なんでもいい。じゃあ、契約。お前、名前はなんだ?」
女の子から手を伸ばされる。
「え? あ、あぁ。将平だ。鏑木将平」
反射的に頷いて、その手を握った。
その瞬間、俺たちを中心に黒い魔方陣が地面に描かれる。
「うおっ!? なんだこれ!?」
「契約の儀だ。お前はこれより、この魔王の、えっと、なんだっけカテーキョーシだ」
「は?」
意味が分からず問い返す。
しかし、返って来たのは屈託のない笑みだった。
「よろしくな、ショウヘイ」
魔王の笑顔を俺は開いた口を閉じることも忘れ、唖然と眺め続ける。
そのうちポケットのスマホが振動し、我に返って反射的に通話を開始した。
「ちょっと将平! いったいどこに行ったのよ!」
聞こえてきたのは真咲の声だった。
「あ……え……?」
おそらくトイレから部屋に戻ってきたであろう真咲が部屋に俺がいなくて電話をかけてきたんだろう。
というか電話通じるんだ、ここ。
「いや、あの、えっと、さ。真咲」
「何よ?」
「俺、進路決まっちまった」
どうしてそんなことを真咲に伝えたのか、後から考えてみたがまるで分からなかった。
「は? 何、いきなり。何に決めたの?」
「家庭教師」
「家庭教師? 誰の?」
「魔王」
「…………はぁ?」
ただその時の真咲の、頭大丈夫? と心配するような声色だけは、今でも俺の耳に鮮明に残っている。