9 神
遅れてすみません。
5/2 20時更新
2016/9/5 改
「なんか今日はいやな天気だな……」
窓からどんよりと黒雲が立ち籠める空を見ながら、レンは呟きました。
いつもなら窓を開けると清々しい空気が肺を満たし、気持ちよく一日をはじめる時間帯なのですが、今朝はやけに重苦しく、生温い空気が立ち込めています。起き抜け直後は、あまりに部屋が暗いので雨が降るのかと思ったのですが、この街は全天候を王のオロバスが調整していて、作物の為に雨を降らせたりする「恵みの雨の日」は、予め告知されると聞いています。なので、レンはすぐに考え直しました。
ですが、窓から天を仰げば、今にも大雨が来そうなこの曇り様。
「オロバスが天気操ってるってことは、あいつがなんか厭なことにでも遭ってるのかなあ」
( でもあいつ、そんな振り回されるようなムラっ気はないような……? )
そんなことを思いながらレンは窓から離れ、朝の仕度に取り掛かるべく、室内に足を向けたのでした。
……正しく言うならば、オロバス―――王が『厭なことに遭っていた』のではなく、『厭なことに遭うのがわかってしまっていた』のが原因だった……というべきでしょうか。
王は自分が、ものすごーく厭なことに遭う……嫌なものに『会う』のが判ってしまい、とても機嫌が悪かったのです。
その相手は―――― 神
王は魔王宮の大広間に佇んでいました。
謁見の間と違い、柱を兼ねた突き出た壁が等間隔に並んだあいだに、大窓とベンチのような黒の長椅子が填め込まれた白い壁面。白・灰・青・黒の石で幾何学模様を組んだ床。赤・黒・金・茶・銀・緑で植物の模様を描いた天井からは、真鍮のような素材で彼等の住む山々を模したかのような、黒い針山にもみえるシャンデリアが幾つか吊り下がっています。
その大広間の中程で、王が少年と見つめあって……いえ、王が少年を睨みつけていました。少年は青白い陶器のような肌の色と、乳白色の肩程の髪を持ち、絹よりも軽そうな白い貫頭衣を身に着けています。
王の色が黒ならば、少年の色は白。
この少年こそが、王が嫌う “神” でした。
「やあ魔王、暫くだね。前回会ったのは五百年前くらいかな?」
「何の用だ。帰れ」
「やだなぁ、機嫌悪いの? ぼく魔王になにもしてないじゃない」
「我に対してはな。……イディアムには好き勝手して幾久しいだろうに。興味本意にイディアムを翻弄する貴様のような存在と和気あいあいと語らえ、とほざけるのならば、よほど己を理解していないのではないか」
「ええ? イディアムは自分達がやりたいようにやっているだけじゃない。ぼくは見ているだけ。余計な干渉はしない主義だからね」
神はにこにこと不自然な程の笑顔で話していますが、通常は無表情の王の眉間には深い皺が寄っています。
「イディムの神。貴様はかつて我に、イディムとイディアムに干渉することを禁じた。それは構わぬ。我はこの街の民の王、そして魔族を統べる魔王故、貴様が統べるものに手出ししようとは思わん。
だが、いまのイディム……とりわけ帝国とやらの有り様は一体なんだ。獣人を虐げ、イディアム以外の種族を侮蔑し、欲に目を眩ませ道を失い、人間同士で争い、欺きあい、貶め、殺めんとさえする。貴様はイディムとイディアムの進化に、それが必要だと思っているのか。
それが貴様の―――この世界の神の意思か」
「それに答えるのは簡単だけど、答えてしまったら、魔王、君の進化の邪魔になるからね。答えるわけにはいかないよ。だけど教えてあげられることは幾つかある」
王の“気”は神と相対した時から不穏な状態でしたが、今は更に恐ろしげなことになっていました。
二人を取り巻くように広間の中の空気が渦巻き、窓が風圧に揺れています。
「君達がヒューイットと名付けた子供が君にそっくりなのは、皇帝の魔力が作用したのと、もういっこ要素がある。皇帝は『魔王に似るように』と世界と子供に願い、魔術師は『魔王に似るように』と世界に祈った。世界とはぼく、ぼくとは森羅万象そのもの。そして願いと祈りはどちらも力。二人の“祈りと願い”があった結果として君、魔王にそっくりに成ったのさ。
魔力がなかったのは、皇帝と魔術師の彼女の魔力とが混ざって相殺してしまったから。相性が合わず反発したんだね。で、二者の力が反発したのは、皇帝が魔族の血、魔術師は精霊の血の者であるからだ。しかし普通、魔族と精霊だからといって力が反発することはない。あるとすれば、同じか、近い属性の場合だ。魔術師の力は父親譲りの火の属性。では皇帝も火の系統と考えるのが自然だね。
……ぼくがここまで言えば君にも予測がついているだろう」
神は一拍、間を置いて言いました。
「皇帝の母親は、君の“家族”だった子だよ。正確には彼女と、その父親だね。彼女の名はメニヤーナ・サール。父親は、ヴィト・サールだよ」
その言葉を聞いた王は大きく目を見開きました。その目の、紫色だった虹彩が瞳孔もろとも白く塗り変わった瞬間、爆発的な魔力が王から発せられ、大広間の窓という窓がすべて粉々に砕け散り、跡形もなく消失しました。
窓枠すら無いに等しくなった宮殿の“元・窓”から見える街の空は、真っ黒な墨を流しような渦巻く黒雲に塗り込められ、街中を暴風が突き抜けていきます。
神はその様子を見て溜め息を吐くと、首をニ、三度摩りながら王の方へ顔を戻しました。
大広間に立つ王の眼は漆黒で塗り潰されていました。両の手が堅く握り締められすぎて、爪が掌の皮を抉り、肉に喰い込む音までが聞こえるようです。
王の足元から広間の床一面に、七色の光を放ちながら巨大な大転移用魔方陣が出現しました。転移魔方陣は膨大な魔力が必要な為、単独で生じさせる場合は通常、効率をあげる為の術式補助を入れるのですが、王は魔力だけで練り上げたようです。
「やれやれ……やはりこうなるか」
神がそう呟いた時、王の体が二重、三重に大きくぶれました。
バンッッ!!!
―――大広間の扉が開かれるのと、王が床に叩きつけられたのは、ほぼ同時だったでしょう。
「魔王様!!!」
「魔王さまっ、一体な………」
飛び込んできたリザークとツェレスクは一瞬で固まりました.。あろうことか、王が床にうつ伏せの姿勢で、上から押さえつけられていたからです。しかも、王の背を膝で床に押し付け、腕を捻り上げている者は―――彼等の王、魔王オロバスと顔立ちが瓜二つの男でした。
「え? え、……? ま、魔王さま、が二人居る!?」
「見誤るなツェレスク、我等の王が二人も居るものか。白い魔王様など偽者に決まっているだろう」
ツェレスクは混乱していますが、リザークはすぐさま我に返っっていたようです。
「おや、流石宰相は惑わされないね」
「……ああ、その神気。イディムの神でいらっしゃったか。何故魔王様の上に乗って居られるのです? さっさと退いていただきたい」
魔王そっくりな男は、少年から姿を変えた神でありました。但し、髪や眉、睫毛、肌、そして衣装は白で、瞳だけが同じ紫です。
「か、神? 神ってたしか、子供の姿だったよな」
「魔王を知っている者の前だと、面倒になるからあの姿を取っているけれどね。こちらが本来の姿だよ。私と魔王は “対なるもの” 不思議ではないだろう?」
微笑んでそう言う神を見て、ツェレスクが厭そうに顔を引きつらせます。
「魔王さまの顔で胡散臭い笑顔するとアンタになるのかよ……怖えわ」
もともと神に対してそう好感を持っていたわけではありませんが、王と酷似した貌にうっそりと微笑まれたツェレスクは、己の背筋が震え上がる、という稀有な感覚に戦慄を覚えました。
「―――さて、」
神は膝の下に敷いた王を見下ろします。
「皇帝の母親はお前の臣下の娘、お前の“元・家族”だった。だが魔王、お前が帝国に報復してはならない。それは皇帝だけの権利だからだ。お前の情が深いのはそのような性質なのだから仕方ないが、数千年、数万年生きてもそれでは、ものを知らぬイディアムとさして変わらないよ?」
神はそう言うと、王の背から膝を退け、腕も放すと立ち上がりました。
「………」
「魔王様、なにがあったのですか」
王はずるずると擦りつけるように床に手をつくと、項垂れる首を重そうに持ち上げます。虚ろに床を見つめるその瞳は、既に紫色に戻っていました。
「……リザーク。皇帝の、殺されたという母親は……メニヤーナ・サールだそうだ」
王の言葉にリザークは一瞬、はっとした顔をしましたが、ゆるゆると眼を伏せると片手を胸に当て、静かに呟きました。
「―――……それは、ヴィト・サール様の愛娘だった……そうでしたか。 魔王様はそれで」
ヴィト・サールはリザークの前の宰相を務めた魔族でした。彼はアルデュロスが追放された後、王に隠居の許しを乞うて後リザークに引き継ぎをして職を辞し、一人娘をつれて街を去りました。その一人娘のメニヤーナ・サールは、父親に連れられてよく魔王宮に出入りしていました。『大人になったら侍女になって、魔王様と街のために働くのだ』と言って、侍女見習いのようなことをしては、笑顔の侍女達に『はやく私達の仲間になって頂戴!』 と声を掛けられていた少女でした。
ヴィト・サールは、小さいながら頭の先が良い愛娘をリザークの部下にしたかったようですが、彼女は王の姿を見ると『なにかごようはございましぇんか?』と聞かずにはおれないような少女だったので、王は、彼女が大きくなっても気が変わらなければ、宮殿の侍女にする気でいたのでした。
―――それは、アルデュロスの一件が起き、命の火が尽きはじめていたがために彼をとめられなかったヴィト・サールが、娘と共に街から消えるまでの泡沫のような夢となりましたが。
王は彼等が街を去ってもずっと行く末を気にかけ、追尾していましたが、彼等がイディムに紛れてしまったことでその後の消息を追う事は出来なくなっていました。
「メニヤーナが前皇帝の側室となり、殺された……ヴィト・サールはどうしたのだ。穏やかに死んだのか、それとも」
「彼は娘が皇帝に嫁ぐのを待って亡くなったよ。宰相を辞めた頃には既に老体となって魔族の寿命が来ていただろう? それでも彼は娘かわいさに生き抜いた。笑って逝ったよ。
ああ、ただ、君とアルデュロスのことはいつも思い出していたね。よく私に話し掛けていたよ。
『神よ、オロバス様と馬鹿なアルデュロスに魂の和解を』……とね」
「アルデュロス、聴いたな」
「――――は。」
ゆっくりと立ち上がる王から少し離れた場所に、いつの間にかアルデュロスが膝を突いて居ました。王が念話で呼び寄せていたのです。
黒のローブのフードを目深に被る彼の表情は誰の目にも見えません。
王は神の顔を見据えて言いました。
「我が直接帝国に報復することはすまい。だが皇帝を……我の友であり、家族であり、臣であった者らの末を助けることは許容しろ」
「報復するのを助けるのかい? それとも彼の命を助けること?」
「後者だ。本人が要らぬといえば手出しは一切せんが、もし大魔術師らが力及ばぬ事態になっておれば、我が行って肉体を再構成し、魂を呼び戻す」
王のその言葉に、神は、はぁぁー…と息を深く吐いて天を仰ぐと、顔を王へ向け直し、両手を腰に当てて苦笑いを浮かべました。それはまるで、諦めを表しているような貌です。
「私は感情を越えた叡智と理性の主故に、薄情だ、無慈悲だと言われるが、魔王、お前は情深いがために執着する性質を持ち、ときに慈愛と慈悲の王と慕われる。
私は君の性質を愚かだと思うが、たまに羨ましく思うよ」
―――同じコインの裏表。我等は己の思うままに存在しているに過ぎないというのに。
「皇帝は君に任せるとしよう」
神はそういうと、両の掌を上に晒して前に差し出します。その手の宙に、血と煤と埃に塗れた男が横たわった状態で現れました。
「っ!」
息を呑んだのはアルデュロスでした。
直ぐさま神に近寄り、その男―――皇帝であろう者を受け取ります。
「死んではいないが、精神が擦り切れて魂と身体の繋がりが危うい状態だ。まぁ好きにするといい」
「―――礼を言う。ありがとう」
王の謝意の言葉に、神はにっこりと微笑みました。
「おや、こちらこそありがとう。
生きとし生けるもの全て素直であること、此れ即ち美徳也」
ではまたね
そう言うと、神は身を翻すと同時に掻き消えました。
「我が王よ、サールの末の魂に御力を」
アルデュロスが王に声を掛け、その場に皇帝を寝かせます。王はアルデュロスの反対側に膝をつくと、皇帝の足、鳩尾、胸へと順に手を乗せていきます。意識はとうにないらしく、反応のない皇帝の身体を中心にして、床に大小いくつもの魔方陣が現れました。リザークとツェレスクは王の邪魔にならないよう、遠巻きに見守っています。
最後に皇帝の額に手を置いた王は、彼の、金色と枯れ草色の房が混じる髪を見ました。
少女だったメニヤーナ・サールも、同じ二色の髪でした。
『二色も使った髪なんて、ぜいたくだと思うんです』
母の金色と、父の枯れ草色が見事に混ざった自分の髪を、彼女はそう言って王に自慢したものでした。ヴィト・サールはただ笑って見ているだけでしたが。
( 我が友であり、家族であり、臣であったサールよ。我が腕に戻る時が来た――― )
王と皇帝の身体が発光し、それに魔方陣が呼応するように放った光が混じり合って、大広間を白く染めました。