繋がる人の輪
桜の木の下に入る。広げた緑の葉が雨を防いでいてくれていた。
「近いですね」と目の前で蛍が笑う。それに釣られて笑いそうになったが、複雑に絡んだ気持ちが頬にぶら下がっているようで、俺はぎこちなくしか笑えなかった。
「まだ探している人は見つからないの?」と俺は傘を閉じた。蛍はやはり傘は持っていなかった。三日前から降っている雨だ。持っていない方がおかしい。その点だけを取っても、やはり蛍は幽霊なのだと実感せざるをえなかった。
「はい、まだ見つかりません」と言う蛍を他所に、足先から、髪の先へとじっくりと観察する。
昔からサンタとか幽霊を信じていないのに、蛍がここにいて、会話出来るということをすんなりと受け入れてしまっている自分がいた。
幽霊ということを意識すると、影がなかったり、俺しかいない時にしか会えなかったりと、もっと早く気付ける点が多々あった。
「私に何か付いてます?」
「あ、いや、何でもない」と俺は目線を逸らした。逸らした先にあったガラスには、やはり蛍の姿は映っていなかった。
普通の反応。まるで生きている人みたいだ。もしかしたら、まだ自分が死んだことにも気付いていないのかもしれない。それを思うと、何だか不憫で、可哀想で、居た堪れなくなった。
「それ何ですか?」と逃げ出しそうな俺を繋ぎ止めるように、蛍は言った。
蛍の視線を追うと、俺が手に持っていたプリントを見ていた。
「これは教職のプリントだよ」
さっき池谷先生とすれ違った時に渡されたのだ。そこで俺は蛍がついた嘘について思い出し、合点がいった。
教職の先生は今も倉本先生だという嘘だ。あれは嘘ではなく、蛍が過去の人だったから、話が食い違っていたというだけのことだったのだ。十四年前、蛍はこの大学の倉本ゼミの生徒で、当時の倉本先生はまだ教職を教えていた。実に簡単な答えだった。
「少年は先生になりたいの?」と蛍が言う。
「いや」先生何てストレスが溜まる可哀想な職種だ。なりたいなんて思わない。
「何となく取っているだけだよ」入学当初はまだやる気に満ち溢れていた。だから履修した。その流れで池谷ゼミに入った。だが、今もうどうでもいい。
「特にやりたいことないし」それが正直な気持ちだ。十四年前逃げ出して曖昧にした『大きくなったら何になりたい?』の答えだ。この年になってヒーローになりたいなんて言えないし、言うつもりもない。
俺は蛍の顔を見られなかった。あの目が俺を見ていると思うと怖かった。
そうして俺は十四年前と同じように、また自分から話を逸らすために「蛍はあるの?」と質問をし返した。
「私はありますよ」知っている。そこまでは聞いた。
「何?」
「先生です」寄りにもよって先生。それもそうか、教職を履修しているんだから。でも何故先生なのか。俺みたいに何となく教職を履修している奴はたくさんいる。だが、胸を張って先生になりたいと言う人は滅多にいない。
「何で?」そんな変わり者が選ぶ職業なんだ。
「一週間前、甥っ子とホタルを見に行ったんです。で、その時に訊いたんです。『大きくなったら何になりたい?』って。そしたら『大きくなったらタイガーレッドになる』って答えをはぐらかされました」
やっぱり、この人はあの時俺が答えから逃げ出したことを見抜いていた。
「何ではぐらかされているって分かったの?」
「明確な理由はないですよ。ただ何となく、前から用意されていた台詞を言っているだけの気がしたんです」
当時の俺は同じ質問を何度もされて、ちゃんと答えないといけないと思って当たり障りのない答えを用意していた。
「『本当になりたいの?』って追及したんですけどね。やっぱり答えてくれませんでした。きっとまだなりたいものがまだないんだと思いました」
それもちゃんと見抜かれていた。
「だから、その時私は決めたんです。私は先生になるんだって」
「何で先生に?」
「甥っ子に夢を持って欲しいからです。私、先生ってのは人に夢あたえる仕事だと思うんです。生意気な生徒がいたり、生徒と親の板挟みになったり、ストレスを抱えたり、大変な仕事だと思います。でも、そういう問題はどんな仕事にも付き纏います。問題点ばかり見えても、そういう所を本質だと思っちゃいけないんです。先生の本質って、人に教えることじゃないですか。誰もが必ず通る道、そこで人に教えるってことは、私はそこで子供に夢を与えることが出来ると思うんです。そしてあわよくば、甥っ子も先生になる夢を持ってくれればなーって」
「それが狙いだろ」
「バレました?」と蛍が笑う。「教え子が先生になって、その教え子が先生になる夢を持つ。そんな連鎖が続くって、とっても素敵なことだと思うんです。人の輪が繋がっているって気がして。だから甥っ子にも私みたいに、人に夢を持たせる人になってほしいんです」
あの時の質問にこんなに深い意味と、思いがあるとは思わなかった。
本当、この人には敵わないな。
「きっと甥っ子さんも、その夢を素敵だと思いますよ」
「本当ですか? ありがとうございます」またしても蛍は笑った。
話しを終えるとほぼ同時に、太陽の日が目に入った。思わず目を細める。いつの間にか、あの長く続いていた雨は止んでいたようだった。
すると蛍は、今まで閉じ込められた鬱憤を晴らすかのように駆け出し、日差しの下へと躍り出た。太陽の日を浴びて、うんと伸びをする。釣られて、木の下から出る。暖かい日差しが雲の隙間から降り注いでいた。
太陽に手を伸ばす蛍が言う。
「ようやく晴れたね。浩人くん」
「え」突然名前を呼ばれて俺は驚いた。同時に携帯が鳴る。俺が携帯を見るのを待っているかのように、蛍は動かなかった。携帯を開くと、母親から「金井おばさん、たった今亡くなったよ」という連絡だった。
どう返事するか迷っていると、蛍が動いた。足音に釣られて、蛍に視線を移す。背の低い少女は、俺を見つめて訊いてくる。
「もう大丈夫?」
きっと最初から全部知っていたんだ。俺のことも、金井おばさんのことも、自分のことも。
「もう大丈夫だよ」そう言葉を口にすると、本当に大丈夫のような気がしてくる。
遠く、正門の向こうに、金井おばさんの姿が見えた。
「なら良かった。あの人方向音痴だから、私がいないと駄目なんだ。ちゃんと連れてってあげないと」
そう言うと、蛍は走り出した。あの日みたいに、前触れもなく、前兆もなく、あの時のホタルみたいに、唐突に、突然に、姿を消した。
「バイバイ、お姉ちゃん」
気が付くと、構内はいつもの若者達の喧騒に包まれていた。
※
「それでは今年度から着任する先生をご紹介します。右端の先生から何か一言でもいいので、何かお願いします」と教頭の無茶ぶりに、パイプ椅子に座っていた俺はギョッとした。朝の職員会議ではそんなことは一言も言っていなかった。隣に座る、他校から赴任してきたベテランの先生も苦笑いをしていた。
教頭先生がそう進行すると、右端に座っていた俺と同い年の新任の女性教員が、緊張の面持ちでマイクの元へと向かう。それもそのはずだ。約六百人近くいる小学生の視線が集まっている上に初めての挨拶、そして教頭のあの無茶ぶりだ。俺は自分が最後の八番目だということに安堵しつつも、落ち着かず、ネクタイを締め直した。
次々と教師が挨拶を終えていき、遂に俺の番がやってくる。マイクの前に立ち、俺は唾を飲み込む。
「皆さん初めまして、今年から教師になりました笹林浩人です」
声が震えていた。視界の隅に入った生徒が笑っているような気がした。思わず、先程まで考えていた内容が飛んでしまう。
まずい。
その時、体育館の端に緑色の光が見えた。その光は「もう大丈夫なんでしょ?」と言っているように思えた。
俺は改めて唾を飲み込み、自分を落ち着ける。
「今から皆さんに俺が三年前に経験した少し不思議な話をしたいと思います」
そう、俺はもう大丈夫。
「季節は確かそう、春と夏の狭間」
人に夢をあたえる。それが俺の夢で、あの人の夢だ。
「梅雨を目前に控えた頃でした」
あの桜は今頃、満開に咲いているだろうか。
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