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妖精の尻尾

 懐中電灯で照らされていた足元の光が消され、夜の闇に埋め尽くされる。自分の手さえも見えず、僕は不安になった。林の中、奥へ奥へと獣道を進んだため、人口物は何一つなく、夏の虫の鳴き声と川のせせらぎだけが聞こえた。空に広がるのは綺麗な星々ではなく、今にも降り出しそうな分厚い雲だった。

 不安な僕は、すぐそばにいるはずのお姉ちゃんの存在を確かめるために手を伸ばした。指先に触れたお姉ちゃんの匂いのする衣服を掴む。

 「大丈夫。だからもう少し頑張ってね」とお姉ちゃんが言う。そのお姉ちゃんに続き、生い茂った草木の中へとさらに進んだ。しばらくすると暗闇に目が慣れ始め、木々や枝葉の輪郭が見え始める。そして背の高い林抜けた時、僕は、目の前の幻想的な光景に目を見開くことになった。

 夜のとばりを彩るように、無数の緑色の光が漂っていたのだ。その緑色の光は、テレビで見た宝石のエメラルドよりも美しく、線香花火よりも儚げだった。明滅するたくさんの光。ある光は宙を舞い、ある光は葉に休まり、ある光は重なり、そこはまるで夢の世界だった。先程までの眠気は一切なかった。もしかしたら、ここは本当に夢の中なのかもしれない。

 「どう?」と隣に立つお姉ちゃんが訊いてくる。

 僕はただ「綺麗」と表現するしか、言葉を知らなかった。

 焚き火や、海の波を飽きることなくいつまでも見ていられるように、この光景を僕は見続けた。

 「この光はね、ホタルって言うの」とお姉ちゃんと喋り出す。

 「ホタル?」と聞き返すと、僕はすぐにお姉ちゃんの名前を思い出した。すると、何と間違えたのか、そのホタルと呼ばれた光の一つが、僕の腕に止まった。それは縦長い虫だった。

 「凄い、この虫、お姉ちゃんと同じ名前なんだね」

 「そうだね」とお姉ちゃんが微笑んだ。釣られて僕も思わず笑ってしまう。

 「ホタルはね、尻尾が光っているんだよ」

 「ていうことは、お姉ちゃんにも尻尾があるの?」

 「私には尻尾はないかなー」とお姉ちゃんは困ったように笑った。

 僕は「どうして尻尾が光るの?」尋ねた。お姉ちゃんは「え」とさらに顔の皺を増やし、困惑顔を深めた。しばらく唸ると、何か閃いたように顔が明るくなった。

 「それはね、妖精だからだよ」

 「……妖精」その子供騙しのような説明を、僕は何の違和感もなく受け入れた。サンタとか幽霊を信じない僕だが、妖美に明滅を繰り返すホタルを見ると、納得してしまう。

 それから僕とお姉ちゃんは、近くの切り株に腰を落ち着けると、たっぷりとその光景を見続けた。

 時間の感覚を忘れ、どれくらいそうしていたか分からないが、唐突にお姉ちゃんが口を開いた。

 「浩人くんは大きくなったら何になりたい?」

 「え、僕?」

 お姉ちゃんからその質問をされるのは初めてだった。

 僕が小学校に上がった頃だったから、約一ヶ月前の事だろう。ランドセル背負いたての僕に、おじいちゃんやおばあちゃん、お父さんにお母さん、おばさん夫婦に親戚のよく分からない人達と、いろんな人達から「大きくなったら何になりたい?」と訊かれたのだ。何度もされたその質問に、僕は嫌気が差していた。

 将来なんて自分が大人になることが想像出来なかった僕は、周りの皆がよく言っていた台詞を真似て「大きくなったらタイガーレッドになる」と言うことにしていた。タイガーレッドとは、当時放送されていた戦隊ヒーローの主人公のことだ。そこで今回のお姉ちゃんの質問にも、僕は「大きくなったらタイガーレッドになる」と答えることにした。大体の人は「あら、そうなの」と話を終わらせてくれる。

 しかし、お姉ちゃんは「本当になりたいの?」と追及をしてきた。

 その切り替えしは初めてだった。驚いてお姉ちゃんを見上げる。ホタルの光で緑色に染まった瞳。その瞳は水晶玉のように綺麗で、透明で、まるで僕の心の中を見透かしているようだった。

 咎められているようで、怖気づいた僕は、目を逸らし「うん、そうだよ」と逃れることにした。正直に「何も考えていない」と言えたら楽だったのだが、お姉ちゃんの期待を裏切る様で、言いたくなかったのだ。

 少しの間の後に、お姉ちゃんは諦めたようで「そうなんだ」と溢した。

 僕は話の対象を自分から逸らすために「お姉ちゃんは何になりたいの?」と話を振り返した。

 訊かれると思っていなかったようで「え、私?」と声を裏返した。しかし、お姉ちゃんは不意を突かれたというのに「私はあるよ」とすぐにいつもの調子に声を戻した。

 「私はね……」とお姉ちゃんが言い掛けた所で、突然、辺りが再び暗闇に沈んだ。僕の意識はお姉ちゃんの話から逸れた。ホタルを探そうと辺りを見渡すが、残り火の欠片さえも見当たらなかった。

 「消えちゃった……」と暗がりの不安に煽られ、お姉ちゃんの袖を掴んだ。

 「ホタルの寿命はね、大まかに言って約一週間なの」と真っ暗の中、お姉ちゃんが喋り出す。

 「短いよね。綺麗で魅力的だから、凄い勿体ないよね。でも私はだからこそ良いと思うの。短い命だからこそ、その儚さと切なさがより魅力的になって美しさを増す。その魅力っていうのは自分じゃなくて、相手が感じるもの。だからこそ、あの光一つ一つが力強く感じる。儚くて、切なくて、美しくて、力強い。私は他人にそう思われるような人になりたい」

 こちらに振り向く気配がした。

 「そんな光と同じに名前に付けられて、私は感謝してるんだ」

 僕にはお姉ちゃんの言っていることが分からなかった。

 感性も語彙も知識もへったくれもない僕だが、いつかこの台詞の意味が分かるようになりたいと、そんな憧れが僕の奥底で生じた。

 そうして間もなくして、お姉ちゃんは光ることを止めた。死因はただの交通事故だった。何の変哲もない、ありふれた死に方。前触れもなく、前兆もなく、あの時のホタルみたいに、唐突に、突然に、お姉ちゃんはこの世からいなくなった。

 残ったのはやはり、真っ暗な暗闇だった。



 当時の俺は泣くことはしなかった。いや、正確には泣けなかった。お姉ちゃんが亡くなったことを理解出来なかったのだ。人がいなくなることで生まれる悲しさを想像出来なかったのだ。

 こうして想像力を欠けさせた俺は、それをより拗らせていった。どうして他の人が泣くのか。その悲しさを想像することでお姉ちゃんがいなくなった現実を受け入れることが、怖かったのかもしれない。

 そして知らず知らずに考えないようにしていき、気付くと、その蛍の存在を忘れてしまっていた。

 俺は改めて、自分を薄情者だと思った。



 月曜日。いまだに続く雨の中、俺は大学へと向かった。その暗雲は依然として俺の心模様のようだった。

 頭に入らない講義で時間を潰し終えると、早々に帰宅することにした。昔の出来事を思い出した今、蛍とまた遭遇するのが怖かったのだ。それは幽霊だから怖いとかそういうものじゃない。

 蛍の顔を見るとその透明な瞳を通して、俺という情けない人間が見透かされているようで、怖かったのだ。蛍という憧れの人だからこそ、情けない自分を見てほしくなかった。

 しかし、現実というのは幽霊という非現実的なものから目を逸らし、厳しさという現実を眼前へと押し付けてくる。

 「やぁ少年」

 帰り道、蛍と再会を果たしたあの桜の木の下で、俺は再び小森蛍と出会った。

 蛍と再会してから一週間。俺達が再開した頃に光出したホタルは、そろそろ寿命を迎える。


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