追想の入口
電話があったのは、土曜の二十時頃だった。リビングから母親の話し声が、俺の部屋まで聞こえた。話し声と言っても、母親は「はい」と定期的に言っているだけだが。母親の声はどこか深刻そうで、俺は思わず聞こえるはずのない受話器の声を聞こうとした。
受話器が置かれる音の後、母親は俺の元へとやってきた。部屋のドアが開かれるのと同時に、俺は「何かあったの?」と訊いた。
「おばさんが倒れたって」
「おばさんって、金井おばさん?」
「そう」
おばさんと聞いてすぐに思い浮かんだのは、俺の母親の姉に当たる人物。金井翼さんだ。
母親は「今からちょっと病院行ってくるから」と慌ただしく支度を始めると「寝る時は戸締りちゃんとしてね。玄関の鍵は一個だけでいいから」と捲し立てて外へと出て行った。
玄関のドアが閉まる直前「全く、いつまで降っているのかしら」と小言と雨音が聞こえた。
俺の記憶では金井おばさんに良いイメージはなかった。悪人という意味ではなく、可哀想とか、不憫とかといったイメージだ。再婚を何度かしたことがあるらしく、しばらくしてから落ち着いて、旧姓の金井に戻ったとか何とか。
離婚と結婚を繰り返している間に、娘が一人出来たらしいが、俺はその子の行方を知らない。身内の誰もそのことについて言及しない辺り、俺は首を突っ込まない方がいいのだろうと、昔から思っていた。
母親が帰って来たのは、日付が変わった頃だった。その母親から幾分か経緯を聞くこととなった。
金井おばさんの家は、普段七時には家の明かりが点くはずなのに、その日は八時になっても明かりが点かなかったらしい。不審に思った近所の人が窓から中を覗くと、金井おばさんが倒れているのが見え、通報に至った。ということだった。
金井おばさんの容体はかなり危険らしく、生活環境の悪さと検査の先送りが主な原因らしかった。
そこで母親は、翌日の日曜(日付では今日)に金井おばさんの家の様子を見に行くことにした。話しを聞く限り、もう十年近く家に行っていないとのことだった。俺は母親に「どうせ暇でしょ」と言われ、付き添うこととなってしまった。
※
俺は薄情者なのかもしれない。
布団に入った俺はそう思った。
金井おばさんとは、関わりこそは薄いが十年以上の付き合いだ。それも幼少期からの。しかし、金井おばさんの一連の話を聞いている最中、俺は一度たりとも金井おばさんに同情や心配をしなかった。他人事のように話を受け流し、昼間の衝撃をずっと引きずっていたのだ。
どうして蛍は嘘をついたのだろう。
そればかりが気になってしまっていた。嘘に気付いた時、最初こそ傷ついた。だが時間が経ち、冷静になるにつれて、その傷は架空のものであることに気が付いたのだ。傷が架空のものであることに気が付いた要因は、この疑問を持ったからだ。
こんな嘘をついて、何の意味がある?
倉本先生は今でも教職をやっている、という嘘を俺につくことに、一体どんな意味があるというのだ。こんなどうでもいいような嘘をつかれても俺にデメリットはない。ましてや蛍にメリットがあるようには思えなかった。
蛍の今までの言動に、何かヒントがあるのではないかと考えたが、思い当たる節はどこになかった。
強いて言うならば、彼女は本当に人を探しているのだろうか、という疑問だった。五日間蛍と会ったが、彼女は一度も探している人とは出会えてはいない。連絡を取る手段が蔓延している現代社会で、五日間も会えない人とは一体どんな人だというのか。
いくら思考を巡らせても、答えは出ず、考えは堂々巡りを繰り返すだけだった。
※
金井おばさんの家に向かう車内でも、俺はずっと蛍のことを考えていた。助手席のドアに頬杖をついて、流れていく雨雲を眺めた。車内にはボンネットを叩く雨音と、沈黙を紛らわすために点けられた誰も聞いていないラジオが流れていた。
車は金井家の近くのパーキングエリアに停められ、家までは歩いていくことになった。雨の中、俺の黒い傘と母親の赤い傘が並んだ。大通りから逸れて、住宅が立ち並ぶ路地へと入っていった。
途中で「ここよ」と母親が足を止めた。そこは個性のない、ありふれた家だった。
近隣の住宅に合わせたかのように、高いコンクリの塀に囲まれた家。その高さは、周りからの目を気にしているかのようだった。時代に取り残されたような古臭い雰囲気があり、地震があれば、あっという間に潰れてしまいそうな心もとなさがあった。
玄関はドアではなく、磨りガラスのついた引き戸だった。
ガラガラとうるさい玄関を開けると、俺は母親と共に顔をしかめることになった。
その主な原因は、臭いだった。すっぱさと臭みが混じった臭い。家中はカビっぽく、あちらこちらに大きく膨らんだポリ袋の山が積まれていた。
「ひっどい、まるでゴミ屋敷じゃない」と母親が口に手を当てたまま言う。
タンスは半開きになり、中の荷物が埃を被って溢れ出していた。見たことない虫がいつ飛び出してきてもおかしくない不気味さが、蜘蛛の巣のように家中に張り巡らされていた。
「これじゃあ病気になってもおかしくないね」と俺は廃墟探索な気分で、物珍しそうに当たりを物色した。
テーブルの一角には、病院からの大量の通知書が置かれていた。
おばさんはどうしてこんな家に住んでいるのだろうか、と俺は思った。テレビでよく特集されるゴミ屋敷の映像を見る度に、どうしてこんな所で暮せるのだろうか、と疑問に思う。よく言われるのは、寂しさを誤魔化すためだという言い訳だ。おばさんは結婚と離婚を繰り返し、今は一人身だ。そんな人が寂しいと言えば、確かに説得力はある。だが、ゴミで寂しさを紛らわすのは、俺には理解し難いことだった。
廊下の一角に、一際大きなゴミ袋の山があった。天井にまで到達したゴミは、もはや山と表現するより、壁と表現した方が正しいほどだった。
そのゴミの壁の向こうにはまだ空間があるようだった。黒ずんだトイレや、異臭のする台所、足の踏み場もない風呂場を見てきた俺は、この先の空間に何があるのかが気になった。ただの好奇心でゴミの山を崩した。ゴミを退かしていき、見えてきたのはドアノブだった。どうやら引いて開けるようで、ゴミを全部退かさないと開かないようだった。
面倒だな、と思いつつも、俺はそのドアの向こうが気になり、ゴミを退かし続けた。手が黒く汚れ、ベタツキだす。
全て退かし終える頃には、額から汗が滴り落ちていた。腕で汗を拭う。銀色のドアノブに手を掛け、ゆっくりとノブを回し、ドアを開けた。
ドアの向こうはまるで別世界だった。整理された学習机と、誰かが起きて皺が付いたままのベッド。本棚には少女漫画や小説が綺麗に並んでいた。まるで女の子の部屋だった。
ゴミ一つなく、カビ臭さと埃っぽさはあるものの、そこはかとなく甘い良い香りがした。その匂いはどこかで嗅いだ事のある懐かしさがあった。思い出せそうで、思い出せない。もどかしさの中、答えを探すように部屋を見渡す。
壁に掛けられた掛け時計は止まり、この部屋の時間が止まっていることを表しているようだった。
そして俺は、机の上で写真の入った写真立てを見つける。そこに映っていた人を見て、俺は目を疑った。
自分に似た小さい背丈の子供と、小森蛍が笑顔で遊んでいた。
困惑した。どうして子どもの俺が、蛍と遊んでいるのだ。しかも驚くべきことに蛍の姿はつい二日前に見た容姿そのもの。右下に書かれた写真の日付は、十四年前を示していた。
自分でも分かるぐらいに心拍数が上がる。
「お姉ちゃん、いつ出掛けるの?」
「そうだなぁ、あと四時間後ぐらいかな」
突然声が聞こえ、俺は振り返った。そこには小さい頃の俺と、蛍の姿があった。蛍はしゃがみ、出来るだけ俺の目線に合わせようとしていた。
「四時間後ってどれくらい?」
「んとね、あの時計の短い針が【1】になったらね」と蛍が掛け時計を指さす。
声変わりしていない俺の甲高い声と、蛍の優しい声が交差する。
「いい? お母さん達には内緒なんだからね?」と蛍が口元で人指し指を立てた。
「わかってるよ! しっーでしょ?」
「浩人くんはホントに偉いなー」と蛍が小さい頃の俺の頭をくしゃくしゃと撫でた。
俺は知っている。この光景を。何で忘れていた。あの日々を。
あれはそう、今から十四年前のこの季節。
蛍お姉ちゃんに、深夜にお出かけしようと言われた日の事だ。




