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梅雨前の雨

 小森蛍と出会った翌日。教職の授業を終えた俺は、さっき聞いた授業の話を耳から垂れ流しながら、ふらふらと廊下を歩いていた。一時間半も授業を聞いて、十分休んでまた一時間半は中々堪える。次の授業がある教室前へとやってきた俺は、ドアの小窓から教室を覗いた。まだ授業中のようで、俺は近くの椅子に腰かけることにした。

 この大学には至る所に長椅子や、丸テーブルが置かれている。生徒同士が集まって話せる場所を提供するためだとか何とか。それを有効利用している生徒もいれば、俺みたいに休憩がてらに座る生徒もいる。

 丸テーブルに鞄を乗せると、さっきの授業で出された課題のプリントに目を落した。

 【教師が生徒に教える立場になるに当たって、心構えしておくべきことは何か】

 学生生活を残り二年しか残していないが、さっぱり検討がつかなかった。一度たりとも教師目線で物事を考えたことがない俺にとって、中々の難題であった。

 深い溜息と共に「勉強嫌だなー」と声を漏らした。

 「それは勿体ないですよ」

 俺の独り言に反応したような台詞がすぐ近くから聞こえた。俺はハッと顔を上げた。丸テーブルの向かい側に小森蛍が座っていた。

 「また会いましたね」と目を合わせた俺に小森が微笑んだ。

 「何で隣に」

 「私が座ってた所に座ってきたんですよ?」

 「そうだったかな……」

 人に気付かず席に座るとは、教職の授業が大分俺を疲れさせていたようだ。

 そんなことよりも、俺は再び小森に出会うことが出来て、少し心を躍らせた。昨晩布団の中で、小森と出会った時のことを頭の中で何度も繰り返している内に、俺の中で小森の存在が大きくなっていたのだ。

 そこで俺は「そうだ」と話を切り出し「探している人は見つかった?」と気になっていたことを口にした。

 「それが全然」と小森は首を傾け両手を上げ、打つ手なしと言った具合におどけて見せてきた。

 俺は同情するように声のトーンを下げて「そっか」と言った。続けて俺は、ずっと気になっていた誰を探しているのかを訊こうとした。もし男を探していると言うならば、「ちょっとトイレ」と言って席を離れる所存だった。

 しかし、小森は俺に台詞を言わせる前に「それ誰の授業ですか?」と課題のプリントに興味を示してきた。言葉を飲み込み、「教職の池谷先生だよ。ゼミの先生なんだ」と返事をした。

 別に誰を探しているのかを知るのは、急いでいるわけではない。落ち着け、と自分に言い聞かせた。

 「小森さんはどこゼミ?」と間を取り繕う。

 「蛍でいいですよ。私は倉本ゼミです」

 倉本ゼミ。聞いたことがあった。記憶の引き出しを開けていくと、友人の悟の顔が思い浮かんだ。そういえば悟も倉本ゼミだったはずだ。一緒にゼミ見学に行った記憶も引っ張りだし、倉本先生の顔を浮かべた。初老で黒髪の中に白髪が混じっている人だ。

 「倉本先生って、確か数年前まで教職教えてた先生だよね」

 「え? 倉本先生は今でも教職を教えていますよ?」

 「あれ?」

 現教職の先生は池谷先生だ。明らかな矛盾だったが、揺るぎのない少女の目を見ていると、こっちが間違っているような気がしてくる。そこで少し考えた結果、倉本という先生がもう一人いるという仮定に至った。

 数年前に教職から退いた倉本先生とは別に、今でも教職を教えている同名の先生がいると考えるのが、もっともらしい答えである。教職を教える先生が大学に一人しかいないという固定概念がいけないのだ。

 俺は一人で納得すると、改めて「誰を探しているの?」と訊くために「ところで」と声を出した。その直後、何かを合図する聞き慣れた鐘の音が鳴った。慌てて時計を見ると、既に授業が始まる時刻となっていた。どうやら本鈴の音のようだった。

 「あ、授業ですね」と小森は他人事のように言う。

 俺は鞄を担ぎながら「小森さん授業は?」と訊く。

 「私はこの時間何もないんですよ。それに蛍でいいですって」

 訊いておきながら、慌てていてほとんど話を聞いていなかった。

 「分かった。じゃあ蛍、またね」

 「はい、また」

 俺が手を振ると、少女は手を振り返してくれた。そのやりとりにくすぐられながら、俺は教室へと飛び込んだ。



 次に蛍と会ったのはその翌日、図書館で本を探している時に出会った。その次に会ったのはそのまた翌日、廊下の角でたまたま出くわした時。その次に出会ったのはそのまたまた翌日、ベンチで一人昼食を取っている時だった。

 つまり月火水木金と俺が学校に行く日、全部で会ったのだ。会う度に俺と蛍の距離は縮まっているような気がした。話す内容も、授業や天気の他愛もない話から、身内の話へとグレードアップし、木曜に会った時は甥っ子が可愛いとノロケ話を散々聞かされた。

 どうやらそれは、五月病ですっかり精気を失くしていた俺に活力を湧かせていたようで、悟に「お前もしかして彼女でも出来たか?」と言われるほどだった。

 その時は「そんなことねーよ」と話を早々に切り上げたが、その言葉は時間が経つ事に重みを増していき、布団に潜る頃には自分と蛍が一緒に歩く姿を想像してしまっていた。

 布団から顔を出すと、真っ暗な部屋の中、時計の針の音がやたら大きく聴こえた。

 次はいつ会えるだろうか。そんなことを考えていると、窓を叩く音が聞こえた。ぼつぼつと聞こえ、次第に音は増していき、葉が擦れるような音がし始める。

 天気予報ではこれから三日間、土日月と雨が降るらしい。そろそろ梅雨の始まりなのかもしれない。

 「明日レポート提出しに行かないといけないのに」

 雨の日の大学は面倒くさい。ましてや明日はほとんどの人が休みの土曜日だ。億劫に思いながら、俺は瞼を閉じた。



 傘を叩く雨音に急かされながら、俺は大学に向かった。いつもの喧騒を失った大学は、また違う場所のように感じられた。歩く度に、濡れた靴下が不快だった。

 池谷先生がいる研究室へと向かう。立て直されたばかりだという研究棟は、普段の授業を行う学館とは大分雰囲気も清潔感も違った。水を吸った泥だらけのブーツで廊下を歩くのが、躊躇われる程だった。

 そうこうしていると、池谷先生の研究室に辿り着いた。

 ノックを数回。池谷先生の「どうぞ」という声を聞き、部屋に入る。部屋の中は、書類と本類で溢れかえっていた。部屋の一番奥にある半ば物置と化した机に、池谷先生はいた。何か書いているようで、パソコンで何かを打ちこんでいた。

 「これ、今日までの課題です」と俺は雨で端が濡れたプリントを出した。

 「はい、お疲れー」と池谷先生はそのプリントを受け取る。たったこれだけのために、三十分電車に揺られてやってきた。大学滞在時間は五分にも満たないだろう。

 家は恋しいが、何か勿体ない気もして、俺は「そういや先生」と声を掛けた。池谷先生は顔をパソコンに向けたまま「どうした?」と返事をしてきた。

 俺は先日仮定を出したことに正解の丸を付けるため「倉本先生って二人いるんですか?」と質問した。

 「倉本先生が二人? 何言ってんだ、うちの大学には倉本先生は一人しかいないよ。まぁ非常勤の人も含めたら分からないけどさ」

 「え。その倉本先生って数年前まで教職の先生だった人ですか?」

 「そう。この前の授業でそう言ったろ。あの先生、今では心理学を教えているはずだ」

 「それって間違いないですよね?」

 「俺が今の教職の先生だぞ? 間違えるはずないだろ」

 俺の立てた仮定は間違いだった。

 「失礼しました」と池谷先生の部屋を後にする。そこで俺はいよいよ混乱し始めた。

 蛍は「自分は倉本ゼミにいて、倉本先生は現役の教職の先生だ」と言う。しかし実際は、倉本先生は数年前に教職の席を退き、今は心理学を教えているという。

 ゼミ生が担任の先生の教科を間違えることがあるのか?

 顎に手をやり、とぼとぼと歩いていると、「お、浩人じゃねぇか」と聞き慣れた声が掛けられた。顔を上げると悟が、先程までの俺と同様にプリントの束を抱えていた。

 「お前も課題の提出か?」と悟が言う。

 「まぁな。そう言うってことはお前も提出か?」

 「そう。俺はモテるために心理学を学びたいだけで、ソクラテスの気持ちなんてどうでもいいんだけどなー」

 「ははは」と笑った直後、俺は気付いた。

 「そういや悟って、倉本ゼミだったよな?」

 「ん? そうだけど」

 「じゃあさ、小森蛍って子知らない?」

 「小森蛍……?」

 悟は目を瞑り、眉に皺を寄せた。しばらくの唸り声の後「大森って奴はいるけど、小森はいねぇな」と言った。

 「……嘘、だろ……?」

 「嘘じゃねぇよ。じゃあ俺そろそろ行くわ。またな」

 そう言うと悟は俺の横を通り過ぎて行った。

 俺はあの子に嘘を突かれていたのか?

 虚を衝かれた俺は放心したまま、その場に立ち尽くした。傘を落した音が、静寂な廊下に響いた。


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