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月光 1の2

コンピューターが壊れ、コピーでしか小説を持っていなかった。フリーのソフトでPDFからMS WORDに変換し「小説家になろう」の編集スクリーンで軽く見直して投稿していた。しかし、昨日「小説を読もう版」で「月光」を縦書きのPDFにして読んでみると、誤字脱字のお祭り騒ぎだ。慌てて、再び編集のページを開き、コピーしてMS WORDに移し変え、誤字脱字を訂正して再投稿した。すると・・・他の私の作品も誤字脱字が多いかもしれない。

編集しなおしか。やれやれ・・・。

月光



三崎 伸太郎 1 0 ・0 6 ・0 2



「月光 」などと言う言葉は、古臭い言葉である。

しかし、千九百七年(明治四十年)頃の言葉とすれば、当時としては洒落た響きをもって聞く人の耳を打ったに違いない。しかも「MOON SHINEムーンシャイン」と呼ばれ、「月光」と日本語で言うのであれば、ああ、これは異国の話であろう、多分アメリカであろうと誰しもが思い付くはずである。

「月光」とは、密造酒のことである。アメリカでは密造酒のことを「ムーンシヤイン」と、俗語として用いる。なかなか洒落た言葉だ。

千九百七年、ワイオミング州のロック・スプリングスと言う炭坑町には、当時三百名程の日本人が居て、ジャップ・キャンプと呼称される坑夫の集団を形成していた。ボスと呼ばれて、この集団を取り締まっていたのは、権藤と言う福岡県出身の男である。平田一作が父に連れられてこの町に来たのは、十三歳の時だった。 シアトルから生れて初めて乗った汽車が幾つもの州を過ぎてワイオミングと呼ばれる州に入ると、車窓からは赤茶けた山肌の広がる荒野が多く目に付くようになった。人夫斡旋業をしている日本勧業社の社員が一入、十人の日本人を引率していた。

「後、半時間ほどで炭坑に着きますけえ」と、地方訛りを残す言葉で社員が言った。

「こんなとこに人が住んどるとお?」誰かが声を上げた。森野という社員は、声のほうを振り返り「あのお日さんの下に、岩山が見えますでしょうがあ・・・」彼は上体を折り曲げて、車窓の方から夕陽に映えている荒野の一部に目線を当てた。

日本人達は席から立ち上がって森野の方に来ると、彼の向いている方向に視線を向けた。夕陽が大きな岩石のむき出た山間肌に当たり真っ赤である。 一作は、村の鍛冶屋で見たことのある鉄の赤く焼けた色を思い出した。

「あん向こう辺りですけえ」

「あんなとこね・・・」隣にいた男がぽつりとつぶやくように言った。

「なあに、ついたら驚きなさると患いますなあ。 大きな町がありますけに」

「何人ほど住んどるとね?」

森野は、人口を聞かれて心得ましたとばかり「二千人ほどでしょうかなあ」と、これで皆を安心させられるとでも言うように答えた。

「二千人も、のう・・・」皆、うなずいてこれから向かう町の大きさに感心したりした。

一作が住んでいたのは、福同県の炭坑町に近い人口五十人に満たない小さな村である。 町の大半の男子達は炭坑に職を持っていた。炭坑は、日清戦争の勝利の余波で景気も好く、一作の父も坑夫と農業を半々に動いていた。

近くの町に、アメリカのユニオン・パシフィック鉄道が経営するロック・スプリングス鉱山で、日本人坑夫のボス(監督)をしている権藤が一時帰国し、日本人坑夫を募集したのは昨年の夏のことであった。

「なにせ、アメリカでは日本の五六倍ほどの賃金だそうな」権藤から頼まれたと言う馬喰ぱくろうの中西が一作の家を訪ねて言った。 一作は庭先で、父が牛馬を媒介する馬喰の中西を通して、田の耕作のために借りていた牛の背を藁縄わらなわでこすりながら、大人達の話を開いていた。どこからかアブが飛んで来ては、牛にとまろうとする。 牛はアブがとまると数歩後さがりしたり斜めにうごいたり、しっぽで辺りを打ったりした。一作もアブを平手で叩き落とそうと、アブの飛んでいるほうに目を向けていたが、耳は大人達の話の方に傾いていた。

「あんたが、息子とゆくと三年で千円は軽かぞ。行かんか?」馬喰ばくろうの中西の言葉に、父はゆっくりとキセルの煙を吹き出した。一作は、父が母と兄にアメリカ行きのことを話している時「オイを連れて行ってくれんとか? 」と、自ら切り出した。

「おまえは、まだ十三じゃあなかか」兄が言った。

「そげんこついうても、来年にはヤマ(炭坑)に働くことになっちよる。オイは、アメリカに行きたか」

父は炭坑の危険さを良く知っていた。しかし、貧乏百姓から抜け出る賭けをしたのであった。 一作を連れて行き、彼を安全なところで働かせてもらうと、自分が炭坑で事故にあっても、金銭を日本に持ち帰ることができると考えたのである。



一作は、車窓から夕日の沈むあたりに顔を向けている父の後姿を見た。

森野の言った通り、汽車が小さな峡谷を過ぎて汽笛をあげると、それが町に対する合図かのように前方に町並みが見はじめた。

「ほう・・・」誰の口からか感嘆の短い言葉が漏れた。

森野は皆を振り返って「あん町ですけのう」と言い「銭儲けですなあ」と、無事に着いたことの意味も含めてか、感慨深そうに付け加えた。 汽車は、家々のまばらに点在するあたりで速度を落とすと、軽く右にカーブをしている線路を家々の密集している方向に進んで行った。時々人影も目に付きはじめた。家々に灯りが点っている。夕方である。線路の横には街燈が並んでいた。街頭が照らし出したところに駅があった。汽車は汽笛を鳴らした。



十人の日本人は、駅に降り立つと羊のように集団を組んだ。見るものすべてが目新しい。機関車の吐き出している煙が、風にながれて構内をさまよっている。 坑夫や彼達の家族が駅構内を右往左往している。

「さ、さあ。行きましょ」と、森野は羊の集団のような日本人を急ぎ立てた。彼達は、それでも集団を崩さず、のろのろと森野の背後に従った。

釈を出ると、馬車が待っていた。森野は、目ざとく自分達を迎えに来ている馬車を見付けると「電話で連絡しちょきましたから、会社から馬車が来てますけの」と言い、一台の大きな馬車に近付いた。

御者台には日本人がいた。

「森野さん。お疲れでした」と、御者台の男が言った。集団の日本人達は耳にした日本語に、少し安堵して、ゆらゆらと馬車のほうに歩いた。

「お疲れさんでした。 ユニオン・パシフィック炭坑の者です 」と、御者台の男は集団の日本人に視線を向けて言い、帽子を軽く頭から離し元に戻した。

「大島君。それ、カウボーイ・ハットじゃな」森野が馬車に自分の荷物を載せながら聞いた。

「良いでしょうが 」

「坑夫やめて、カウボーイになるんかの?」

大島はニヤリと笑い、内緒でっせとうそぶいた。日本人達が馬車に乗り込むと、大島はゆっくりと二頭だての馬車を走らせ始めた。耳に風が来た。

一作は、大人達の間から町並に目を向けていた。駅前に並ぶ店には、電灯が店先の商品を照らし出している。 店の前を行き来している人達は、日本人の姿とは違っていた。彼の持つアメリカ人のイメージである。イメージといっても根底にあったのは、博多に出た時に見た外国人やキリスト教の神父の姿であるが漠然としたもので、実際、彼の視野にあるのは動いている人々にすぎない。

誰かが煙草(たばこ)を吸い出したようだ。煙車の匂いが馬車の中に広がった。すると、ほとんどの人が自分の煙草に手を伸ばして吸い始めた。

一作は、憐の父親が煙草入れを懐より取り出し火をつける手元に目をやった。キセルに煙草のきざみを丸めて押し込めると、隣で煙草を吸っていた男が口からキセルを離して父に差し出した。 父の音吉は馬車でゆれる相手のキセルの柄に軽く片手を添え、火のついた先に自分の煙草の先を合わせ、すぱすぱと二三度吸って火を移した。 火の小さな灯りがポッポッと狭い空間に浮かんだ。父の音吉は三十六である。坑夫としては若くもないが博多の炭坑ではまじめに良く働く坑夫として評判が良かった。

やがて、馬車は商店街を過ぎ町の外れを走る大きな道に出た。田舎の道に比べると五六倍も大きい。道の外は暗くて見えないが所々にある街灯に照らされているのは、ヨモギのような草である。

馬車のワダチの音が砂地を感じさせる。

「遠くはないですけえの」御者席に腰を落としている森野が振り返って言ったが皆無言だった。馬車がしばらく進むと、町並み以上に明りの輝いている区域が低い丘のような山のふもとに見えて来た。 山の稜線は白墨でなだらかに線を描いたように、山の黒い影と夜の空とを区切っていた。

やがて空気の中に軽く石炭の燃える香りが感じれて来た。一方の方で三本の煙突が立並んでいるのが見えた。 石炭の煙であろうか煙突からは黒い煙が小さく出ている。

「あそこに三本の煙突が見えるでしょうが?」森野が後ろを振り向いて手で方向を示した。

「あそこ近くに第七坑と第八坑がありまして、まっ、日本人の受け持ちですな」

「あそこね。こんまい(小さい〉煙突じゃあなかか」

「三池炭坑のにくらべるとこまかなあ」

「うん。こまか 」皆、煙突の大きさで三池炭坑のほうが優ると言うことを得意げに話した。

「しかし、ここの山はアメリカでは一番の高品質炭ですけえの」

「穴は長かね?」誰がか炭坑の長さを聞いた。誰もが一番重要なことを聞くこと忘れていたと、この言葉を受け止めた。森野は、少し考えているように見えたが彼は坑夫ではないので分からなかった。隣の大島が「一里半(約六キロ)程ですよ」と答えた。

「深かねえ・・・」

「日本のように深くはないです。石炭の層は地表近くに出てますからね。外からでも掘れるような山ですよ 」大島が言った。

「歩くとね?」

「なんばば言うか。一里半あると言いんしゃったたい。トロッコじやろうが」

「トロッコか・・・」

「三池は、電車じゃったとにねえ」

「最近じやろう? 一昔前までは歩いて通うたとばい」銘々が自分の知っている事を口に出した。

馬車は、コースを変えて第八坑と言われた煙突の横を抜けると、人家のような平屋の建物の並んだ所に出た。

夜なので、辺りの風景は限られた範囲で馬車の周りに広がっている。それでも次第に日本人の住む形跡が感じられる頃、馬車は平屋の角を曲がったところで止った。

「着きましたけえ」森野が言った。

馬車の止った家のドアが開いて人が出て来た。

「権藤さん。お連れしましたよ」森野が言った。着いたばかりの坑夫逮は権藤に面識がある。そもそも権藤が郷里の福岡で募集した坑夫逮だった。

「よお、きんしゃった。疲れなさったやろお」権藤は大きな恰幅に似合わないような甲高い声で皆をねぎらった。

「森野君。部屋を割り当てて、風呂に入ってもらわんか」

「部屋は? 」

「食堂の横の部屋を用意しておきました」大島が答えた。

「ああ、あそこけえの。皆良い人達だけ、あそこはええ」森野と大島は坑夫達を長屋のような建物に案内した。

「こっちは食堂です」大島が窓から光の洩れている部屋を手で示した。ガラス窓越しに、タ食を取っている日本人坑夫の姿が覗かれた。部屋は四名に一室が割当てられたが、一作と音吉には小さな二人部屋が当てられた。坑夫達は荷物を置くと、十人がかたまって風呂に行った。夜八時近くだったが風呂には誰もいなかった。

「皆、一風呂浴びたら夕飯を食べて直ぐ寝ますから」大島が説明した。

湯船は広かった。しかし、片方には如雨露じょうろの口のような物が上のほうにずらりと並んでいて、一つ一つに腰ぐらいの高さで丸いレバーが付いている。数個の口からはぽたぽたと水が垂れていたので、下のレバーをまわすと水が落ちて来るだろうとは想像できた。

皆、湯につかっていたが、中の一人がレバーに近付いて動かした。水が飛び出して、回した本人に降り注いだ。 彼は驚いて身をよけたが水だと言うことに安心したのか、手で降り注ぐ水を確かめ「こりゃあ便利たい」 と感嘆すると、しばらく手だけを降り注ぐ水にかざしていたが「ありゃあ、湯になった」と一言い、身体を降り注ぐ水の下に運んだ。

「シャワーですか?」森野が湯に入って来ると、湯船に近寄り洗面器で湯を体にかけ始めた。

「シャワーな?」誰かが開いた。

森野は湯につかり「アメリカ入や他の国の連中はシャワーだけですけえの。湯船は日本人が皆で作ったんですけ」シャワーから流れる水は浅いみぞを片方のほうに流れてゆくが、良く見ると石炭の粉のような物が溝にはへばりついていた。坑夫達は石炭で汚れた体をシャワーで流してから、湯につかるのであろう。

風呂から出ると食堂に集まった 権藤がいて、夕食と酒が用意されていた。

「遠いとこ、ご苦労さんでした。ま、二三日ゆっくりして体を慣らしてから仕事を始めるとよかでしょう」

「権藤さん。わしら休みはいらんとですよ。 明白からでも仕事したかあ、と思っとります」

「こりゃあ、せわしかなあ。ばってん、明日は休んだほどよかとでしょう」権藤はやわらかく笑って言い、皆に食事と酒を勧めた。

皆、福岡で仕事の内容は聞いていたし、一作を除いては、皆炭坑の経験者であったから、今更説明を関かなくても同じ仕事であるだろうと理解していた。ただ、賃金が数倍も良いわけである。しかし、権藤は明日九時から仕事の説明をするのでこの食堂に集まってくれるようにと言った。皆、旅の疲れからか酒の回りが速く、権藤の話を耳にしながらアメリカの国土の批評に話題を置き換えていた。




明朝、一作はたばこの匂に目を覚ました。父の音吉は既に起きていて、窓側でたばこを吸いながら外の景色を見ている。窓からは赤茶けた岩石の多い丘のような山が見えている。空が真っ青で太陽の光は強い。

「起きたとか? 」音吉が一作を見て言った。

「うん・・・」一作は福岡の家を夢に見ていたのである。ここが新しい生活の場であると、直ぐに気持ちを切り替えた。朝起きるとトイレに行きたい。

「小便な?」父親が聞いた。

「うん・・・」

「出口から見えるばい」父親がキセルをくわえたままあごで示した。一作は建物の外に出るとトイレに行き小便を済ました。トイレから出ると周囲の風景に目を向けた。平屋の建物があちこちに見える。建物の屋根には、空気抜きのファンが何本か立ててあり、風でくるくる回っている。昨夜は気付かなかったが家々は緑のペンキで塗られていた。外れのほうに縁の固まった所がある。良く見ると小さな日本庭園のようである。

一作が後ろのほうに目を移すと、炭坑の近くに立つ煙突が見えた。煙がのろのろと昇っていた。

住居から仲間の坑夫がぞろぞろと出て来た。父親も混ざっていた。

「一作。食堂に行くばい」音吉が声をかけた。

食堂には朝食が用意されていた。飯と焼いためざしが二匹、それにイリコと野菜の入った粗末な味噌汁が付いていた。

皆粗末な食事には慣れていた。誰も残すことなくきれいに食べ、お茶を飲んでいると森野と権藤が書類らしい物を抱えて入って来た。

「食事が終わったら、ちょっとサインばしてもらうと思います」権藤が言った。

「サイン? 何ね? 」

「ああ、名前かいてもらうことですけえ 」

「サインて、名前かな? 」

「名前ですが、まあ、判子のような役割をします・・・」森野が書類を配理ながら言った。書類は英語である。誰も英語が分からなかった。

「こりゃあ、よそん国の言葉じゃあなかか?」維かが言った。

「まあ、そうですが、今から書いてあることを説明しますけの。後で、名前を書いて下さい」

森野は、簡単に給料や住居費用などについて説明すると、書類を高くあげ名前を記入する場所を指で示した。皆、面倒くさそうに自分の用紙に名前を書き入れた。とにかく、日本人のボス(監督 )のことだから大丈夫だろうと考えていたことと、書類の手続などにはうとい人間ばかりだった。

「日に、なんぼもらうとか?」勇気を出した男が質問した。森野は少し上を向いて考えるような仕草をし、一日十時間労働で一ドル五十は、出ますと答えた。

「なんぼな?」ドル計算ではわからなかった。

「日本の金に直すと、三円ぐらいじゃけに・・・衣食住費などを引くと、月に五十円になりますが・・・」

森野が口を濁したのは、給料から差し引く渡航費用の立替金、一人当たり約百円を、どのように説明するかと考えたからである。

「最初は、立て替えた費用なども引きますんで、まあ、そうですな、三十円 」

三十円と聞かされて、皆満足した。実際の給料の半分以上ほどを取られているのだが、このからくりも彼らにとっては何の意味も持たなかった。三十円は、当時の日本の平均給料からすると五六倍もあるからである。そして数ヶ月後、彼達の給料は建前的には、その倍になる機会が訪れる。ニオン・パシフィック炭坑にユニオンが結成され、日本人坑夫の数が思った以上に多いことを 気にしたギブソンと言う組合組織者が、日本人坑夫の参入を働きかけて成功したからである。

ユニオンは、人種による賃金の差別を廃止していたが白人坑夫のほうが少なからず有利な賃金をもらっていた。そして又、日本人坑夫の給料はボス組織に搾取されていたので、 実際には倍にならなかった。

一作は坑夫ではなく、年が若いと言うことで雑務の仕事に就くことになった。




一日経つと、父の音吉と仲間達は働きはじめた。彼達は朝二時に起きて食堂で貧しい朝食を取ると、用意されている弁当を手にし、腰にはランプ用の油を下げ、つるはしやスコップを担いで坑道に降りて行った。坑道の口から採炭現場までの五、六キロを電車の軌道の上を歩いた。蒸気エンジンで回す空気ポンプから送られて来る空気袋の膨らみが、小刻みに坑道の上の片側で動いている。坑道と並んで 空気抗が走っている。

皆、坑内においては寡黙である。空気袋のエアーの音と靴の立てる音が坑内の音だ。新人坑夫のリーダーは野上と言う和歌山県出身の男であった。

彼は別棟に住んでいる。

「皆、炭坑の経験者ですから、炭坑がどんなものかはご存知だと思います 」と野上は坑内に入る前に皆に話した。

「炭坑に事故は付き物ですが、事故は防ぐことができます」野上は東京の言葉を使った。

「とにかく、些細な異常でも逃さないこと。直ぐに私に知らせて下さい」彼は九人の坑夫を直視した。

「事故に合わず、無事に金を儲けて日本に帰りましょう」と、最後を区切った。九人の新人坑夫は、野上の先導する初めての坑道を黙々と歩いた。炭坑の仕事には慣れていたが、初めての坑道である。距離感とか、どの位置とかと言うことがつかめないのは不安でもあった。生暖かい風や湿気を含んだ空気が顔に当たると、皆三池の炭坑を思い出した。自分達が遠く郷里を離れて、異国の地の中にいる事を忘れていた。異国と言う言葉は表層社会のものである。地に潜れば現世のすべては消え失せて、ただモグラの気持ちに近い。

採炭現場に着くと野上の指導で仕事に就いた。時刻は五時である。八時に到着するトロッコ電車に間に合うように石炭を採掘する。アメリカ人坑夫達は、この電車で坑内に入って来た。日本人坑夫は午後の五時に現場を間引き上げて、トロッコ電車で帰路に就いた。風呂に行くと、石炭で黒くなった顔や頭をシャワーで洗ってから、湯の中にからだをからした。

こくかなあ 」誰かが言った。

「直ぐ慣れますよ」野上が湯で顔を洗いながら答えた。

「三池は、もっと楽ばい」

「ここは、交代制じゃあ無いですからねえ」

「金もうけ、金もうけ」と言い、他の坑夫が湯船から上がった。坑夫達は湯を使った後に夕食を取ると、直ぐに自分の部屋に戻って床の上に横になった。慣れない土地の炭坑だけに誰もが疲れを覚えていたが、日本の炭坑で鍛え上げた体は翌朝までに疲れを取り戻した。一作は、ランタンの油を用意したり、倉庫の工具の手入れなどを大島の指示で行った。賃金は日に五十セント程であったが、一年ほどすれば坑夫になれると言うことだった。

「一作君。風呂も掃除してくれ。男風呂と女風呂の二つを頼むよ」と大島が言ったので、一作は掃除道具をつかんで男風呂に行った。昼過ぎなので、湯を使っている者は誰もいないが湯は温泉のようにわいていて、湯屋の中は温かく湿っぽい。 湯はアルカリ性で飲み水には適してなく、飲み水は列車がタンクで定期的に運んで来た。ブラシで溝にたまった石炭の粉などを水で流した。男湯が終わると女湯に行った。ここの湯屋は個人の家の湯屋より少し大きい程度とである。日本人女性は七、八人ほど住んでいるらしい。一作が掃除をしていると誰かが入って来た。

女性のようだ。彼女は湯屋のドアを開けると一作の掃除の音を聞いたのか「誰かいるの? 」と声をかけて来た。

「はい・・・」一作は動かしていたブラシを止めて声のしたほうに返事した。声の持ち主は中に入って来て一作を見ると「あら?」と言い「見られない顔ね」と言った。少し化粧が厚いが、ふくよかな体躯を持つ女である。

「誰?」と、彼女は聞いた。

「一作、言います」

「ああ、あんた、今度九州から来た人でしょう?」

「はあ・・・」

「聞いてるよ。うちは床屋してるんよ」女は、屈託なさそうに笑みを浮かべて一作を見た。

「床屋ですか? 」

「そう。髪の毛伸びたら来てね。ところで、掃除はもう終わるんね 」

「はい・・・」

「そっ」と、女は言い服を脱ぎ始めた。一作は慌てて湯殿から脱衣場に出た。一作が子供だと思ったのか、裸を見せることをためらいもせずに服を脱ぐと、白い肌の前を一枚のタオルで隠しただけで湯殿に入り、湯気の中に身を置くと再び一作のほうを見て微笑んだ。一作は慌てて女風呂から外に出た。

頭の中に女の白い体がこびりついてしまったかのように、めまぐるしく動いて離れない。彼は、食堂に行って水を飲んだ。少し落ち着くと、まるで自分が悪いことをしてしまったかのようにさえ思えるのだった。

事務所に行き大島に掃除の終わったことを告げると、次にグリースをトロッコに塗る仕事が待っていた。

一作は、グリースの入った缶を手にしてトロッコを停めてある場所に行った。どこからか蒸気エンジンが吐き出す蒸気の音や、軌道を走るトロッコの音、そしてどこかで誰かがたたいているハンマーの音などが入りまざって聞こえてくる。

無造作に置いてあるトロッコに近寄ると、グリース缶に手をいれて端のほうからトロッコの車軸にグリースを塗りはじめた。グリースは指にヌルリと絡み付く。指で車軸をなぞって無駄の無いようにグリースを塗 った。

缶のグリースに手を入れていると、先ほど湯屋で見た女を思い出した。女のほと はヌルリとしていると村の青年達か話しているのを聞いた覚えがあるし、経験もしている。実際、このような感じであろうかと思いながら、女の体がぼやけて彼の思考を揺さぶった。数台の仕事が終わると、石炭の粉で手の指が黒くなった。一作は手を砂地にこすり付けて手に付いた黒いグリースを払い落とした。次に木片を拾ってグリー スを塗りはじめたが思った以上に不手際になる。彼は再び手の指を缶の中に突き入れた。停まっているトロッコの大半にグリースを塗り終わった時、

「へーイ。 フーアーヤー 」変な言葉が、彼の耳に飛び込んできた。 一作が声のした方に顔を向けると、彼より年少な姿の少年が立っていた。

「フウー ・アー・ヤー」(Who are you?)君は誰だい? と少年は開いたのである。もちろん、英語など習ったことのない一作に、相手の言った言葉など分かるはずがなかった。女の陰などを想像しながら仕事をしていた手前、人に声をかけられて赤面したが、これが相手を安心させたようだ。年少の男の子は一作のほうに方に歩いて来ると、缶の中身を覗いて「グリース」と言い、にこりと笑った。一作も笑うしか方法を持たなかった。

「ジョン」彼は自分を指差して言った。ズボンに吊りバンド姿で、全身が石炭で黒く汚れていた。顔の一部にも石炭の粉が黒く付いている。

「ショ・ン?」一作の問いに、相手はうなずいた。ああ、名前のことかと一作に分かり「一作いっさく」と、彼は自分を指差した。

「イサク?」と相手に言われ、少し違うが一作はうなずいた。

「イサクって、マミー〈母ちゃん)が聖書の事を話した時に聞いたととがあるよ」とジョンは英語で言ったが、もちろん一作には分からない。ただ小さく笑っていた。

「イサク。グリース」ジョンが指差した先は、彼の肘だった。良く見るとグリースがかたまって付いている。一作は身をかがめると、砂地に肘を擦り付けた。擦り付けながらジョンの手を見ると、彼の手は荒れていた。爪などの一部が割れたり欠けているのもあった。

「どうしたとな?」一作がジョンの手を見て聞くと「ブレーカー」と言った。これは、石炭と石とを選り分ける仕事のことである。一作が首をかしげると、ジョンは近くに転がっていた数個の石炭と小石を拾い集め、中から小石を拾い上げて除けた。一作も炭坑の近くで育った少年である。ジョンがどのような仕事をしているのかが直ぐに分かった。

「でも、明日からはドア・ボーイになれるんだ」とジョンは嬉しそうに話した。一作が相手の言葉を解せずに黙っていると、ジョンは地面に小石で図を書いた。

「ここがブレスト(採掘側面)、フェイス〈採掘面 )、ギャング・ウェイ(坑道 )。ここがエアー・ウェイ(空気抗 )。ここと、ここにドアがあるんだよ」とジョンは言い、一作を見て「ドア(戸 )」と言い、閉めたり開けたりした動作をした。要するに坑道の空気の流れをドアで調節しているのである。この開け閉めの仕事がドア・ボーイと呼ばれた。

「一作!」大島の呼ぶ声が聞こえた。-作が答えると、大島が建物の影からゆっくりと現れて立ち止り 「終わったか?」と開きながら、ジョンを見て英語で何か言った。 ジョンはぺっと唾を地面に吐き出すと、一作に「シー ・ヤー(またね)」と言い、小走りで大きな建物のほうに向かって行った。

大島はジョンの姿を少しの問見送っていたが、一作に向き直ると「一作。あの小僧には、気をつけなよ」 と忠告した。

「どうしてとな? 」

「あの小僧は、悪餓鬼で良くないからさ」

「ふーん。オラにはよかったけんど」

「煙草さえ、吸うんだぜ」

「あの歳で?」

「ああ、酒も飲む。女の子に悪戯もするし・・・女湯も覗かれたことがある」 一作は、女湯で見た女の裸体をチラリと思い出して、持 っていたグリースの缶に視線を落とした。

「とにかく、グリース塗りの仕事は終わったようだね」一作が首を振ると、大島は彼に昼飯を食べるようにと言った。昼飯が終わったら、事務所に来てくれと言って立ち去った。

一作は手を洗って食堂に行った。そこには弁当が置かれていた。坑夫達は昨夜に用意された弁当を持って朝早く坑内に入って行った。一作だけが、弁当を食堂で食べるのである。飯の上に味噌が塗ってある弁当だった。煮干しが数匹に、肉の佃煮が少しだけ添えてある。一作が弁当を食べようとすると、誰かが窓をノックした。視線を音のした方に向けるとジョンの顔があった。片手に何か持っている。弁当箱のようだ。出てこいと言う仕種をした。

外に出ると、ジョンは一作に自分の弁当箱を手で示して何か言った。弁当を持ってこいと言う意味のようだ。一作は食堂の中に入り弁当のボックス(箱)を持って出て来ると、ジョンは付いてこいと言うような言葉を言い、先に立って歩きはじめた。少し小高い丘の上に登るとジョンは枯れ草の上に腰を落とし、一作にも座るようにと手で彼の横の地面を叩いた。

「どうだい? 」とジョンは日本人の若者に英語で聞いた。一作に言葉は解せなかったが、意味は通じた。

「よか、景色たい」と日本語で同意した。

ジョンは満足そうに弁当ボックスから黒っぽいパンと小さな一塊のチーズを取り出して、食べはじめた。

一作も弁当を聞けて、食べた。

彼達の眼前には、ロック・スプリングスの炭坑と遠くに町の一部が広がっていた。煙突の煙がのんびりと空間に漂っている。周囲の低い山や丘は岩石の肌をあらわにして、この町ののどかな風景を皮肉っているようだった。

一作とジョンは、ジェスチャーでお互いの家族のことなどを話した。直ぐに昼の時間は終わり、ジョンばブ レーカー(石炭選り分け )の仕事に、一作は大島のいる事務所に向かった。

弁当箱を食堂に置いて、ぶらぶらと歩いて事務所に向かっていると、建物の一部から女性の笑い声がした。 見ると「散髪」と日本語で書いた小さな看板がある建物である。 一作、は直ぐに湯屋で見た女を思い出した。

建物に近寄って小さな窓ガラスから中を見ると、あの女が男に抱きすくめられて笑い声を上げていた。一作が取り付かれたように女の仕草を見ていると偶然視線があった。ふと笑い声を止め、しっとりとした目で一作を見、にやりと微笑むと男の顔を引き寄せて唇を合わせた。

一作は、はじけるようにその場所を離れた。女の裸体と顔が頭の中でどんどん大きく膨らんで来る。彼は駆けはじめた。まっすぐに事務所に向かった。事務所のドアを開けると、森野と大島が彼を見上げた。

「食事は終わったんか?」大島が聞いた。一作が首を振ると、大島は森野に声をかけた。

「森野さん。あの、中国人坑夫達が使っていたと言う建物、あれは日本人の宿舎に改造して言い訳ですよね」

「ああ、あの古い建物ですけの。パシフィックの主任さんには許可を取ってありますんで、いつでも改造してええですよ 」

「じゃあ、一作君に家の中のかたずけをしてもらって・・・あそこでも、中国人は殺られたのですか?」

森野は大島の問いに、チラリと一作を見「大島君。 若い人もいますけえ・・・」と言葉を濁した。

大島は、軽く笑い机の上のカウボーイ・ハットをつかむと一作のほうに来て、外に出るようにあごで示した。

大島は、一作を連れて小さな倉庫に行き、掃除道具を取り出すと散髪屋の方角に向かった。

散髪震の横を通ったが、もう笑い声は聞こえなかった。散髪屋の建物の角を曲がり、小さな古い建物をすぎると、前方の外れに汚い古い建物が見えて来た。建物の一部は壊れ、ほとんどの窓ガラスは割れていた。

「こりゃあ、ひでえや」大島が言った。二棟が回廊で繋ぎ合わされている建物だったが、かなり老朽化している。入り口のドアは半部ほど壊れていた。中はクモの巣だらけで、価値のないようながらくた物が挨をかぶり床に転がっている。

「まったく、ひでえ 」大島は中に数歩入ると、プーツを履いた足で床をトントンとたたいた。乾いた音が跳ね返り、近くのがらくたから挨が立ち上がった。

「一作君。何日かかってもいいから、この建物を掃除してくれ」一作はうなずいた。

「こりゃあ、一週間ほどかかるぜ。明日からは、ここに直行だな。建物の掃除が済んだら教えてくれ」 大島が一作を振り返って言った。

「まったく、ひでえ 」大島は再び同じ言葉を繰り返し、じゃあなと言うと歩き去った。一作は、少しの問だけ建物の中でたたずんでいたが、手にしたホウキで、挨をかぶった床を軽く掃いてみた。小さく挨が舞い上がり、動く箒の後に床の木肌が見えて来る。木肌は艶のある黒っぽい色である。ふと、事務所で大島の言った「あそこでも中国人は殺られたのですか?」と言った言葉が蘇った。

(どういったことなのだろう? )一作は思ったが、深く考え込む事でもないように思えた。彼は箒で床を掃き始めた。挨が箒の先から舞上がり、次第にズボンのすそを汚し服や頭に降り始めた。やがて、息苦しさを覚えて咳き込んだ。一作は建物の外に走り出た。部屋の中には挨が漂っている。

一作は、打ち水をして掃いたほど良いと考え、用意していたバケツを持つと水を汲みに浴場の方に向かった。 途中、散髪屋の横を通る時、やはり女のことが気になった。声は聞こえていなかったが入り口のドアが開いていて、中で椅子に腰をかけた坑夫らしき男が散髪をしているのが見えた。女は後ろから男の頭に向かっている。彼女の手にした櫛が動いていた。一作の持つバケツが軽く音を立て、女が顔を振り上げた。彼女の視線を気にしながら一作は歩調を速めた。風呂場でバケツに水を汲むと、散髪屋の側を通らずに掃除をする建物のほうに向かった。手にしたバケツの水が歩く振動で音を立てる。音は、胸の高まりのようでもある。

彼の年代は性に目覚める頃でもあるが、一作の往んでいた九州の山村は性におおらかで、いたるところに性のシンボルが神として祭ってあった。

「ちんぼ 」と男の性器を言い「おめこ」と女の性器を呼んだ。言葉は、次第に子供同士で 本物の比べ合いや、女の子と木陰で性の真似事などに発展したが性の問題が起ったことはない。

このような山村の風習が、抑圧された性をタブーとしてではなく、生活の一部とし管理していたのかもしれない。

一作は、建物の中に戻ると床に水を打った。ポソポソと小さな音を上げて、手から離れた水は床の挨の上に降りかかる。

「小使、小便」と彼は小声で言いながら水をまいて行った。バケツ半分程の水をまいた後、再び箒で掃きはじめたが挨が立つのが少なくなった分、水で濡れた床には挨が黒く付いた。箒の先が湿った挨で黒くなると、クモの巣を巻き付けて払った。箒で木の壁を叩くと乾いた音が室内にこだました。窓の割れたガラスの切れ端がぶるぶると震えている。 光がガラスに当たってキラキラと光り、やがてガラスの一部が振動に耐え兼ねて床に落ちると 音を立てた。

音は散髪屋の女の甲高い笑い声に似ている。

「おめこ、おめこ」一作はつぶやきながらほうきを動かした。箒で楕円を挨の上に描くと、真ん中に小さな丸を描き、楕円の上から下に直線を引く。楕円の外側に短い線をを並べて描くと、女の性器である。山村の悪餓鬼どもは、この性器の図をいたるところに書き散らしては自慢していたものである。 村人は、この図に慣れていたので、子供たちの悪戯を咎めるようなことはしなかった。しかし、村の尋常小学校に赴任して来た都会育ちの新米教師には、ひどいショックを与えたようである。学校の教育問題に発展し、以来慣れ親しんだ性器の図を描くことを禁止されたのであった。一作は故郷を思い出しながら図を眺めていたが、バケツに入った残りの水を、図の上に振り掛けた。湯屋で見た女の裸体が水のなかにとけていくように思えるのだった。夕刻、大島が掃除の出来具合を見に来た。

「なかなかの出来じゃあないか」と大島は入口付近から一作に言った。

「そげんこつなかです 」

「顔が挨で真っ黒だよ。一作君 」大島の言葉に一作は慌てて服の袖で顔を拭いた。

「そで」と、大島は一作の服の袖を指さした。良く見ると服の袖は挨で真っ黒である。

「一作君。今日はこれで終わりだ。風呂に行って挨を落としたほどいいね」

「よかですか?」一作が問い直すと、大島が手を上げて答え「・・・悪いけど、明日も頼むぜ。隣の方もあるからね。 なあに、ゆっくりやってくれ。急いでないから」

大島が去った後、一作は掃除道具を片付けると湯屋に向かった。シャワーを浴びると、黒いほこりが頭や顔から筋となって体を伝わり、腹部付近でシャワーの水に流される。湯に入ったが熱いので、直ぐに上がって服を着替えると宿舎に戻った。坑夫達が炭坑内から出て来るのは午後六時である。 彼達は湯を使い、夕食を取る。 食堂で雑談した後、銘々の宿舎に帰り、直ぐに床に就くのが日課である。

一作は湯から帰った父と食堂に向かった。彼達が住んでいるのはボーデング・ハウスと呼ばれ、ボスの権藤が経営している食事付きの宿舎である。長年住んでいる坑夫達は、食事内容の不満から別の宿舎に移り、夫婦者が経営する小さな食堂で食事を取っていた。



一作達がこの宿舎で生活を始めて一週間ほど経った。 明日は日曜日で休日である。

「まずかのう 」夕食の味が良くないと口にだしたのは、一作達と一緒に福岡からやって来た坑夫である。食事は、ばさばさした飯に野菜の煮物、イリコ入りの汁である 坑夫達も慣れて来て、不満を持つ余裕が出て来たようだ。

「これじゃあ、体がもたんばい」他の者が言った。

「一杯、酒でも飲みたかねえ・・・」

「おいは、豚の足が食いたか 」

坑夫のリダーをしている野上が食堂に入って来た。洗面道具を持っているので、風呂からの帰りのようだ。

「ああ、野上しゃん」キッチンで夕食を受け取っている野上に、坑夫が声をかけた。 野上は盆に載せた粗末な夕食を運んで来ると坑夫遠のテーブルにつき「何でしょう?」と快活に言った。

「食事、まずかねえ。いつも、こんなもんね」

「はい。祝祭日には少し良い物も出ますよ」

「難儀じゃあなあ。もうちょいとうまかモン、なかとね 」

「食堂がありますが、ここの宿泊代には食事代も含まれていますからねえ・・・金を貯めるには好都合ですよ」

「外に住んじょる人らは、なんぼ払っちょるとね 」

「二ドル程ですから、まあ二日分の日当です」

「二日・・・」

「ここでは、一日分程度ですから、粗末な物しか出ないのですよ」その時、誰かが食堂に顔をだし「マイコーが来たぞ」と告げた。古株の坑夫達が腰を上げて出て行った。

「なんね?」野上にたずねると、彼は吸っていた汁の椀を置き「酒です」と答えて、飯の椀に手を伸ばした。

「酒? 」

「はい」と野上は箸で飯を口に運んだ後「イタリア人の酒売りですよ。週に一、二回やって来ます」と輿味なさそうに答えた。彼は酒を飲まないようだ。

坑夫達は腰を上げた 一作も父の後を追って食堂から出てみた。 外はまだ明るい。食堂から遠くない一角にある野外電灯の下に一台の小さな荷馬車が停まっていて、坑夫逮が取り巻いている。彼逮は次から次と酒の入ったピンを抱えて宿舎に戻って行く。

「なんぼかのう・・・」誰かが不安そうに言った。売っている老人はイタリア人だと野上が言った。すると、老人は日本語を話さないだろう。

坑夫の一人が思い切って、酒ビンを抱えて帰っている日本人坑夫を呼び止めて値段を闘いてみた。酒はウイスキーと呼ばれる物で、一本が十セントから二十セントだと言う。十セントは、日本から来たばかりの坑夫にとっては安くない価格である。 結局数人が出し合って一本のウイスキーを買う事にした。十セントを手にして、荷台にいる老人に差し出すと彼は箱から小瓶を取り出して代金と引き換えた。

マイコー老人の荷馬車の酒ビンは直ぐに売りきれ、彼は上機嫌で痩せ馬に鞭を入れた。車はぎしぎしと音を立てながら、ゆっくりと動きはじめ暗闇の中に消えて行った。

日曜日の朝、ボーデング・ハウスの朝食はホット・ケーキと呼ばれるパンのような物とバターが一切れ、それに茄でたジャガイモが付いていた。食事を済ますと、坑夫達は洗濯をしたり散髪をした。

一作は、散髪に行って来た坑夫がにやにやと笑い、女の理髪師について話しているのを耳にした。派手な女だから身持ちが悪いだろうと言うのである。女の亭主は坑夫だが人が 良いだけの男らしい。昨年に、この炭坑にやって来て女房が片手間に床屋を開業したことや、物品で身を任すと言う噂もあるらしいが、これはやっかみのようである。一作は坑夫の話を傾きながら女風呂でみた女の裸体を思い出していた。湯煙に取り囲まれた女は、肉付きの良い体をゆっくりと湯の中に沈めてゆく。

彼は、宿舎の外に出て行った。大人達の話は、彼に女の体を思い出させて苦しくさせた。一作はジョンに連れられて行った丘のほうに向かってぶらぶらと歩いた。

秋口の太陽は、夏の輝きをまだ残していて、山肌に露出している岩石に跳ね返っている。石の上に手を置いてみると熱い。靴で踏む山肌の道はザ、ザと音を立て歩くたびに小石が靴にまとわり付くような感じになる。草は既に秋の枯れ葉色で、潅木の葉の先は頼りない秋の色だ。

田舎では稲の取入れも終わり、お祭りの準備に追われているだろう。

「イサク!」どこかで彼の名を呼ぶ声がした。小さな谷をこえた丘の中腹に二人の子供の姿があった。ジョンだ。隣にいるのは友達だろう。一作が手を振ると相手は、こちらに来いと手をうごかした。一作は走るようにして岩場を抜けて谷に降りると、早足にジョンのいる丘に上って行った。

「イサク。 ハウ・ヤ・ドーイング(どうだい?)」とジョンが上ってきた一作に声をかけたが、英語の分からない彼は、笑って答えるしか方法を持たなかった。はあはあ息を弾ませていると、ジョンの横にいる人物が言葉を発した。良く見ると、同年代の女の子である。一作を見て微笑んだ。

ジョンが相手を「ジェニー」と紹介した。

家に来ないかとジョンが言った。これは、ジョンがジェスチャーを交えて話したから意味が通じた。

ジョンとジェニーが、飛び跳ねるようにして丘を下る後を一作は追った。第八坑の横を通り、第十坑を過ぎて、第四坑の手前を曲がると発電所があり、しばらく進むと小さな住宅が立ち並ぶ区域に出た。イタリアン・キャンプ(イタリア人居住区 )、グリース・キャンプ(ギリシャ人居住区 〉と呼ばれている場所である。フレンチ・キャンプも近くにあった。

日本人達は出稼ぎ目的であるため、個人の家などに住んでいる坑夫は少なく、しかも妻帯者は数えるほどであったが、ヨーロッパからの坑夫達は移民である。多くは妻帯者であった。木造の小さな粗末な家がひしめいて寄り集まっている地域に入ると、真ん中当たりに手漕ぎポンプがあり、太った女が水を汲み出していた。 数人の女が近くで洗濯をしているのが見えた。

ジョンは、ジェニーと並んで一作の前を歩いている。家々の周囲には、小さな子供たちが騒ぎながら遊んでいた。

やがて、ジェニーが木造の家の前で止り入り口のドアを開けた。小さな窓からの光が家の中の様子を浮かび上がらせている。ジョンがジェニーの後について軽いステップの上に立ち一作を振返ると、入れという仕種をした。

「オラもか?」日本語で言うと相手はうなずいた。

家の中に入った。ジェニーの母親だろうか、窓の下で縫物をしている婦人がジェニーを見て話しかけ、彼女の後ろにいるジョンと一作を見た。ジョンと婦人は軽く話し、ジョンが 一作を振り向いて婦人に何か話すと、婦人は縫物の手を止めると一作を見て微笑んだ。 一作はピョコンと頭を下げた。薄明りの家の中に目が慣れて来ると、片方の角にあるベットに座っている男性が目に入った。 光に当たらない顔の皮膚を見ると病人のようだ。

病人はジェニーの父殺なのであろう。 目はブルーで穏やかだったが光が無かった。

「ミスター・オーランド、どうですかお身体は? 」ジョンが聞いた。ベットの男はよわよわしく微笑むと、今日は調子が良いよと答えた。

「言われた所にジェニーと行ってきたのですが、見つかりませんでした」

「そうか・・・」

「あれは、本当のことなのですか?」

「本当だ。私は、見たのだよ」

「でも、あの茶は炭坑の中で燃えたのでしょう? バーニング・マウンテェイン(燃える山 )の話は誰も知っていますよ」



一八七五年に、白人の労働者が賃金の是正を求めてストライキを起こした折、ストライキに対抗したパシフィック鉄道炭坑社は、安い賃金でも働く中国人坑夫を使い始めた。 中国人の坑夫は次第に増加の一途をたどり、一八八五年には五百名の数にも及んだ。中国人達は中国街を形成し、自分達のコミュニティー(地域社会)を作り上げた。



一八八五年九月二日、白人労働者は中国人労働者達を襲った。事の発端は、会社の担当者が、白人の受け持つ炭坑を中国人に代えようとしたことであった。 最初はツルハシとかショベルの様な物であったが、事件はエスカレートし、ライフルや拳銃が使われた。白人坑夫達は、自分達の労働区域に、低賃金で労働を提供する中国人坑夫達を日頃から憎悪していたので、襲撃事件は中国人街にもおよび二十八名の中国人が殺された。 中国人達の財産は略奪され、一部の茶などが炭坑の中に隠された。この盗品が警察に見付かった時、略奪者達は発覚を恐れて、証拠隠滅のために茶の箱に火をつけた。火は石炭に燃え移り、山全体が燃えたのを人々は後から「燃える山 」と呼称したのである。



「・・・いや、燃えたのは一部なのだよ。他に金貨や宝石類のたぐいも隠された。これは略奪したもの達がやったのではなく、中国人坑夫相手に賭博場を開いていたギャング達が暴動から逃れる時に隠したものだ・・・」 ベットの男性は軽く弱々しい咳をした。咳はしばらく続いて、婦人が薬を飲ませるまでおさまらなかった。

ジェニーがココアの入ったカップを運んできてジョンと一作に手渡した。一作は頭を下 げて受け取ると口をつけた。初めて欽むココアだったがおいしいと思った。

「これは、うまかあ」日本語で言うと、通じたわけでもないのだろうが皆が微笑んで一作を見た。

「ジョン。彼は中国人かね?」

「第八坑で働いていましたから、ジヤパニーズでしょう」

「ジャパニーズか・・・」

「良い奴なので友達になりました 」

「そうか・・・」

「そうだ。かれにも手伝ってもらって良いですかね?」

ミスター・オーランドは弱々しく一作を見た。

「イサクは例の、中国人達の宿舎近くに住んでいますよ」

「あばら屋のほうかね」

「いえ、ボーデング・ハ・ワスですが・・・彼が掃除しているのを見ました」

「掃除?」

「はい 聞くところによると、日本人坑夫が住むようになるらしいです」

「日本人、か・・・良いだろう。彼にも話して見てくれ」



一作は、ジョンが土の上に絵を描きながら話すことを聞いていた。彼によると、逃げた中国人が隠した金貨と宝石などが炭坑のどこかに見つからずにあるらしい。それを見つけて、病気の坑夫達の援助資金にすると言う話だった。

「よか。話にのるたい」一作はきっぱりと言った。彼は、自分も肝の大きい九州男児の端くれと思っている。 ジョンに胸をたたいて見せた。この動作は、どうやら各国共通のようで「了解した。任せなさい」 と、意味が通じるもののようだ。大人になったような意識を覚えた。


既にアメリカ政府は中国に当時の金額で$149 、000の賠償金を払っていた。


月曜日の朝、一作は宿舎から真っ直ぐあばら屋の方に行き、掃除に取り掛かった。前回と違って宝物の話のことが頭にある。床の掃除に、もう「おめこ」の図などは描かなかった。どこかに宝の地図などが描かれているのではないかと思いながら掃除を進めた。

「一作君 」と彼の名を呼び、大島が現れた。

一作が頭を下げて挨拶をすると、彼は「どうだい?」と言った。

「?」

「変な跡などないかね?」

「変な、跡?」

「ああ、そうか。 君は、知らないよなあ・・・」と大島は言い、入り口のドアに片手を預けると、辺りをキョロキョロと見回した。

「なあんも、ねェよなあ。ありゃあ、嘘だろうなあ」とつぶやきながら、床などを靴でとんとんとたたき 「使えるね」と言った。

「仕事続けて、よかですか?」

「うん。よか」と大島は一作の方言を真似し、去る振りをしたが思い直したように一作に近寄ると「一作君。これは他の人には内緒だぜ 」と前置きし「ここは中国人虐殺のあった場所さ。血の跡などが残っていたら、完全に取り除いてくれよ。他の人には言うんじゃあないぞ」と念を押して帰って行った。

十三才の青年にとって「血の跡」などと言われたら、薄気味悪さがおうじて当然である。しかも虐殺のことは、昨日ジョンから絵で説明を受けていた。掃除の最中に風で戸が軋む音にも気味悪さを感じた。挨を取り除いた床が黒くなったりしていると、血の跡ではないかと思った。

一作はジェニーの家の近くで、両足のない元坑夫を見た。落盤事故で両足を失ったのだという。会社からの保証金は微々たるもので、政府からの生活手当ても十分ではないらしい。

若し、中国人ギャングの隠したと言う財宝があれば、炭坑で身体を悪くした坑夫達の役に立つとジェニーの父親が言った。

「どげんしょかねえ・・・」一作は声にした。ジョンに宝捜しを協力するとは言ってみたが、実際何をすべきか皆目見当がつかない。

ほうきで天井や壁のクモの巣を落としながら考えていると、憂欝になってきた。 箒で「エイ! ヤー!」と声を上げて壁をたたいていると、壁の一部がぽろりとはげ落ちた。 慌ててはげ落ちた破片を拾い、はがれて窪みとなった所に持って行こうとして、窪みに小さく折りたたんだ紙片を見つけた。手に取ってみると地図のような物が描かれ、漢字が並んでいる。(宝の地図? )昔話のような出来事だと思った。

一作は、紙片をポケットにしまった。 胸が少し高鳴っている。これが本当に宝の地図であればと考えるだけで、うきうきして来た。



昼食の時間、一作は急いで昼飯を食べるとジョンの働いている「ブレーカ ー(選定工場 )」の方に行ってみた。 前方に大きな煉瓦でできた建物が見える。建物は丘の上にあり、斜めに傾斜している。建物の上部に向かって、掘られた石炭が運ばれるコンベヤーがつながっている。コンベアーが運んだ石炭は四十五度になって、傾斜しているブレーカーの場所をゆつくりとずれ落ちてゆく。 十歳から十四歳の少年達が、この傾斜に向かって一日中、石炭に混ざる石などの不燃性の物を選り分けている。彼達は傾斜につけられている日本の階段のような段に、銘々が腰をかけ背を丸くして石炭のずれる斜面で手を動かし続けた。手袋をはめないまだ固まらない彼達の手は、直ぐに爪が割れ血を出した。法律では十四歳以上の者と決められていたが、親の生活費の一部とするために、彼達は年齢をごまかして働いているのである。 背後には棒を持った大人が見張っていた。ブレーカーの建物の下方部には、トロッコの入る入口が何個も開いており、線路が走っている。

一つの線路には選定された石炭をのせたトロッコが、二人の大人に押されて動いている。もう一方では馬車で引いている。あちこちが石炭の粉で黒ずんでいた。一作は、ジョンが仕事場から出て来るのを待ったが、ブ レーカー・ボーイ達が数人で寄りかたまって出てきてもジョンの姿はなかった。 少年達は外に出ると大人のように煙草を吸った。

又、お互いに罵り合うような素振りを見せた。言葉は分からなかったが少年遠の言葉は悪く聞こえた。

「ジョン・・・」と、悪餓鬼達に声をかけると、数人が一作のほうを見て何か言った。しかし、一作には分からなかった。

石炭で所々黒く汚れた二三の少年と、背の高い年長らしい少年が一作の方に来て再び何か言ったが分かるわけがない。

「ジョンを、探しとる」と一作は腹にカを込めて言った。

「ジョン?」背の高いのっぼが聞き直した。

一作がうなずくと、彼は皆を振り返って「ジョンだってよ。どっちのジョンだろう?」と声を上げた。

「髪の毛は何色だい?」と、一人が一言った。一作には通じない。のっぼが頭の毛に手を当てて何色だ?」 と開いた。

一作は茶色い髪の少年を指差した。 皆、ああ、あいつだと言った。

「ジョンは、ドア・ボーイの仕事に変わったよ」のっぼが言った。

「ド・ボイ?」

「ちがうよ。ドオア・ボウイ、ドー ア・ボーイ 」と、のっぼは一作の言葉を直し「オープン

(開く)、クローズ(閉じる)」と言いながらドアを開いたり閉めたりする仕種をして見せた。一作にも理解できた。

「どこにいるとね?」一作の日本語の問いに、のっぼは理解できたのか手のひらを開け「ファイブ(第五)」だと答えた。話の流れから意味が通じたようである。一作は、頭を軽く下げて日本語でお礼を言うと踵を返した。ブレーカー・ボーイ達も、再び仕事場のほうに向かって歩きはじめた。束の間の休息時間だったようだ。一作がしばらく歩いてブレーカーの方を振り替えると、コンベアーが動いているの見えた。黒い石炭が蠕動運動ぜんどううんどうする生物のように、斜めに登るコンベアーの上に見えている。

建物の近くにある小さな煙突から登る煙が風で揺れていた。あちこちから色々な音が聞こえて来る。総ては地上で動く物と音であるが、一作の歩く下の方では、坑夫がドリルの音を立てているのである。

「もぐら・・・」誰でも坑夫を、地中で動くモグラとを連想する。しかし、坑夫は人間である。地上で、太陽の光を十二分に受けて生きる生物なのだ。一作は、夏の終わりの太陽を仰ぎ見た。歩いていると額に汗をかいた。

「あつか・・・」と彼がつぶやいた持、汽車の汽笛の音が遠くに聞こえた。汽車の線路の走る山のふもとのほうを見ると、機関車の吐き出す煙のみが丘の影に見えている。ふっと郷愁が起こった。

散髪屋の前で、女がドアを開けようとしているのが見える。ドアは、何かにつかえて開かないようだ。女が両手で引っ張っているが、少し上部が開き加減のドアは押し止まったように動かない。

「どうしたとですか?」一作は、小さく声をかけてみた。女が振り返った。

「鍵が、たぶん、ね。ひかかってると思うんよ」女の鼻の頭が光っている。一作は、ドアに近寄ると鍵とドアの隙間を見た。 少し鍵の爪がひかかっているようだ。

「何か、ここに差し込めるような物・・・」と言い、一作が辺りをきょろきょろ探していると、女が手にしていた袋からハサミを取り出した。

「これで、どうかしら? 」

「よかと、思います 」

一作は、ハサミの刃先で鍵の爪を少し動かしドアを手前に引っ張った。ドアは簡単に関いて、中の緩められていた空気が化粧品の香りを載せて鼻をかすめた。

「あら? 開いた」女は驚いたようなそぶりをして笑顔を見せた。

「ハサミ・・・」一作が女にハサミを突き出すと、彼女は「ありがとうねえ。少し待っていてね」と店に入り、飴を二三持って来て一作の手に握らした。

「お・れ・い」言葉を区切るようにして言い「いつでも、散髪に来て。ただでしてあげるからね」と、付け加えた。はちきれそうな乳房の膨らみが目に入った。一作はうなずいて、足早に掃除の建物に向かった。

女の身体は丸みを帯びている。湯屋で見た女のからだが一作のからだの中に膨らんで来る。

彼は、雑巾を水でぬらすと床をふきはじめた。 雑巾を床に置き両手を添えて拭きながら、わけの分からない言葉を口にしては拭き続けた。床を濡れ雑きんで拭く事で、自分の気持ちを押さえたかった。



次の日曜日まで、一作はジョンに会う機会が無かった。 日曜日の朝、いつものように朝食を済まして宿舎の前をぶらぶらしていたが、自然に足は丘のほうを目指していた。上がると、ジ ョンが宝捜しに来ていないか辺りを見渡してみた。どこにも、人影はない。静かな朝で、どこからか教会の鐘が聞こえて来る。

一作は小さな枯れた木の株に腰を落とすと、ポケットから中国人の元宿舎で拾った紙片を取出した。今日までポケットにしまったままだったのは、誰かに見られると困るからと言う単純な子供的な考えからだった。 どこにだって、他人に気付かれないで、拾った紙片を見られる機会や場所はある。それでも、見ると、宝の地図が無くなりそうだった。何度もポ ケットのわずかな膨らみを手で確認しては、胸をわくわくさせていた。

地図を取出すと、折りたたんだ部分をゆっくり広げた。丸い山が三個描かれている。流れらしい部分もあるがこの辺に水の流れは無い。一作は、頭を上げて周囲の地形を眺めたり、地図を見たりして、ロック・スプリングスの地形に描かれた宝の地図を当てはめようと、努力していた。

「イサク!」誰かの声がした。一作は慌てて地図をポケットにしまおうとして、丘の下方にジョンの姿を見つけた。

一作が手を振ると、ジョンは駆け上がるようにして彼の前に現れた。ジョンは上がって来た後、しばらくはあはあと荒い息をしていたが 「ハーイ(やあ)」と手を上げた。一作は地図を取出して彼に見せた。ジョンは首をかしげて一作の手にある地図を眺めたが、何だろう? と言うような振りをしている。

「宝の地図じゃあなかか?」と一作は言い、お金とか首飾りの形を身振り手振りで説明した。

「宝?」とジョンは英語で言い、一作から紙片を取り上げた。

「山が三つじゃあ ・・・」一作は紙片の山を指で一つ一つ押さえて 「三つじゃあ 」と言い、周囲の山をジョンに指差して「六つじゃあ 」と首を傾けた。ジョンも地図を見たり周囲の景色を見たり、紙片を回して地形に合わそうと、一作がしたことと同じようなことをした。

しばらくの間、二人は地図を囲んで、ジョンは英語で一作は日本語でやり取りをした。

「わかった!」突然、ジョンが英語で言った。

「イサク。分かった。山は三つだよ。ほら見てごらんよ」とジョンは言い、一作に彼の手の指す方向を見るように促した。

「いいかい。この山とこの山は本物、これとこれは偽物・・・」とジョンは言い、足元の砂まじりの土を両手で拾い上げると、手から落として山のように盛り上げた。

「ああ、ぼた山かあ・・・」ぼた山とは石炭を選別した後に残る岩石や粗悪な石炭を捨てて山のようになった場所のことである。 一作は合点した。すると、この地図はこのパシフィック炭坑の地域しか描いてない。では水の流れはどこだろう? 二人は数待問ほど、この疑問を解こうとあれこれ知恵を出し合ったが分からなかった。 昼近くになり、ジョンは炭坑内の空気調整のドアを動かすために行かなければならないと言った。

ジョンは現在「ドア・ボーイ」と言う、坑内の空気を調整するドアの開け閉めを仕事にしていた。これはブレーカー・ボーイの仕事よりも坑内にいるぶん賃金が高く、少年達が希望する職種である。この後は、トロッコの運転で、次に大人の仕事として賃金の良い坑夫の仕事が与えられるのだった。

一緒に行かないかとジョンが言うので、一作は父親に友達と遊びに行くと言いジョンと坑内に入った。 ランプを手にして数キロメートル程も坑内を歩いた所に、木でできた一枚のドアが坑道をふさいでいた。 これを開けて空気の流れを変えるのだと言う。木のドアには鳥の絵がいたるところに描かれている。ジョンはランプで鳥の絵を照らし出した。石油ランプの炎に照らし出されたドアの表面は、ランプの揺れでゆらゆらを動き、 描かれている烏たちが羽音を立てて飛び上がるのではないかとさえ見える。

「うまかなあ」日本語で上手だなあと感心すると、通じたのかジョンは照れたように頭を掻いた。

「どうして、鳥だけなんじゃあ?」一作が描かれている烏を何羽も指差すと、ジョンは得意そうに「鳥が好きだからさ」と英語で答えたが、一作に通じた。

「烏が好きとね。ふーん。こげな穴の中にいると、鳥はよかたい」

ジョンは扉を開けた。冷たい空気が一作達のほうに勢い良く流れ込んで来た。小さなつむじ風が彼達の体を打った。

石炭の壁に当たる風は、鋭い石の面に当たってヒュー、ヒューと音を上げてかけ去ってゆく。石炭のにおいが風に混ざっている。

「ゲタワト・ヒヤァ」出ようぜとジョンが言った。一作には「下駄うと冷や 」と聞こえたがジョンが歩き出したので後を追った。

「下駄うと冷や 」と一作が言うと、ジョンは首を振った。(・・・ああ、なるほど、場所から出てゆく時の言葉か)と一作は納得した。

坑内から外の景色が見えた時は、やはり安心する。太陽の光が筋となって坑道に射し込んでいる。彼達は石油ランプを吹き消した。芯から油のにおいが鼻をかすめた。

「イサク。地図なくすなよ 」とジョンがジエスチャーを交えて言った。

「心配せんでよか。だいじょぶたい」と彼は地図の入っているポケットを手でたたいた。ジョンは、一作を連れて彼の家に行った。ジョンの家は典型的な坑夫の家庭である。母親は彼達が帰ると、軽い昼食を用意した。ジョンには妹がいる。まだ十才らしい。父親は炭坑夫らしくない痩せた色白の男性であった。

「ジョン。ムーンシャインを作りに行くが一緒に行くか 」と父親が息子に開いた。

「うん。この友達も連れて行っていいかい? 父さん 」

「ああ、いいよ 」ジョンは一作にムーンシヤイン見たくないかと開いた。

「それ、なんね?」

ジョンは、妹にムーンシャインの絵を描いて友達に見せてやってくれないかと言った。ジョンの妹はうなずくと、紙と鉛筆を持って来て絵を描いた。 三日月の絵が紙の上に描かれている。 妹は一作に絵を見せムーンシャインと言った。 一作が不思議な顔をしているので、ジョンは笑った。彼は笑いながら一作に液体を飲む 振りをして見せた。

「ああ、酒とね 」一作は茄でたジャガイモを口に運びながらつぶやいた。


2の2につづく

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