3 赤座鐘矢の傷心
それからどれ程走り続けただろうか。
気が付くと俺は、久遠家の家の前に立ち尽くしていた。我に返った瞬間、どっと疲れが押し寄せてきて、俺はドアを開けるなり玄関に寝転がった。
「あいつ、何で追って来ないんだよ……」
骨を砕いた感触があったとはいえ、相手はあやかしで、しかも俺の全力疾走に息一つ乱さずに着いて来れるような奴だ。そんな相手を振り切れたとは思えない。
恐らくだが、あいつは俺の居場所を掴んでいる。その上でわざと泳がせているのだ。
――情けない。己の身を守れず、あやかしなんかに日常を脅かされている自分が情けなくて仕方が無い。
最近ふと思うのだが、多分俺は、徐々に自分の日常があやかしに侵食されていくことに違和感を感じなくなってきている。
勿論、あやかしの声なんか聞きたくない、俺は奴等が大嫌いだ。でも、大嫌いだからといって、耳を塞いでも聞こえてくる声を防ぐなんて不可能だ。だから俺は、あやかしの声が聞こえることを「嫌だけど仕方の無いこと」だと諦め掛けている。
きっと、そういった意志の緩みが、こういった惨事を招いたのだ。
――このままじゃ、本当に駄目だ。俺は絶対に、あやかしから受けたあの屈辱を忘れてはならない。あの日のあの時、あいつから受けた屈辱。あやかしに本気で嫌悪を抱く原因となったあの出来事を。
目を閉じれば、あの女狐の姿が瞼に浮かぶ。
『美味しそう、美味しそうな子ね。さあ、私が貴方を優しく喰い殺してあげるわ』
――憎い。あやかしは、憎むべき存在だ。
奴のことを思い出し、一層気分が沈む。目を閉じているからか、普段以上に、外の喧騒がダイレクトに伝わってきた。
人の話し声。あやかしの話し声。それ等のなんと騒がしく、喧しく、煩わしいことか。
「あー、もう煩いってば……」
頼むから静かにしてくれ。静かに、静かに――
「何が煩いって?というか、退いてくれないかしら?玄関でお昼寝なんて、随分お暇なようね」
「え」
突然、上から声が降りかかってきた。目を開くとそこに見えたのは、黒髪を二つに結い、壮月第二高校の制服に身を包んだ少女。久遠紫姫だった。
「しぃ……じゃなくて、紫姫」
思惑の読めない瞳と、視線が交差する。昔の愛称で呼んでしまったことを咎められるかと思ったけれど、紫姫は何も言わなかった。
外に出ようとしている紫姫の道を開けるため、上半身を起こして端に寄る。
「……そういえばさ、紫姫、入学式出てなかったよね。何処に行ってたの?」
訊かない方が良いかと少し悩んだが、俺は結局、尋ねることを選んだ。
中学校が紫姫と同じだったという瀬上に聞いたのだが、どうやら紫姫は今回に限らず、中学時代からよく授業や行事をサボっていたらしい。他の生徒とも問題を起こしたこともあるらしく、同じクラスの女子グループからいじめを受けた時は逆にやり返して取り巻きにしただとか、煙草に手を出しているとか、喧嘩が異常な程強いとか、真偽はどうあれ様々な噂を聞いている。
どの噂も、俺が知っている幼少期の紫姫とは似ても似つかないものだ。俺は今の紫姫について何一つ理解できていない。だから、知りたい。知って、また昔のように仲良く喋れる間柄に戻りたい。
ところが紫姫の反応は、実に淡々としたものだった。
「どうしてキミに教えなきゃならないのよ?」
笑顔こそ浮かべているもののそれは、拒絶を意味する冷淡な態度。それでも俺は、彼女に食らいついた。
「ほ、ほら。俺達従姉弟だし。それに、これからは一緒に生活するんだしさ――」
へらっと笑い掛けると、紫姫も笑い返してきた。但し、馬鹿にしたような冷笑で。
「鐘矢」
「な、何?」
「私から言わせてもらうと、親戚っていうのは“限りなく近しい存在の他人”よ。大体、この歳にもなって従姉弟で仲良しごっことか、笑っちゃうわ」
「……紫姫、」
「ああ、言い忘れてた。学校でも、必要以上に話し掛けてこないでね。それじゃあ、これからは精々仲良くしましょ、クラスメートサン」
ひらひらと手を振った紫姫は、そう言い残して出掛けて行った。バタン、と扉が閉まり、取り残される俺。顔に張り付けた笑顔が引き攣る。
……もしかして俺、嫌われてる……?
いやいや、これはただの紫姫の照れ隠しだ、ツンだかク―だか知らないが、ともかくあれは紫姫の本心じゃない、大丈夫だ、うん、何の問題もない。……という自分への慰めすら意味を成さない程、俺は落ち込んでいる。やばい、これは凹む。
――すると不意に、紫姫のいなくなった玄関に、一人の男が音もなくふっと現れる。
ああ、またこいつか。そう思ったが口には出さず、視線もそいつから逸らした。
男は少しの間、じっと俺を見つめていたが、やがて扉をすり抜けて、紫姫を追い消え去った。
奴は一週間前――俺が久し振りに紫姫に会ったその日からずっと、彼女に着いて回っているあやかしだ。恐らく浮幽霊か何かだろう。守護霊だか悪霊だか判別がつかないが、無害らしいので無視している。
しかし、今日の骸骨男の前例もあるので、もっと注意して行動しなければ――
「……うわあ。駄目だ、やっぱ凹むって」
別のことを考えようとしても気が紛れない。さっきの紫姫の言葉がちらついて離れない。
『“限りなく近しい存在の他人”よ』
『これからは精々仲良くしましょ、クラスメートサン』
拒絶されることを想定していなかった訳ではない。が、ここまではっきり突き放されるとは。予想以上に突き刺さる言葉だった。それなりに、いや、かなりショックだった。
それに、今の紫姫からは何か、違和感を感じる。何処か歪な、歪みというか、歪みというか。
紫姫という人間は、こんな顔をする人だっただろうか――?