2 赤座鐘矢の逃走劇
特に部活に入る予定もない俺と瀬上は、ホームルームが終わるなり、すぐさま教室を出た。瀬上とは偶然にも帰る方向が同じだったため、共に帰路に着く。瀬上の言葉通り、彼の家はとある住宅街にある、学校から五分程のマンションだった。俺がお世話になっている久遠家も学校まで十五分と近い方なのだが、少し瀬上が羨ましい。
一人になった俺は、用もないので寄り道せず、真っ直ぐ帰ることにした。
――後から思えば、この時一人で行動する等という危険を冒さなければ、あんな目には遭わなかったのかもしれない。……いや、そもそも一週間前、この街に帰ってきたあの日にあいつと出会った時点で、俺の運命は悪い方へと動き出していたのだ。
「おい、お前」
俺が呑気に歩いていたその時。誰かが後ろから声を掛けてきた。
繰り返すが、俺は喧騒が嫌いだ。余程綺麗な声音でない限り、それ等の声はノイズとして処理される。普通の人は「ああこれはあそこから出ているノイズだ」とか、「この不協和音はどの音が混じっているのか」とか、そんなことは考えないだろう。それと同じだ。それこそ、新入生代表で壇上に立っていた彼のような美声でなければ、誰かの声を記憶できることは早々ない。覚えているのは精々家族くらいなものだ。
だから俺は声を掛けられ、特に何も考えずに振り返った。その先に立っていたのは、黒いファーコートにロゴ入りの帽子、白と黒のストライプ柄のマフラー、そして黒いエアマフスをした目付きの悪い男。
俺が駅でぶつかったあの男性は、一週間前と寸分変わらぬ姿でそこに立っていた。
「返事もできねえのか」
黙ったままだった俺に痺れを切らしたのか、彼は低い声でそう促した。……やっぱりヤクザに見える。ああ、この人だと分かっていたら振り返ったりなんかせずに知らん振りして逃げていたのに。
「は、はあ……すみません、まさか俺のこととは思わなくて」
咄嗟に出たのは、へらりとした、媚びを交えた笑みだった。本能が、機嫌を損ねると酷い目に遭うぞ、と忠告している。
「てめえ以外に誰がいんだよ」
俺が惚けたのを見透かしたように、ニィ、と嗤う彼。瞬間、ぞくりと背筋に冷たいものが走った。間違いなく、彼は危ない人間だ。
「……俺に、何か用ですか?」
「用があるから話し掛けた。だから逃げんな」
「!」
こっそり後退して距離を取ろうとした矢先、それを見破られた。動かしかけた左足はそのまま、地面に縫い付けられてしまう。
「そ、それでどうして俺なんかに?」
確かこの住宅街を抜けた先に交番があったな、と逃げ込む気満々で思考を働かせながら尋ねる。
「俺なんかっつわれても、てめえじゃなきゃなんねえ理由があんだよ」
「理由……?」
「そ、理由」
彼は俺に逃げる隙も与えず腕を掴み、視線を合わせた。藍色の目に上から見下ろされると、身が竦んでしまう。
「俺等が視えねえ人間を喰ったところで、腹の足しにもなんねえからな」
――それは条件反射と呼んで良い位、早いものだった。
あれ程身が竦む、恐ろしくて動けないと固まっていた身体が勝手に動き、気が付けば俺はそいつの手を振り払って、脱兎の如く逃げ出していた。
さっきまでは、こいつの言う通りにしておけば、精々有り金を巻き上げられる程度で危害は加えられないと軽視していた。でも違う。このままこいつの言うことに素直に従っていれば、俺は気付いた時には喰い殺されている。
こいつは人間ではない――あやかしだ。
何故分からなかった?普段なら気配で気付くのに。一週間前のあの日から目を付けられていた?ー様々な考えが脳内を駆け巡り、何処で何を間違ったのか知りたいと、答え合わせを求めている。そんな取り乱している俺がいる一方で、冷静に状況を見ている俺もまた、存在していた。
疾走しながら、住宅街を抜けようと思案する。今までの経験で知ったことだが、人を喰らうような悪しきあやかしは、神社のような聖域――神霊が鎮まる神域に踏み込めない。しかし、この近辺にそれらしき場所があるかどうかは微妙なところだ。人混みに逃げ込むのも手だが、もしあいつが人目を気にせず喰い散らかすあやかしだったら、それは意味を成さない。ここはやはり、路地を使って上手く巻くのが最善か。
考えがそこまで至った俺は、住宅街を抜けて大通りに入ると同時に路地裏へ飛び込んだ。そのまま突き当たりを右、左、左、右と適当に曲がって走り続ける。
「はあっ……、巻いた、かなっ……」
息切れと動悸が激しい、結構走った筈だ。立ち止まった俺は壁に寄り掛かり、そのままずるずると座り込んでしまった。
「はあ……」
汗を手の甲で拭い、目を瞑る。
何だあの化物みたいな男は。人の形をしてはいたが、あんな不気味で恐ろしい雰囲気を持った奴を見たのは初めてだ。何にせよ、もう二度と会いたくはない。
「おい。逃げ切ったみたいな面して座り込んでんじゃねえよ」
「……、」
ひゅっ、と声にならなかった息が俺の口から零れ落ちた。
瞑っていた目を開くと、目の前にはあの男が息切れ一つしないで立っていた。
「な、んで……」
「何で、だと?そもそも、てめえみたいな軟弱なガキが、俺から逃げられる訳がねえんだよ」
そいつは勝ちを確信した捕食者の笑みを浮かべた――かと思うと、唐突に俺へと向かって腕を振り上げた。ほぼ無意識の内に真横へ避けて、それを回避する。べきっ、と不吉な音がしたかと思うと、そいつの指はコンクリートの壁にぶっすりと刺さっていた。
――しかもその指は、白骨化していた。
「へえ、避けれんのか。ちょっとだけ見直したぜ」
挑発するような声音で言うそいつの顔を見上げた俺は、彼が人間ではないということを再認識させられた。
何故なら、男の右半分の顔の皮膚がべろりと捲れ上がり、血に濡れた頭蓋骨が見えてしまっていたのだから。
「っ、」
思わず息を呑む。あやかしには慣れていても、こんな醜悪な姿を見たのは久し振りだったから。だけどこれで、改めて知ることができた。あやかしがいかに醜く、下賤な化物であるかを。己がどれだけ、あやかしに嫌悪感を抱いているかを。
「……やっぱあんた、人間じゃないんだ」
「まあな」
「だったら俺の前から消えてよ。俺はね、あんた等みたいな化物が、大っっっ嫌いなんだよッ!!」
声を張り上げると同時に、持っていたスクールバッグを振り回し、骨となったそいつの右頬に向かって投げ飛ばした。指をコンクリートから引き抜くには、少しのタイムロスが生じる筈だ。すると狙い通り、男はそれを避け切れず、男の顔面から鈍い打撲音と何かが折れる嫌な音がした。どうやら、あやかしであるそいつの骨は、人より脆くできているらしい。――が、俺はそいつの骨がきちんと砕けているかを確かめもせず逃走した。
路地裏を飛び出し、雑踏に紛れて走る。もう、人目や他人を気遣う余裕はない。今日初めて使ったスクールバッグも、惜しいが捨て置いてきた。バッグと命、どちらが大切かと問われれば後者に決まっている。
『偶に、人間を喰らうことで己の快楽を満たす、“悪食の妖魔”がおる』
ふと、酸欠気味で霞みかけている脳裏に、いつかの彼女の言葉がちらついた。
『人の持つ精気は、あやかしにとっては我を忘れる程の美味となる、人間の間で言う麻薬のようなものだからな。自制心を捨て“悪食の妖魔”へと身を堕とした者は、他のあやかしの嫌悪の対象となる』
つまり、あの骸骨男も“悪食の妖魔”だということだ。
『そして稀に彼奴等の中には、お主のようにあやかしを視ることができる人間の妖力を好き好み喰らう者等もおる。ショウヤ、お主の持つ私の加護も妖力が宿っているものだ』
ねえ葉月神、
『この葉月村は私の力が及ぶ範囲だ。私は、お主がここにいる限りは守ってやることができる。……が、ここから出た時は気を付けろ』
ああ、気を付けてはいたさ。
『でなければ、気を抜いた瞬間、内臓を引き摺り出されて喰い殺されるぞ』
気を付けていても結果はこれなんだよ。
でも、こうなることだって君には予想できた筈だ。だって君は神様なのだから。
だというのにどうして君は、俺に加護という名の呪いを授けた?何がしたい?嫌でも耳に入ってくるあやかしの声に悩まされて何になる?追い回されて何になる?
――あやかしの存在なんて、知らなかった方が幸せじゃないか。
苛立ちを胸に、俺はコンクリートの地面を蹴って、人混みの中を駆け続けた。