黒い太陽 5
話は少しばかりさかのぼる。
赤ん坊となった男は、うるさい妖精のおしゃべりをぼんやりと意識しつつ、うとうとしていた。
暖かな暖炉の脇で寝かされていると、赤ん坊の体は早めに水分が必要になるようだ。すると気配を察したダニエラは絶妙なタイミングで男を抱き上げ、デッカイ乳房をバーンと突き出すと、むギュッと男の口に乳首を突っ込む。
(なんかこういう突っ込み方にもスキルってあるんだろうか。実にうまい具合に乳が吸い込める)
成人男子の意識を持ったままの男に、乳を飲んで排泄して眠る以外やることが無い状態は苦痛だ。
(このダニエラって人の巨乳を見ても全然興奮しない。美穂はちっぱいだけど可愛い、って、こんなこと考えるだけでむなしい。同じ世界に確実にいるという保証は無いけど、見つかる可能性が高い場所に早く自力で行けるようになりたいもんだ)
男が乳房を含んでゴクゴク飲み始めると、また妖精どもが集まってくる。
唯一の退屈しのぎがフワフワキラキラな妖精たちだが、勝手に男の思念を読んで、勝手な感想を述べ、無責任におもしろがるという態度なので、かなり鬱陶しい。
(赤ん坊がおっぱい見て興奮とか、ありえないし)
(そうそう、ありえない)
(そんなこと考えつくなんて、頭おかしい)
確かに頭がおかしいようだと、男はちょっぴり自己嫌悪に陥った。
「お乳は、おしまいですか? では、お出かけの支度をいたしますから、しばらくお待ちくださいね」
ダニエラの口調は丁重だ。
(お出かけ? どこに何をしに行くんだろうか?)
赤ん坊の体力では、ちょっと込み入ったことを考えようとするだけで眠くなってしまう。
再び「お出かけの支度」とやらでおむつを替え、豪華な縫い取りとかレースとかを使った産着を着せられたなと思ったところで、男の意識は完全に途切れてしまった。
察するにそれから色々と大人たちは支度が大変だったのだろうが、男は眠っていたので何がどうなっていたのか全く知らない。目覚めると、またそこにドッサリ妖精たちが浮かんでいて、笑っている。
(キャハハ、今頃目を覚ましてやんの)
(間抜けてる~)
やっぱり妖精はうるさい。今頃と言うからには、眠っている間に色々あった、という意味合いだと察しはつく。男は改めて部屋の様子を観察して、大変に豪華な部屋に自分がいるようだと気が付いた。
(ベルサイユ宮殿とかシェーンブルン宮殿とかエルミタージュとか、まあ、そんなレベルかなあ)
男はテレビの番組で見た海外の有名な宮殿の様子を思い返していた。
部屋の壁面は淡いベージュと言うか白っぽいトーンで、金色の装飾があちこちに施されており、天井には細密な風景画が描かれている。建築や美術には疎い方なので、何様式の何に似ているなんて言えないのだが、豪華に着飾った西洋の貴婦人が歩いていると似つかわしそうな佇まいではある。
男を抱っこしているダニエラの衣装も、先ほどまでとはまるで違うかなり気合の入ったドレスにかわっているのだ。良くわからないが、かなりフォーマルな物なんじゃなかろうかと思われた。
(誰かおえらい人と会うのかな?)
すると妖精たちは、また笑った。
(別に~、エレオノラと会うだけ~)
公爵家っていうのは、身内で顔を合わせるだけでもいろいろ面倒くさいみたいだと男は思った。
やがて、二人分の足音が近づいて来た。
そして、メゾソプラノの美声ではあるが不機嫌そうな女の声と、ぼそぼそ応じる爺さんぽい声がはっきり聞こえてきた。何か小声で込み入った話をしているが、部屋の反対の端にいる男には聞き取れない。
(エレオノラ、きたー)
妖精たちは大騒ぎだ。
察するに公爵夫人エレオノラは妖精たちに好かれているらしい。
翠色の髪で目の色はエメラルドグリーンのスレンダーな美女で、キラキラした華やかな空気感がタダものではない雰囲気を漂わせている。夫の不品行の結果生まれた落しだねに対する敵意のようなものは、みじんも感じられないのが男には意外だった。
公爵夫人はダニエラから男を受け取り、少しだけだが抱っこまでした。
「まあ、美しい子ですね」
その言葉が事実なら、将来はちょっと明るいかもしれない。
公爵夫人を至近距離で観察すると、ますます美人に見える。
やっぱり美人は良いなあ、そう思った所為か思わず微笑んでいたらしい。
「生まれて間もないのに、愛らしい笑い方をするのね。本当に肖像画の初代様にどこか似てるわよ、あなたは……初代様と同じ黒髪と金の輪の模様が見える黒い瞳、ならば、やはり初代様と同じヘンリックで良いのではないかしら」
「そ、それはあまりに」
ゲオルクという老人があわてている。公爵家の初代の名を庶子につけるのは、まずいってことだろうかと男は推測したが、その点に関しては妖精たちは無反応なのが意外だった。
「先ほど、久しぶりに緑色の美しい妖精を見たのです。この子は魔力の強い特別な子だと私に告げたのですよ。ならば大魔法使いヘンリック様の御名をいただけば良い、そう思うのですけれど」
「ですが……」
老人の狼狽ぶりからすると、かなり非常識なのか掟破りなのか、ともかくまずいらしい。
「ゲオルクは反対のようですが、やはり初代様の名をいただいてヘンリックと名乗りなさい。レナートにも文句は言わせませんからね。私にお乳が出ればよかったんだけど」
男は再び、ダニエラの腕に戻された。
(美人の美乳、良いなあ)
男は自分の名前より、公爵夫人の美乳の方がずっと気になってしまった。
すると、妖精たちに一斉に(ばーかばーか)と言われてしまって、少し凹む。
妖精たちの反応ポイントは、どうも男には理解できない。
(グリーン系の髪ってファンタジーな世界だなあ。年の頃は二十歳過ぎって感じか?)
翠色の髪の美女なんてコスプレかアニメじゃないかとも男は思ったが、ドレスの豪華さはコスプレのレベルをはるかに凌駕している。ダニエラのドレスもそれなりに高級品ではあるようだが、公爵夫人のドレスは銀色に輝き、大粒の真珠らしきものが大量に縫い付けられている。確かに髪や目の色を魅力的に見せる効果は高いようだが、コストパフォーマンスと言う点で見れば、完全な浪費だろう。
(お前、あたり!)
(エレオノラは二十一歳)
(エレオノラのドレスはかなり上等な邸より高いって、ゲオルクがぼやいてた)
(ドレスや宝石で借金作るのは勘弁だって、ゲオルク、ベソかいてたよ)
(でも、ゲオルクはちょっとケチかも)
(エレオノラは何着ても美人だけどね~)
(大神官は何着てもカッコ悪いよね)
(確かにいつ見ても間抜け面)
男の命名については公爵夫人とゲオルク・シュルツとの間に見解の相違が有ったが、公爵夫人は自分の意見を通したようだ。
間抜け面の大神官は、金糸で縫い取りをした青い飾り帯らしきものを首からかけている。 ちなみに髪は白髪交じりの茶系で、瞳はビールか麦茶程度の濃さの茶色だ。これまで目にした人間も、エレオノラ以外は全員髪も目も茶系統だ。茶系統の髪と目はどうやら庶民的な色合いであるらしい。
大神官と言うからには、それなりの霊力とか魔力とかが有りそうで、妖精たちの話も分かるのか? などと男が考え始めると、妖精たちは笑いだす。
(大神官は魔法が使えないんだよ)
(大神官はあたしたち妖精も見えないんだよ)
(お前の目と髪の色が、自分よりずっと魔力の強い黒だから、ちょっと怖がってる)
(あたしたちが見えないくせに、妖精のいたずらを怖がってる、おかしい~)
(大神官はレナートに文句言われるのは嫌だけど、エレオノラがくれるお礼は欲しいんだ~)
(お前に名前付けるだけで、お礼いっぱいもらえる)
(大神官はレナートが怖いんだね)
(レナート、気に入らない相手に酷いことするからね)
(レナート、顔は変じゃないけど性格が変)
(レナートはエレオノラが好きなのに、エレオノラはレナートが大嫌い)
(レナートはハインリヒが嫌いだけど、エレオノラはハインリヒが大好き)
(レナートはハインリヒに酷いことをしてやりたいけど、ハインリヒが国王だから今は我慢してる)
(レナート、そのうち何かハインリヒに仕返しするね)
(間違いないね)
(レナート、魔人族の使い魔にされちゃうかもしれないね)
(確かに危ないね)
(レナートの波動は魔人族になじみやすいからね)
(もう、魔人族に狙われてるよね)
(そうそう、赤い目の女魔人、レナートの周りをうろついてるよね)
国王が自分の女房を寝取ったから腹に据えかねているというのはわかる。だが、肝心の女房に嫌われているし、国王を向こうに回して戦うなんて覚悟も無い、そういうことのようだ。
(レナートってつまり俺の父親らしいけど、その人には息子って他にいないの?)
(お前だけ~)
(エレオノラ以外の女といろんなところで交尾してるけど、生まれた子供はみんなすぐ死んだ)
(どの子もいらないとか、邪魔とか、ひどいこと言ってた)
エランデル公爵レナートが、父親としては問題が多い人間であるらしいと言うことは、十分男にもわかった。この社会は庶子と嫡出子の差別がきついようだ。庶子には財産相続の権利が無いとか、庶子は不品行の証拠でしかないとか、そういう意識なのだろうかと男は推測した。であるなら、父親はあてにしないて生きるべきだろうが……食い扶持ぐらいはどうにかなるだろうか?
(お前賢い)
(やっぱ、中身が大人だね)
勝手に妖精たちは思考を読む。それにしても……
(レナートっていう名前の糞親父が魔人族の使い魔にされちゃうと、どういうことになるの?)
(魔人族の使う魔法が使えるようになって……)
(何人人間を殺しても平気になったり……)
(魔人族の言いなりになって……)
(家や街を魔人族の命令でぶっ壊すとか?)
それが本当なら、常軌を逸している。
男が深刻に考え込んでいると、公爵夫人がダニエラに呼びかける。
それを受けてダニエラは赤ん坊である男を、恭しく大神官に差し出す。
受け取った老人はヨッコイショと言う感じで男をしっかり抱っこすると、聞いているだけで眠くなるような祝詞のようなものを唱えだした。最後に「ヘンリックと命名するものなり」と言う言葉が有り、男の名前が決定したということらしい。
それから大神官は「ヘンリック」と名が決まった男を、豪華なゆりかごに寝かせた。
おもむろに銀製らしき椀を手に持ち、クジャクの飾り羽のようなものを突っ込んで、その羽をピッ、ピッと勢いをつけて振る。振るたびにキンモクセイに似た花の香りがする細かな滴が落ちる。念入りにその作業は繰り返されて、「ヘンリック」の頭から足の先まで、まんべんなく花の香りがするようになった。
どうやらそれで、名づけの儀式は完了したようだった。
(エレオノラは綺麗な子だけど、魔力が薄いの)
(エレオノラって言うのが奥方様の名前でいいんだよな?)
(まだ覚えてないの? 馬鹿な子~)
(色々覚えなきゃいかんから、確認しただけじゃないか)
ヘンリックが文句を言うと、妖精たちはキャラキャラした感じで笑いさざめく。
(ハイハイ、説明不足だった? でも、もう覚えたよね~)
(今のエレオノラ、あたしたちが見えてないね。ちっちゃい時は話もできたのに)
(今は大妖精の姿が、うっすらわかる程度だよね)
(レナートのせいで魔力が落ちた)
(エレオノラはレナートと交尾して、魔力が吸い取られたんだ)
(レナートの魔力は強いけど、近くに寄りたくないね)
(レナートの魔力は妖精より、魔人と相性がいいみたいだよ~)
かなり重そうな金貨入りの革袋を受け取った大神官は、あからさまなホクホク顔で退出した。
家令のゲオルクはなにがしかの用事が有るようで、それに続いて退出し、残ったエレオノラとダニエラが温室の花がどうのとか、どうでもよさそうな話を始める。その傍で妖精たちはガヤガヤ噂をしているのだが、ヘンリック以外には妖精たちの群れは見えないらしい。
(お金が無くなるとこの邸に取りにくるんだ、レナートは)
(レナートは普段、別の邸に住んでる)
(領地の管理はゲオルクがやってる。お金をごまかしてるけど、そんなにいっぱいじゃないよ、たぶん)
(ゲオルクはごまかし方も上手なんだよ、きっと)
(俺を生んだニコレットって人は、ちゃんと弔ってもらえたのかな)
(ついさっき、綺麗な花園のそばの小さなお墓に入れられたよ)
(ジーナが色々頑張って、お弔いは出来たみたいだよ)
それにしても……ニコレットって人の身内は、どこかにいないんだろうか? とヘンリックが疑問を思い浮かべると、すぐ反応が有る。
(ニコレットの父親は旅を続けるエルフだから、多分娘が生まれたのも知らない)
(母親はニコレットが十歳のころに病気で死んでる)
ダニエラの二男の夜泣きや長男のいたずらで、庭師のじいさんとばあさんが困ってるという話を妖精たちは延々と続けたが、ヘンリックとしては旅を続けているという祖父にあたるエルフと、自分の関係が気になる。
(俺って、一般的なエルフから見て、どういう存在?)
(混ざり者だからね、嫌われるだろうね)
(混ざり者は純粋な人間より嫌いだっていうエルフは多いけど、魔力が強くてエルフの森に行く能力が有れば、エルフの仲間と認められる場合も有る。初代のヘンリックがそうだった)
(そうそう。魔人族との勝負にも勝てるぐらい強ければ、気難しいエルフだって無視はできない)
(エルフとおなじぐらい長生きもできるようになるし、歳もほとんど取らなくなる)
(初代のヘンリックは、あまり長生きしたくなかったみたいだけどね)
(俺の母方の祖父さんにあたるエルフって、なんて名前?)
(ニコレットやニコレットの母親にはエリクと名乗っていたみたいだけど、エルフは人間にはほんとの名前は名乗らないし、妖精にも読み取られないように思念を防御しているから、本当の名前はわかんない)
(祖父ちゃんは、なんで旅を続けるのかな?)
(修行? 退屈しのぎ?)
(理由は知らないけど、エルフはみんな旅が好きなの)
(龍やドワーフや魔人の所にもよく出かけていく)
(龍やドワーフもいるのか、この世界は)
(あたりまえ~)
(変なこと喜ぶんだな、ヘンリックは)
男も早く旅に出たいと思った。美穂の生まれ変わりを探し出せる可能性も有るのだから。
(人間以外の種族の所は、魔力がただ強いだけじゃ無理)
(すごい魔法使いじゃないと、他の種族の場所には立ち入れない)
自分には魔力はあるらしいので、何歳ごろから魔法使いになる修行をすべきか、男は知りたかった。
(ふつうは立って歩いて言葉がちゃんと話せるようになってから。人族は文字を使った呪文を使う方が楽だから、文字も読める方がいい)
(魔物や魔人族や龍族は、強いものしか認めない。だから魔法以外の戦い方でも強くないと無理)
(初代のヘンリックさんは、どうだったのかな?)
(あれは例外)
(ドワーフやエルフとも友達で、魔人族や龍族にも認められていた。どんな魔物にも負けないほど剣も槍も弓も強かった)
(ほとんど神だよ)
(人として死ぬことを望んだけどね)
(龍たちはヘンリックの魂は神界に行ったって言ってる)
どうやったら、そんなに強くなれるんだろうか?
(さあねえ)
(とりあえず、妖精に好かれる人になる方がいいと思う)
(そうそう)
どこまで信用していいんだが……考え込んでいるうちに、ヘンリックと名付けられた男は眠ってしまった。
ごく簡単な系図のようなものを活動報告のここに載せてます。
http://mypage.syosetu.com/mypageblog/view/userid/50297/blogkey/1020132/
なんかもうちょっと、ピシッとした図版なんかがいいんでしょうけど……
ここまでお読みいただきまして、ありがとうございます。