黒い太陽 4
ニコレットの生んだ「坊ちゃん」をどのように取り扱うべきか、ゲオルク・シュルツは悩んだ。
ちなみにエランデル公爵家では、当主ないしは嫡男の婚外子と推定される未成年の男子を「坊ちゃん」と呼ぶのが習わしだ。成人後、官職なり称号なり得ることに成功すれば、それに従った呼び方に変わる。
死ぬまで厄介者扱いの「坊ちゃん」も過去にいなかったわけではないが、公爵家を出て他家の養子になったり、平民身分になって商売を始めたりと言った例が大半だった。
ゲオルクは判断に迷うと娘であるダニエラに相談するのだが、今回は特に外聞をはばかることなので、他の者には相談出来ないという事情もある。
ダニエラの婿に迎えたパウルは裏表のない誠実な仕事ぶりで、気まぐれで粗暴な当主レナートにもどうにか無事に仕えているが、様々な「御家の裏事情」を察知して臨機応変に動くといった能力には乏しい。
そのため、現在のエランデル公爵であるレナートの実母マルキアも父方の祖母ウィルマも人の世に紛れ込んでいた女魔人であり、その結果レナートは人の血を僅か四分の一しか受け継いでいないという秘密を、ゲオルクは婿はもちろんのこと、実の娘であるダニエラにすら伝えられずにいる。
ダニエラは以前「旦那様は、魔力の強い女がお好みなのでしょうか」などと、ゲオルクに尋ねるでもなく小声でつぶやいていたことが有ったので、何か思うところが有るのだろう。
本来ならレナートは先々代公爵であったニールの嫡男であり、あの不可解で忌まわしい事件が起こらなければ、両親に庇護されて穏やかに青年期を迎え、円満な形で順当に公爵位を受け継いだはずだった。
レナートの生まれたころは魔人同士の激しい争いや王家の過度の介入が続いており、レナートの母マルキアは魔界での戦に参戦するために人界を去り、父のニールは王家が仕組んだと思しい事件に巻き込まれ、公爵位を追われた。
マルキアもニールも人の世界ではないところで、現在も不老の存在として生き続けているらしいのだが、このトリクム王国においては、ニール夫妻はとうの昔に亡くなったと見なされており、空っぽではあるが公爵家の家格に見合った壮麗な墓所まで築かれている。
それだけではない。
ニールの母で三代前の公爵ケネスの最初の妻で魔界の女将軍であるウィルマの場合も同様な事情で、墓の中は空なのだ。
ウィルマは赤い瞳の絶世の美女で、ケネスとの夫婦仲は睦まじかったそうだ。だが、突然の魔界からの招集に応じ、ケネスの反対を振り切って幼い息子のニールも残したまま、人界との縁を断ち切ってしまったらしい。
困り果てたケネスはウィルマが言い残したように「妻ウィルマは病により急死した」と対外的に発表したが、魔人の力が働いたためか疑いの目を向けられることも無く、翌年には王女ダリーンが降嫁し、更にその翌年には先代公爵であるダリオが生まれた……というわけだ。
レナートが残酷で無慈悲な男に育ってしまった理由の大半は、両親から密かに養育を任されたゲオルク自身の責任だと自覚はしている。ゲオルクなりに最善を尽くしたはずであったのだが……四分の三が魔人であるレナートの心の内は魔力とは無縁の人間に過ぎないゲオルクにはうかがい知れない部分が多く、無力感に打ちのめされる場面も多いのだった。
「ニコレットの出産は十日以上後だというあの産婆の言葉を、真に受けていたのだ。もう少しましな暖かい部屋でお産が出来るように、奥方様のお許しもいただいていたのだがな……哀れなことをした」
「お父様は十分なさるべきことはなさったのです。お気に病まれますな。そもそも旦那様が……」
「ダニエラ、止めろ。うかつなことを口走るな」
「はい。申し訳ありません」
「それにしても、どうしたものかな」
「この件について、ジーナは何と申しましたか?」
「奥方様に御相談すべきで、旦那様には特にお知らせの必要はない、そう言い切りおったわ」
奥方様とは公爵夫人エレオノラのことで、不可解な事件で公爵位を追われたニールの後に位を受け継いだ先代公爵ダリオの唯一の実子である。ダリオは三代前の公爵ケネスと後妻に迎えた王女ダリーンとの間の息子で、ニールからすれば腹違いの弟にあたる。そのダリオは母方の従妹である王女フレデリカを妻に迎え、エレオノラが生まれたのだ。
さらに言うと、エレオノラは父方の祖母も母も正妃腹の王女であることから、公爵家の姫と言うよりは、ほとんど王族であるとみなされて育ってきた。そのためか現国王ハインリヒ三世とも幼いころから「親しすぎるほどに親しい」仲であり、表向きはレナートを婿に迎え人妻となった今でも「親しすぎる関係」は継続中だ。
頭が痛いのはエレオノラの生んだアンドレアスが、表向きはエランデル公爵家の嫡男でありながら、現時点において、ほとんど唯一の国王の実子であるらしいという事実だ。
生きていたならばエレオノラを諌めたであろう母のフレデリカ王女は若い内に病死し、祖母のダリーン王女も亡くなっている。
当然と言えば当然なのだが、アンドレアスの容姿・容貌はいささかもレナートには似ていない。成長するにつれますます国王に似てきており、近頃ではエレオノラが王の愛人であることは広く貴族社会に認識された「公然の秘密」となりつつある。
当主のレナートがしばしば邸内の女たちに粗暴なふるまいに及ぶのは、妻や国王に対する鬱憤のせいだと事情通のメイドたちは信じているようだが……レナートの抱える魔人の血の秘密については考えも及ばないようだ。
ゲオルク自身は老い先短く、公爵家の行く末が案じられてならないが、魔界で女将軍としての責務を果たすためケネスと別れたウィルマも、ウィルマの生んだニールも、ニールの妻でレナートを生んだ女魔人マルキアも、全員が人界を捨てたとはいえ健在なのは確からしい。ならば三人はレナートの力となってくれるだろうか?
「なかなかに難しいだろうな」
「何がですか?」
「いや、その、色々とな」
トリクム王国の古い貴族の家は、人外の者とも血縁関係が有る場合が珍しくは無いが、魔界の将軍クラスの者のごく近い血族が当主を務めているなどと言うのは、このエランデル公爵家だけだろう。
「この坊ちゃんは、強力な魔力をお持ちかもしれんな」
「妖精が見えてらっしゃるんじゃないかと言う気がします。ほら」
ダニエラの指さす方を見ると、暖炉の前の寝椅子の上に寝かされた赤子が、じっと先ほどから天井のあたりを見つめている。
「なるほどなあ。この邸は妖精たちが好む場所だと言う言い伝えがあるからな」
「でも私は残念ながら、一度も姿を見たことが有りませんの」
「そうか、ダニエラも無いのか。私も無いのだ。残念だな」
そこへ公爵家の仕着せを着た従僕が静かに一礼して部屋に入ってきて、ゲオルクに耳打ちした。
「王宮へのお出ましは日が暮れてから、なのだな?」
「さようです」
「神官殿に渡す献金について、何かおっしゃっていたか?」
「シュルツ様と御相談の上、お決めになりたいそうです。その際、ダニエラ殿は御子を抱いて参上せよと仰せでした」
「確かに承った。御子の御支度が出来次第、すぐに伺うとお伝えするように」
「はっ」
実際身支度に一番かかるのは、部屋着からドレスに着替えねばならないダニエラなのだ。まずは念のため、まだ名前もついていない「坊ちゃん」に乳を含ませ、おむつ替えをしてから、小間使いと侍女とばあやを総動員してドレスに着替える。
「女の支度は面倒だなあ」
「お待たせしてすみません」
「いや、まだお前の着替えなど短い方だがな」
ダニエラの部屋着はダークブルーのベルベットに金糸で縫い取りが入った、それなりの体裁のもので、家族や気の張らない訪問客の応対ならば十分に許されるのだが、公爵夫人の御前に伺う際はそれなりの身なりでなければならない。
「エレオノラ様が王宮においでになるときのお着替えは、十人がかりだぞ」
贅を尽くしたドレスに最新流行の帽子やカツラ、靴に様々の宝飾品、すべてを適切に身に着けるだけでも大仕事なのであるが、エレオノラにとっては「あたりまえのこと」であるようだ。
「なかなかに高額な品物が多くてな……」
つい最近エレオノラが購入した首飾りは、都の一等地で手ごろな邸を購入できるほどの、あるいは下級貴族なら十年は暮らせるほどの価格であった。どうにか外国との交易に投資して得た臨時収入をあてることが出来たが、いつもそううまく行くはずもない。
こまったことにエレオノラの衣類や宝飾品は最近ことさらに派手に豪華になっている。王宮は美しく着飾った女性たちが多く集まる場所であるだけに、国王の注意を集めたい女心なのだろうが、財政的負担は増大中だ。
「いや、なに、聞かなかったことにしてくれ」
租税の徴収も農地の貸付による収入も限界があるが、何とか切り抜けなければいけない。娘相手に愚痴を言っても始まらない、とゲオルクは思い直した。
ちょっとした用事なら、ゲオルクは歩いて本邸まで戻るのだが、今回は生まれたての赤子連れだ。その上外は飛び切り寒いと来ている。そのため箱馬車を用意させ、本邸の通用口へ向かった。正面玄関は外部からの来客用だからである。
通用口からは外部からの訪問者が絶対通らない通路ばかりを抜けて、もっとも奥まった場所にある公爵夫人の暮らす一角にたどり着いた。
「ゲオルクが参上いたしましたと奥方様にお取次ぎを」
あらかじめ話は通っているから、わざわざ呼ばわる必要も無いのだが、一種の様式美とでもいうべきもので、紺色の特別な仕着せを着た番人が恭しく一礼して、一旦中へ入りゲオルクの訪問を内部に伝える。
「シュルツ殿と御令嬢および御子は、庭沿いの応接室へ、供の者たちは控えの間に下がるようにとの仰せです」
エレオノラは幼いころから「エランデルの妖精姫」などと呼ばれるような美少女ではあったが、近頃は艶やかさに加え、時折見せる憂いまでもがその美しさを一層引き立てている。だが、かつてはゲオルク自身も公爵家に対する神の祝福であると感じていたその美貌も、今となっては呪いとしか感じられない。
どうやら「トリクム国王の翠の秘宝」「罪深い女神」といった異名は国の内外にまで知られるようになっているらしいのだ。
いつもながら特徴的な翠色の髪は、庭園に沿った回廊の端からでもひときわ目立つ。
「いったいどういうおつもりなのでしょうか?」
その声を耳にしたゲオルクが「御機嫌がよろしくない」とはっきり感じる程度には、不快感を表しながらも、艶やかに微笑んだ表情は崩さぬまま、白いローブを纏った大神官と並んで、ゲオルクと「坊ちゃん」を抱いたダニエラの待つ庭園に面した応接室に入ってきた。
この部屋は親しい友人や家族、気の張らない訪問客と面談するための部屋で、エレオノラの好む花が真冬でも見ることが出来るように、中庭の半分が大きな温室になっている。温室を作るのに必要な板ガラスは大変な貴重品であるため、このような設備は王宮にすら存在しない。
大神官は卑屈なまでに腰を低くして、ボソボソ口調で話し続ける。
公爵夫人の御機嫌を損ねて、高額な寄付を受け取る機会をふいにしては大変だとあせっているように、ゲオルクには見える。
「事情はお話した通りですわ。生母の身分がどうであれ、子供はしっかり育てる必要があると感じますの」
「ですが、公爵様の御意向が分かりかねますので」
「レナートの公爵位は、エランデル本家の後継者である私の夫となったために、便宜的に許されたものにすぎませんのよ。この家の当主の権限は私の物なのです」
「それは、存じ上げております」
「今年に入って、特別に私自身が女ながらに公爵を名乗ることも許されましたし、新たに私個人に対してパルヌ領と年金も賜りました。私の申しますことは、言わばエランデル家当主の言葉と受け取っていただいて構わないのです」
その女公爵位は何の法的な裏付けも無い空手形で、賜ったパルヌ領は確かに長年王家の直轄領ではあったが、さしたる産物も無く土地も痩せた厄介な場所だ。その上、年金とは形ばかりで、王との秘密の逢瀬の諸費用はエランデル公爵家側の大幅な持ち出しだ。そのことが理解できないほどエレオノラが愚かになってしまったのか、王の誑し込みが上手いのか、ゲオルクにはわからないが、王妃派だとされる宮廷財務官あたりが「してやったり」とほくそ笑んでいるのは確実だと思われる。
「それも、無論、存じ上げておりますが」
「レナートはこの子の母にも何の配慮もしてやりませんでしたし、この子はこの子で死産と間違えられたせいで、生まれて数時間はほっておかれてましたのよ。大神官様はこの子が、飢えて死んでしまえばよいとでもお考えですの?」
「いえ、そうは思いませんが」
「生まれた子に名もつけず、ずっと放置しておくべきとお考えですの?」
「いえ……」
「レナートが神殿に対して、何かご迷惑をかけるようなことがございましたら、お知らせください。すぐに手を打ちますから。先ほどこの子の母親の臨終の清めもしてくださったのですから、ついでと申しては何ですけど、この子の名づけの儀式もお願いいたします。準備は整っておりますし。それとも私が国王陛下のお召しにより、王宮に赴くのを遅らせねばなりませんかしら?」
最近は何かと言うと「国王陛下のお召し」をチラつかせるようになったところを見ると、噂される王妃派の攻勢がゲオルクの思っている以上にきついのかも知れない。
どうにか話がまとまり、エレオノラはダニエラから赤子を受け取り、その顔をしばらくじっと見つめた。本来なら子供の名は家長が決めるべきだろうが、そのような野暮なことを言って奥方様の御機嫌を損なうことは無い……つい、そのようにゲオルクは考えてしまう。
「初代様と同じ黒髪と金の輪の模様が見える黒い瞳、ならば、やはり初代様と同じヘンリックで良いのではないかしら」
「そ、それはあまりに」
ゲオルクはあわてた。
確かに初代公爵ヘンリックと、この「坊ちゃん」の髪や目の色は同じかもしれない。だが、その名は嫡男にこそふさわしいものなのだ。
「先ほど、久しぶりに緑色の美しい妖精を見たのです。この子は魔力の強い特別な子だと私に告げたのですよ。ならば大魔法使いヘンリック様の御名をいただけば良い、そう思うのですけれど」
エレオノラは幼いころから、言い出したら聞かない頑固なところが有る。
ゲオルクは生まれてこの方一度も妖精を見たことが無いが、エレオノラは緑色の美しい妖精を幾度か目撃しているようだ。
初代のころから祝福を与えてきたとされる妖精の言葉を無視したら、それはそれで祟りが怖い。
結局、色々な懸念材料が有りながらも、赤子の名は「ヘンリック」と決まったのだった。
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