イダとバベル 3
円卓上の食べ物の中で、銀製の皿に盛り上げられた揚げ菓子らしきものに、バベルの目は引き寄せられた。
「真ん中に丸い穴の開いた、これは?」
「ヘンリック坊ちゃんから作り方を教えていただいた揚げ菓子です。そこらの菓子屋で売ってるものなんかよりずっと美味しいですよ。たくさんありますからね、遠慮なくどんどん召し上がれ」
ガーニーでもムルサでも、こんな形の菓子は見たことが無かったが、黄金色と言ってもよい見るからに美味そうな揚げ色に、鼻腔をくすぐる魅力的な甘い香り……絶対にこれはうまいだろう。
美味いはずだ。
イダの方を見ると、どうやら彩り豊かな様々な果物にも惹かれているようだが、やはりこの揚げ菓子が一番気になるようだ。
こうして説明があるからには、やっぱり、いの一番にこの揚げ菓子を食べるべきだろう、とバベルは判断した。最初は行儀よく一個だけ取った方が無難なんだろうななどと思いつつ、手を伸ばす。
特に席を定めたりせず、菓子や果物も飲み物もめいめい勝手に取ればよいという冒険者ギルドの飲み会のような気楽な雰囲気なので、バベルはほっとしている。
ギルドの役員や上級の冒険者になると、貴族から金銀の食器を並べ立て、仕着せを着た給仕役が貼りつくような宴席やら食事会やらに呼ばれることもあるそうだが、幸か不幸かバベルにそのような経験は無い。
「この形だと揚げたときに生地がムラなく均一に仕上がりやすいんですよ。っていうのは坊ちゃんからの受け売りなんですけどね」
この三歳児は多彩な才能を持ち合わせているらしい。
人のよさそうなこのメイドは「坊ちゃん」を非常に高く買っているようだ。
どうやら貴族の子供にありがちな、幼稚な我がままで悩まされることはなさそうだと安心する。
「まあ、本当にフワフワ軽くって、おいしいっ!」
イダは声を上げて感動している。
バベルは普段は菓子類を食べない方だが、仄かな優しい甘さがくせになり、つい二個三個と手が伸びる。
「甘さの加減がちょうどいい。この香りはシトロンかな」
何の気なしに呟いたバベルがふと気が付くと、「坊ちゃん」が至近距離にいる。
一体、いつの間にこんなに間合いを詰められていたのかと改めて驚いた。
これが敵か魔物なら確実に自分の命は無い……バベルはこの三歳児が恐るべき存在だと強く実感する。
「そうです。シトロンの果汁で性質のことなる三種類の蜜を合わせて溶かした物に、揚げたてのドーナツを浸すのです。元来はレモンという柑橘類の果汁を用いるのですが、ここペラギニアでも手に入りやすいシトロンで代用してみたのです」
バベルが何の気なしに口走った事に対して、この規格外の三歳児は丁寧に解説する。
恐るべき存在ではあるが、幼い声は穏やかで、当然ながら微塵も殺気など感じさせない。
さりとて、自分の考案した菓子をイダやバベルが美味そうに食う様子を見ていただろうに、得意がったりするような稚気も感じさせない。
やはり、中身が大人なのだろう。
冒険者学校でヨーン・レイクホルトから教えられたことだが、ごくまれに人にも前世の記憶を保ったまま新たな肉体を得て生まれ変わる者がいるらしい。
(多分、この坊ちゃんの中身は俺よりずっと年上なんだろう)
バベルは、この坊ちゃんを子供とみなすのをやめることにした。
何はともあれ、ドーナツというのが斬新な形の揚げ菓子の名前だということは分かったが、ムルサにもドーナツと言う名前の揚げ菓子が有ることは有るので、ジーナが絶賛したほど独創的な菓子でもないかもしれない。あまりそのあたりは話題にしない方が良いのだろうか? バベルはちょっとばかり悩む。
「この揚げ菓子はドーナツというのですか」
「ええ。まあ」
何か三歳児が言いかけて、止めたようなのがバベルには気になった。
止める理由が何かある……そうとしか思えない。
「ムルサの名物にもドーナツと言う名前の揚げ菓子が有りますが、これほどおいしい物じゃありません。ね、バベルもそう思うでしょ?」
イダが何の気なしに、そんなことを口走ったので、バベルはイダの言葉を坊ちゃんがどう思うか気になって、内心少し焦りながら、曖昧に笑みを浮かべておく。
「ガーニーからの定期船が発着するムルサの港のそばに、地元の名物になっているその揚げ菓子を出す茶店が有るのですけれど、大人の中指の長さ程の棒状で生地にクルミとゴマがどっさり入った、なんというが歯ごたえがあってズッシリ重い感じのものです。少し癖のある味の黒い蜜がたっぷりかかっていて、まずくはないのですが……煎じた薬を連想させるような香りのせいか、甘いものが好きなかたでも二個食べるのはちょっと無理かなという感じなのです。なんでも、その菓子の大きさと形は大魔法使いの魔法を放つ指先をかたどったのだなどと言われていて、ムルサの人たちは『魔法揚げ』と呼んでいます。でも店の人がつけた本来の名前はドーナツなのだそうです。確か、その店の名前も『ドーナツ茶屋』というのですが……誰もドーナツという言葉の意味は知らないようなんです」
立て続けに五個も菓子を食べて、一息ついたのか、イダは珍しく饒舌だ。
イダは子供のころから親に連れられて、幾度か親戚もいるムルサに船旅をした経験が有るらしい。そのイダの言葉にうなずいていたアデルもこんな話を始める。
「ああ、その『ドーナツ茶屋』なら私も知っている。ムルサで一番まともな茶を出す店だからな。店の主から聞いたのだが、あの黒い蜜には五種類の薬草が配合されているそうだ」
アデルは『ドーナツ茶屋』の主のしつこい頭痛を治してやったことが有り、ムルサに行った際に店に顔を出すと、タダで飲み食いをさせてもらうという関係であるらしい。
「だから、どこか薬っぽいような癖があるんですね」
イダはアデルの言葉に頷きながら、六個目に取り掛かっている。バベルも気が付くと、既に十一個の菓子を平らげていた。流石にこれ以上はやめた方がよさそうだと思い、ジーナというメイドが注いでくれた茶を味わうことにする。
「そういえば、俺、学校を出てすぐ、生まれて初めてムルサに行った日に雨に打たれたせいか、熱を出してしまって……宿で寝込む羽目になりました。俺よりずっと年上の育て親のおやじさんは平気だったのに、なんだか情けなかったです。すると、そこの女将が『魔法揚げ』を枕元まで持ってきてくれたんです。下手な薬よりよっぽど効くから、早く食べろって言われました。弱っている時に揚げ菓子って違和感がありましたが、たっぷりの茶と一緒に食べて寝ると、確かに翌日にはすっかり治ってました」
バベルも何の気なしに、そんな昔話をはじめる。
うまい菓子と茶のお蔭で、気分がほぐれたせいかもしれない。
ガーニーの冒険者学校での成績はトップクラスであったバベルだが、有名な冒険者の身内が幅を利かす学内では、孤児のバベルは生意気だと憎まれ、何かと爪はじきにされがちで、卒業後に一緒に正式なパーティーを組もうと申し出てくれた同級生はいなかった。同級生の中で懇意にしていた者達と、学校の実習用のパーティーを組んだ経験ならば有ったのだが……
駆け出しの冒険者が単独で魔の森で活動するのは危険すぎる。親の代からの縁故を頼りに、高ランクのパーティーに見習いの形で加えてもらうか、親の財力で有能な護衛者を雇ってもらうかでもしない限り、無理な話だ。
「あの連中に嫌われても、バベルほどの才能が有れば、ガーニー以外の場所でなら十分立派に冒険者としてやっていけるだろう。でも僕らのような平凡な資質の者には無理な話なんだ。すまん。決してお前のことが嫌だとか嫌いだとか言うわけじゃないんだ」
在学中に付き合いのあった幾人かにパーティーを組もうとバベルが申し入れても、毎回そんな言い訳とともに拒絶された。
ガーニーを本拠地として冒険者としてやっていく場合、有力者の子弟グループから目の敵にされるのは、駆け出しの冒険者にとって大きなハンディなのは間違いない。
そうしたバベルの状況を苦にした養父代わりのアメデオは、バベルの卒業と同時にガーニーを引き払う決意を固めた。
いきなり「ムルサに引っ越すぞ」と言い渡された時には驚いた。
だが、確かに活気あふれる港町のムルサなら物品の配達や薬草の採集などの初心者向けの仕事も多く、学校を卒業したてのバベルでも、ソロでどうにかやっていける可能性が高いというアメデオの指摘には、納得できたので素直に従った。
だが、そのアメデオはムルサに落ち着いて半年もしないうちに「昔世話になった方の依頼で、長旅に出ることになった」とかで、急に姿を消してしまった。ギルドを通さない個人的な依頼であったようで、何の情報も手がかりも無い。
以来二年たっても三年経ってもアメデオの消息は不明のままだ。
幸いガーニーの資産を処分した金で、アメデオは使い勝手の良い小さな家を買い入れ、残金をすべてバベルでも引き出せるギルドの口座に預けててくれておいたので、当面の暮しには困らなかった。
「心配せずに、お前はお前のできることを精いっぱいやれ」というのがアメデオの口癖だったが、何をどう精一杯やるべきか、バベルにもよくわからなかった。
「ムルサには優れた才能や技能を持った人々が、様々な場所から流れ着いてきている。頭を下げ教えを乞うことができれば、学ぶ機会も自分で作り出せるはずだ」
そんなアメデオの言葉を思い返して、バベルはギルドで簡単な依頼を毎日こなしつつ、自分で自分にふさわしい指導者を探すことにした。
活気ある港町のムルサには周辺諸国だけでなく、別の大陸や南方の島々からやってきた人間も多い。
河原やちょっとした空き地で滅亡した国の騎士や引退した傭兵といった人々が生活費目当てに、武術や魔法の指導をしているのも珍しくはない。気軽に支払える程度の謝礼金で一回限りの稽古をつけてくれるというやり方が普通だ。評判の良い指導者のところは、見学やただの野次馬も含めてにぎわっている。
ただのパフォーマンスやショーに過ぎないようなものから、奥義の一端を公開するものまで、指導者側のレベルは様々だ。
ギルドや食堂・酒場といった、腕に覚えのある連中が集まる場所での噂も参考にしつつ、納得できる指導者を探し求め、バベルは連日ムルサ中の河原や空き地を見て回った。
そしてようやく二人の人物に絞り込むことができた。
一人は某大公国の近衛師団長であったと称する老人で、もう一人は東方の大帝国で皇帝の身辺警護をしていたとかいう男だ。
そうした経歴も事実なのか多少の嘘が混じっているのかバベルにはわからないが、二人がそれぞれ相当な手練れであるのは確かであった。手練れであるのに二人とも暮らしは貧しく、ムルサには親類縁者も友人も居ないのは共通していた。
そうした師匠たちも体調が良くなるからと言って『魔法揚げ』をよく食べていたが、バベルは強烈すぎる甘さと独特の微妙に薬臭い風味が苦手だった。
個人の事情や前歴に踏み込まないのはムルサで生きる者のいわば「常識」とか「マナー」であって、バベルは二人の過去も本名も知らない。
苦労の末に見つけ出した師匠たちであったが、指導を受けて二年もしないうちに「お前に教えることは無い」と二人からそれぞれ申し渡された。
折に触れて指導をしてくれた二人には差し入れをしたり、酒や食事をおごって助言をもらったりしたのだが、老人のほうはふとした風邪がもとで寝込み、そのまま亡くなってしまったし、東方にいたという男のほうは「国元に帰ることになった」といってムルサから姿を消した。
そのころからバベルも一人前の冒険者として護衛などの業務を引き受けて、時にはガーニーまで足を延ばすことも増えたのだが、相変わらず養父代わりのアメデオの消息はつかめなかった。
かつてガーニーでバベルを目の敵にしていた裕福な家庭出身の同級生のグループは、無謀な行動がもとで魔の森の魔獣に食い殺されたとかで、バベルに対するガーニーのギルドの対応も以前よりよほど良くなったのだ。
ガーニーのギルドマスターであるウレキア・ハウカは、バベルが「いけすかないエルフ野郎」つまりヨーン・レイクホルトの弟子だというので以前は毛嫌いしていたようなのだが、最近は補佐役を務めるスタッフが大きく入れ替わったせいか、まっとうに仕事ぶりを評価してくれる姿勢に変わっていた。そればかりか、イダとの駆け落ちを陰ながら応援してくれてもいるらしい。
ウレキアにしてみれば単に虫が好かないだけのヨーンよりも、イダの父親の方が更にずっと嫌いで、老人に娘を売り飛ばすようなイダの父親のやり口に憤慨していたから……なのだろうとバベルは思っている。
実際の所、そのような感情的な理由だけでウレキアの態度が変化したわけではなく、イダの母方の係累であるムルサの豪商ゾルバ家との親密な関係を望んでいるからと言うのも大きな理由であるのだが、そのあたりの事情はバベルの預かり知らぬことであった。
あの甘ったるくて薬臭くて油っぽいムルサの菓子と、この軽やかで爽やかな風味の菓子が、なぜ同じ「ドーナツ」なのか、バベルは気になる。イダは何も気にしていそうにないが……
「あの菓子は熱い茶とともに、ゆっくり噛み砕くようにして食べると体の疲れを回復し、多少の風邪ぐらいなら治してしまうと言う効能がある。これも店の主から聞いたのだが、あの名物の揚げ菓子は冒険者をやめて店を始めた初代が、恩人である大魔法使いから聞いたドーナツという異国の菓子の話をもとに、独自に工夫して作り出した菓子なのだそうな。とするとだ……ヘンリックが工夫したこのドーナツと、先祖は同じなのやもしれんな」
アデルが話をしながらドーナツを盛り上げた皿を差し出したので、バベルは十二個目を取り分けた。
「バベルにしちゃ珍しく、しっかりお菓子を食べているのね」
イダの笑顔は無邪気で、可愛い。
「うむ。これは後味も爽やかでいい」
バベルは知らなかった。
「瘴気にあてられて少しばかり不快だったのではないかと思うが、もう大丈夫なようだな」
そう言った漆黒の髪と赤い目の女魔人がバベルの思念をあらかた読んでしまっていたことも……
「アデル師匠からいただいた蜜と、妖精好みの花の蜜を配合したのが良かったのでしょう」
やけに大人びた口調の三歳児がさらに細かく、バベルの記憶している過去の情景まで鮮明に読み取ってしまったことも……
誤字脱字の御指摘、大歓迎です