噂・5
ガーニー商工会会頭の娘であるイダ・レフラと、共に駆け落ちしたバベル・ヘルツルはアデルの予想以上に善戦している。人間の追手はとりあえず、アデルが密かに事前に排除したわけだが、魔獣や魔物に関しては何もしていない。一応、極小サイズの蜘蛛型使い魔をイダの方に張り付けているが、このひと月あまりは二人の様子を観察するにとどめていた。
「マジックテント持ちか。ドワーフの里あたりでしか手に入らない品だな」
バベル・ヘルツルのマジックテントは、人族とほぼすべての魔獣、および大半の魔物から感知されない結界の役目を果たしている。内部は人間三人ほどがどうにか横になれる程度の大きさしかないが、外部の気象条件に係わらず、人族にとって快適な温度が保たれるようになっている。過去の高名な冒険者でもっと大型で豪華な内装を施したマジックテントを持つ者もいたが、現在都に住む人族たちの間では、ただの伝説と受け止められているようだ。
「魔法が廃れ気味の時代の人族の若者としては、なかなかのものだと言っていいだろう」
イダを三度目の妻に迎える気満々だった七十歳寸前のポルトメリ公爵家の隠居は、アデルが巻き散らかした噂に相当動揺した。隠居はひそひそ噂をしていたメイドたちを打ち据えさせたり、若い洗濯女と無駄話をしていた庭師をくびにしたりと言った具合に、感情の制御が出来なくなって八つ当たり的な言動を取ることが多くなった。
それでも確証の無い内は強気でいた御隠居も、自分なりに情報の裏どりをさせてイダの逃亡がまぎれも無い事実だと分かると、食事もとれなくなり寝込んでしまった。
「心臓が相当に弱っている。これはひょっとするとひょっとするな」
小ぶりではあるが贅を凝らした隠居所のベッドの上で寝込んでいる隠居の顔を、アデルが観察してみると、明らかに死相が現れている。
(自業自得とはいえ、いささか哀れではあるかな)
この隠居がまだ、それなりに愛嬌のある子供であった頃のことを不意に思い出したアデルは、人の一生の短さを改めて実感する。
(六十七年前のムルサか)
当時生活の拠点にしていたムルサで、身分ありげな旅の美しい女性から幼い息子を助けてやってくれと懇願されて、治癒魔法を施してやったことが思い返された。
(あの美しい母御から生まれた幼子が、このような醜悪な老人に化すのだからな。人にとって六十七年は短くは無い年月ということだな)
醜悪な老人と化したこの男も、六十七年前は汚れなき幼子であったし、母親は艶やかな漆黒の髪に鳶色の瞳の、諸侯連合の貴族に多い生粋の南方の血を連想させる華やかな顔立ちであった。
「う、ううっ、母上っ」
老人はいきなり目を見開いて、魔法で姿を紛らわせているはずのアデルの方に向かって手を差しだした。
(気配だけは敏感に感じ取るのだな。しかも私の髪が黒いのはわかっているのか? いや、そこまで感覚が鋭敏なわけではないか……母親の幻を見ているだけのようだ)
老人にとって美しい黒髪は執着の対象らしい。思念を読むと、母や妻・愛人とした女たちに係わる記憶の断片がでたらめに入り組み、雑然と混在している。その中から明白な事実と思われる情報だけをすくい上げて、整理し直すのだ。
(あの母親は若くして亡くなったようだな、そして最初の妻も二度目の妻も黒髪で容姿の整った女であったか……イダも髪は黒い……母への愛着が妄執となったか……これは……そろそろなのかもしれん)
アデルは使い魔を使い、この隠居所専用の執事とメイド長に老人が瀕死の状態であることを伝えた。言葉を使っての状況説明はせず、死相の濃い隠居の顔の映像を、直接執事とメイド長の脳裏に叩き込んだだけだ。すると二人はその画像を「虫の知らせ」あるいは「不吉な胸騒ぎ」のようなものであると感じ、それまで各自全く違う場所にいたが、ほぼ二人同時に隠居の部屋に駆け付けたのだった。
「御隠居様!」
「誰か、早く。医者を呼びにやりなさい」
上を下への大騒ぎとなった隠居所を、アデルは離れた。その後、ほどなく隠居は臨終を迎えた。
その後、嫡男であるポルトメリ公爵もやってきて、一挙に慌ただしくなる。
「もはやイダのことなど、誰も構わぬであろうが……念のため」
ポルトメリ公爵にはイダに関する情報を思い返すことが無いように『忘却』を発動させる。そして隠居所に奉公する使用人全体に五年間の『緘黙』を発動させ、さらに屋根伝いに本邸に飛び移って、邸内にいる全ての人間に三年間の『緘黙』を発動させて、イダに関する噂話や情報が話題になることを排除した。
ここで再び、アデルはゲオルクの所に戻ることも考えたが、止めておいた。
噂を流してから、隠居が死ぬまで半月もかかっていない。
「私がこの国の大貴族を殺害した……そう受け止められても厄介だからな」
結果を見れば事実そうに違いは無いが、アデルは殺害までは本当に考えていなかったのだ。
「たまたま隠居の心臓が弱っていたのが原因だが……」
そんな言い訳を聞かされても、ゲオルクとしては困るだろう。
以前のアデルなら考えもし無かったような気づかいだが、果たしてそれが有効なのかどうかアデルにもわからない。
「いや、まてよ……ヘンリックの意見を聞いてみようか」
異世界で大人であった記憶を鮮明に持つらしいヘンリックならどう考えるか、聞いて見ることにした。
すると、幼な子に似合わぬ老成した大人の表情で、眉間に微かに皺を寄せてヘンリックはこう答えた。
「……なるほど。師匠のおっしゃることはわかります。ですが、事前にゲオルクさんに有る程度の話をしてしまっているのですから、正直に自分の想定外の事態になったと伝えておけばよいのではないでしょうか? 師匠が何者であるのかゲオルクさんが全く知らない訳でもないのですから、何の報告も無い方が、かえって不信感を持たれるかもしれませんよ」
そう聞かされると、そんなものかともアデルは思い直した。
「師匠、俺がもといた世界では、報告・連絡・相談は全ての重要な仕事を進めるうえで必要不可欠とされるものでした。そのやり方に従えばですね、まずは顧客なり依頼主なり上司なりに、ことの次第はつぶさに報告すべきでしょう。一人でこなす仕事でなければ、仕事に係わりのある人間全員に簡単な情報を連絡することも必要ですし、判断に迷えば信頼できる者に相談して、参考意見を聞くことも大切とされます。この三つのことがきちんとこなせないと、仕事はうまく運ばない物だとされています。異世界の常識ですが、この世界でも有効だと思いますよ」
「ならば、ゲオルク殿には報告とやらをしておく方が良さそうだな」
「そう思って下さるなら、俺に相談してくれたのは、正しい御判断だったのでしょう」
「お前、ちと、生意気だぞ」
「申し訳ありません」
「ダニエラ殿には、連絡した方がいいだろうかな」
「うーん、その逃亡中のカップルですか? いずれその二人をこの邸に迎え入れるべきだとお考えなら、早めに連絡なさった方が良いのでは? 使い物になるなかなかの人材だが、これこれこういう訳ありなのだとか……ゲオルクさんへの報告ほどは細かくなくていいと思いますが、ちょっと話をしておかれたらどうですか?」
ヘンリックは表情だけでなく話しぶりも全く幼児らしくない。完全に大人のそれである。
「なあ、最近、あの秘密の書庫の本はどれほど読めるようになったのだ?」
「それが、以前より読める本の種類が減ってしまいました」
「妖精たちは、姿を見せんか」
「ええ、さっぱりです」
「魔人の気配が嫌い、そういうことなのだろうなあ」
「ですが、使える魔法の種類は増えました」
「ならば、初級魔法から見せてもらおう」
アデルは魔方陣を発動して、王都のすぐ外に広がる森にヘンリックを伴った。
「その岩に向けて、地・水・火・風の四属性を順に針状にして打ち出してみろ」
「はい」
ヘンリックは言葉による詠唱を伴うことなく、杖などの補助も無しに流れるようなスムーズさで四種類の魔力を針状にして岩に打ち付けた。
「次はその四種類を合成させて、可能な限り素早く岩を真っ二つにしろ」
「縦方向ですか? 横方向でしょうか?」
「いっそ斜めに真っ二つでもいいぞ」
「ではそうします」
ごく細い火魔法の針を五本出現させを高速回転させたかと思うと、途中でその回転する針が水魔法に切り替わる。
「ほう、おもしろい。風魔法で火や水の針を素早く回すのだな」
錐を揉みこむ要領らしい。どの魔力も出力自体はさほど大きくないが、安定しており操作が正確だからこそ可能な技だ。
「では仕上げです」
最後は水魔法と土魔法を合成した歯車状のリングを作って高速回転させ。火と水の魔法で出来た細かな亀裂にそって、すっぱり切断した。あまりに切り口が滑らかなために、上の岩を一押しして落とさないと、本当に切断できたのかハッキリしなかったほどだ。
「歯車型の魔力を回して物を切るなど、初めて見た。ほう、切り口がやすりでもかけたように滑らかだ」
「土木工事系の仕事に使えるのではないかと思って、工夫してみました」
アデルがこれまで指導した者たちは、もっと力任せに杭状の魔力を打ち込むとか、鉈や斧のような物を合成してたたき折るといった感じの方法を取っていたので、ヘンリックの斬新な方法は驚きだった。
「もしかして、お前が大人であった前世の世界では、こうした輪のような形の刃物でものを切るという事があったのか?」
「はい。魔力など実在しないとされる世界ですが、物理や化学の研究は進んでいまして、鋼の円盤にギザギザの歯を作ったものを素早く回転させて物を切るのはごく普通の技術でした。切る素材に応じて歯の形や大きさを変え、時には刃物に硬い石の屑を練りこんだりもします」
「刃物を回すのは、魔力ではないのか」
「ええ。違いました」
「ふーむ。そうした力が有れば、魔力の無い者たちの暮らしぶりも変わるだろうな」
「その『電気』と呼ぶ力を生活に応用するには、多くの大規模で複雑な仕掛けが必要でして……あるいはこの世界でも似たような仕組みを作るのは可能なのかも知れませんが、俺にはその方面の知識が全くないんです」
「魔力とその電気とやらはどう違うのだろうかな」
アデルの疑問に対してヘンリックなりに電気なる力について説明をしようと試みてくれたが、ソリュウシだのデンシだの意味不明な概念や言葉が有って、うまく行かなかった。
「魔法の力を借りて、その電気とやらで動く道具類に近い物は作り出せる、そういうことだな?」
「そうです」
アデルとしては、それが分かれば十分だった。
「お前が色々な異世界の知識を持ち合わせていることは、しばらくは伏せておいた方がいいだろう。少なくともこの王都で暮らしている間は」
「やはり、そうでしょうね」
「なぜ、そう思う?」
「この世界の人は異なる世界の異質な価値観など理解できないでしょうし、理解できない奇妙なものは往々にして忌み嫌われる可能性も高いですから。特に保守的な貴族の社会では、そういう側面が強いのではないかと推測するのです」
アデルは笑った。
「いや、なかなかに大したものだ。私も似たようなことを思いはしたが、お前のようにうまい説明は考え付かなかった」
「はあ……」
弟子は揶揄された、からかわれたと言う風に受け止めたらしい。三歳児の顔にはまるで似つかわしくない気難しげな皺を、額に寄せている。
「本当に大したものだと思うぞ。だが、しばらくは少しばかり風変わりなだけの幼い子のふりをしておく方が無難だろうな」
「はい」
ヘンリックの額の皺が消えた。
「イダとバベルの駆け落ち二人組が王都に着いたら、この別邸にかくまう許可は得た。レナートは大して関心は無さそうで、息子であるお前の護衛役の人選も私が好きにすればいいとのことだった。このエランデル公爵家ではゲオルク殿の了解さえあれば、実質上問題は無いようだな」
「師匠は当主を呼び捨てにしていても、ゲオルクさんには『殿』をつけるんですね」
「ヘンリックだって呼び捨てにはしないだろう?」
「俺は庶子ですから、家宰を務める人を呼び捨てなんて、できる立場じゃないです」
「なるほど、そうしたものか。私の場合は一番世話になっているのがゲオルク殿だから、さすがに呼び捨ては出来ない、そう思っているだけなのだ」
「俺はゲオルクさんの計らいで生き延びたようなものですから、俺にとっても大恩人なんです。そういえば、師匠、今、第二王子はどこにいるのか御存知ですか」
「なぜそれを?」
「奥方様が、気になさっておいでのようなんです。おや? やっぱり師匠何か御存知ですね?」
「なぜ、そう思った? と言うか奥方は、なぜそのようなことを知っているのだ?」
「以前国王から奥方様あてに『パオラという軽い身分の女性に子を産ませてしまったが、一時の気の迷いだ』と言ったような弁明の手紙が送られてきたようですし、俺がまだ赤ん坊だった頃、本邸のメイドたちは、軽い身分の女の人が第二王子を生んで王妃派の連中に王宮を追い出されたとか噂してました。俺は妖精たちからパオラさんは、奥方様と顔がかなり似ているとも聞いてます。それにパオラさんはうんと遠くに行ったようだ……とも。外国にいる可能性もありますが、国内でも都から離れたガーニーとかムルサなら、隠れ住むのに都合は良さそうかな……なんて思いましてね」
アデルは思わず笑ってしまった。
「ゲオルク殿は、奥方はパオラ殿が第二王子を生んだことも、パオラ殿が腹違いの妹であることも知らないはずだと言っていたのだが……国王本人が既に知らせていたのか」
「あ、でも、パオラさんが奥方様の妹と言うのは、妖精たちは知りませんでした。だから当然俺も今初めてそれは知ったわけでして」
ヘンリックの言う通りならば、ゲオルクの隠し立ては全く不要なことであったことになる。
「……そっか……ゲオルクさんと奥方様の意思疎通って、案外うまくいってなかったんですね」
ゲオルクがパオラが奥方の異母妹にあたることを告げていないのは拙かった──というヘンリックの指摘は、恐らく正しい。
「パオラ殿は聡明で穏やかな女性のようだし、ロベルト王子はお前のような規格外の存在ではないが、心身共に健康な三歳児だ」
「その二人の身の安全を守るために、今回師匠は色々お力を尽くされたんですね」
「まあな」
「お疲れ様でございました」
ヘンリックは深々と礼をした。
慇懃な三歳児と言うのも、実に奇妙だ。ヘンリックは大まじめだが、やはり可笑しい。アデルは声をあげて笑ってしまう。
「どうしたんですか?」
「いやいや、もっと早くに、お前に相談しておけばよかった。そう思ったのだ。報告・連絡・相談だな? これからは私も心がけて事にあたるとしよう」
「はあ」
「では、これからゲオルク殿に今回の顛末について、報告・連絡・相談するとしよう。戻ったら、共に夕食を食べよう。厨房にはヘンウェンの美味い燻製肉を渡しておいた」
「はい」
返事の後、やっと子供らしい表情で笑った。
「そういう顔でいた方が、皆に警戒されずに済むぞ。では、行ってくる」
第二王子ロベルトより、規格外の存在であるヘンリックに関する噂の方が管理する必要が有ったかもしれない。そんな風にも思い返すアデルであった。
随分更新が遅れました。すみません。誤字脱字などの御指摘、常に大歓迎です。感想もお待ちしています。ここまでお読みいただいて、ありがとうございます