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黒い太陽 2

「落ち着け、ジーナ」


 メイドのジーナは自分に気合を入れ、まずは無念そうに眼を見開いた幼馴染の緑の目を閉じてやった。

 そもそもニコレットはこの邸に来るべきではなかった。それなのに……ジーナは自分の「おせっかい」のせいで幼馴染が非業の死を遂げたのだと感じていた。



「ジーナが奉公に出たら、あたしはガーニーの旅籠で働いている叔母さんの所に行くよ」


 ジーナが公爵家に奉公に上がることが決まった時、ニコレットはそう言ったのだ。

 何でも、叔母の知り合いの冒険者に同行してガーニーに行くことにする……とかいう話だった。

 だが、その冒険者と言うのがどこの馬の骨で、いつやってくるのかも皆目わからない状態だったし、ニコレットの叔母が身を寄せている旅籠というのも、果たしてまともな堅気の旅籠なのか怪しかった。

 それに何より、都に近い豊かなエランデル公爵領からすると、西方の果てにあるという冒険者の街ガーニーは、魔物が跋扈する巨大な魔の森に近い「恐ろしい場所」としか思えなかったのだ。

 それに、体の弱いニコレットが無事にガーニーにたどりつくのは難しいのではないかとジーナは思った。

 そこで何かと公爵家に顔が利く祖母に、ニコレットがメイド見習いの一人として採用されるように働きかけて欲しいと頼み込んだのだった。少なくともメイドとして奉公するなら、エランデル公爵家ほど待遇が良いお邸は無い、というのが周囲の大人たちの噂だったからだ。


 結果、ニコレットは喜んでジーナと一緒に奉公に上がるということにはなったのだが……


「ニコレットは良い子だけど、お前と違って美人過ぎるのが心配だ。貴族様と何かあれば、酷い目にあうのはいつもメイドなんだから」


 祖母は心配そうに言っていたが、今にして思えば、その言葉は的中してしまったのだ。


「でもお祖母ちゃん、ガーニーは体の弱いニコレットには遠すぎるって」


 頑健な騎士でも陸路では丸ひと月かかるなどというガーニーは、やはりどう考えても遠い。それでも伝手を見つけて、無理にでもガーニーに行かせた方が良かったのだろうか?


「そうだねえ。貴族様なら護衛を雇って行けるだろうけど、身分も後ろだても無い女の子が無事にたどり着けるかどうか、確かに心配だ。お祖母ちゃんの仲良しが生きていた頃なら、ムルサから出る船で行くことが出来たかもしれないが、それでも大変な旅らしいからねえ、体の弱いニコレットには無理かもしれないね」


 祖母も、ニコレットは過酷な旅に耐えられないと見ていた。

 南方の港湾都市ムルサだって、王都ペラギニアからは普通七日はかかるとされる距離なのだ。そこで風待ちをして船の出港に備えるようだが、ムルサとガーニーの航路は波が荒く、船の難破も珍しくは無いと聞く。そんな旅はニコレットには無理……そうジーナは思っていた。

 だが、結果を見ればジーナのやったことは、ニコレットに災いをもたらしただけだったかもしれない。



「このお邸に奉公に来なきゃ、こんな目にあわずに済んだのにね、ごめんね、ニコレット」


 一番悪いのは公爵閣下だが、ジーナ自身はそれを口にできる立場にない。


「ちくしょう、泣いてたってしょうがないよね」


 確かに泣いている場合ではない。

 緊急事態なのだ。

 かねて用意しておいた洗いざらしではあるが、清潔なシーツを取り出す。

 奥方様の寝台で使っていた極上のリネン製で、すみっこにあるほんの小さなシミが取れないせいで下げ渡しになった品物だ。八折りにしてもまだ十分に赤ん坊を包めそうだ。人気のある下げ渡し品なので、懇意の洗濯女頭の伝手を使わなければ、ジーナといえど手に入れるのは難しかっただろう。


「へその緒は急いで切っちゃかえって危ないって、お祖母ちゃんが言ってたけど、ニコレットは死んじゃったんだから……やっぱり、切るんだろうなあ」


 いくら朋輩に頼りにされるジーナとはいえ、親子とも血まみれで、母親は死んでいるなどと言う異常な状況は初めてだ。妊娠・出産の経験も無い自分に、生まれたての赤ん坊を助けられるかどうか、まるで自信は無い。建国のころにはたくさんいたとされる魔法使いなら、治癒魔法でなんでも簡単にできたのだろうが、今は宮廷魔術師だって、簡単な手品程度の魔法しか使えないと聞く。とりあえず物知りの祖母が「した方がいい」と言っていたことは、すべて出来る限りする。それ以外無さそうだとジーナは腹をくくった。


「魔法が使えなければ……へその緒を切る刃物は、煮るか焼くかするんだよね」


 消毒と言う概念はこの国には無いが「煮たり焼いたりした道具を使う方が危険が少ない」そう祖母は言っていた。公爵閣下の髭剃りは、使う前に必ず煮えたぎった大量の湯の中に入れ、ある程度冷ましてから使うことになっている。だがこの部屋は水場も厨房も遠い。下級使用人が使用を許される部屋に暖炉など有るはずもない。火の気といえばちっぽけな裸蝋燭が一本ともっているきりだ。


「へその緒を切らないと暖かい部屋にも連れて行けないし、おっぱいももらえないから、ニコレット、坊ちゃん、ごめんよ」


 赤ん坊は男の子だ。

 呼吸はしているが、目が開いていないし、泣き声一つ上げない。

 しかも体が冷え切っている。

 母親が死んだのだから、赤ん坊の方も弱っている可能性が高い。

 まごまごしている暇は無い。

 ジーナは裁縫用の鋏の刃先を蝋燭の火であぶり、自分の指の長さほどのへその緒を残して、切った。

 大急ぎで血まみれの赤ん坊を洗いざらしのシーツを八つ折りにした中に包んで抱きかかえると、家令ゲオルク・シュルツの一人娘ダニエラに助けを求めるために、真昼なのにどこか薄暗い大庭園を突っ切った。

 ダニエラはつい先月、二人目の子供を産んで、実家である大庭園内の家令用住居に滞在しているのだ。


 目印となる楡の大木の横を走り抜けると、手入れの行き届いた芝生が広がり、その向こうに二階建てのこじんまりとした、とはいっても市中の並みの旅館の軽く五倍かそこらは有りそうな白亜の建物が見えてきた。市中の邸なら当然物々しい塀で取り囲まれているだろうが、ここは公爵家の庭園の一角ということで、門構えなども特に無い。

 元来は初代エランデル公爵が気の置けない友人知人たちとのんびり過ごすために作らせたもので、その友人の中には時の国王陛下も含まれていた……などという由緒ある建物なのだ。

 そんな邸を住まいとして専有することを代々認められてきた家令職を務めるシュルツ家が、並みの貴族より権威ある家柄と世間で認識されているのも当然と言えば当然なのだった。

 瀟洒な邸ではあるが公爵邸の内部と言うことも有って、特に物々しい警備の人間もいない。本邸のメイドの仕着せを着た人間ならば、ほぼフリーパス状態である。


「ダニエラ様、ダニエラ様!」


 赤ん坊を抱え全速力で走り続けてきたジーナは、それだけを言うのがやっとだった。

 ジーナの顔を見知っていたらしい小間使いの少女が急いでダニエラに知らせに行ってくれたようだ。すぐにダニエラ本人が現れて、ジーナはほっとした。


「まあ、ジーナ! 不吉な黒い太陽の下を走ってきたの?」


 ジーナは黒い太陽のことなど、全く意識していなかった。それほど無我夢中だったのだ。


「ニコレットが死んだんです。この坊ちゃんを生んで」


「坊ちゃん」と言うのは、この公爵家においては身分や待遇か決まっていない未成年の庶子を呼ぶ言葉だ。

 ニコレットが公爵閣下を、そしてこの坊ちゃんをどう思っていたのか、本当のところはジーナにもさっぱりわからない。だが、坊ちゃんが非業の死を遂げた幼馴染の唯一の形見であるのも事実なのだ。

 やはり赤ん坊は元気に育つのが良いことなのだ、正しいのだ……とジーナは考えることに決めた。

 たとえ、実の父親から認められない庶子だとしても、自分なりに出来ることは精一杯やってあげたい。そんな風にも思った。


「わかったわ。私がこの坊ちゃんの体を清めて、乳を上げましょう。ジーナはあちらで少し休みなさい」


 ダニエラが寝泊まりしている一角は、元はダニエラの祖母が隠居所として使っていた場所で、明るくこじんまりした居間のすぐ隣に専用の食堂と台所が有り、まるで庶民の家のような作りだ。ダニエラの祖母は貴族の血筋ではあったが、長らく商家に預けられて育ったから、こうしたつくりを好んだのかもしれない。

 小間使いはその小ぶりな台所に入ると、すぐに暖かい蜂蜜入りミルクの用意を始めた。


「ああ、昨日奥方様から頂いた焼き菓子も三つばかり、一緒に出してやりなさい。ジーナの好きなクルミがいっぱい入っているから。それとお父様を至急お呼びして。必要なら馬を使って構いません。坊ちゃんがお生まれになってここにいらっしゃることと、ニコレットが亡くなったことを急いで伝えて欲しいの」


 ダニエラにとって、ジーナは恩人であった。


「庭師の息子に過ぎない」パウルとの仲を両親が認め、婿養子に迎えることを公爵閣下と公爵夫人が許したのは、ジーナが自身の祖母を始め多くの人脈を動員して、パウルが某伯爵の孫にあたることを突き止めてくれたからだ。


 代々エランデル公爵の家令職を務めるシュルツ家は、陪臣とはいえ成り上がり男爵や落ち目の子爵あたりより貴族社会において格上と見なされており、実際ダニエラの婿候補も子爵や男爵の子息が多かった。伯爵の三男四男、侯爵の庶子などという話まで有ったほどだ。ダニエラの父ゲオルク・シュルツ自身は身分へのこだわりは薄いのだが、一人娘であるダニエラに迎える婿養子ともなれば、主家の体面も有り「ふさわしい家柄の出」である必要が有ったのだ。


 ダニエラの夫パウルの父親オラフは、継母の陰謀により生家から追い出された伯爵家の嫡子であることが明白となった今も、公爵家所有の庭園全部の管理を行っている。

 近頃では他家の庭師や建築家から教えを乞われ、主家の許しを得て実地指導にあたる場合も増えたらしい。「ただの庭師から、庭園管理者に出世した」などと言う人もいるが、オラフ本人はそのような区別はどうでも良いと思っているようだ。ただ美しい庭を作りたい、それだけであるらしい。


 夫のパウルは公爵の普段の住まいである別邸の執事を務めているのだが、我慢強く温厚な性格のためか「気まぐれで残酷」などと噂される主にも嫌われず、どうにか無事に努めている。

 ちなみにダニエラの父ゲオルクも夫であるパウルもダニエラ自身も邸内で主を「公爵閣下」と呼ぶことは無い。メイドたちも含めて、普段は「旦那様」と呼んでいる。


 ダニエラの見るところ、今この赤ん坊に必要なのは母乳だった。泣き声ひとつ上げないので衰弱が心配だったが、乳首を含ませると吸い付きは良い。


「沢山召し上がれ。お腹がいっぱいにおなりになったら、お風呂に致しましょうね」


 赤ん坊が大きく目を見開いた。

 混濁していた赤ん坊、いや赤ん坊になった男の意識はダニエラの呼びかけで、はっきりしたのだ。


(おっぱいデカっ! でも、こう、むギュッと言う感じの突っ込み方が上手いなあ。こういう突っ込み方にもスキルってあるんだろうか。実にうまい具合に乳が吸い込める)

 

 男は夢中で乳を飲んだ。


(あー、おっぱい飲んでる!)

(ダニエラのおっぱい、でっかいね)

(ダニエラのおっぱいは、美味しいみたいだよ)

(アンドレアスもおいしそうに飲んでたもんね)


 妖精たちが男のことを面白がって観察しているのだが、どうやらダニエラと言う名前であるらしい目の前の女には妖精が見えていないようだと男は気が付いた。


(うん、そうだね。ダニエラには妖精族の姿がほとんど見えない)

(大きいのなら、たま~に見えることも有るみたいだけどね、あたしらみたいな小さいのは絶対無理)

(あのさ、アンドレアスって誰? )


 その名前も男は気になった。


(アンドレアスはエレオノラの息子。今三歳。中身もほんとに三歳! あたしたちが見えないし、魔力も無い。綺麗な子だけど、泣き虫なの)

(アンドレアスは多分馬鹿じゃないけど、あんまり賢くはない)

(エレオノラは、アンドレアスが賢くなさそうだって気が付いて、がっかりしてる)

(でも、可愛がってるけどね)


 念じるだけで妖精たちに質問できるのは、なかなか便利だが、今度はエレオノラって名前が不明だ。


(ああ、エレオノラはね、レナートの奥さん)

(エレオノラはね、公爵夫人)

(レナートは婿養子だよ)


 レナートって……? と男は思ったが、説明は無かった。

 妖精は話が前後しようが、説明不足だろうが、お構いなしにしゃべりまくる。

 年中この調子だと、なかなかつかれそうだ。


(じゃあ、そのアンドレアスって子は、この家の跡取り?)

(と、見せかけて! 実は違う!!)

(でも、今のところは一応跡取りだって)

(そうそう、でも~ほ・ん・と・は・ちがうの~)

(アンドレアスはレナートの子供じゃないのに、エレオノラは嘘ついてる)

(レナートも嘘に気が付いているのに、何にも言わないー)


 なんだって? ドロドロ不倫ドラマ設定? 男は驚く。


(奥さんが不倫してるのに、黙認してるってこと? 婿養子だから、肩身が狭いのか?)

(えっと、アンドレアスの父親は、ハインリヒだからぁ、レナートは知っていても黙っている)


 ハインリヒ? 今度は誰? それ?  全く説明が下手で妖精の話はつかれると男は思った。


(赤ん坊のくせに偉そうに、説明が下手とか)

(でも、確かにあたしらの説明は下手かも~)

(お前は……ハインリヒがこのトリクム王国の王だって、知らないんだったね)


 ふむふむ、そういうの、西洋の国の歴史だと有るな。公妾制度とかいう仕組みと同じなら、実態は国王の愛人なのに便宜上の亭主は別にいる、みたいな感じなのか? でも公妾は低い身分から成り上がるってパターンが普通だよな……公爵夫人と言うからには、この家は名門貴族だろうし、その家付き娘だとどういうことになるんだろうか? たとえば、モンテスパン侯爵夫人とかはそこそこ名門の出だったけど、王との間の子供は王位継承権が認められてなかったな……俺に対する最初のひどい扱いからしても、日本の大奥の借り腹的考えは、この世界では通用していないんじゃないかと思われるが……その、アンドレアスって子は将来、王位継承権に絡む可能性はあるのか無いのか、ううむ……高校時代得意科目だった世界史の知識を総動員して男は考え込んだ。


(お前、赤ん坊のくせにややこしく、考え過ぎ!)

(そう、赤ん坊のくせに変!)


 どうやら妖精は、単純な思考をする傾向にあるようだ。

 男が天井に浮かんでいる妖精を見つめながら、乳を飲んでいると、ダニエラに話しかけられた。


「まあ、黒い瞳に金色の輪の模様がありますねえ……初代エランデル公爵ヘンリック様がそのような目をしていらしたとか」


 抱いている赤ん坊があれこれ小難しく考え込んでいるなど、ダニエラには思いもよらない。

 ましてや妖精たちが(大魔法使いとおんなじ目の色だって)と騒いでいることなど、知る由も無い。


 

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