三歳・4
アデルと初めて遭遇した翌朝、ヘンリックはいつも通り騎士たちの鍛錬を見学していた。そこへアンドレアスが息せき切って駆けて来たので何事かと驚くと、どうやら家庭教師のレディ・シュナイデルが風邪か何かで熱を出して寝込んだので、一日一緒に過ごそうと誘いに来たのだ。
「ゲオルクが許可すれば、いいってあの婆さんが自分で言うからさ、文句は言わせないよ」
朝食を一緒に食べ、勉強につきあってくれれば、昼食後「いいことをさせてあげる」と言うのだが、正直言ってアンドレアスの御機嫌を取りつつ過ごすのは、面倒だ。アンドレアス本人にまるで悪気はないのだが、心身ともに年相応の子供の上に、周囲の大人たちを刺激しないように無難にふるまうのはなかなか大変なのだ。
思い通りになら無いと、ひっくり返って泣きわめく回数は減ったが、癇癪持ちで気分屋なのはなかなか治らないかもしれないとヘンリックは思う。
アンドレアスの言う「いいこと」と言うのは、アンドレアスが勝手にそう思うことであって、大体においてヘンリックには迷惑な場合が多い。
いつもなら、陽気にしゃべりまくる妖精相手に、かなり好き放題な感想を述べることが出来て気がまぎれたが、ここ数日の様子からすると、今日もヘンリックの傍に妖精たちはやってきそうにない。
嫡子専用の小食堂で食べる朝食は、大層豪華だった。
最初が大麦の粥で始まるのは、朝食っぽいがその後はしっかりしたコース料理の体裁だ。日によっては具が多いスープと言う日も有るらしい。
以前ジーナが憤慨していたが、肉料理と卵料理の贅沢さがジーナの予想をはるかに超えていた。
鹿肉のローストは銀の大皿に美しく盛り付けられており、従者役の十代の若者が優雅にとりわけ、アンドレアスとヘンリックの二人に同じように給仕する。
「クレソンなんて嫌いなんだけどさ、食べなくちゃダメ?」
「強いお体を作るためには必要かと。ほら、ヘンリック坊ちゃんは召し上がっておられますよ」
従者の言葉に、ヘンリックの皿を見てため息をつく。
「わかった。食べるよ」
いかにもまずそうに食うが、クレソン自体は新鮮で良い状態なのだ。それでも以前は食べなかった野菜を残さないだけアンドレアスとしては進歩しているということらしい。
「この卵料理だけでいいんだけどなあ」
アンドレアスは薄切りの丸いパンに上等なハムを乗せ、更にその上にポーチドエッグを置いた料理が大のお気に入りらしい。地球のエッグベネディクトと言う感じだ。
あとはチーズに季節の果物と続く。後はホットミルクかお茶だが、ヘンリックはお茶を選ぶ。
「ヘンリックはお茶に砂糖を入れないの?」
「はい。甘いと口の中がさっぱりしない感じで、苦手なんです」
食事が終わるとアンドレアスは着替えだ。その間ヘンリックはアンドレアスの自室に付属した書庫の本を見せてもらうが、相変わらず絵本ばかりで、あまり読む気にもなれない。むしろ部屋の窓から見える美しい庭の方が気になるぐらいだ。ヘンリックの部屋とは違い、美しく刈り込まれた木々や花壇の花々が見渡せる。ただ日本人のセンスからするとあまりに人工的な作りこまれ過ぎの感じはあるが、これはこれで美しいとは思う。
「噴水が豪勢な感じだよなあ」
十二匹の魚が水を吹き上げているデザインだ。ひょっとしたらイルカとかクジラの類かも知れないが。
着替えを済ませたアンドレアスは子供ながら本格的な乗馬用のブーツをはき、最新流行であるらしい乗馬服の上下を身につけている。ヘンリックは……まあ、普段の靴にズボンとシャツなわけだが、馬に乗れないことも無い。
アンドレアス専用の純白の仔馬は名馬の子供で、良く手入れされ、大切に扱われている。
「きれいな良い仔馬ですね」
「このアルブスは、なんと国王陛下から頂いたのだ。父上だってお祖父様だってそんなことは無かったらしいぞ。それだけ特別にお心にかけていただいているのだから、僕はきっと立派な貴族になる」
非常に得意そうだ。
まだ、国王が実父だと理解できていないようだ。使用人の大半が承知している「公然の秘密」を当人が正確に認識していないというのも、五歳と言う年齢を考えれば致し方ないのかもしれないが……エレオノラのかなり踏み込んだ以前の言葉をどう解釈して良いのか、アンドレアスなりに戸惑っているのかもしれない。
ともかくもその一件についてヘンリックは発言すべき立場にない。それだけは確かだ。
「乗ってみろ」
「はい」
「無理なら、いいんだぞ別に」
「良い馬ですから、大丈夫かと」
「なら、貸してやる」
「ありがとうございます」
まあ、馬場を一周してこようか、程度の軽い気持ちだったのだが……
「ヘンリック! ずるい!」
アンドレアスは涙を浮かべ、地団太を踏んでいる。
ヘンリックが馬場を一周して、最後に障害物を軽く飛び越したのが不味かったらしい。
どうやらアンドレアスは一度も障害物越えに成功したことが無かったらしいのだ。アンドレアスとしては学力はヘンリックの方が上なのだろうと認めていたが、馬術までヘンリックの方が上とは認めたくなかったようだ。
まあ、英雄豪傑に憧れているからなあ……。
ヘンリックの見るところ、アンドレアスは英雄譚の主人公のようでありたいと思っているようだ。だから
誰よりも巧みに馬を乗りこなす武芸の達人になりたいと強く思っているのだろう。
「はあ、申し訳ございません。己の身分もわきまえず、出過ぎたことをいたしました」
「僕はそんなことを言いたいんじゃない!」
わーわー泣きながら、アンドレアスは庭の小道を一人で駆け出して行った。
アンドレアスはヘンリックを一応弟認定しているのに、身分を持ち出したので余計に頭にきたようだ。
(色々とまずかったかな)
結局、ヘンリックは手綱を取って白馬アルブスを厩舎に連れ帰った。
(あの子、なんで泣きわめいてるの)
アルブスの思念は無邪気で明るい。アンドレアスがなぜ泣くのか、まったく理解できないようだ。
(お前があの子を乗せて、障害物を飛び越えてくれないから、怒ったみたい)
(君を乗せるのは気分が良かったんだけど、あの子はオドオドしているからイライラする)
厩の係が居なかったので、ヘンリックはアルブスと思念で会話をしながら、壁にかけてあったブラシで丁寧にたてがみをすいてやる。
(あの子は寂しいんだ。小さな子供だから。出来るだけ、仲よくしてやってよ)
(あの子と? 君を乗せるのは楽しいけど、あの子を乗せてもつまんないよ)
(良い子だよ。仲良くなれば、きっと楽しいはずだよ)
(君も子供だけど、なんか子供じゃないみたいだね)
(大人の生まれ変わりだから)
(そうなんだ! なんか風の大妖精みたいな子だと思ったけど、きっとすごい人の生まれ変わりだね)
「おーい! そこで何やってるんだ?」
とがめだてするような大声に、アルブスは不機嫌になり鼻を鳴らす。
身なりからして厩の係だ。
「あ、すみません、アンドレアス様がこの子に乗っても良いとおっしゃったので」
「ああ、坊ちゃんでしたか。それにしても、気難しいアルブスが良くもまあ、おとなしくしてましたな」
「気難しいですか?」
「ええ。私など噛みつかれましたよ。ですが国王陛下より賜った馬を打ち据えるわけにもいきませんしね、困ってましたよ」
どうやらアルブスにとって強すぎるブラシの掛け方をしたみたいで、そのことを伝え、実際に目の前でブラッシングしてみせると、厩の係の男にえらく感謝された。
「まだ自分は見習いで、いろいろわかってないのがいけないんですが……坊ちゃんはすごい方ですね。僅かな時間で気難しい馬を手懐けてしまうんですから」
ヘンリックはその場を逃げるようにして、自分の部屋の方に戻ったのだったが、アルブスに乗って障害越えした場面を思いの他多くの人間に見られていたようだ。
その日以来、アンドレアスはヘンリックの部屋に現れなくなった。
ヘンリックの方から行くわけにもいかないし、どうしたものかと思っていると、レディ・シュナイデルが健康を害したために退職するという噂が聞こえてきた。
国王がレディ・シュナイデルの悪評を知って辞めさせたのだ、と言う噂も聞こえてきたが、真実かもしれない。高名な学者の愛弟子である有能な若い学者を代わりに教師とするとか、護衛の騎士をつけるとか言った動きも有るそうだ。
「アンドレアス様は、もしかしたら正式に王位継承者となられるのかも」
「王妃様が許さないでしょう」
「しっ! このお邸で、王妃様の噂は厳禁よ」
メイドや侍女たちは噂話が大好きだ。
おかげでだれにも邪魔されず、一人で黙々と自習に励むことが出来たが、武芸にしろ魔法にしろ自習には限界が有る。
魔法に関してはこれまでは妖精たちが師匠のようなものだったが、これからはあの女魔人に習うのが一番の近道なんだろうか?
だが、そうなるとますます妖精たちとの縁は薄れるのは確実で、まだ踏み切れないヘンリックである。
アンドレアスは、七歳になったら王立学校に入学する予定なのは動かないらしい。
あくまで噂だが、今度は国王自身が真面目に人選して、まともな教師が来る可能性が高いそうだ。
少し前から、その前触れらしき状況は始まっていた。
以前よりも騎士たちの出入りが頻繁になり、エランデル公爵領出身で息子や孫を騎士見習いに捩じ込みたい郷士や元騎士の滞在者も増えた。こうした人たちは皆、朝、鍛練をするので、ヘンリックも出て行って頭を下げ「どうぞ御教示願います」と頼めば、それぞれの得意技の一つぐらいは披露してくれるし、自分の修業に関しても助言を貰える。少なくとも、我流で陥りがちなおかしな癖はつかなくて済みそうだと喜んでいたところだったのだ。
「あの人たちは、アンドレアスが新しく公爵クラスの貴族に任じられるのは確実だと見てるんだろうな」
アンドレアスは庶子とはいえ、王の長男ではあるわけだし……生母の身分も正妃になってもおかしくないぐらい高い。アンドレアスが別の家を興すことになっても、それなりにスキルのある家臣が相当な数必要なはずだ。王家からかなりの人数が送り込まれるにしたって、実母であるエレオノラの生家でありアンドレアスが生まれて育ったエランデル公爵家の影響はどうしたって王家のそれと拮抗するぐらい大きいとみるのが、まあ、常識的な判断だろう。
「過去に……優れた庶子を子のない正妃の養子としてから王太子としたケースが有ったよな……」
妖精たちは全く褒めなかったが、アンドレアスは卑怯なことを嫌い、優れた者は優れていると素直に認めようとする気持ちが強い。今日はたまたまヘンリック相手なので感情的になりすぎたが……掛け値なしの五歳児としてはまずまずなのではないだろうか?
アンドレアスが憧れる英雄王になるかと言うと疑問ではあるが、優れた家臣たちの助言を受け入れ、責任は自分が持つというタイプの名君になら、十分なれる可能性はある。
そんなことをブツブツつぶやいていると、いきなり目の前にあの、アデル・メルヴィルと名乗った女魔人が現れた。
「坊や、妖精たちが寄ってこなくなって、さびしいかい?」
「そうですね。生まれてこの方、いつも一緒でしたから」
「なるほどね」
赤い瞳がとてもきれいだ。
そんな感想がいきなり頭に浮かんで、ヘンリックは自分で驚いた。
「お前の瞳は、やはり初代ヘンリックと同じ色合いだなあ」
「肖像画を見ると、そのようだなとは思いますが、実感は無いです」
「綺麗な瞳だ」
ヘンリックは顔が赤くなった。
「なんだ。そのぐらいで照れるな。お前が私の赤い瞳を美しいと思ってくれたようだから、正直な感想を打ち明けただけだ。黒と金は魔人にとって神聖な色でもあるしな」
「あ、あの、あなたは人の思念が読めるのですか?」
「まあ、あまり複雑でなければ、可能かな。魔人に思念を読まれないようにする魔法と言うのも有るぞ。妖精と馴染むことのできる人間の思念は、明るく軽やかでたどりやすい場合が多いのだ」
「はあ」
「お前は面白い。魂は完全な大人であるようだが、私の知るいかなる人族の魂とも有りようが違っているようだ。妖精は、初代ヘンリックの秘密の書庫に籠る気配におびえて近寄らないのだから、私の弟子になってもならなくても関係は無いと思うぞ」
「じゃあ、妖精たちとの縁は、もう、切れっぱなしですか?」
「妖精たちなりに、何か説明が有っただろう? お前の前から姿を消す前に」
「そういえば……お前が嫌いなわけじゃないけど、しばらく傍に来るのは止める……そう言われました」
「ならば、その言葉を信じろ。妖精たちがおびえるような気配を遮断できる魔術なりスキルなりを身につければ、また妖精たちと付き合うことも出来るだろう」
「そうなんですか?」
「妖精は己の感情を偽らない。信じて良いと思うぞ」
気が付くと、ヘンリックは魔術に関してこれまで疑問に思っていた事柄を、色々アデルに質問していた。アデルも当然のように、懇切丁寧な説明をしてくれる。
「あなたの説明は、とても分かりやすいです」
「それはどうも。休職中ではあるが、これでも一応、ガーニー冒険者学校の教官だからな」
「休職中、なのですか」
「ああ。ほとんど休みなく五年ほど働いたのでね。長期休暇扱いにしてくれると言われたが、帰りがいつになると確約できなかったのでね。でもまだ、籍は有るし、おそらく研究室も手つかずだろう」
「そうなんですか……」
「冒険者学校に……そのうち入学する気はあるのかな?」
「ええ、今、一番興味を持っている進学先です」
「あの学校は、規則を守ることが出来るなら、出自を問わず、エルフやドワーフでも魔人でも入学できるし、教官にもなることも可能だ。王都の窮屈な学校とは大違いだよ」
「じゃあ、混じり者でも伸び伸びやれそうですね」
妖精との付き合いが途絶えたところに、進学を考えている学校の教官だという魔人が現れた。
これも運命、なんだろうか?
ヘンリックは戸惑いながらも、アデル・メルヴィルを魔法の師匠とすることに何の抵抗も感じなくなっていたのだった。
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ようやく十万字越え、かな?