初誕生のころ・3
部屋を引っ越してからも、時折ダニエラはヘンリックの様子を見に来た。
「お生まれになったころからすると、お体の重さは二倍ほどになったでしょうか」などと言われるが、ヘンリックにはあまり実感は無い。それでも座るのは自発的に自由にできるし、歩く足元もしっかりしてきた。だが、自分の足で自由に書庫に入って本を取り出すのは、まだ難しい。
この世界の大人の知識も手に入れたいが、魔力を使いこなせるようにもなりたいと考えたヘンリックは、まず魔力を得るための基礎鍛錬に励むことにした。
妖精たちが言うには、摺り這いは魔力を増やす基礎的な鍛錬になるらしい。
そのため自衛隊式の第五匍匐とかアメリカ式のロークロールを再現するようなつもりで、寄せ木細工の床を毎日這うようにしている。時にはバッククロールなども実行しているわけなのだが、その様子を見たメイドのジーナはたまげたようだ。
「あれっ! 坊ちゃんが背中でハイハイなさってる」
すると、たまたま通りかかってその様子を見たダニエラの父親で家宰のゲオルク・シュルツは「坊ちゃんのなさっていることは何やら騎士団の鍛錬に似てるなあ」などと言う。
どうやら娘のダニエラから、ヘンリックの様子を気にかけて見て欲しいと言われているようだ。
後で妖精たちに聞いたところでは、この国の騎士団では、甲冑をまとって敵の築いたバリケードを突破する方法として、匍匐前進の鍛錬もやるらしい。
(初代のヘンリックが始めた鍛錬法なんだよ)
(剣や槍に魔力を通じることが出来た方が、強いからねえ)
(でも最近は魔力を使いこなせる騎士は珍しくなっちゃったけどさ)
ゲオルク爺さんがダニエラに何を言ったのか知らないが、その翌日にヘンリックはおもちゃの魔法の杖を貰った。それ以降は、銃に見立てて杖を持ち、自衛隊式の第一匍匐から第五匍匐まで順番に真剣にやるのが日課になった。日本にいたころ、ミリオタと言うほどではないが、かなり真剣に自衛隊員になろうかと思っていた時期が有って、試験問題集を研究したり、トレーニング法について調べたりしたことを多少は覚えていたのだ。
ダニエラは人目も有って、外遊びの付き添いは無理だし、ジーナも掃除の仕事で手が離せない日が時々有ったりして、思うように運動できないので思いついた苦肉の策だったが、雨天でも一人で出来るのは悪くないだろう。庶子の場合、概ね三歳になれば敷地内の大人の邪魔にならないところで遊ぶぐらいは許されるようになるようだが、丸二年近くを無駄に待つつもりはないヘンリックである。
(お前、なんかイイ感じに魔力が大きくなってきている)
(そろそろ魔力の発動のさせ方を覚えた方がいいかもね)
勝手に使う事を許された小さな書庫と言うのは実に雑然としており、書庫と言うより、雑多な古本の物置と言った方が実態に近い。
退職した使用人たちの残していった私物の本や、これまでこの邸で暮らしてきた嫡男以外の子供たちが使った各種の教則本、学校での教科書類、乳母や侍女などが、退屈しのぎに読んでいたと思われる女向けの小説とか料理や手芸の本、更には簡単な法令集や大人向けの娯楽作品と言うか、春本の類までが雑然と棚に突っ込まれている。まさかダニエラがそんな本までチェックしていたとは思えないが……まさにカオス。
「この汚い本、坊ちゃん、ほんとに読むの?」
「うん。読むよ。多分、知りたいことが書いてあるから」
非番の日のジーナの自由時間を割いてもらって、ヘンリックは「汚い本」の中から、とりあえず魔法に関する解説書や教則本の類を幾つか自室に持ち込んだ。というかヘンリックが指定した本をジーナに運んでもらったのだ。
ちなみに読み書きを教えるという話は立ち消え状態のため、相変わらずジーナはいわゆる非識字者の状態のままだ。どうやら勉強と聞くだけで、面倒で大変だと思い込んでいるかららしいが、興味が無いわけでもないようだ。
ジーナは働き者で気働きのできるタイプだが、文字の読み書きができない為に悔しい目や不便な目に遭遇した経験も無いわけではないらしい。文字が読めないと全く任せてもらえない仕事がかなり有るのも、ジーナとしては悔しかったりするらしいのだ。
ジーナに限らずメイドは貧しい平民の娘が大半で、読み書きが出来ない者も珍しくない。乳母や侍女は没落した貴族や零細領主の家柄の出身だったりして読み書きができるのが普通だ。
そのため読み書きができると、使用人の場合それだけで給金が増えるものなのだ。ジーナがいくらメイドとして最高の評価を受けるような仕事を出来たとしても、不出来な家庭教師や気の利かぬ侍女の半額程度の給金しか手に出来ない。それがこの国の常識で現実であるようだ。
ジーナはヘンリックの世話役をしてくれているが、本来は掃除部門のメイドだ。どうやらダニエラの言っていた「身分だの格式だのうるさい者たち」の反対で、ヘンリック専用の世話役と言うのは表立って認めることは出来にくいらしい。
日に一度、家宰のゲオルクが顔を見に来るのは、そのあたりの不備を補おうという配慮も有るようだ。
実際欲しいものをたずねられた際、「新しい辞書が欲しいです」とヘンリックが言うと、その翌日には様々な種類の辞書と、最新の図鑑類がまとめて十冊届けられた。
引っ越して半月後に、一時は中止する予定だったアンドレアスの誕生会が盛大に開かれた。
だが、ヘンリックはその当日もいつも通り、マイペースで過ごした。
(今年は、場所を別邸にしたらしいよ)
(だからあたしらも、見に行ってない)
(別邸は魔人臭いもん)
(女魔人が居ついてるから、怖いよ)
妖精たちはよほど魔人が怖いらしい。以前、(牛や馬が草を食べるように、魔人は妖精を食う)と言う説明を受けた記憶はあるが、それ以上の事情をヘンリックに説明してくれない。苦手な別邸での出来事は、妖精たちから情報を得るのは無理のようだ。
だが、本邸のメイドたちの大半が誕生日会の当日には別邸の応援に出向いたようで、メイドたちからは色々な噂を聞くことが出来た。
ジーナと一緒に裏庭に出ると、色々なメイドたちから声がかかる。
ジーナ自身は誕生会当日は別邸に行かず、ヘンリックの部屋の片づけやら洗濯物の整理などをしてくれていたのだが、それを「割を食って気の毒だった」とメイド仲間たちに思われているようだ。
「ほら、これ、お誕生会でお出しした焼き菓子の端っこをいただいたんだよ。坊ちゃんにもあげて」
見た感じ、カステラっぽい何かのようだ。
「これは、何かうんと東の国でとれる果物だって、甘くていけるよ」
どうやらヘンリックの知る日本の柿に似ている。
「あたしはデカい葉っぱに包んである変わったチーズを持ってきたよ。ジーナ、チーズ好きだろ?」
チーズの方は味見しないと何とも分からない。確かにジーナはほとんどのチーズが好きらしいが。
「何しろすごいごちそうだったよ。でも、アンドレアス様はすごく不機嫌だったね」
無理も無い。客の大半が『大人の事情』でやってきた、ろくに知りもしない大人ばっかりだろうし。
「山ほど美味しいお菓子も有ったけどね」
お菓子程度でごまかせるつまらなさでは無かったのだろう。
「奥方様も旦那様もおいでにならないのに、公爵家の誕生パーティーって、なんか変だよ」
素直に考えて、ものすごく変だとヘンリックも思う。
「奥方様はつわりがひどくていらっしゃるようだけど、旦那様の御旅行は何のためなのかねえ」
「実の親父様の国王陛下も今年は欠席だし……どうなってるんだろう。今までは毎年顔を見せていたのに」
「まあ、王様は奥方様目当てだろうけど」
やっぱり、メイドたちは国王をそんな風に見ているようだ。
「でも、一人きりの実の息子の誕生日だよ」
「一人きりじゃなくて、身分の低い人が生んだ王子様が他にいるって噂、あれほんとらしいよ」
「なんか王妃様が怒って、親子で都を追い出されたって?」
「王妃様って、まだお小さいのにきつい方なんだね」
確か、まだ小学校低学年って年頃だったはずだ。
「王妃様はウチの奥方様を監視なさるべきだっておっしゃったみたいだし」
相当気が強い女の子らしい。ヘンリックじゃなくても先行きを不安視する者は多そうだ。
「なあーるほどね。だからミシュアの役人が来て、威張り散らしてたのか」
王妃に対する反感と言うより、戦勝国であるミシュアに対する反感の方が強いのかもしれない。
いやはや、妖精並みの姦しさだ……とヘンリックはあきれる。あきれるが、貴重な情報源でもあるため、黙って耳を澄ましている。時折、脳内に響く妖精のおしゃべりと被ると、実にうるさいが、致し方ない。
主人の一家に係わる政治ネタの噂話を好むメイドは、危険視される。
ちなみに、ジーナはこういう場合、聞き役に徹している。
尊敬する祖母から、気安く付き合う同僚相手でも主家と王家の噂は厳禁だと教えられた……と言うのが理由らしい。
ダニエラは外部に漏らさなければあまり問題視しないようだが、ゲオルクの下で家財や人事の管理を行う補佐役の男たちにみつかると、たちまち邸から追い出されかねない。
ちなみに補佐役の男の一人は、妖精たちによるとマルグレーテ王妃についてきたミシュア出身者であるようだ。長年友好的関係にあるアルトアン公爵家の家宰から、推薦を受けて採用されたらしい。
(あいつ、こそこそ邸内を嗅ぎまわってるよ)
(あいつ、この邸ではムルサ出身のスピロス・ゾルバとか名乗ってるけど、大嘘)
(一応、ムルサのゾルバ商会の会頭の甥かなんかではあるようだけど)
ヘンリックもつい最近知ったのだが、ゾルバ商会というのはこの国の海運業ではトップクラスらしい。物資輸送だけではなく、売買も行っていて、江戸時代の廻船問屋に似たような業態であるらしい。
(大嘘は言い過ぎだけど、嘘はついてる、しょっちゅう)
(本当の名前はえっと)
(トビアス・ワルターじゃないの?)
(あ、そのワルターが、こっちに近づいてくるよ、ヘンリック)
近頃は妖精の警告をいち早く伝えて、メイドたちに感謝されることも多い。
「みんな、妖精がね、口うるさい人がこっちに近づいているから、用心してって言ってる」
ここ二か月ほどのうちに前歯が揃ったおかげで、かなりヘンリックは言葉を発しやすくなった。
「誰ですか?」
名前は忘れたが、樽型体型の洗濯係が心配そうな顔つきをする。
「スピロス・ゾルバって名乗ってる人らしいよ」
ヘンリックの言葉を聞いて、皆に緊張が走った。
スピロス・ゾルバと名乗るワルター氏は、相当人望が無いようだ。
「うわっ、私、逃げるわ」
「私もっ!」
「じゃあ、ジーナ、また夕方にでもね」
挨拶もそこそこに、皆、その場を走って立ち去る。
いやあ、その逃げ足の速いこと、驚くばかりだ。
ジーナは仲間から貰い受けた品々を、抜かりなく手籠の中に入れる。こうしておけば偽名野郎に問い詰められても、ヘンリックのおやつを持ってきたとか何とか言えば、申し開きは立つからだ。
(あいつ、良くこの辺で盗み聞きしてるよ。だからこんなところで、男と会う約束なんかしちゃダメだって、ヘンリック、あとでみんなに教えてやったほうがいいよ)
そんな話を妖精がするところを見ると、ここはメイドたちにとって、密かなデートスポットと言った場所らしいが、最近偽名野郎が目をつけた、そういうことみたいだ。
皆が逃げてしまえば、後に残るのは庭に生えた薬草を集めているヘンリックとジーナが残る。
どうも無心に砂遊びなんて、中身が大人のヘンリックには出来かねるのだ。
部屋を引っ越す前から、ジーナと庭に出る時は薬草集めに付き合ってきた。
嫡子なら「御身分がらふさわしくないとか」何とかいわれるようだが、実の父親が一度も顔すら見に来ないような庶子がメイドと一緒に庭で何かしていても、誰も大して気にしないのだ。
広大な庭に生えた薬草は、なかなか質の良いものが多い。
集めて干して、非番の日に街中の薬草店にハナとラナが売りに行っている。ハナとラナには昼食代程度の御駄賃をやるようだが、儲けの大半はジーナが管理している。と言うか、ありていに言えばほぼ全額を自分のベッドの足元の床板で隠した穴に入れた壺の中に、ジャラジャラ入れているだけみたいだ。読み書きができないために、帳簿管理なんてできないから、そうしたアバウトな方法になるようだ。
「イザと言うとき、坊ちゃんの役にたつお金になるといいな、なんて思うけど、まだ、少なすぎるね」とのことで、金額その他は不明だ。ジーナは何となく、ヘンリックの「イザと言うとき」はそんなに遠くない未来だと思っているらしい。
カサコソという音がして、噂の偽名野郎が草の陰から姿を見せた。
パッと見は、灰色がかった褐色の髪が少しさびしい気弱な中間管理職的な雰囲気の猫背でチビな四十代前半、と言う感じだ。
「ああ、ジーナ、ダニエラ様が坊ちゃんをお連れして、急ぎ来てほしいそうだよ」
声のトーンも穏やかな感じではある。妖精たちに言わせると猫をかぶっているだけらしいが。
「あ、はい。承知いたしました」
ジーナも訛りながらも、折り目正しく返事する。
妖精たちは、ざわざわ反応し始めた。
(あいつ、盗み聞きする気満々だったけど、みんなが走って逃げる後姿が見えたから、悔しがって舌打ちしたよ)
(陰険親父、きらいだなあ)
妖精たちは更に(目つきが悪い)(盗み聞きが趣味)(年中嘘ばっかり言ってる)などというので、ダニエラからの呼び出しと言うのも嘘かとヘンリックは心配になったが、それは嘘では無いようだ。
ちなみにジーナは全く警戒していないようだ。単にメイドがサボると注意する人、程度の認識だろう。
(この嘘つき男、人殺しするとか人さらいするとか言う度胸は無い)
(ダニエラがヘンリックの新しい服を用意していたのは、確かだよ)
(さっき、ヘンリックをお風呂に入れる準備をさせていたよ)
風呂とか新しい服とか、誰かえらいさんにでも会うのか? ヘンリックはそんな風に推測する。
(わかんない。最近のダニエラ、前より考えが読み取りにくいんだもん)
(女魔人と時々会うようになったせい)
(最近のダニエラ、ちょっと魔人臭くて苦手)
ダニエラはその女魔人をかなり高く買っているらしく、父のゲオルクの前でも度々「信頼できる方」などと言うようだ。
(魔人だよ、魔人! 信頼できるはずが無いよ)
だが、ダニエラの眼力は確かだと思っているヘンリックは、その女の魔人が気になってたまらない。
(なんだよ、ヘンリックまで、気に入らないな)
(ふん!)
妖精たちはよほど魔人が気に入らないらしく、怒ってどこかに行ってしまった。
そんなことは知る由も無いジーナは、ヘンリックを抱きかかえて黙々と歩き、広い庭を突っ切って、ダニエラ専用の書斎のバルコニーにたどり着いたのだった。
明日も更新できるといいなあ、などと思います。
誤字脱字の御指摘、いつでも大歓迎です。
ここまでお読みいただいて、ありがとうございました。