初誕生のころ・1
このサブタイトルも今一つなので、変えるかもしれません
ヘンリックはまもなく一歳になる。
乳ばかり飲んでいた頃と違って、乳の他に粥とか粥とか粥とか、時々新鮮な果物とか煮た野菜なんかを食べるようになった。
「坊ちゃんはおりこうだねえ。ちゃんとスプーンで上手に食べるじゃないか。えらいえらい」
離乳食の担当がジーナに決まって以降、昼の沐浴と夜寝る時ぐらいしかダニエラの顔を見ない日が続いている。ジーナは本来本邸の掃除の担当だが、指導した後輩がそれなりに仕事をこなせるようになったために、「親友の忘れ形見の面倒」ぐらいは見る時間が融通できるようになったらしい。
恩人であるジーナに面倒をかけないように、可能な限りお行儀良く食べ、好き嫌いもしない。
(味のない麦主体の粥って、まずくはないけど、うまくもない。肉ぐらい食いたいけど、まだ食わせてもらえないんだろうなあ。せめてチーズとか欲しいんだが……)
そんなことをヘンリックが考えているなんて、ジーナには思いもよらないことだろう。
かなり足腰もしっかりして来たので、排泄は用意されたおまるにまたがってするようになった。
「おむつのしつけらしいしつけもしてないのに、ちゃんとおまるを使うんだから、坊ちゃん偉いよ」
ジーナは褒めるが、おまるを使う場面を凝視されるのは、いまだに慣れない。
おまるを使い終わるとジーナは下半身を拭き清めてくれるのだが、一応ジーナも十代の娘なので、おばちゃんになっているダニエラにされるより恥ずかしい。
「坊ちゃん、御本、見るの?」
「うん。お願い」
ダニエラはかなりの数の絵本類をヘンリックのいる部屋に置いてくれている。
簡単な言葉を口に出して言えるようになってすぐに、「本、読みたい」とダニエラに訴えたら、「本を破いたり、傷つけたりしないようにできますか?」と尋ねられた。「大事にする」と返事をしたら信用してくれたらしく、翌日すぐに数冊の絵本を持ってきてくれたのだった。
ちなみに識字率の低いこの国では、ジーナのように字の読めない人間も珍しくは無い。
「あたしは御本を読んであげられないけど、坊ちゃん、自分で読むの?」
「うん。読む」
「すごいなあ、そのうち、あたしに読み書きを教えてね」
「うん。わかった」
「ありがとうね、ぼっちゃん。今から楽しみにしてるよ」
ヘンリックが本を読み始めると、ジーナは掃除の仕事に戻り、次の食事までは戻ってこない。
ダニエラが用意した本の中には、文字を覚えるための教材類が含まれていた。
本来なら五歳程度を対象にしたものらしいが、中身が大人のヘンリックには少々単調すぎる内容だ。
それでも、床に指で字を書く練習をして、可能な限り手本のような美しい文字が書けるように訓練している。どうやらこの社会では、美しい筆跡で字を書ける方が有利であるらしいのだ。
あとは神話とか昔話から題材を取った、絵ばかりがやたら豪華な絵本ばかりだ。
ジーナの話では、こうした絵本類も相当に高価な品であるようなので、細心の注意を払っている。
(それにしたって、ガキの絵本に金の彩色とか、確かにゴージャスだよな。ダニエラは忙しくて、俺の面倒を見ることが出来ないらしいから、一種の罪滅ぼしってつもりなんだろうか)
妖精たちは本を見ている間はあまりうるさくないのだが、ダニエラの身の上の変化について色々情報を仕入れたらしく、にぎやかに話し始めた。
(アンドレアスの乳母がレナートのせいで体を壊したから、辞めたんだよ)
(魔力はちょっぴりだったけど良い乳母だったのに、レナートはケダモノ)
(いなくなった乳母の代わりをダニエラがやらなくちゃいけないから、お前の面倒までは手が回らないんだよ、きっと)
(ジーナをお前専用のメイドにするって話もあるみたいだけど、今は人が少ないから、お前専用は無理ってボケてるくせにモートンの婆さんが反対したんだよ)
(モートンの婆さん、エルフが嫌いだよね。だからエルフ混じりも嫌い)
(あの嫌な婆さん、いつ邸を出て行くかな)
(婆さんの実家が途絶えちゃったし、子供も頼れる親戚もいないから、エレオノラは死ぬまで面倒見ることにしたみたいだよ)
(面倒見るにしたって、この邸からは出せばいいのに)
ヘンリックは、妖精たちの言うモートンの婆さんなる人物のことがわからない。
(ハウスキーパーやってたけど、今はボケてる婆さんで、モートン夫人ってゲオルクは呼んでるよ)
(ハウスキーパーって言うと、女の使用人の管理者だったか?)
(そうそう。お前、良く知ってるじゃないか)
(婆さん、ボケているくせに文句だけははっきり言うんだ)
(ほんと、いやな婆あ)
(だよね。早くいなくなればいいのに)
妖精に嫌われているボケ老人が、時折頑張っちゃって文句を言うのでいろいろ迷惑、ということらしい。
(でもあの婆さん、ダニエラには親切だったよ)
(ダニエラはゲオルクの娘だから、ご機嫌取り)
(それだけでもないよ)
(ダニエラが小さなころから賢くて、お行儀が良かったからお気に入りだったんだよ)
(子供の時から字がちゃんと読めて、婆さんの苦手な計算なんかも早かったから、ダニエラは書類の整理なんか手伝ってたんだよ)
(そうそう、字が読めない人間を馬鹿にするくせに、あの婆さんも実はあんまり得意じゃない。特に計算って言うの? 数の勘定とか、帳簿とか、ダニエラによく助けてもらってたよね)
(婆さん、意地悪だけど珍しくておいしいお菓子の作り方を知ってるんだよ。大事なお茶会の時は、料理人たちを指揮して、一杯おいしいお菓子を作らせるんだ)
(最近、そういうお茶会、無いね)
(そりゃあ、女主人役のエレオノラが元気ないもん)
(でも、もうすぐアンドレアスの誕生会だよ)
(どうかな。エレオノラは具合悪いし、レナートは何も考えて無さそうだし)
(エレオノラのおなかに子供が出来たから、無しかな、誕生会)
ヘンリックは驚いた。
(なあおい、今度出来た子の父親って、国王? 糞親父? どっち?)
妖精たちはヘンリックを見返す。
(馬鹿じゃないの? 国王と会えないんだもん。レナートの子が出来たに決まってるじゃない)
(レナートはアンドレアスを国王に渡したいみたい。でも、エレオノラは大反対)
(エレオノラが嫌がってるのに交尾して出来た子だから、今度の子は体が弱いかも)
(それでもヘンリックみたいに丈夫な子が生まれる場合も有るよ。人間だから)
妖精たちが言うには、人間よりずっと魔力の強いエルフや魔人同士の場合、男女双方が合意していなければ子が生じることが無いのだという。女のエルフや魔人は、気に入った相手の子しか産まないということのようだ。
(それが人間の女相手だと、エルフでも魔人でも割と簡単に子が出来る)
(だからよけいに『混じり者』は蔑まれやすい)
ヘンリックは今一つ釈然としない。
(糞親父だって、混じり者だよね? なんで偉そうにしていられるの?)
すると妖精たちはキャラキャラと笑い始めた。
(確かにレナートも混じってる)
(レナートの母親の魔人が納得して生んだから、混じり者なのに混じり者扱いしない)
どうもわかりにくい。
(レナートの母親の魔人は人間のやり方で結婚の儀式をやったから、魔人だけど奥方様だったの)
(レナートの父親は実は混じり者だったけど、公爵だったから、人間たちには内緒だったの)
(レナートの母親は納得してレナートを生んだの)
正式な妻か否か、身分が高いか低いかで世間の扱いが違うのはわかるが……納得?
(もしかして、子供を産む母親が納得していることが重要だったりするわけ?)
そんなの当り前、と言う感じのリアクションが有るとヘンリックとしては理解に苦しむ。
(魔力が高い母親なら、相手がどんな奴でも納得していれば無事に生まれるし、自分も無事)
(魔力の低い母親なら、納得していても相手が魔人なら自分が死ぬか子供が死ぬかするのが普通)
(レナートは人間より魔人に近い。魔力が全然ない人間の女ならレナートの子供を産むのは無理)
(俺の場合は、あの糞親父が母親に無理やり迫ったんだな)
糞親父の場合は、単なる下半身の暴走のような気がする。
(うーん、魔力の強い子が出来たらいいなぐらいは、あのひどいレナートでもチラッと思った)
(たぶん、その程度は思った。でも、ニコレットのことはあんまり考えてなかったから死んじゃった)
(ニコレットは自分では気が付いてなかったけど、並の人間より魔力は強かった。レナートがもっとニコレットを大事にしていれば、死なずに済んだはず)
(アンドレアスの乳母の場合は、乳母が死んだら困るってレナートが思ったから、子供の方が死んだ)
(たぶんそう。レナートの魔力じゃ、魔力の高くない母親と子供を一度に護るのは無理)
(乳母の魔力はニコレットより弱かったしね)
(ニコレットも乳母もレナートが好きじゃなかった)
(自分勝手で乱暴だもん、当たり前)
(子供の父親と母親が互いに信じてないと魔力は効果が無い)
(レナートの魔力は効かない)
そうなると、奥方様はどうなんだろうかとヘンリックはふと心配になった。
(エレオノラは、あたしらが守る)
(レナートなんかじゃ守れないもん)
妖精たちのごちゃついた枝葉の話を整理すると、(子を守るのは母親の魔力)(母親を守るのは母親自身の魔力と子の父親の魔力)ということらしい。
(じゃあ、俺が無事に生まれたのって、母親のニコレットって人のお蔭なのか)
(そうなの)
(感謝するべきなの)
墓参りすればいいんだろうか? それにしたって――ふと疑問がわく。
(ニコレット母さんの魂は、今はどうなってるの?)
妖精たちは、ざわざわした。
(ニコレットの魂って、バラバラにはなって無かったよね)
(しばらく、花園のあたりにいたけどね)
(そういえば、今はいないね)
(消えちゃうほど弱い魂じゃないから、どこかに行ったと思うけど……)
(神界に行くほど強くは無いから)
(エルフの森に行ったかもよ)
妖精たちが言うには、たいていの人間の魂は神界までは到達できず、魔素の濃い場所に溜まっているものらしい。大半の魂は元の魂の状態を保つことは無く、一年たたない内に幾つかに分解し、新たに宿った生命に引き寄せられるのだそうだ。引き寄せられる先は、人間の胎児である場合が大半らしいが、例外も有るようだ。
異世界に行くことは無いのか問うと、妖精たちは一瞬静まって互いに顔を見合わせる。
(それを決めるのは神だから、妖精にはわからないの)
(異世界との行き来は、異世界の神との話し合いが必要って聞いたことはあるけど)
(聞いただけ。ほんとのことは妖精にはわ・か・り・ま・せ・ん!)
(残念でした~)
期待した自分が馬鹿だったと思ったが、ヘンリックは気を取り直して別の質問をする。
(じゃあ、元人間のバラバラになった何人分かの魂が魔人とかエルフに宿るってことも有り?)
(そんなに魔力の強い人間はほとんどいない)
(絶対無いとか言わないけど、そんな話、聞いたことが無い)
(魔人がエルフに生まれ変わったり、その逆は時々有るって聞くけど、それだって珍しい)
人間の魂は分割され、ある種シャッフルされた状態で別の人間の魂の材料になるというのが普通のようだ。ニコレットはハーフエルフなので、幾人ものエルフが眠っている世界樹に魂が引き寄せられた可能性が高いと妖精たちは言う。
(ハーフエルフって嫌われて差別されるらしいけど、死んで魂になれば差別されないの?)
死んでまで差別なんてきついとは思うが、この世界なら有るかもしれないとヘンリックは心配だった。
(魂が汚れてなければ、エルフの血を受けた者は世界樹が受け入れると聞くよ)
(そういう魂が妖精のもとだって噂もあるよ)
(ほんとのところは、よくわかんないね)
(でも、ニコレットの魂がバラバラになってないのは、ホント)
(ニコレットの魂が、ここにいないのも、ホント)
(やっぱり、お前がすごい魔法使いになって、世界樹の森に入ることが出来るようにならないと何にもわかんないよ)
(そうそう。そうでもしなけりゃ、お前の嫁の魂も、ニコレットの魂もどうなったかわかんないよ)
じゃあ、どうすればすごい魔法使いになれるんだっていうんだよ。もったいぶらずに教えてほしいもんだよな……こいつら色々話す癖に肝心なところが……と一瞬思ったが、妖精たちは具体的に強い魔法使いになる方法は知らないのかもしれないと考え直す。
(ふん、お前よりは知ってるよ)
(そうだよ、お前生意気)
生意気と言われるのは慣れっこなので、気にもならない。
(世界樹って、この絵本みたいな姿をした樹なのかな?)
ヘンリックは『大魔法使いと世界樹』という絵本の一場面を見ている。
(この本、出鱈目)
(世界樹がこんなにヒョロヒョロのわけない)
では、実際にどのような樹なのか尋ねても(あたしらだって見たことないから、知らない)と言う無責任な答えが返ってくる。
(けっ、お前らの話だって絵本なみにいい加減じゃないか)
すると妖精たちはヘンリックの悪態に、いささか気分を害したらしい。
(たくさんのエルフが樹の中で眠ってるんだから、そんなやせっぽちの尖がった樹のわけないもん)
(お前よりは物知りなの)
(お前よりは賢いんだから、馬鹿にするんじゃない)
頭を下げて(ごめんなさい)と謝ると、一応は許してくれたらしい。
(妖精の皆さん、そこで質問なんですが)
(なになに?)
(エルフが樹の中で眠ってるって、どういうことなんですか?)
どうやらこの世界のエルフは不老で、魔人のように戦うこともほとんど無いために、めったに死ぬことも無いらしい。
(エルフの寿命って、普通は世界樹と一緒なの)
(この世界が終わるときに、この世界のエルフが全部死ぬ、そういうこと)
(それまで静かに過ごしたい、そう思うエルフは、世界樹の中で眠り続けることが出来るの)
(世界の終りまでじっと寝てるんだから、死んでるのと大差ないかもね)
この目で見ないと、どうもどんな状態なのかわからない――そうヘンリックは思った。
(この絵本の大魔法使いって、ヘンリックのつもりかな?)
(顔が不細工だね)
(ダメな絵師が描いたダメな絵~)
確かに妖精たちの言うように、魔法使いの絵は不細工でダメだ。
誤字脱字の御指摘、大歓迎です。
ここまでお読みいただいて、ありがとうございました。