第16話 悲劇は遅れてやってくる
1576年春、武田信虎さんが亡くなりました。
「ああ」
信玄公がポツリと漏らしました。
「……信虎さんも70歳を過ぎています。史実では信玄公より長生きされましたが、仕方ないのでは」
「わかっておる」
信玄公の表情からは、まったく動揺は感じられませんでした。追放して二度と会わなかった父親とゲームの中でとはいえ和解できたのですから、後悔は無いのかもしれません。
と、わたしがなんだかほっこりした気分になった時でした。
突然ゲーム画面が切り替わり、わたしの操作を受け付けなくなりました。
「えっ!?」
「何が起こったのだ」
「……どうやら、歴史イベントが発生したようです。桶狭間の時のように」
イベントは、武田義信さんと飯富虎昌さんの会話から始まりました。
『今川義元公亡き今、父上は同盟を破棄して今川領への侵攻を考えておるようだ』
はあっ?
『だが今川は我が妻の実家。わしには今川を裏切ることはできぬ』
……いやいや。いやいやいやいや。今川なんて狙ってませんし。
『もうわしは父上の非道にはついていけぬ。……虎昌、わしは父上を追放する。かつての父上がそうしたようにな』
わたしは血の気が引くのを自覚しました。
義信事件。
義信さんが飯富さんとともに謀反を企てたものの露見し、最終的には二人とも命を失ったとされる事件です。史実では1565年に義信さんが幽閉されています。
イベントはどんどん進行していきました。
虎昌さんの弟である飯富昌景さんが信玄公に二人の企てを密告。
信玄公が二人を幽閉。
義信さんも虎昌さんも自害。
飯富昌景さんは山県へ姓を変更。
今川と武田の同盟は解消。
こうして武田家に大きな痛手を負わせてイベントは終了……。
わたしはちょっと放心していたのではないかと思いますが、すぐに我に返りました。もっとショックを受けているはずの人がいるのですから。
わたしは信玄公を見ました。恐ろしいほどの無表情です。目が死んでいます。しばらく様子を見ていましたが、一言もしゃべらず、微動だにしません。
これまで極力避けていたことですが、わたしはスマートフォンを使って義信事件の発生条件を攻略サイトで調べました。なぜこんな悲劇が起こらなければならなかったのか知るために。
調べた結果、義信事件の発生条件は以下の通りでした。
・1565年以降、武田家に「武田信玄」「武田義信」「飯富虎昌」「飯富昌景」が所属していること
・武田家と今川家が同盟を結んでいること
・「武田信虎」が武田家に所属していないこと
つまり、わたしたちは浪人だった信虎さんを登用したことで知らず知らずのうちに義信事件の発生を回避していたのです。もし信虎さんを登用していなければ、1565年の時点でイベントが起きていたのでしょう。信虎さんが死んでしまったことで、史実より10年以上遅れたこのタイミングで悲劇が起きてしまったのです。
ただ……この発生条件を見てよく考えると、ゲームの進行状況が少しでも変わっていればイベント自体が最後まで起きない可能性もあったということがわかります。
もし飯富兄弟のどちらか片方でも、真田さんや高坂さんのように上杉に捕らえられていれば。
もし信玄公が史実通り1573年に亡くなっていれば。
おそらくは史実と異なり義信さんが信玄公の後継者になっていたかもしれないのです。
わたしは昔読んだある小説を思い出していました。
過去にタイムスリップできる能力を持つ男が、何か世の中の役に立つことをしようと考えます。そこで彼は多数の死者を出した航空機墜落事故を防ぐため、航空会社に対して爆弾を仕掛けたという嘘の電話をかけ、墜落した飛行機がそもそも飛ばないように仕向けるのです。
彼の思い通りに事態は進み、本来墜落するはずだった飛行機は欠航になりました。彼は本来失われるはずだった多数の命を救ったのです。
喜んだ彼でしたが、すぐにそんなものは吹き飛びます。なぜなら、しばらく経ってある飛行機が墜落したからです。彼の知る歴史では墜落するはずの無かった全く別の飛行機が、全く別の場所に墜落し、全く別の多くの命が失われたのです。
つまり彼が何をしたところで、「日本という国のある時代に大型旅客機の墜落事故が起きる」という大きな歴史の流れは変えられなかったのです。配役や脚本が多少変わったり延期になったりしても、結局は上演される舞台作品のように。
わたしは眩暈を覚えました。が、それどころではありません。わたしなんかよりもショックを受けている人がいます。
信玄公はまだ固まっています。……わたしは意を決しました。
「信玄公、しっかりしてください」
「……」
「義信さんをゲームの中でも失ったことがそんなに辛いですか。信虎さんのように、仲良くすることができると思っていましたか」
「……」
「ゲームの中でお父さんやお子さんとうまくやったところで、歴史が変わるわけではありませんよ。どうしたって信玄公が武田家のために父親を追放し、嫡男を追い込んだ事実は変えられません。でも、それが武田信玄なんでしょ! あなたなんでしょ!」
声が裏返ってしまいました。
「……」
それでも、信玄公は口を開きません。これまでかな、と思いました。
「……やめましょうか、ゲーム。しょせんはお遊戯です。楽しくなければやる意味が無いと思います。信玄公がお辛いなら……」
「待て」
低い声が聞こえました。
「誰がやめると言った」
わたしは自分の口元が緩むのを抑えられませんでした。
「宵子の申す通りだな。わしは武田信玄だ。一度味わった痛みなんぞ、大したことは無い」
「信玄公!」
「げーむを続けるぞ」
「はいっ」
信玄公の目にはぎらつきが戻っていました。
しかしゲームを再開するや否や、わたしたちは苦境に立たされました。イベントで同盟関係が解消されたため、今川氏真が何のためらいもなく攻めてきたのです。同盟に安心しきっていたので、今川領と接している城には全く兵を配置していません。
「ひぃぃ! これはヤバいですよ!」
「いや、よく見ろ。躑躅ヶ崎がぎりぎり戦場に含まれておる」
「本当だ! 躑躅ヶ崎には信繁さん以下、ある程度の戦力がいます! これはなんとかなるかも!」
ただ、それでもこちらの総兵力は今川軍にやや劣っていました。そのうえ、今川軍を率いているのは。
「ほ、本多忠勝」
本多さんだけではありません。井伊直政、榊原康政、鳥居元忠……。史実では徳川家に仕えた猛将たちにより今川軍は構成されていたのです。
今宵はここまでにしようと思います。
次回「才と経験」ご期待ください。