山並小梅 - 2
図書館で徹に拒絶され落ち込む小梅だったが、帰り道で美波にアドバイスをもらい少し立ち直る。
しかし、美波と別れた後、行きと違う道で帰ろうとして迷ってしまう小梅。暗がりの中闇雲に進み心細さが増していく中、不意に楽器の音が聞こえた。やがて、小さな公園で誰かが演奏している姿を認め、心動かされた小梅は、こっそり近づきその顔を確認しようとしたが……。
今朝初めて学校に来たときと同じように、満開の桜並木のトンネルがわたしたち二人を迎えてくれた。夕方が近い空は朝とは違って滲んだような青で、絶え間なく散っていく桜の花びらと相まって、何だか寂しげな綺麗さ、それでいて春っぽい爽やかさを感じさせた。
こんなにいい景色に見送られて学校を後にできるというのに、わたしの心はすっかり薄曇り。図書館でのあの出来事のせいだ。
(やっぱり、答辞なんて柄じゃなかったんだ……)
結局答辞は失敗だらけだったけど、何とか終わってほっとして、気が抜けていたんだと思う。よく知りもしない人にいきなり一方的に喋るなんて、いつものわたしじゃない。
そしてその結果、冬木くんの逆鱗に触れてしまった。図書館から戻った後、冬木くんはずっと突っ伏したまま。そして、終礼の挨拶の後すぐに教室から出ていってしまった。
きっと、冬木くんは一人静かに今日を過ごしたかったんだろう。どうして、それに気付くことができなかったんだろう……。
(明日、どうしようかな……)
「黒山寺高等学校新入生代表、山並小梅!」急に隣の美波ちゃんが大声を出し、危うく自転車から転げ落ちそうになった。寸前で足を着き、自転車を止めて振り返る。
「な、なに、急に?」
「さっきから、この春空に似つかわしくない暗い顔をしているねえ。何かあった?」軽い笑いを向けてきた美波ちゃんは、けれど真っ直ぐわたしの目を射抜いていた。
(わからないわけ、ないか……)
「大したことじゃないよ、べつに……」
「そっかあ、なら私に話してみない? 大したことじゃないんなら、私が解決してあげられるかもしれないしねえ」目線を外さずに、でもあくまで軽い口調でそう返す美波ちゃん。
「……ずるいなー、もう」そんなに自然に言われたら、言わないでいられるわけがない。
並んで自転車を押すわたしたちを、穏やかな風、そして少し赤みを増した陽の光が包み込んだ。
「……なるほど、状況は分かった。初対面の男子に話しかけて嫌われるとか、だいぶあんたらしくないことしたねえ」一通りの話をした後、美波ちゃんは呆れ顔でそう言った。
「だから、答辞のせいだってばー……」
「はいはいわかったわかった大変だったねえーよしよし」
「ひどい、棒読み……」
「まあでも、小梅だけが悪いってこともないと思うよ、それは」私の非難は無視しつつ、美波ちゃんは少し考えるような仕草をした。
「……そーかな?」
「うん、ていうか、どっちが悪いってわけじゃないんじゃない? 運が悪かっただけだと思うよ」
「運……?」
「小梅はたまたま緊張が解けて誰かに話しかけたかった。その冬木くんは話しかけられたい気分じゃなかった。その二人がたまたま隣の席になってしまった。……それだけのことじゃないかなあ?」
「そう、なのかな……」確かに、美波ちゃんの言っていることは筋が通っている。隣が冬木くんじゃなければ、あのまま普通に話せたのかもしれない。けれど、そう考えてみても、わたしの中のもやもやは相変わらず消えてくれない。
「……でも、それだけじゃ、今後のことは解決しないよねえ」美波ちゃんが、不意に真剣な表情を見せた。
「結構難儀だねえ、これは。普通、初対面のしかも女の子に、『関わるな』なんて言わないよ。その冬木くんって人、それほど素行に問題ある風でもないっぽいし。
……彼、人に関わられることそのものに嫌気が差してるってこともあり得るねえ。過去に周りのせいで嫌な思いをしてきたのかもしれない」美波ちゃんにしては珍しく、長く、そして言葉を選ぶような話し方だった。
「冬木くんに、思い当たることがあるの?」
「……そういうわけじゃないよ。ただ、みんながみんな、これまで平穏な生活を送ってこれたかどうかは分からないってこと」
いつになく真面目に話す美波ちゃんに、わたしは口で反応することができず、うつむいてしまっていた。
「まあ、これはあくまで私が考えた可能性でしかないけどね。単に機嫌が悪かったのかもしれないし、本当は性格悪い奴なのかもしれない。ただ、人は色々抱えているものが違うから、接し方にはある程度気を遣った方がいいとは思うよ」
「……そう、だね」
あの時のわたしはそんなことに全然気が回っていなかったし、今も美波ちゃんにこうして説明されるまで考えついていなかった。やっぱり、美波ちゃんはすごい。
「で、小梅はどうしたい?」
「……え?」
「その冬木くんとの関係を、今後どうしたいかってこと。
別に、無理矢理改善しなきゃいけないってことはないと思うよ。向こうもある程度悪い面はあるわけだし。ただ、どうしていいか分かんなくてもやもやしてるより、自分がこれからどうしたいか考えといた方がいいんじゃないかな、ってね」
そして、冬木くんに拒絶されたことへのショックで頭がいっぱいだったわたしは、もちろん「わたしが」どうすべきかなんて考えていなかった。でも、一旦気付いてしまえば、答えはひとつ。
「……普通に話せるようになりたい。ちゃんと冬木くんに謝りたい」
「そっか」
「うん」
いつものように、わたしがうなずいた後、美波ちゃんは何も続けなかった。十分だ。わたしをしっかり見据えたその顔が、大丈夫だよ、と言ってくれているから。
話しているうちに、空が心なしか赤くなってきたような気がする。自転車から降りて歩いていたので、家まではまだ遠い。薄い制服のブラウス越しの肌が、少しずつ冷たさを増している。
「じゃあ、自転車乗ろっか?」分かっていたようなタイミングで美波ちゃんが声をかけてくれ、わたしはもう一度うなずいてペダルに足を掛けた。
……失敗した。
美波ちゃんと別れたところまではよかった。夕方といってもまだ十分明るかったし、わたしの気分もいくらか楽になっていたし、普通なら何の問題もなく今頃家に帰れていたはずだ。
(そうだ、まだ明るいし、せっかく初めての自転車通学だし、普段通らない道を通ってみよう)……そう軽い気持ちで考えたのが、間違いの始まりだった。気付いたときには、いつの間にか知らない風景が広がり、元の道も分からなくなっていた。今通っている大きな道路の外側は見渡す限り田畑で、目印になりそうなものは何もない。辺りもすっかり暗くなり、今や、ほとんど日が沈んだ青紫色の空にわずかに星の光が浮かぶほど夜が近づいてしまっている。朝出るときに早めに帰ると言っておいたから、今頃お父さんは心配しているだろうか。
(今日、本当についてないなー……)
このまま大通りを進んでいってもよく知っている景色の場所に行けそうな気がしなかったので、とりあえず右折して川沿いの小道に入る。曲がりくねった細い道で、明かりと呼べるものはわたしの自転車の小さなライト、そして時折やってくる自動車のヘッドライトくらいだ。対向車がわたしに気付いて行き交うために止まってくれる度、申し訳ない気持ちになる。ここは普通自転車が通る道ではないようだ。でも、とにかく、真っ暗になる前に通り抜けてしまわなければ。
いくらか進んだところで、道の左脇から不意に工場みたいな建物が現れた。何の明かりもなく、人の気配も感じられない。心臓が縮まる思いがする。怖い。わたしは家に帰れるのだろうか……。
(やっぱり、答辞のせい……)
今日何度となく思い浮かべ口に出してきた言い訳を再び頭の中で呟こうとしたその時、微かに、自然のものとは違う音が聞こえたような気がした。
(え、幻聴……?)一瞬空恐ろしくなったけれど、その音は、幻にしてはあまりに親しみやすいものだった。
(音階?)
ドー、レー、ミー、ファー……ゆっくりで丁寧な音階が、今度ははっきりと聞こえてきた。
(楽器の練習? こんな時間に、こんな場所で?)
どうやら、音は道の向こうから聞こえてきているようだ。わたしは止めていた自転車をもう一度漕ぎだし、前へと進んでいく。さっきまでの心細さは、その目印のおかげで少し和らいでくれている。やがて普通の音階は終わり、ド、ミ、レ、ファ、ミ、ソ……と少しひねった音階へと変わった。その、何というか周りの暗さに似つかわしくない音が、わたしを安心させてくれる。
その音階が止まったと同時に、右手の小川が大きく右に逸れ、代わりに小さな公園が現れた。道路よりかなり低い位置にあり、ここから全体が見渡せるほど小さい。明かりはたった一つ。入口らしき下り階段はわたしのいる場所のずっと先にあって、つまりここは公園の一番奥側のようだ。
そして、公園の一番奥、明かりから外れた暗がりの中、ぼんやりと一つの人影があった。顔とか細かいところははっきり見えないけれど、両手で小さな楽器を持っていることは分かった。トランペットのようだ。間違いなくこの人が音源だろう。
音を立てないようにじっと見ていると、その人はそれまで腰の前あたりで持っていた楽器を持ち上げて顔まで持っていき、一呼吸した後もう一度吹き始めた。今度は練習じゃなくてきちんとした曲だった。夜が更ける中、朝早くに似合うような明るく爽やかな曲。わたしの知らない曲だけれど、とても気持ちいい。その人は落ち着いた綺麗な音を出していて、すごく上手だ(わたしは楽器のことはよく分からないけれど)。
(どんな人だろう……?)
顔だけでもこっそり見ておきたい。けれど、ここからでは暗いのと遠いのとではっきりとは分からないし、この公園は入口が階段一つしかないから、そこから入ってしまうと絶対にばれてしまう。
となると、答えは一つ。わたしは自転車をできるだけ車道から遠いガードレール沿いに停め、そのガードレールをそっと跨ぎ、足音を立てないよう公園を縁取る下り坂に降り立った。坂は一面雑草に覆われていて、気をつけないとすぐに物音がしそうに見えるけれど、傾斜はそれほどでもないので、注意すればある程度までは気づかれずに進めそうだ。わたしは忍び足のように一歩一歩、ゆっくりと人影へと近づいていく。音楽はまだ続いている。人影は指と時々の息継ぎ以外は動かない。坂の三分の一くらい降りてみると、結構体格が大きい人だとわかった。男の人のようだ。顔は楽器と平行に真っ直ぐ前を向いている。ただ、もう少し近づかないと顔ははっきり見えないみたいだ。
その時、不意に曲のスピードが落ち、音がこれまでになく真っ直ぐに長く伸ばされ、それを最後に音楽は終わった。最初から最後まで、とても綺麗だった。わたしは心の中で拍手をした。
人影は楽器を顔から離し、一息ついた。わたしに気づいている素振りはない。もう少し近づけば、その人の顔が分かりそう。
わたしがもう一歩踏み出そうとした時、後ろの道路から車が走る音がし、一緒にヘッドライトが辺りを照らした。公園がぱっと明るくなり、人影がくっきりと映し出された。
(冬木くん!?)
間違いなく冬木くんその人の顔だ。直後、向こうがこちらに顔を向け、
「だ、誰!?」
と叫んだ。わたしは頭が真っ白になり、逃げるためにどこへとなく足を踏み出した瞬間、その足が思いっきり滑り、真っ逆さまに坂を転げ落ちた。
ようやく、楽器の登場です。長かった……。
今回は結構すいすい筆が進み、書いていて楽しかったです。ただ、予め想定していた展開とは若干変わってしまいました。
この人物は、主役級では一番掴みづらいキャラクターで、前回からどういうものの考え方をするのだろうと悩みながら執筆しています。いまいち統一感のない思考回路になってしまっているかもしれません……。