冬木徹 - 1
黒山寺高校新入生の冬木徹は、中学時代までに受け続けたいじめから今度こそ逃れるべく、まずは入学式の日に周囲に埋没して生活することを試みる。
しかし、入学式後の教室にて彼の隣となった人物が、そんな彼の努力を無情にも打ち砕くことになる。
入学式が終わり、新入生たちが一斉に各々の教室に向かっていく。もちろん僕もその一人として、制服の集団に埋没して流されていっている。……きちんと埋没できていればいいのだけれど。
周囲の新入生を見渡すと、時々派手そうな人を見かけるものの(そういえば、ちょっと前に明るい茶髪の生徒を見かけた。初日からそれで大丈夫なんだろうか?)、概して中学時代より真面目そうな人間が揃っているように見える。
そして、新入生ということも手伝っているのか、みんながみんな堂々とした、そしてフレッシュな印象を放っているように感じられる。……僕とは住む世界が違うと思えるほどに。暗く澱んだ、堂々ともしていないしフレッシュでもない僕は、それを悟られないよう周囲の陰に隠れ、ひたすらその存在を消し去るのみである。
教室に着くと、皆一斉に出席番号に従って着席し、そして一番後ろから入ってきた担任らしき若い男の人が扉を閉じた後教壇に立った。
「えー、皆さん、黒山寺高校にご入学おめでとうございます。
私は七組担任の鴨宮です。よろしく。
とりあえず、今から午後の予定を簡単に説明します。その後昼休みにします。掃除は……まあ、面倒だし今日はやらなくていいです」
歓迎の挨拶と自己紹介と今後の予定とを一気に済ませた後、鴨宮先生は言葉通り本日午後の予定について黒板を使いつつ説明していった。新任かと思われるような若々しい身なりとは裏腹に、先生の説明は簡にして要を得た落ち着き払ったものだった。ただ、穿った見方をするならば、その喋り方はどこか気怠げで物臭なようにも映る。まるで、面倒事には関わりたくないと言わんばかりな……。不意に、胸に鈍い痛みが現れてくる。
先生の一通りの説明が終わったと同時に、昼休みの時間を告げるチャイムが響いた。黒板の上に取り付けられた時計は十二時十五分を指している。
「お、ちょうど昼休みだな。じゃあ、後は一時四十五分から始めます」鴨宮先生はそう言い残し、早々に教室を出て行った。置き去りにされた形の生徒達は、最初ややどよめいていたものの、やがて、弁当を取り出したり売店に向かったりと、各々昼休みに入っていった。
僕も周囲と同様、鞄からおにぎりが包まれたアルミホイルの塊を取り出して机に載せ、その包みを解こうとした。
「あ、あのー」
不意に隣から掛けられた、女の子の声。瞬間、心臓が押し潰されたような心持ちがし、一気に鼓動が激しくなり、冷や汗が全身に滲んだように感じた。恐る恐るそちらに振り返ろうとするも、寸前で思い直す。だって、女の子が僕なんかに声を掛けるはずがない。こんなに暗く醜い僕なんかに……。
「あ、あのっ」
さっきより語気が強くなり、女の子の呼びかけが繰り返された。僕か? やっぱり僕なのか? なぜ? どうして?
「ぼ、僕……?」辛うじて、聞こえるか聞こえないかという声を返した。
「あ、うん! ごめんね、急に」思わず隣の席の方に顔を向けると、その愛らしい声ぴったりの女の子が笑顔で僕を見ていた。コンパクトな身体に、若干寝癖が目立つが細工のないショートヘア。厚めの唇が、全体的に幼い顔つきに大人びたアクセントを与えている。
「い、いや、大丈夫、だ、けど」激しい動揺も手伝って、普段よりさらにひどい吃音を晒す。顔を向けているだけでも申し訳ないというのに……。
「よかったー。このクラス、知ってる人いないし、みんな固まっちゃってるから、声かけてみたのー」無邪気にそう言う彼女。僕の顔を見ても、何とも思わないんだろうか?
そういえば、この女の子の顔には見覚えがあるような気がする。それも、つい最近の記憶のような……。気のせいだろうか? いや、女性の顔を見るのを極力避けている僕のことだから、気のせいと言うには記憶が新し過ぎるような……。
「入学式終わってすごく疲れちゃって、一人だとどんどん体が重くなっていく気がしてねー。あんな人前で発表するなんて全然向いてないから……」
「人前……? あ、そ、そっか、代表で……」そうだ、入学式で新入生代表の答辞を述べ、壇上から降りるときにちらっと見えた、あの顔だ。
「そうなのー。何度も断ったんだけどねー。結局何回も詰まっちゃったし。わたし駄目駄目だったよね?」
「い、いや、そんな……」確かに、壇上の彼女は何度か言葉に詰まったり頭を掻いたりしていて、とても普段からそういうことに慣れているという様子ではなかった。恐らく、成績の関係で無理矢理やらされたんだろう。そして、そんなすごい人がこんなところにいるとは予想もしていなかった。
「あー、なんか恥ずかしくなってきたー! そうだ、ご飯食べよ? ご飯」
「え、いや、あの……」ご飯? 僕と一緒に? そんな、まさか、あり得ない。
「あー! 名前言ってなかったよね。わたし、山並小梅。よろしくね!」
「あ、え、と……」よろしく、そんな短い単語もうまく口腔の外に出せない。
「名前、聞かせてもらってもいい?」そう言って、また笑顔を投げかけてくる。それが、苦しい。
「ふ……冬木……徹」何とか、絞り出す。
「冬木くん、だね! わたし、人の名前覚えるのすごく苦手なんだけど、頑張って覚えるね」入学式と同じように頭を掻いて、照れ笑いをする山並さん。
……こんなはずはない。ひたすら気配を消して過ごせればパーフェクトだと思っていた高校生活初日に、隣の可愛い女の子から声を掛けられ、名前まで交換してもらえるなんて、そんな夢のようなことがあるはずがない。
罠なのだろうか? そういえば、中学でも似たようなことがあった覚えがある(相手は男だったけれど)。最初はすごく友好的に近づいてきて、その後「友達」を大義名分に金銭の要求や使い走りなどいいようにあしらわれて……。やっぱり、この子もそうなのだろうか?
「じゃあ、一緒にご飯……」
「……ごめん」
「え?」
瞬間、僕は席を立ち、きょとんとした表情を浮かべた山並さんと開封されないままのおにぎりを放置して教室から逃げた。山並さんの声が聞こえたような気がするが、振り返る気には、そしてその場所に戻る気にはなれなかった。
辛い。苦しい。おかしい。あり得ない。
僕だぞ? 中学までさんざん笑い者にされ馬鹿にされた僕だぞ? 罠だ。きっとあの子も、すぐに僕を蔑むようになるんだ。
廊下を小走りで逃げ回りながら、彼女についてもう一つの可能性が僕の中で頭をもたげてきた。
あの子の顔は壇上で覚えた。でも、彼女の記憶はそれだけではないかもしれない。それはもっと前の、本当かどうかも怪しい程度の記憶。しかし、もしその記憶が確かだとしたら、それは僕にとって最悪の展開をもたらすような、そんな予感がする。
逃げて逃げて、たどり着いたのは図書室だった。小学生時代からの、僕の逃避場所。その空間は、僕にとっての学校での唯一の安全地帯。
入口付近のカウンターには、図書委員と思われる読書中の男子生徒の姿があった。まだ食事が終わっていないはずの時間だからか、一瞬こちらに怪訝そうな顔を向けてきたが、すぐに興味なさげに視線を手元の本に戻した。中に入ってちらっとカウンターの奥を覗くと、司書らしき中年の女性が何やら作業をしている。
他に室内に誰もいないことを確認し、僕は本棚のある方へと歩を進め、いつものように自然科学のコーナーに入った。さすがに公立図書館には及ばないけれど、中学校までとは比べ物にならない量と質の本が並んでいる。僕はその中から、『哲学ことはじめ』という古い新書を抜き取った。中学二年生の時にふと興味を持って県立図書館から取り寄せてみたものの、難しくて当時はほとんど内容が理解できなかった本だ。あれから一年半たった今なら、多少は読めるようになっているだろうか?
僕は本を持ち、司書室の壁のすぐ隣にある長机で一番窓側の席に、壁に背を向けて座った。ここなら、司書室があるおかげで入口からは見えず、こちらも入口の様子を気にすることなく読書に集中できる。素晴らしい。
本を開く前に、無人の長机が並ぶ目の前の光景を堪能する。人のいない場所はよい。特に、それが図書館や図書室であれば最高だ。悲惨な現実から逃れ、思う存分この空間と本の世界に浸ることができる。
……なのに、なぜ、胸の中から得体の知れない不安が消えないのだろうか?
これまでは、どんなにそれまでの出来事が辛くとも、いったんこの空間に逃げ込んでしまえばただ安堵と快楽のみに浸ることができていたはずだ。なのに、この居心地の悪さは何だろう? しかも、その悪寒は、僕にとって最高の場所であるはずの「図書室」という場所自体によって引き起こされているように感じる。そんなことはあってはならないはずなのに……。
そんな思いを抱きつつも、ひとまず目の前にある本を開こうと、小口に掛けた左手の親指に力を込めた時だった。
「あ、いたー!」
……逃げ切れたという油断と色々な疑念の苛みとで周囲への注意が欠落していた僕には、それが突如発せられた魔女の叫び声にも聞こえた。それはもちろん、さっき僕によって最低の扱いを受けた山並さんの声だった。
「冬木くん、急にどこか行っちゃうから、びっくりしちゃったよー」
「え……あ……」一瞬にして精神の奈落につき落とされた僕が、彼女にまともな反応を返せるはずがない。
「あ、それ『哲学ことはじめ』だよね? 面白いよねーそれ。中学の図書館になかったからわざわざ県立図書館に取り寄せてもらったんだよー」
「僕、まだ読んでないんだけど」という、彼女の発言に対して一瞬脳を掠めた突っ込みは当然言葉にはならず、代わりに新入生代表としての彼女の能力を改めて感じさせられた。
そして、彼女のその言葉は、僕の中に潜んでいた、思い出してはならない致命的な記憶を呼び覚ましてしまった。
「図書館好きなんだねー。わたしも大好きだよ! でも、午後もあるし、食べないとお腹空いちゃうよ? 教室戻ろうよ」
「……やめてよ」
「……え?」
……ついに、やってしまった。
「僕に……関わらないで!」
「え? えっと、あの」
当たり前にうろたえ出す山並さんを尻目に、僕は結局読めなかった本を机上に放り出し、一目散に図書室を去った。図書委員の男子生徒は間違いなくこちらを不審な目で見ていただろうが、そんなことを気にする余裕は全くなかった。
山並小梅。
なぜ、忘れていたんだろう。なぜ、忘れたままでいられなかったんだろう。彼女が、僕が通っていた加勢川中学校の図書室の常連だったことを。彼女が、僕と同じ空間で、机に本を積み上げて貪るように消化していっている姿を。
黒山寺高校の合格が決まった後、それまで僕の学校での扱いをさんざん黙殺した担任は、上機嫌で「黒山寺が三人、白毛が二人。今年は振るわなかったが、よくやった、冬木!」と言った。黒山寺はだいたい一学年十組くらいのマンモス校だと聞いていたので、僕は「三人」、すなわち僕を除いて二人という極めて少ない黒山寺の合格者数に心底喜んだ。「巧くやれば、中学の同級生と顔を合わすことなく三年間を逃げきれる」と期待して。
だが、その期待は高校生活の初っ端に裏切られた。「極めて低い確率」など、実際にその事象が起こってしまえば何の意味もないのだ……。
彼女は間もなく僕の正体に気づくだろう。そして、今日のこれ以上なくひどい態度も手伝って、すぐに僕の居場所をなくしにかかるはずだ。あの笑顔が嘲笑に変わるまでの時間はもう長くはない。
僕の高校生活は、初日で終焉を迎えた。
状況をほんの少しでもよくするために、寸暇を惜しんで勉強を頑張って、やっとここまで来たはずだった。
なのに、どうして、こうなるんだろう……。
吹奏楽部を舞台にするといいながら、そこに到達するのはまだまだといった感じですね……。申し訳ないです(汗)。
当初の予定よりも、物語の動きが速くなってしまいました。どう帳尻をあわせるか思案中です……。