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MELT

作者: 優朔

 


 彼女は泣いていた。


 試合会場の片隅で、体をきつく丸めてしゃがみ込んで泣いていた。誰にも知られぬように、気付かれぬように、そんな彼女の頑なさがひしひしと感じる横顔を、僕は少し離れたところから見つめていた。

 春は十に過ぎたけれど、夏はまだ気配を見せない名もない季節。そんな中で見た、僕にとって初めての彼女の涙だった。


 あの涙の中には何が含まれているのだろうか。彼女の涙を見て僕はそんなことを思った。

 もちろん、涙の九割を占めるのが水分だということは知っている。けれど今、彼女の瞳から流れている涙には様々な感情が溢れていることも、僕は知っている。悔しさなのか、悲しさなのか、それとも怒りなのか。今の彼女のような涙を流したことのない僕には、彼女の感情を正確にはかることができない。

 彼女の涙をミクロ単位で形成しているたくさんの彼女自身。涙の原液は血液だけれど、彼女の一部が様々な感情によって涙として放出されているようだった。そう思った途端に、透明なはずの彼女の涙が僕の目に赤く映った。


 音もなく赤い涙を流す彼女の声は聞こえない。かわりに僕の耳に届くのは、先ほど決着のついた女子100メートル走の表彰を、選手たちのインタビューで締めくくった声と周りの歓声だけだった。

 彼女が駆けた一瞬。届かなかったフィールド。

 目の前の冷たいコンクリート壁をじっと睨み付けている彼女にも、その声が届いているだろう。それまで身動きせずにいた彼女は、流れる涙を乱暴にTシャツの襟元で拭い、伸縮性があまりないはずのTシャツをこれでもかという風に引っ張り上げてついには顔全体を覆ってしまった。まるでそれが敵から身を守るアルマジロのようで、僕はまた少し身を固くする。

 会場では、表彰台に上り詰めた人に贈る拍手に混じって、次第に個人種目の最後を飾る男子100メートル走決勝戦に向けて選手を応援する罵声に近い声が聞こえ初めた。そんな中、例え今僕が息を吐いても、足をずらして靴底についた砂を踏みしめても、彼女には届かないだろう。けれど、僕は息を潜めて、彼女に気付かれぬよう身動きせずに佇んでいる。

――今、この空間に僕の存在はふさわしくないのだから。

 彼女の感情を知り得ない僕は、今、彼女のそばに駆け寄っても何の役にも立たない。

 当たり障りのない慰めの言葉なんていくらでも吐ける。駆け寄って抱きしめることなんて容易い。けれど、赤く染まった彼女の涙にそんな優しい色合いをした行動は、とてつもなく似合わない気がした。そしてただ見守ることしかできない自分がとてつもなくつまらない人間に思えて、僕は奥歯を噛みしめた。


* * *


 気付けば彼女はいつだって走っていた。学校の帰り道。昼休みの校庭。夕暮れの運動場。それでも一際輝いて見えたのは、暑い真夏の太陽の下で一人駆ける彼女の姿だった。誰もが活動を停止する一瞬の中、彼女だけが凶暴とも言える太陽の光を受けて白に染まる運動場で走っていた。真っ青な空、目を焼くほどの白、空気が熱される独特の匂い。それらに包まれた空間で跳ねるようにしてスタートを切った彼女も日に焼けて真っ黒で。――強烈な色がよく似合うと思った。


「一瞬のそのまた一瞬を感じられるから、だから走るのが好き」


 中学生になった春、迷いなく陸上部に入部した彼女に、何気なく問うた僕の言葉に彼女はそう答えた。

スタートを切る一瞬、走り出して風を切る一瞬、ゴールに飛び込む一瞬。それらが1/100秒単位で刻まれる世界。彼女は僕が気付かぬ間にそんな世界にいた。

 記憶が始まる頃からずっと一緒にいた彼女は、もうすでに自分の世界を見いだしている。僕はそれをまだ見つけられていないのに、彼女はもう見つけたのだ。焦りと、置いて行かれたという理不尽な怒りが僕の心臓を染めた。

 今だってそうだ。涙を流す彼女に何も出来ないという不甲斐なさと、僕が知らない、涙を赤く染めるまでの悲しみや悔しさを感じている彼女に対する確かな嫉妬が、腹の真ん中あたりでせめぎ合い、乱暴に僕の心臓をノックしていた。


 男子の決勝が終わったころ、アルマジロになっていた彼女がそっと視線を上げる。やっぱりTシャツの襟元は伸びていて、さらには折りたたんだ膝に乗せていたおでこも少し赤くなっていて、僕は少し笑った。彼女は乱暴な仕草で頬に付いた水分を掌で飛ばし、何かを確かめるようにゆっくりと一人で立ち上がる。僕はそれを見届けると、固まった体をそっと動かして応援スタンドへと向かった。


 メガホンを振り回して歓声を上げる女子を横目に、人を避けながら元いた場所まで戻った僕はゆっくりとあたりを見渡した。応援スタンドは選手、応援に来ている生徒、保護者、それに小さい子どもまでいてごった返していた。大会のフィナーレを飾るリレー決勝戦が始まろうとしている中、自分の出番が終わった多くの選手もスタンドに上がっていて、それぞれのユニフォームのカラーが入り交じってスタンドをカラフルにしている。

 そんな中、目元を赤くさせた彼女がスタンドに入ってきたのを見つけた僕は、少し早足で彼女の元に駆け寄った。彼女もすぐに僕を見つけて同じように足先を僕の方に向けてくれる。つい先ほどまで感じていた嫉妬が形を潜めて、代わりに歓喜が沸いたのを感じた。


 僕の50センチ前まで来た彼女は、リレーの応援に行こう、と言って、口角を少しだけあげて微笑んだ。彼女の言葉に頷きながら、僕は彼女の左腕をやわらかく掴んで僕たちの間に存在した50センチを埋める。間近で見る彼女の頬は、優しいピンク色。それが少し気にくわなくて、ぐっと顔を近づけて僕はそのピンク色をした頬を舐めた。唇を付けて、少しだけ伸ばして触れた舌先に、涙の塩の味と、彼女と、日焼け止めの匂いを感じた。


 充血した目を見開き、ピンク色だった頬を赤へと変えた彼女を見て、やはり彼女には強烈な色が似合うと思った。カラフルなこのスタンドの中でも一際目立つ、彼女の強烈な色を知っているのは僕だけだと思うと、歪になった僕の心臓が満足な音を立てて収まるのを感じて、皮肉げに、それでも満ち足りたように僕は微笑む。

 僕の突然の行為に驚き、とっさに右手を振り上げて僕の肩に容赦なく突き落とした彼女の拳はなかなか痛烈で。さらに二度、三度と僕の肩と胸に容赦なくパンチを食らわしていきながら、耳まで赤に染まった彼女は一気にパワーを取り戻したようで、僕に暴言を吐き捨てて早足で仲間の元へと向かった。僕はその後ろ姿を満足げに見ながら、舌先で舐めた彼女の涙を思い出す。


 彼女の悲しみも悔しさも、彼女の世界も、僕に分からないのであれば、彼女の血でできた涙を僕に溶け込ませて一部にしてしまえばいい。

 そう思った。




テーマは"さわやかな狂気"でした。が、なぜか変態ちっくになってしまった感が…


思春期と呼ばれる時間、ひたすらに素直で、狭くて、破裂しそうな感覚は今思い出してもドロドロしてたけれど、どこかさわやかな時間であったのも確かだったと思います。そんな一瞬を書きたくて、けれど一瞬を何度も書き直した物語でした。

最後までお付き合い下さり、ありがとうございました。


優朔

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