第44話 誘惑
[前回までのあらすじ]
レーサーを目指して上京した陸堂潤一郎は、ひょんな事からアパートの隣に住む美人女子大生・鬼子と交際することになった。
しかし鬼子は何者かによって屈強なボディビルダーへと変貌させられ、ステロイドの過剰摂取により絶命してしまう。
復讐を誓った潤一郎は、宅配寿司店にてデリバリーのバイトをしながらスロット三昧の気侭な日々を送っていた。
そんなある日、彼の元に一通の手紙が届いた。
「大学から留年通知が届きました。どういう事ですか?今週末に帰ってきなさい」
それによって潤一郎は歌手になるという夢を思い出し、毎日カラオケに出掛け腕を磨いた。
時は流れ、五年後。
逞しく成長した潤一郎は鬼子の仇を討つべく旅に出た。
道中、様々なライバルたちと壮絶な闘いを繰り広げ、何度も傷つきながら持ち前の明るさで困難を乗り越えていく。
そしてついに悪の王者、薔薇兄貴ことダニエル長尾と対峙した。
しかしながら実力差はあまりに大きく、薔薇兄貴の徹底したセクハラによって身も心もボロボロにさせられてしまう。
屈辱にまみれ、半ば自暴自棄になった潤一郎。そんな彼のもとに、三人の男が現れる。それはかつて、潤一郎が法律を盾にして一方的に叩きまくったライバルたちだった!
「きみは一人じゃない、俺たちと一緒に戦おう!」
しかしそれは巧妙に仕組まれた罠だった!
熱々釜揚げうどん対決後、仲間になった元市議会議員・ジャクソンは何と!敵のスパイだったのだ!
ジャクソンによって安東、中寺が無残にも命を奪われてしまう。
激怒した潤一郎はジャクソンに闘いを挑むが、力を解放したジャクソンの前に手も足も出ない。
もはやこれまで、と覚悟した潤一郎に思いも寄らぬ援軍が駆けつける。
なんと、それは警察であった。ジャクソンを横領の疑いで逮捕すべくやって来たのだ!
抵抗を続けるジャクソンだったが、逆に公務執行妨害までもが加わり万事休す。
彼は最後の手段として手製の爆弾に火をつけ、警察もろとも自爆を試みた。
だがその刹那、団地屋上に待機していたSAT狙撃班によって、ジャクソンは射殺されてしまう。
「き、貴様と戦えてよかった」
命の灯火が消える瞬間、戦友に戻ったジャクソン。度重なる仲間の死に打ちひしがれる潤一郎。
もはや気力も尽き果てようとしていたその時、潤一郎の中で眠っていた何かが目覚める・・・・・・!
「こ、これは一体……」
潤一郎は今、黄土色になっていた。髪が、肌が、瞳が、黄土色になっていた。
しかし、それ以外に別段、変わったところはなく健康そのものである。力が漲ってくるとか、興奮状態になって我を忘れるとか、特にそういった事象も発生してはいない。ただ単純に、全身が黄土色一色になっているだけで、何も変わったことはない。ごく普通の潤一郎がそこに、いた。
「き、君はもしや伝説の!」
ふと、背後でそんな叫び声がした。振り向くとそこに、白衣をまとった初老の男性が立っていた。爆発した髪、牛乳ビン眼鏡、両手の三角フラスコ。どこからどう見ても科学者に違いなかった。
「やはり……間違いない。これは伝説の……」
科学者は潤一郎の全身を指先で撫で回し、何度もそう呟いていた。節くれだった細い指が身体じゅうを駆け回り、その度に何ともいえぬ快感が電撃のように走る。恍惚とした表情でただ、潤一郎は身を任せていた。けれどもそれは、本意ではない。彼には心に決めた女性がいる。だのに身体は疼いてしまう。それが悔しくて仕方がなかった。身体は弄ばれても心までは譲らない。そう思ってはみるが、否応なしに襲いかかる快楽の波に飲まれた彼にとって、それはもはや決意とは言えないものであった。
「君! すまんがちょっと一緒に来てくれ! 詳しい説明は後じゃ!」
科学者は潤一郎の両手を握り、そう言った。同時に心臓が大きく脈打ち、血流が激しくなるのがわかる。潤一郎はただ、黙って頷くだけで精一杯だった。もはや、先ほどの決意も崩れ去ろうとしている。身も心もこの男性に捧げてしまいたいという甘い欲望が、彼の胸の中で渦巻いていた。
「さあ、まずはリラックスしてくれたまえ。なあに、何にも怖いことなんてありゃせんよ」
科学者は潤一郎を部屋に招きいれると、慌しくコーヒーを淹れながらそう言った。卓上には様々な実験器具が並び、薬品と何か焦げ臭いような匂いがする。潤一郎はその中に、科学者のオトコの匂いを確かに嗅ぎ取っていた。灰皿で燻る吸殻に、脱ぎ捨てられた白衣に、カップの中で熱を失った紅茶に、彼は胸の奥底が締め付けられるようなものを感じ取っていたのだ。
「おや、緊張しておるのかね?」
落ち着かない様子で部屋を見回す潤一郎に気付いたのか、科学者がそう尋ねた。潤一郎が静かに頷くと、科学者は腰をこごめて彼に顔を近づける。それだけでもう、充分だった。潤一郎の心臓はまたも急速にビートを早めていく。あと数センチ、ほんの少しでも身を乗り出せば、科学者のかさついた唇がそこにある。けれどもその距離が、潤一郎には永遠にも似た距離に感じられた。
「楽にしていて結構、何ならそこに寝転がっていたって構わないよ」
科学者はそう言って、窓の辺りを指差す。見ればそこに、折り畳み式の簡易ベッドがあった。真っ白なシーツ、枕、毛布はいずれも乱れに乱れていて、科学者が確実に毎日そこで寝起きしていることがわかる。潤一郎は頬を赤らめながら、考えた。自分が何を望んでいるのか、何を選びたいと思っているのか、何を選ぼうとしているか、わからなかった。ただ、その内のひとつが、もうすぐそばにあって、手を伸ばせば掴めるものであるということだけは漠然とわかった。
「まあええ。とにかく楽にしていてくれ。夜はまだ長いんだから……」
耳元で囁いた科学者の言葉がまるでゼリーのように、まとわりついて離れなかった。
つづく