婚約破棄されて前世の記憶を取り戻したので……美味しいお酒を造ります!【連載版はじめました!】
「アナスタジア・フォン・ニブルへイム……お前との婚約を破棄させてもらう!」
バロニア王国王太子がサハラ・フォン・バロニアの声が、彼が主催したパーティー会場へと響き渡る。
アナスタジアは自身の婚約者であるサハラに指先を突きつけられ、その衝撃のあまり目がくらんで立っていられなくなり……そして唐突に、前世の記憶を思い出した。
(え、嘘、ここって……『プリンセス・アラモード』の世界じゃない!)
恋愛シミュレーションRPG『プリンセス・アラモード』、通称『プリアラ』はいわゆる乙女ゲーだ。
平民でありながら圧倒的な魔法の才能を持つ主人公のカーシャとプリンス達の魔法学院での恋愛模様を描く、ファンタジーな感じの学院ものである。
彼らは最初は平民の分際でと馬鹿にしていたカーシャの純朴さに引かれていき、そして最後には結ばれる。
そうそうこれでいいんだよと言わんばかりに皆大好きな要素の詰まった乙女ゲーだ。
彼女も前世では相当に『プリアラ』をやりこんでいたし、移植版やコンシューマー版の差異もしっかり楽しんだくらいには好きな作品だった。
(そして私が転生したのはカーシャじゃなくて、主要当て馬の一人のアナスタジア・フォン・ニブルヘイムと……)
そんな世界で彼女は主人公のカーシャではなく、アナスタジア・フォン・ニブルヘイムへと転生していた。
攻略対象の一人であるサハラ・フォン・バロニアの婚約者であり、ニブルヘイム家の公爵令嬢でもある彼女は、カーシャの前に立ちはだかり嫌みの限りを尽くすが、物の見事に玉砕する。
自分はそんな見事な当て馬悪役令嬢キャラに、転生してしまったと……。
いや、それ自体はいいのだ。
本当なら全然良くはないのだが、今はそんなことよりもっと重要なことがある。
(私もサハラも既に学院卒業してるし、というかもう私二十二才だし……これ、個別ルートじゃなくて、カーシャの逆ハーレムルートじゃない!)
『プリアラ』の分岐点は学院の二年生地点。
そこで一人の攻略対象を選び、様々な苦難を超えて在学中に二人でハッピーエンドを目指すというストーリーになっている。
だが全員の個別ルートをクリアした後に解放される新たなルート……通称逆ハールートだけは違う。
とりあえず攻略対象全員と結ばれる展開にするために、時系列や本来起こるイベントのフラグ管理はめちゃくちゃ。
攻略対象のトラウマやストーリーの齟齬も無視して全員と結ばれるこのルートは、ファンである彼女をして擁護できないくらいにめちゃくちゃなところが多い。
アナスタジアが三年次ではなく今婚約破棄を宣言されている時点で、カーシャと関係がありながら卒業時点で攻略が終わっていない……つまりは逆ハールートであることは確定的に明らか。
「ふふっ、どうしたアナスタジア。急に地面にくずおれて……俺が婚約破棄を申し出たのが、そんなに意外だったか? そんなに俺のことが好きだったのか……罪な男だ、俺も」
アナスタジアは自分の考えに没頭しすぎていたことに気付き、目の前に居る自身の婚約者であるサハラのことを見つめた。
金髪碧眼、高身長で次期国王の座が内定している王太子。
魔法の才能もピカイチな俺様系プリンスを見て……アナスタジアは思った。
(え、記憶を取り戻す私、なんでこんなのに惚れてたの?)
たしかに見た目はかっこいいし金も地位もある……だが、それだけだ。
ゲームの中だったらどんな時でも引っ張っていってくれる彼の男らしさは魅力的だったが、現実世界でサハラのような男と結ばれたら結婚生活は完全に詰むだろう。
全部自分が好きなようにやらないと気が済まない俺様系とか、間違いなくモラハラとかしてくるだろうし、そもそも婚約中に別の女に現を抜かしている浮気男の時点で論外である。
記憶を取り戻す前は一途に思い続けていたアナスタジアだったが、彼女は一方的に婚約破棄を叩きつけてきたくせになぜかドヤ顔をしているサハラを見て、一瞬で蛙化していた。
(でも……どうしようかしら)
三年生の時点で婚約破棄をされるサハラルートだったらいくらでも建て直しは聞くように思うが、アナスタジアは現時点で二十二才。
既にこの世界での結婚適齢期は過ぎている。
なぁなぁで婚約関係を続けられていたと思っていたところでの突然の放流。
こんなところで放り投げられて、私の人生一体どうなるのかしら。
しばらく考えて……あれ、と思った。
(別に独身でも良くない?)
なにせ彼女の前世はジム通いと晩酌が楽しみだった、普通の独身アラサーOL。
独り身の気楽さを知っている。
記憶を取り戻す前のアナスタジアにとってはサハラが全てだったが、冷静に考えてみれば別に結婚できなくてもどうということはない。
婚約破棄を受け入れるのであれば、話は大きく変わってくる。
どうやらサハラは泣いてすがってくる自分にもう遅いと離縁を叩きつけて優越感に浸りたいのだろうが……彼の思惑になど、乗ってやるものか。
「わかりました、婚約破棄を受け入れましょう。ですが……この年齢の女性の経歴に傷をつけるわけですから、それ相応の対応はしてくださるのですよね?」
「た……対応、だと?」
「はい、私のまっさらな来歴に×をつけた補償をしてください。一応私は公爵令嬢ですので、金銭的な補償は必要ありません。権利関係か税の優遇か、その辺りで一筆いただけませんか?」
♢♢♢
つい先ほどまで、サハラ・フォン・バロニアは人生の絶頂にあった。
自分のことを好きだと言ってくれているカーシャと結婚する目処が付き、これでようやく忌々しいアナスタジアと別れることができると胸を弾ませながら、婚約破棄を宣言したその瞬間までは。
アナスタジア・フォン・ニブルヘイムはいちいちと口うるさい女だった。
やれ次期国王としての自覚をだの、やれそのような振る舞いは王者がすべきことではないだのと小言を言われ続け、正直サハラは辟易としていたのだ。
彼女が影でこそこそ動き回るのも気に入らなかった(当然それがサハラのための根回しなどということを、彼は考えていない)。
そんなところに現れたのが、あのカーシャだった。
平民でありながら魔法の才に溢れ、魔法の実技の成績はピカイチ。
最初は生意気な……と思ったが、彼女のその純真さにサハラは惹かれてしまった。
彼女だけが自分をわかってくれるのだと気付けば、他の女など目に入らなくなってしまった。
本当であれば学院に在学中に結婚したかったのに待ってくれと言われ、今の今まで我慢してきたのだ。
彼は今までの鬱憤を晴らすためにも、泣いて懇願するアナスタジアに、自分には既にカーシャという愛している女がいると伝えて、その顔を絶望に染めてやるつもりだった。
国王である父が居ないタイミングを見計らってパーティーをセッティング。
ニブルヘイム家の使用人達を買収してアナスタジアの不貞の証拠をでっち上げ、婚約破棄に足るだけの物的証拠も作り上げている。
これで全て完璧……なはずだった。
だが現実はどうだ。
アナスタジアは自分に泣いて縋ることもなくけろっとしている。
それどころかむしろ自分に対し蔑みのような冷たい目すら向けてながら、婚約破棄のための条件を突きつけてくるではないか。
「もちろん王太子の身分ではできることとできないことがあるはずですから、一度陛下に掛け合っていただく形でも……」
「だ、ダメだッ! そんなことは!」
今回の一件、当然ながら父である国王シルド三世の許可は得ていない。
だがサハラは王太子、次期国王となる人間だ。
無理を聞かせることができないはずはない。
そしてカーシャは学院の成績はトップクラスであり、五つの属性を使いこなし、なんと詠唱短縮すらも使うことができる正真正銘の天才だ。
既に実際に冷蔵庫を始めとする新機軸の魔道具を開発して頭角を現しているし、一廉の人物になるまでにそう時間はかからない。
無理矢理婚約破棄できる状況を整えて既成事実を作れば後はなんとかなるはず。
サハラはそう信じていた。
だが……
(マズい……マズいぞ!)
そんなサハラの内心を知るはずもないアナスタジアは、手に持っていたビールに口をつけながら、奇しくも彼と同じ感想を抱いていた。
(マズい……マズいわ、これ)
テーブルから取り口に含んだビールの質は、極めて劣悪であった。
グラスに入ったビールの上には茶色いカスが残っており、ちょこちょこそれが口の中に入ってくるせいで非常にストレスが溜まる。
それに温度もぬるく、炭酸も弱い。
味自体も苦みが強くて、そのくせアルコール度数だけは妙に高いのも納得いかない。
前世でビールサーバーで出てくるキンキンのビールをビアガーデンで飲む美味さを知っているアナスタジアからすれば、このようなビールは到底受け入れられるようなものではなかった。
「決めた! 決めました、殿下!」
「なっ、何をだ!?」
「私、これからお酒を作ろうと思います。公爵家が造るお酒の酒税の免除をお願いできないかしら?」
(――しめた!)
ニブルへイム公爵家は酒造りのノウハウはまるでない。
広い平原を持つ公爵家は良馬の産地として知られており軍馬は一級品なれど、産業は基本的に脆弱。
この世界には既にいくつもの大酒造があり、今からビールを造り出したところでそれらに一貴族家が追いつくのは不可能に近いだろう。
であればほとんと瑕疵を負うことなく、婚約破棄を進められる……。
♢♢♢
(……とでも、思っているのでしょうね)
アナスタジアにはそんなサハラの思惑など、完全にお見通しであった。
「……いいだろう」
内心の笑みを噛み殺し、精一杯の渋面を作りながら一筆をしたためているサハラは、その様子をアナスタジアが冷徹に見ていることに気付かない。
前世では酒好きが高じて醸造所や工場見学を行っていた彼女には、酒造に関する基本的な知識がある。
そしてこのファンタジーな世界には、物作りを大いに助けてくれる魔法が存在している。
サハラはアナスタジアがビール造りを始めるとばかり思っているようだが、彼女は当然それだけで終わらせるつもりは毛頭なかった。
(蒸留器を作って焼酎とウイスキーとウォッカやラムも作りたい! それにお米を探して日本酒も作りたいし、リュウゼツランからテキーラも作りたいわ!)
この時のサハラは、自分が後世でバロニア王国衰退の原因を作ったと記されるようになることを知らない。
王国衰退の原因が、後世『酒の女神』と讃えられるアナスタジアから酒税が取り立てられなくことにあるなど、想像すら付いていなかった。
彼はアナスタジアが持つお酒への情熱を……日本人の飲食に関するこだわりを、あまりにも軽く見ていたのだ。
こうしてアナスタジアとサハラの婚約破棄は無事当人達によって承諾されることとなった。
そしてそんなことをまったく気にしていないアナスタジアは翌日から、さっそくビール造りへ取りかかるのであった。
次の日、アナスタジアは使用人に言伝を頼み改めてこの世界のビールを飲むことにした。
この世界で飲まれているビールはいわゆる上面発酵のエールと呼ばれるタイプのものである。
(マ、マズい……やっぱりマズすぎるわ)
こうして改めて飲んでみると、やはりとても飲めたものではない。
味だけではなくて見た目も悪い。
酵母が浮いているせいで上の方がもやっと白く濁っているし、その中に麦の小さな粒が浮いている。色も全然透明じゃないし、グラスに入れた時の見てくれも非常によろしくなかった。
残念なことにこのレベルのビールでも、この世界では貴族が飲むような高級品。
ということは自分が納得できるレベルのビールは、この世界にはないということになる。
だが……ないのであれば、造ればいい。
これから先どれだけ酒を造っても税金を払わなくて良いのだ、これはいわば酒造の許可を王太子公認で得たようなもの。
アナスタジアはきちんと飲めるレベルのビールの製造をしようと改めて決意を固めていた。
「まずは……ちゃんとしたビールを造るわよ!」
アナスタジアのひとまずの目標は、前世の日本で一般的であった下面発酵のラガーを造ることだ。
だが下面発酵のラガー作りはエールより数段手間がかかるので、まずはこの世界のエールの質を向上させていくことを、酒造りの第一歩とすることにした。
アナスタジアは公爵令嬢であり、父であるニブルへイム公爵から到底使い切れない程度のお小遣いをもらっている。
それを使い早速職人を雇ってみることにした。
金の力を使い職人を呼び出してみたところ……丸一日かけて、なんとかギリギリ酒が造れそうな人材を呼ぶことができた。
「はぁ、ビール造りですか……」
いきなり呼び出されて頭をぽりぽりと掻いているのは、アナスタジアと同じ程度の年齢の、ワイルド系のイケメンだ。
浅黒い肌に、猫を思わせるように鋭く細められた三白眼。
筋肉はあるが付きすぎてはいない、細マッチョな体型。
少し悪そうな雰囲気が刺さる人にはものすごく刺さりそうな彼は、エッカという。
二年ほどエルギン酒造という店の酒蔵で下働きをしていたという男性だ。
「でも俺なんかでホントに良いんですか? 言っちゃなんだが基礎的なことしか知らないから、かなり手探りになると思いますが……」
「いいのよ。というか私の悪評が広まりすぎて、エッカしか来てくれなかったのよね」
「は、ははは……」
乾いた笑いを漏らすエッカを見ながら、アナスタジアは自分の人望のなさに心で泣いていた。
――丸一日かけても、アナスタジアが雇うことができたのは酒造り職人としては新米も新米なエッカだけだった。
記憶を取り戻すまでのアナスタジアはわりと悪役令嬢ムーブをかましており、そのせいで悪名が轟いてしまっている。
そんな女を雇い主にすればどんな理由で難癖をつけられるかわからないと、酒造りのプロフェッショナル人材は誰一人としてやってこなかったのである。
なんとか雇い入れることができたのは酒造で二年ほど徒弟として働き、正式に雇用される前に首を切られてしまったこのエッカ君だけである。
これが今の自分の現状位置。
だがアナスタジアはへこたれない。
美味い酒を飲むためなら、どんな逆境を前にしても立ち止まるつもりはなかった。
「一応雇い主として確認しておきたいんだけど、何か犯罪をしたわけじゃないのよね?」
「ええ、まあ、不幸な事故といいますか……」
歯切れの悪い返事を返すエッカから詳しい事情を聞いてみると、たしかに彼が言っている通りにそれは不幸な事故だった。
ワイルド系なイケメンのエッカはやはり結構モテるらしく、彼はエルギン酒造のオーナーの一人娘に一目惚れされてしまったらしい。
だがタイプではないのでその子の告白をやんわりと断ったところ、キレた彼女にあること無いこと吹き込まれた親方に首にさせられてしまったんだとか。
「たしかにエッカは少し悪い感じがあるものね……」
「あっちに共感しないで下さいよ……俺、完全に被害者なんですから」
少し悪い感じのするイケメンで、好きになってしまった娘さんの気持ちも少しわかるアナスタジアであった。
「おっとごめん、脱線しちゃったわね。とにかくエッカしか雇えなかったから、これからしばらくは二人三脚で一緒に頑張っていきましょう。大丈夫、公爵令嬢の手慰みみたいなものだと思って気軽に構えてくれてればいいわ」
「はぁ、そんなもんですか……まあ大丈夫なら構いませんけど」
気の抜けた返事をするエッカだが、実際彼も公爵令嬢が急に始めた道楽程度にしか思っていないのだろう。
彼がきてくれたのも、クビを切られて新しい仕事を探すより前にアナスタジアが出していた求人にひっかかってくれたからだ。
最初はそれでいい。
アナスタジアが本気でやろうとしていることがわかれば、おのずと彼の態度も変わってくれるはずだ。
「それじゃあまずお酒造りについて、私が知ってる知識を話すわね。足りない部分があったら細くしてちょうだい」
「かしこまりました」
自身でも知識はあるが、この世界のそれとの差異をたしかめておく必要があるだろう。
エールは歴史が長く、古くは古代エジプト時代から飲まれている。
それほどまでに古くからあるのは、製造が簡単だから。
上面発酵場合、発酵の温度が15~20℃程度で作ることが可能で、かつ発酵に必要な期間も3~4日程度しかかからない。
とにかく製造が容易であるため、この国でもエールが作られているのだろう。
作り方を聞いてみると、どうやらこの世界には未だ酵母という概念がないようだ。
たしかに考えてみれば、そもそも最近の概念が明確に意識されるようになったのは細菌などが知られるようになった19世紀から。
知られていなくても無理はないかもしれない。
「でもそれなら、そもそもどうやってお酒を作っているのかしら?」
「そりゃあ今使ってる桶を使って酒を作ればいいんすよ」
アナスタジアが質問すると、驚きの答えが返ってくる。
酵母という考え方がないこの世界では、上の方の泡を保存したり、発酵されている麦汁から直に取るといった形で酵母を受け継いでいく。
それらを繰り返した結果木桶の中に酵母が住み着くようになり、その質によって良い木桶、良い発酵槽というものが生まれ、酒屋はそれらを使いながら酵母を使い回していき、酒を作っていくのだという。
非常に原始的だ……だがおそらくこれが、顕微鏡などがない世界では当たり前だったのだろう。
口噛み酒とかもあったわけだしね、とアナスタジアは前世の有名映画を思い出しながら一人頷いた。
「これから私が作ろうとしているのは新しいビール……この世界にあるビールとは根底から違うラガーというビールを造ろうとしているの」
「なるほどぉ……」
エッカはなんだかすごく適当であった。
彼自身、アナスタジアがまともに酒を造れるとは思っていないからだろう。
適当に話を聞いていれば金がもらえる楽な仕事とでも思っているのかもしれない。
ふふ……すぐに忙しくなるとも知らずに、のんきなものね。
内心でほくそ笑みながら、アナスタジアは続ける。
「でもそのためには酵母……つまりは麦汁を発酵させる素が必要なの。使われていた桶とかって用意できるかしら?」
「はぁ、まあそれくらいならなんとか……ただ最高級品ではないと思いますけど」
「ええ、それで構わないわ」
数日後。
エッカは無事桶を購入してきてくれた。
近くの酒造メーカーで作れる酒がマズくなってきたと廃棄されそうになっていた、いわゆる悪い木桶である。
「いいんですか? 普通に足下見られたぼったくり価格でしたけど……」
「いいのよ、今は速度が大事。お金は後からついてくるんだから」
「こうして話してると忘れそうになるけど、アナスタジア様って公爵令嬢なんっすねぇ……」
「それじゃあ早速やっていくわね」
皮肉や軽口を言える程度には親しくなってきたエッカの言うことは気にせず、アナスタジアはさっそくビール製造を始めることにした。
「よっと」
アナスタジアの目の前に巨大な水球が現れ、彼女はそれをぱしゃりと別に用意しておいた桶に入れる。
使う仕込み水はいろいろと考えた結果、水魔法で作ることにしたのだ。
詠唱をせずに行うアナスタジアを見たエッカが、目を見開いていて絶句していた。
「む、無詠唱魔法……」
この『プリアラ』世界で魔法を発動させるためのプロセスは二つある。
まず一つ目が自身の魔力を体外に出し、それを魔法に適した属性魔力という形に成形すること。
この成形にはイメージが必要とされ、これによって魔法を発動させる際の効率が大きく変わることになる。
そして二つ目が、その属性魔力を詠唱という形で成形させること。
強力な魔法であるほど詠唱は長くなるが、これもイメージで補完することで詠唱を省略することが可能とされている。
これら二つのプロセスを経て、魔法という超常的な物理現象は発現する。
この二つのプロセスには、共にイメージ力が必要とされている。
そしてアナスタジアには、具体的な化学反応を想起させるための前世の化学の知識や、ゲームや漫画で育んでいたイメージ力があった。
彼女は水が水素分子と酸素分子が化学結合でできていることや、水分子同士が強く引き合う水素結合の性質を持っていることを知っている。
他者より明確なイメージが行えるアナスタジアは記憶を取り戻したことで、高等とされている詠唱短縮より更に難度の高い、無詠唱が使えるようになっていたのだ。
「そしたら次はっと……」
「今度は光魔法ですか!?」
続いてアナスタジアは、無詠唱で光魔法を発動させる。
光は傷病などを癒やしたり、防御のための結界を展開させることができる使い手の少ないレア属性だ。
彼女が魔法を使う目的はもちろん、桶の中に未だ居着いているはずの酵母を活性化させるためである。
「アナスタジア様、ダブルだったんですか……」
「いえ、オクタプルね」
「……っ!?」
この世界に存在しているのは火・水・土・風・氷・雷・光・闇からなる八属性。
自分で確かめてみて驚いたのだが、アナスタジアはその全ての属性を使うことができた。
記憶を取り戻す前はただのトリプルだったので、おそらくは前世のゲームなどの知識で具体的なイメージができるようになった結果、使えるようになったのだろう。
八属性全てを使いこなすというのは、もはやおとぎ話の中に出てくる伝説の魔法使いレベルの適正である。
そんな歴史に名を残すような才能を持っていながら、酒造りに全力をかけているアナスタジアに、アッカはもはや呆れるしかなかった。
「でも、どうして光魔法を……?」
「え? それはもちろん、酵母を回復させるためよ」
「コウボを、回復……?」
悪い木桶とは、つまり酵母の動きが悪くなったり数が減ったりした桶のこと。
微生物とはいえ生物である以上、回復効果のある光魔法を使えば活性化できるのではないか、そう思い使ってみたが……
「うん、ビンゴね」
本来であれば傷病人の回復に使う光魔法を酵母に使うことで、樽の中で死にかけていた酵母達は一瞬で息を吹き返してみせた。
怪我を癒やせることから考えるにおそらく細胞分裂を助ける働きもあると見ていたが……光魔法を受け光る酵母の数は、先ほどまでと比べても明らかに増えている。
自分の推測は間違っていなかったらしい。
「綺麗ね……」
「……いや、たしかに綺麗ですけど……そこじゃないでしょう!」
エッカはアナスタジアの奇行に、頭がどうにかなりそうだった。
無詠唱で水を出す八属性持ちが、桶に光魔法をかけて光らせる。
エッカはアナスタジアのそのあまりの規格外さに、自分はひょっとしたらとんでもない人に雇われてしまったのかもしれないと今更ながらに気付いた。
彼がアナスタジアのことを見直したり呆れたりしている間に、彼女の方は全力でエール造りに取り組んでいた。
酵母の数と質を回復させたら、桶に事前に用意していた麦汁を入れていく。
この麦汁は、アナスタジアの努力の結晶であった。
麦汁を生み出すのには多くの工程と時間がかかる。
まずは大麦麦芽を作るために製麦・浸麦・発芽。
発芽を止めるために乾燥を行ってから麦芽を粉砕し、そのサイズを大中小の三つに分ける。
その最適な割合を割り出さねばならず、そのせいでアナスタジアのここ最近のご飯は三食大麦粥である。
腐らせるわけにもいかず使用人達にも食べさせているため、アナスタジアの暮らしている屋敷はここ数日の間どこからも大麦の香りが漂う、摩訶不思議空間となってしまっている。
ここ数日の苦労に思いを馳せながら発酵桶の中に砕いた大麦麦芽とお湯を入れると、酵素が働き出した。
未だにわずかな光を発している酵母が動いたかと思うと……みるみるうちに糖化がすすんでいき、桶の上面がぶくぶくと泡立ち始める。
軽く指ですくって舐めてみると……。
「……甘い! もう糖化が終わったのね!」
「と、糖化が日をまたがずに終わる……? 俺は一体、何を見てるんだ……」
あっという間に糖化が終わってしまった。
どうやら光魔法が良い働きをしてくれたらしい。
ひょっとすると光魔法を使う際に醸造の詳細な工程を思い描いていたのが奏功したのかもしれない。
「糖化が終わったら次は不純物の除去と、ホップの投入ね」
「どうしよう、もう水魔法の無詠唱で驚かなくなっている自分がいる……」
アナスタジアの規格外っぷりに完全に圧倒されているエッカを横に置き、水魔法を使って不純物を除去していく。
イメージするのは洗濯槽などに使われている網目つきのフィルター。
水を層にしてしっかりと殻や芽のカスなどを完全に除去するイメージで使っていく。
苦みが強かったりするのの大部分は、こういった不純物のせいのはずだ。
これがなくなるだけでエールがぐっと美味くなるはず。
そして続いてホップを投入。
ぱらぱらと振る粉末はホップ腺と呼ばれるもので、これをつけることでビールに苦みや香りをつけることができる。
ホップは結構な種類を舐めて比べてみたのだが、まずはとにかく皆が飲みやすいものをと思い、比較的苦みが少ないものを選ばせてもらった。
ここまで来れば、後は発酵させるだけだ。
だが光魔法で活性していた酵母のおかげで、発酵も数時間もしないうちにあっという間に終わる。
「そうしたら仕上げにきっちり濾過をしてっと」
そしたら最後に濾過をすれば、ビールは完成だ。
王国のビールが濁っているのは、ここの濾過が甘いからだと思われる。
故にアナスタジアは水魔法を使って遠心分離を使い、力業で麦芽のカスとホップの残渣、そして酵母を分離させて剥がしてみせる。
本来こんなことをすれば炭酸が抜けてしまうが、魔法に必要なのはイメージ。
しっかりと炭酸が残るように考えながら魔法を使えば、出来上がったビールからはしゅわしゅわと力強く泡が浮かび上がっていた。
試行錯誤の末に完成した、アナスタジア渾身の第一作目であるエール。
グラスに注いで覗いてみれば、向こう側が見えるほどに綺麗な透明な琥珀色をしていた。
「で、できた! ちゃんとしたビールができたわ! ……(ごくり)」
「ビ、ビールがこんなに透き通って!? あ、ありえねぇ……」
二年もの間働いていたからこそ、エッカには目の前にあるビールがどれだけあり得ないものなのかがわかる。
得意げな笑みを浮かべながら、「美味しそ~」とのんきに言っているアナスタジアを見て、彼はアナスタジアの非凡さを理解した。
そして自分が何をしたかまったくわかっていない様子のアナスタジアを見て、このお方を放ってはおけないと固い決意を固める。
その瞬間、エッカは本当の意味でのアナスタジアの配下となった。
……そしてアナスタジアはビールに釘付けで、そんなことにはまったく気付いてもいなかった。
出来上がったビールを、待ちきれぬとばかりに氷魔法を使ってキンキンに冷やし、二人で飲むことにした。
「う、美味え! 美味すぎる!!」
「美味しい……ああ、懐かしの味……」
口の中にやってくる爽やかな苦みと酸味。
ごくりと喉を通る時の喉越し。
余韻に残るわずかな麦の香ばしさ……。
間違いない、今自分が飲んでいるのは自分が前世に居酒屋やビアガーデンでお世話になっていた、あのビールそのものだった。
こうして無事前世クオリティのエールが完成したわけだが……当然これだけで満足するアナスタジアではない。
なんとしてでもラガーを造り、それができたら次は蒸留酒だ。
ジン、ウイスキー、焼酎にウォッカ……作りたいお酒はまだまだ沢山ある。
「よし、それなら次はラガー造りを目指すわよ!」
「はいっ!」
アナスタジアの酒造りはまだ始まったばかり。
彼女が様々なお酒を造り出し『酒の女神』と呼ばれるようになるのは、もう少しだけ先の話……。
連載版をはじめました!
↓のリンクから読めますので、応援よろしくお願いします!




