オクトパスと呼ばれた男 MLB選手 マーティー・マリオン(1916-2011)
現在、カージナルス史上最高の遊撃手の称号はパドレスから途中移籍してきたオジー・スミスのものであり、彼の背番号1は永久欠番となっているが、グラブ、スパイク、スポーツ医療等が格段に進化した時代の名手とその全てが劣悪だった時代の名手と比べるのは果たしてフェアと言えるのだろうか。マリオンの背番号4が欠番になっていないのは、スミスという近代最高の名手と比較されたことが大きく、メディアが発達した時代とは宣伝効果も異なることも考慮しなければならない。ちなみにホークスの選手として来日し、監督も務めたドン・ブレイザーは、ロイ・マクミランを最高の遊撃手と評しているように、実際にグラウンドでそのプレーを観た者でなければ、正当な評価はできないのかもしれない。
一九四〇年代から五〇年代にかけては名遊撃手の時代だった。
最も広い守備範囲と強肩が要求される遊撃手は守備の花形であり、打つこと以上に魅せるプレーを期待されるポジションである。
今日では遊撃手の体格向上に伴い、強打がウリの遊撃手も増えてきたが、そのぶんかつてのような守備だけで客を呼べる名人芸はあまり見られなくなった。
滅多にエラーをしない堅実な遊撃手は確かに名手だが、名人ではない。名人というのは信じられないようなアクロバティックなプレーを見せられる選手のことであって、彼らは観客を喜ばせるためにリスクの多いプレーもいとわない。
つまり打球に触れなければそのままヒットだが、打球に追いつき、無理な体勢から送球した結果としてエラーと記録される可能性があるにもかかわらず、出塁あるいは進塁を阻止するために全力を尽くすのが、名人の名人たるゆえんであるということだ。
逆に守備範囲の狭い選手はイージーな打球しか処理しないぶんエラーも少ない。したがって記録上の失策数はその数字をそのまま鵜呑みにはできず、エラーが少ないから名手という定義づけは必ずしもあてはまらない。
フィル・リズトー(ヤンキース)、ピーウィー・リース(ドジャース)、ルー・ブードロー(インディアンス)、アルビン・ダーク(ジャイアンツ)、ロイ・マクミラン(レッズ)といった面々は、歴代遊撃手のトップテン級の名手ばかりだが、
これだけの凄い面子が同じ時代に名人芸を競い合ったのだから、見ている方はたまらなかっただろう。
ここに強打の遊撃手バーン・ステフェンス(レッドソックス)まで加わるのだから、毎年オールスターが近づくと、投票するファンもさぞかし迷ったに違いない。
上記の往年の名手と一九八〇年代以降最高の遊撃手とされるオジー・スミス(カージナルス)の共通点といえば、いずれもあまり背が高くないことである。
一九一〇年代の「曲芸師」ことラビット・モランビル(ブレーブス)の昔から、守備に長けた遊撃手は小柄で敏捷な選手が多かった。
一八〇センチのブードローやダークは当時としては平均的な体格だが、ステフェンスも含めてその他は一七〇センチ台の上背しかない。ところが、同時代に全く規格外の名手が一人だけいた。それが一八八センチの長身遊撃手、マーティー・マリオンである。
一九八〇年代以降はカル・リプケンをはじめとする一九〇センチ級の大型遊撃手が増えてきたが、オリオールズが一九三センチのリプケンを遊撃手として起用したのも、マリオンという超一流の先駆者がいたからである。とはいえ、リプケンも含めて大型遊撃手の多くは打撃でレギュラーを確保した選手であり、この中では名手とされるリプケンにしてもゴールデングラブの受賞回数は三回に過ぎず、ほぼ同時期に十三回も受賞したオジー・スミスの神業と比べるとどうしても見劣りがしてしまう。
人体というのは骨格と筋肉の組み合わせの関係で、ボディ・ビルダーのような身体になると動きが重くなり、関節の稼動域も狭くなる。だからこそ一流のボクサーにしろ、力士にしろしなやかで柔軟な身体つきの方が強く、マッチョタイプは力はあっても見掛け倒しの方が多いばかりか、怪我もしやすい。
マリオンは同じ長身でも筋肉質なカル・リプケンやアレックス・ロドリゲスとは違い、身体が細く関節も柔軟である。例えるなら大型のオジー・スミスといったところかもしれない。
あまりに華奢なので、若い頃は「Slats(痩せっぽち)」と呼ばれていたほどだ。
しかし、リーチが長く身体が柔軟なので、並の遊撃手の守備範囲外の打球にも易々と追いついてしまうことから、「オクトパス(蛸)」と呼ばれるようになった。誰も届かないだろうと思われるような打球を処理できることだけに関して言えば、マリオンに匹敵する遊撃手はスミスしかいない。
スピーディーな動きで満場を唸らせたリズトーやリースらに対して、蛸の触手のように難打球を処理するマリオンは異色とも言えたが、客観的な守備力の評価ではマリオンがナンバーワンだった。だからこそ彼には「ミスター・ショートストップ」の尊称が与えられたのだ。
マリオン家はアメリカ独立戦争で「Swamp Fox(沼地の狐)」謳われたゲリラの英雄フランシス・マリオンの末裔であると言われている。
社会人チームで二塁手をしていた野球好きの父ジョンは足の骨折によりプロは断念したが、次男のマーティーを含む四兄弟は全員プロになった。ただし、メジャー経験があるのは長兄のレッドとマーティーだけで、レッドはワシントン・セネタースで十四試合に出場した外野手だった。
レッドがメジャーに昇格したのは一九三五年、二十一歳の時でマーティーよりも若かった。マイナーでは何度も三割をマークするほどのアベレージヒッターだった兄もメジャーでは通用しなかったが、兄よりも非力なマーティーは守備力だけが買われて一九三六年、カージナルスのトライアウトに合格した。
マーティーは十歳の頃に急勾配の堤防から転がり落ちて足を複雑骨折し、何年も満足に歩けない時期があったからか、建築士を目指してジョージア工業大学で学んでいたが、兄の勧めでトライアウトを受けることになったのだ。
この時の合格者は偶然ながら高校時代のライバルだったジョニー・エコルズと二人だけでともに三塁手だった。
カージナルスの幹部はエコルズを気に入り、監督のフランク・フリッシュはマーティーの打撃には期待が持てないとしたが、球団GMブランチ・リッキーの弟フランクは二人とも契約することにした。
もしここでフランクがマーティーを採用しなければ、カージナルスの優勝回数が減ったばかりか、野球ファンが「神業」の域に達した遊撃守備にお目にかかるには、四十年後のオジー・スミスの登場まで待たなければならなかっただろう。
幹部の期待が厚かったエコルズは一九三九年、マーティーよりも一年早くメジャーに昇格しながら代打での二試合だけでメジャー生活を終えたが、マーティーの本分は守備だったので、打てなくても好守でチームに貢献することによって信頼度を高めてゆくことができた。
奇しくもマーティーがメジャー昇格後に与えられた背番号は、ライバルだったエコルズがつけていた4番だった。そしてこの背番号は引退まで変えることがなかった。
カージナルスの最初のファームキャンプの時からマーティーにはライバルがいなかった。三塁には候補者がずらりと並んでいたが、遊撃は彼しかいないほどその守備力は傑出していたのだ。
ルーキーイヤーの一九四〇年に早くもレギュラーの座をつかんだマーティーは二割七分八厘、三本塁打、四十六打点と打撃でも及第点の成績を残し、以来十一年間にわたって他の追従を許さなかった。
この間二遊間を組んだ選手は何人もいたが、マーティーが「最高の二塁手」と絶賛したのが、フランク・クレスピだった。
クレスピは年下だったがメジャー歴では先輩で、マーティーが気性の激しいジョー・メドウィックに絡まれていた時にはメドウィックにつかみかかるほど義侠心の厚い男だった。
身のこなしも軽快で、一九四一年は二塁手としての捕殺数、ダブルプレーの成立数ともにリーグトップだった。
一九四二年にはクレスピとの鉄壁の二遊間コンビでリーグ優勝を勝ち取ったが、翌年クレスピは海軍に入り、草野球での怪我が原因でメジャー復帰することは叶わなかった。それでも二人の友情はクレスピが亡くなるまで変わらなかった。
カージナルスがリーグ二連覇を果たした一九四三年は、レギュラーシーズンで二割八分をマークした打撃がワールドシリーズでも好調でチームトップの三割五分七厘と健闘したが、シリーズではヤンキースに昨年の借りを返されてしまった。
翌一九四四年にもワールドシリーズに進出したカージナルスは、同じくセントルイスをフランチャイズとするブラウンズと激突した。セントルイス市内の二球団がチャンピオンシップを争うということは、市民にとってはどちらが勝ってもワールドチャンピオンということで、戦時中にもかかわらず大きな注目を集めた。
そのうえ両チームともに看板選手が遊撃手というのも面白い。ブラウンズの遊撃手は同年の本塁打王バーン・ステフェンスでマーティーにとってはライバル心をそそられる相手である。
結果はカージナルスが二年ぶりにワールドチャンピオンの座を奪回したが、マーティーもステフェンスも互いを意識し過ぎたのか、打撃では本領発揮とはゆかず、ご丁寧にともに二割二分七厘と低迷した。
それでも、マーティーにとって一九四四年は最高のシーズンだった。というのも、大方の予想に反して彼がリーグMVPを受賞したからである。
マーティーのシーズン打撃成績は二割六分七厘、六本塁打、六十三打点と平凡なもので、チームの主軸スタン・ミュージアルの三割四分七厘と比べても随分見劣りがする。ところが蓋を開けて見ると、本塁打と打点の二冠王ビル・ニコルソン(カブス)をわずか一ポイントで抑えてMVPに輝いたのだ。
ちなみにMVP投票ではカージナルスにおける打の最大功労者ミュージアルが四位だから、マーティーの守備がそれ以上の貢献度と見なされたことになる。守備の評価だけでMVPというのはマーティー・マリオンが史上唯一の例である。
自身の安打数は一三五本でありながら、六十本以上多く打ったミュージアルより評価されたのは、それ以上に相手チームの安打を阻止してきたという証であろう。
十九世紀末から選手として監督として六十年も球界に携わってきたコニー・マックは、「私がこれまで見てきた遊撃手の中で打撃はワグナーが最高だが、守備はマリオンより上はいない」と賞賛を惜しまなかった。
実際にワグナーと同じチームでプレーしたことのあるブレーブス監督のビル・クレムも「マリオンより巧い遊撃手などありえない」と評価しており、彼らのようにリアルタイムでワグナーとマリオンを見比べたうえでの意見は信憑性が高い。
特にセンター前に抜けそうな打球を長い腕を伸ばして捕球する技術は絶品で、打球を追って前進してきた中堅手からはいきなり視界から打球が消えたように見えたらしい。
長身ゆえに前傾姿勢で守っている負担からか、選手生活の中盤頃からしばしば腰痛に見舞われていたが、一九五〇年に右膝の軟骨を損傷したことできっぱりと現役は諦め、一九五一年に三十四歳の若さで監督に就任した。
マリオン監督が指揮するカージナルスは三位だったが、一年で解雇されため、翌シーズンからは同じセントルイスのライバルチーム、ブラウンズのプレーイングマネージャーとして現役復帰を果たしている。
残念ながら往年の守備とはほど遠く、正式に引退したのはブラウンズ二年目の一九五三年のことである。
生涯成績‘263 36本塁打 624打点 1448安打
監督としてのマリオンはこれといった実績が残せないまま、一九五六年のホワイトソックスを最後にお役御免となった。それから十年後、カージナルスのフランチャイズが新設のブッシュスタジアムに移転したのを機に、旧知のGMビング・ディバインとのつながりで高級会員制クラブハウスレストランの共同オーナー兼マネージャーを長年に渡って務めた。




