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第2章ー2 始まりのDM

第2章の続きです

 DMのやりとりは、それきりで終わると思っていた。

 でも、彼――「パパタローさん」からの返信は、ちゃんと届いていた。

「フェルミ分布って、表面張力にしか見えない時ありますよね。笑

 あと、量子統計ってなんで毎回“熱力学の復讐”みたいに現れるんでしょう……」

 笑った。

 的確すぎて、どこかツボだった。

 その後も、ぽつぽつとやり取りが続いた。

 大学受験での“バネと斜面地獄”、意味不明な教科書の訳語、理系あるあるの実習とレポート地獄……

 どれも、肩の力が抜ける会話だった。

 ある日、唐突に彼からメッセージが届いた。

「そういえば、このアカウントって、元はパパ活用ですよね?」

 一瞬、スマホを持つ手が止まった。

 やっぱり、そこに行き着くのか――そう思った。

 でも、続く文を見て、少しだけ、ほっとした。

「いえ、いまは全然そんな感じしませんけど。

 投稿が面白くて、ふつうにフォローしてました。

 でも、もしかして場違いだったらすみません」

 ……たぶん、悪い人じゃない。

 そんな気がした。

 私は、ちょっとだけ、勇気を出して返信した。

「たしかに、元はパパ活アカです。

 でも最近は、研究と愚痴用アカになってます。

 見た目とかじゃなくて、中身に反応してくれるの、うれしいです」

 少し間をおいて、彼から返ってきた。

「ちなみに、エリカさんって、どんな方なんですか?見た目は謎すぎて。笑」

 私は、迷った末にこう返した。

「身長160センチ、黒髪ロング、目は一重、あと胸はありません(笑)

 変な期待されても困るので、先に言っておきますね!」

 ほんとうは、写真を送ってもよかった。

 でも、それはもう少し先でいい気がした。

 すると、彼はこう返してきた。

「あ、そういうんじゃなくて……汗

 ただ、もしよかったら、近いうちに少しだけお茶でもしませんか?

 勉強の話でも愚痴でも、直接聞いてみたいです」

 ほんの数秒、考えた。

 でも、なぜか断る理由が思い浮かばなかった。

 私は、スマホを見ながら、小さくうなずいた。

「じゃあ、一時間だけ。

 ちゃんと時間決めて、場所も明るいカフェで。

 “研究の先輩”として話聞いてくれるなら、行ってもいいです」

 その返事に、彼は「ありがとうございます!」と返してきた。

 どこか、うれしそうなテンションが滲んでいた。

 警戒心が、完全に消えたわけじゃない。

 でも、“もう少しだけ話してみたい”と思わせる何かが、この人にはあった。



 待ち合わせのカフェには、私が少し遅れて着いた。

 メッセージで伝えた服装――紺のワンピースに、黒髪をハーフアップ。

 あまりきめすぎると「気合い入れすぎ」と思われそうだし、かといってラフすぎるのも違う気がして。

 クローゼットの前でしばらく悩んだ末、無難で清楚に見えるこの組み合わせを選んだ。

 入り口で店内を見回すと、奥の席から小さく手を挙げる男性がいた。

 濃紺のスーツに、落ち着いた色味のネクタイ。

 シャツは白。襟元にはきちんとアイロンがかけられていて、全体から柔らかな清潔感が漂っていた。

 髪は短めで、白髪交じり。それでも無理に若作りしていない落ち着いた佇まいに、どこか好感が持てた。

 年齢は、父よりは若いかもしれないけれど、それなりに上――でも、どこか柔らかさを感じる雰囲気だった。

 ――たぶん、この人だ。

「すみません、待ちました?」

 そう言って席に着くと、彼は「いえいえ、こちらこそ」と、微笑んだ。

 スーツ姿の男性にありがちな威圧感はなく、むしろ、少し緊張しているようにも見えた。

 その不器用な笑顔に、私はほんの少し、警戒をほどいていた。

 まじめそう。誠実そう。

 だからこそ、ほんの少し、不思議に思った。

 どうしてこの人が、パパ活を――

 どうして、私にDMを送ってきたのだろう、と。

 パパタローさんは、50代のサラリーマン。

 もともとは技術系の出身で、今は事務系の管理職に就いているらしい。

「名ばかり管理職ですよ、本当に」そう言って照れたように笑う顔が、思っていたよりずっと人間らしくて、柔らかかった。

 “パパタロー”っていう名前、正直ちょっと警戒してたけど……なんだか、“Theパパ活”って感じでもない。

 “パパ”って言葉そのものが、どこか父親を連想させて、少し苦手だったのかもしれない。

 だから私は、心の中でそっと、“タローさん”と呼び直していた。

 彼は、“ちゃんと話を聞いてくれる人”だった。

 こちらが言葉を探しているあいだも、無理に先回りすることはなく、

 会話のを大切にしながら、私の話を待ってくれる。

 その余裕と静けさが、なんだか心地よかった。

「今はどんな研究を?」

「まだ正式な研究室配属は先なんですけど……興味があるのは、ゲノムの中でも、いわゆる“ノンコーディング領域”って呼ばれてる部分です。たんぱく質にはならないけど、遺伝子の働きを調節する領域があって、そこをAIで解析できないかって。生物学と情報学の融合領域って感じですね」

「なるほど……iPS細胞みたいに、遺伝子のスイッチが入ったり切れたりする話?」

 その言い方に、ほんの少しだけ“自信のなさ”がにじんでいた。

 たぶん、バイオは専門じゃないのだろう。

 でも、それを恥じたり、億劫に思ったりせず、ちゃんと理解しようとしてくれている。

 そんな姿勢が、なぜだか、うれしかった。

「あ、近いです。実際、iPSとか再生医療系とも繋がる話なんですよ」

 そう言って笑うと、彼もほっとしたように笑い返した。

 私の話を、自分の知識に引き寄せながら一生懸命理解しようとしてくれている。

 専門外でも敬遠せずに、ちゃんと向き合ってくれる。

 そのことが、思った以上に、心に残った。

「“理系女子って珍しいね”とか、“すごいね”って言われるの、ちょっと苦手なんです」

「別に、ただ自分が学びたいことを選んだだけなのに、性別で特別扱いされるのって、なんだか違うなって」

「……わかる気がする」

 彼は、無理に合わせるのでも、意識して気を遣うのでもなく、自然にうなずいてくれた

「理系って、得意とかすごいとかじゃなくて、ただ好きで続けてる人も多いのに、特別扱いされると……ちょっと違うよな、って思うんだ」

「そう、それです」

 私は思わず笑ってしまった。

 今みたいに、こちらの感覚を自然に共有してくれる人って、案外少ない。

 もし“イイネ”がリアルに押せるなら、100回ぐらい連打していた。

「でも、今日話してみて、僕も見方が変わったかもしれない」

 彼がそう言ったとき、その言葉の裏に、誠実さを感じた。

 ちゃんと、私を“人として”見てくれている――

 そんな気がした。

 こんなふうに話ができる人。

 思っていたより、ずっと珍しい。

 そして、たぶん……貴重だ。

 そして、カップの底が見えはじめた頃。

 彼がふと視線を落とし、少し声を低くして言った。

「で、その……“大人の関係”っていうのは……?」

 ――やっぱり。そう来るんだ。

 何度も見てきたパターンだった。

 最後には、みんなそこに触れてくる。

 わかっていたことだし、だからこそ、私は一度、この世界から距離を置いたのだ。

 ああいう関係に、意味なんてない。そう思っていた。

 言葉を交わして、笑い合って、それで終わっていればよかったのに――

 そうならなかったときの虚しさは、よく知っている。

 だからもう、繰り返したくなかったはずだったのに。

 それなのに――

 私はなぜか、笑いそうになっていた。

 面白くもないのに、胸の奥でふっと何かが緩む。

 大人の関係を問われて、嫌悪感よりも先に、妙な安堵が訪れていた。

 私はこの人と、また会いたいと思っていた。

 それが“そういう関係”を含んでいたとしても、不思議と拒む気持ちにはならなかった。

 この人なら、大丈夫かもしれない。

 そう思ってしまった自分に、驚いていた。

「大丈夫ですよ。そういうのも含めて、お話できたらと思ってます」

 口にしてから、ほんの一瞬だけ後悔した。

 でも、すぐにその気持ちは遠のいていった。

 彼の目には、欲望や下心よりも、むしろ不器用な誠実さのようなものが浮かんでいた。

 どこか間の抜けた、でもだからこそ、計算じゃないとわかる空気。

 なんだろう、この人。

 ――もう少し、話してみたい。

 そう思った自分が、一番不思議だった。

 でも、その気持ちを、否定したくなかった。


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