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第1章パパ活女子エリカ

 第1章 パパ活女子エリカ

「エリカ」って名乗ってるけど、それは本名じゃない。

 本当は、花江理香――そういう名前。

 でも、「エリカ」って響きは、少しだけ自分にも似合う気がした。

 完全な嘘じゃなくて、ちょっとした言葉遊びのような名前。

 “花・江理香”と読めば、たしかに“エリカ”にも聞こえる。

 それに、「理香」という名前より、どこか一歩引いた場所に立てる気がして、ちょうどよかった。

 Xのプロフィールには、その名前――“エリカ”を使った。

 本当の自分から、ほんの一歩だけ距離を取るための名前。

 アイコンには、自撮りの雰囲気写真を載せた。顔は写っていない。

 固定ポストに後ろ姿とか、横顔の影とかも載せた。

 見る人によって印象が変わる、曖昧な輪郭のままで。

 少しだけ他人みたいな自分。

 その仮の姿で、私は最初の「パパ活」の相手を、静かに探し始めた。

 ***

 私はいわゆるリケジョだ。

 世間の人がイメージする“理系女子”というと、分厚いレンズの眼鏡をかけておしゃれにも恋愛にも疎くて、眼鏡を外すと実は美人――そんなステレオタイプが思い浮かぶのかもしれない。

 でも現実はそんな単純じゃない。

 ちゃんと見た目にも気を遣うし、恋もする。スタバの新作も飲みたいし、かわいい服もアクセサリーも欲しいし、お化粧もそれなりに頑張る。

 ただ私は、たまたま「学びたいこと」があったから、理系の大学を選んだ。それだけのこと。

 小さい頃から、私はずっと生き物に心を奪われてきた。

 夏になるとカブトムシを飼って、ゼリーを夢中で食べる様子をじっと眺めたり、メダカの稚魚が水草の影に隠れるのを見つけたり。

 小さな命が動いているだけで、不思議で、目が離せなかった。

 中学で「遺伝子」という言葉に出会ったとき、ノートの余白が二重らせんの落書きだらけになるほどワクワクした。

 高校に上がると、物理と数学の“法則で世界が動く”感じがたまらなくおもしろくなった。化学だけはなぜか昔から得意科目――分子式を見ると、頭の中でパズルがカチッと合わさるみたいに理解できた。

 生物や化学が好きな女子はそれなりにいる。でも、物理と数学まで楽しいと言うと、クラスではちょっと珍しがられた。

 さらにプログラミングに触れてみたら、コード1行で画面が反応する感覚にハマってしまい、気づけば「情報生物学」をキーワードに進路を探すようになっていた。

 そして出会ったのがTK大学だ。

 大学の研究紹介ページには、こんな言葉が並んでいた。

「生命の本質を、物理化学の視点で解き明かす」

「細胞の“分子装置”を、一分子レベルで観察する最先端顕微鏡」

「AIと機械学習で、膨大な生命データを読み解く」

「分子から個体まで、階層をつなぐ新しい生命科学」

 画面をスクロールするたびに、胸が高鳴った。

 たった数ピコメートルのタンパク質の動きを可視化して、そこに機械学習を組み合わせて、細胞の未来を予測する――まさに、私の「好き」が全部つまっている!

「絶対ここに行きたい。」

 そう思った瞬間から、受験勉強は本気モードに入った。

 地元にもいい大学はあるのに、東京に行きたいとわがままを言った私に、両親は最後には折れてくれた。

 女の子の一人暮らしだからと、古すぎない安全な部屋を一緒に探してくれて、今も仕送りを欠かさない。

 私は両親にとても感謝している。

 だからこそ、これ以上の負担はかけたくなかった。

 ***

 パパ活を始めたのは大学2年生のころだ。きっかけは、友人の言葉だった。

「美人は得だよ。特に、若いうちだけしか使えない特権なんだから」

 それを言ったのは、高校の頃からの友達。

 今は別の大学に通っていて、たまにLINEで近況を報告し合うくらいの関係。

 彼女は冗談っぽく笑いながら言ったけれど、その言葉には不思議な説得力があった。

「パパ活ってさ、見た目が武器になるバイトみたいなもんじゃん。

 体の関係がない食事とかお茶の“健全”なデートだけでも、お手当がもらえるし。

 理香なら絶対うまくいくって」

 パパ活。

 年上の男性とデートをして、“お手当”という名のお金を受け取る。

 中には“大人あり”――いわゆるホテルで“大人”の関係を求める人もいるけれど、

 “健全”に終わることもあるし、女の子次第とも言われていた。

 彼女はアプリやSNSでのやりとりのコツまで丁寧に教えてくれた。

 私は、最初は戸惑った。

「自分には関係のない世界だ」と思っていた。

 でも――“コスパよく稼げる”という響きには、抗いがたい魅力があった。

 一人暮らしの生活費、サークル代、たまの飲み会、女子会、お化粧、洋服、それに教材費。

 お金はかかる。

 お金に困っていたわけじゃない。

 仕送りもあるし、奨学金も借りている。

 バイトだってできる。

 だけど、奨学金はあくまで「借金」だし、バイトを詰めすぎれば勉強に支障が出る。

 塾講師や家庭教師は時給がいい分、準備に時間がかかる。

 理系の大学は課題も実習も多くて、勉強時間を確保しなきゃいけない。

 だから、お茶や食事に付き合うだけで、数千円、時には数万円のお手当がもらえる――

 それは、効率が良すぎるくらいの選択肢だった。

 大学でもパパ活をしている子の噂は、たまに耳にする。

 特別なことじゃない。

 ただ、少しだけ、他人に言えないだけのこと。

「エリカ」は、そうして生まれたもう一人の私。

 理香とは少しだけ違う顔で、でも、どこかつながっている女の子。

 私は、その名前に、しばらく身を預けてみることにした。


 正直に言えば、自分の見た目が“需要がある”と知ることは、ほんの少し、悪い気はしなかった。

 成績で褒められることには慣れていたけれど、「かわいい」とか「綺麗」とか、そういう言葉は、どこか信用できなくて、落ち着かなかった。

 でも、それも含めて「使えるものなら使おう」と割り切っていた。

 計算の一部として、感情を棚に上げていた。

 Xにパパ活用アカウントを作って、顔を隠した雰囲気写真と、

「エリカ、大学生、理系」とだけ書いた。

 数時間後には、DMダイレクトメールがいくつも届いていた。

「会ってみたい」「ホテルいこう」「顔合わせ0.5食事1大人3でどう?」

 中には、さらに高額な“お手当”をちらつかせてくる人もいた。

 でも、それらはすぐにわかった。

「私」には興味がない人たちばかりだった。

 とにかく若い女であればいい。

 理系と名乗れば“属性”として面白がる。

「白衣萌え」とか「実験室プレイ」とか、そんな文脈のものばかり。

 そのうち、自分が「見られている」のではなく、

「見たいものを投影されている」だけなのだと、気づいた。


 一人目に会った相手は、いかにもな“ザ・パパ活”という感じの人だった。

 指定されたカフェに行くと、スーツ姿の男が手を振った。

 年齢は40代半ばくらい。見た目に気を使っている感じはした。

 会話も無難で、嫌な感じはしなかった。

 だが、アイスコーヒーが半分ほど減った頃、

 彼は当然のように言った。

「エリカちゃん、大人3でどう?」

 事前に「健全希望」と伝えてあったはずなのに。

 断ると、彼はあっさり「じゃあ今日はこれで」と言って、

 5千円札をテーブルに置いて立ち上がった。

 1時間弱で5千円。

 数字としては悪くない。

 でも、何かを失った気がした。


 次に会った人は、大人の話はしてこなかったが、会話がまるで弾まなかった。

「最近の大学生ってどんな音楽聴くの?」

「え、僕の頃はミスチル全盛だったな~」

 私は「そうなんですね」と相づちを打ちながら、

 パスタのアルデンテ具合だけを楽しんだ。

 報酬は1万。

 イタリアンはおいしかったが、心は満たされなかった。


 3人目の相手は、50代くらいの男性だった。

 待ち合わせたのはホテルラウンジ。柔らかい物腰の人で、スーツも靴も高級そうだった。

「へえ、理系なんだ? すごいね。女子でしょ? 珍しいよね」

「いえ、最近はけっこう多いですよ。研究したいことがあって」

 私がそう答えると、彼はうなずきながら笑った。

「いやー、でも大変でしょ? 実験とか夜遅くまでかかるんじゃない? 女の子なんだし、もっと楽な道もあるのに」

「……そうですかね」

「だってさ、理系って就職してからも大変そうじゃない? 結婚とか、どうするの?」

 コーヒーカップを手にしながら、悪気なく言っているのがわかった。でも、その無邪気さが一番突き刺さった。

「ま、がんばってね。男にはわからない世界だけど、応援してるよ」

 “応援してる”――その言葉が、妙に軽く聞こえた。

 ラウンジの天井のシャンデリアが、やけにまぶしかった。

 別れ際、彼は封筒を差し出した。

「今日はありがとう。少ないけど……気に入ったら、また会おうね」

 中には1万円。ケーキも美味しかった。

 けれど、駅へ向かう足取りは重かった。

 “すごいね” “女の子なんだし”――

 言葉の端々に、無意識の線引きを感じた。

 対等じゃないと、何を語っても届かない。

 私の選択を、最初からどこか軽く見ている――そんな気がした。

「応援してるよ」

 その一言に、心は少しも動かなかった。


 そんなやり取りを、私は何度も繰り返した。

 会うたびに自己紹介をして、軽い世間話をして、お茶や食事を共にする。

 相手の年齢も職業も、話す内容もばらばらだったけれど、どの会話にも共通していたのは、「こちらの反応を探る視線」だった。

「大学では何を勉強してるの?」

「休日はどう過ごしてるの?」

 一見、何気ない質問のように見えて、その奥にある意図はすぐにわかった。

 ――“この子と、どこまでいけるか”。

 相手の多くは、結局そこばかりを見ていた。

 最初のうちは緊張していたけれど、何人かと会ううちに、だんだん慣れていった。

 返す言葉も定型文のようになり、表情の作り方も分かってきた。

 会話が弾まなくても、相手の冗談に軽く笑って見せるくらいは、もう自然にできる。

 でも、そうやって会ったはずの相手の名前も、顔も、もうほとんど思い出せない。

 覚えているのは、食べたものや、その日の服装――

 そんな断片的な記憶ばかりだ。

 いつしか私は、相手の話す内容を、“交渉か”“雑談か”“退屈か”で分類するようになっていた。

 そして同時に、相手がこちらを“値踏みしている”ことにも、当たり前のように気づくようになっていた。

この続きはkindleで読めます。unlimited対象なので会員の方は無料で読めます。

https://www.amazon.co.jp/dp/B0FJDHQ1HM


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