山の中 その3 愛妻に異変
「それでは戻りましょう。早くお風呂に入って身綺麗にしましょう」
初めて見る真白のまるで氷のように冷たい雰囲気。家を出る昨日までの真白と同一人物だとは思えなかった。俺の存在すら軽くなっている扱いだが、彼女は又すごく悲しい目をして俺を見ていた。
早速、近くの宿泊施設に電話をかけて泊れるようにした。しかも朝がまだ早いのでチェックインの前倒しをお願いした。これも毎年お世話になっている常連だから無理強いが効いた。良かった助かった、もし通常のチェックインなら15時まで待てないので、ラブホテルを探す羽目になってしまったからだ。
「こんにちは、急にすみません。今日一晩、よろしくお願いいたします」
「あらあら、お久しぶりですわね。今日も釣りに?」
「はい、朝一で来たのですが、増水が酷くて撤退してきました」
「昨夜は山上で雷雨があったそうですよ、残念でしたね」
「はい、ご厄介になります」
「……」
妻の真白も女将さんとは顔見知りなのに終始無言であった。
それにしても真白に何が起きたんだ?と悩みながら荷物を互いの定位置に置いて浴衣に着替えてからベットで横になると、彼女も普段通り横に来て目を瞑った。ひと眠りした後、早々自宅に向かって出発し、はやく元の夫婦関係に戻りたいと願った。
ところが数時間後、俺が目を覚まして真白を見ると、布団に横になっている真白の表情は苦悶に満ち、とても呼吸が苦しそうだった。顔が引き攣っている。冷や汗か額に汗が浮いて濡れている。
「おい大丈夫か、症状を教えてくれ」
「そんなに心配しないで。風邪をひいたみたいだから」
「とてもつらそうだな、持参している薬を飲もう」
ただ事ではない。手の平を彼女の額につけてみると熱い。フロントに電話をして体温計を借りる。すぐさま係の人が届けに来てくれた。扁桃腺に手を当てると特に腫れてはいなかった。ウイルス性疾患であっても軽微で済みそうだ。他のリンパ節は普段と変わらないように見えた。
「真白、大丈夫か……おっと39℃も熱があるな」
俺は山奥では何があるか分からないので常備薬、消毒剤、包帯などは持参してきている。その辺の薬局で購入できる薬は予防薬であり、病院で医師によって出される治療薬とは効果が違うが、そんな誤魔化しでも早期発見・対処なら充分な効果が期待できる。
「マダニやヤマビル、マムシなど出血部位を探そう、釣り用グローブをはめていたから指か、隙間の多い首か。帽子は被っていたし、防虫スプレーはしっかりしたように見えていた、腰回りは……噛み跡がなければ真白の主張する通り風邪だろうが、原因が分からんな。骨折したら発熱を伴うが激しい痛みがあるから除外するとして……今まで平然としていたからスズメバチもないな」
ウェーダーを穿いていたのでマムシは無い。マダニが耳たぶにでも噛んだか、ヤマビルなら発熱はないし、他には何が考えられるか……。植物性のかぶれも違う。昨夜に食べたものは高速のSAだけだ。何らかのアレルギーかO157なども疑ったらきりがないが、ネットで自前の検査室がある近くの病院でも調べておこう。
いずれにしても体温が41℃になると危険である。たんぱく質の変化が42℃で起きるものが多いからだ。まず記憶が飛ぶ。ゆえにこれ以上体温が上昇しないように気をつけなければならない。いざとなれば車で救急指定の病院に急ごう。救急車は嫌がるだろうし、直接乗り込んで急患と言えば救急車よりスムーズに進む筈。
(正常で且つ普通の病院なら)
「無理するんじゃないぞ。辛くなったら俺に声を掛けろ。氷を額に、冷たいペットボトルを脇に挟んで暫く様子見するからな」
……そうしていると30分ほど経過。